第三十節 旅立ちの時
ルシトから魔力を分け与えられ、“喰神の烙印”がある程度の力を取り戻した後。その宿主であるビアンカの怪我の治りは著しかった。
“喰神の烙印”に魂を喰わせない状態でいて、完治に一月は掛かると言われていた右足首の骨折は、僅か数日の間で癒え――。ビアンカは自身の足で問題無く歩けるまでに回復をしていた。
そして、ある日の夜更け――。
衣擦れの音をさせながらビアンカはハルから借りていた部屋着を脱ぎ、彼に買い与えられた新しい衣服に袖を通す。そして――、この百余年以上を共にしてきた男物の黒い外套を羽織る。
ビアンカが身に纏った黒い外套には、彼女が崖から転落し、大怪我を負った際に流した大量の血の痕や引き裂きの痕などが一切見られなかった。
まるで初めから、そのような汚れや裂け、解れが無かったかのように、ビアンカが初めてそれを身に着けた時と同じ状態のままだった。
その黒い外套の状態を、ビアンカは翡翠色の瞳を細め、見据える。
(――“喰神の烙印”の呪いで、衣服さえ元の状態に戻ってしまうんだから。本当、凄い力よね……)
嘆息混じりにビアンカは、そう思いを馳せる。
ビアンカの宿す“喰神の烙印”の呪いは、宿主だけではなく、その宿主の身に着けていたもの――。片や、かつて住んでいた家屋にさえ、未だにその影響を及ぼす。そのことをビアンカは、“喰神の烙印”を伝承する隠れ里で、代々“始祖”が暮らしていたという家屋に案内された際に知った。
そうして、それを改めて知らしめるように、ビアンカが大怪我を負った際に破けた外套や、外套の下に身に着けていた衣服でさえ、“喰神の烙印”の持つ魔力は、元の状態に戻していたのである。
だが、ビアンカは敢えて黒い外套以外の衣服は、新しい物へと着替えていた。それは、ビアンカが見目の年齢相応の――、新しいものを身に付けたいという少女らしい欲求から来るものでもあった。
(ふふ……。今までは、なかなか新しいお洋服に変えるなんていう機会も、余裕も無かったけど。やっぱり、色々なお洋服を着られるって、楽しいなあ……)
さようなことをビアンカは考え、部屋に置かれる姿見に映る真新しい服を身に纏った自身を見て、こそばゆそうに微かに笑う。
その行動は、ビアンカの見た目――、十五歳の少女に相応しいと言えるものだった。
ビアンカが動けるようになってから、ハルは彼女に一つの提案を出していた。
――『旅を続ける中で目立ちたく無いんだったら、あんまり古めかしい格好はしていない方が良いぞ』
それがビアンカに、ハルが発した助言であった。
ビアンカが今まで着ていた衣服は――、彼女が旅に出るに至った百年以上前の物。見る人が見れば、時代遅れとも言える格好だったのである。
だのでハルは、そのことをビアンカに指摘し、彼女に新しい服を買い与えるに至っていた。
(その年代毎の流行りってあるものね。ハルが言った通り、衣替えも悪くないな。“喰神の烙印”の魔力が浸透すれば、この新しいお洋服も破けたりしても元通りになるし……)
そこでビアンカはフッと、ベッドの上に置かれた真新しい旅装のマントに目を向ける。
その旅装束であるマントも、ハルがビアンカに新たに買い与えていたものだった。しかしながらビアンカは、そのマントを身に纏うことはしなかった。
ビアンカは、新しいマントから視線を外し――、自身が羽織った黒い外套に翡翠色の瞳を落とす。ビアンカの瞳には、どこか愁いの色が見て取れた。
暫しの間、ビアンカは黙したままで何かを考える様を窺わせる。そうして一つ、溜息を吐き漏らしていた。
(――でも、いくら時代遅れだって言われても。この外套だけは……、手放したくないな……)
そう心中で吐露すると共に、ビアンカは腕を抱くように、自身の身体より大き目な男物の外套に両手を寄せる。
ビアンカの羽織る黒い外套は――、彼女に“喰神の烙印”という忌まわしい呪いを託した少年、ハルが気に入り良く身に纏っていたものだった。ビアンカの記憶の中では、ハルという名の少年が、この黒い外套を翻す姿が強く印象に残っている。
それをビアンカはハルの形見として、永い時を過ごしていたのだった。
いくら古めかしい時代遅れのものを身に着けていると嘲られようと、この黒い外套だけは、ビアンカに手放す気は無かった。
彼の少年の生まれ変わりであるハルが、新しい旅装を選んでくれたと雖も――。ビアンカは、その黒い外套に執着を持っていたため、ハルに申し訳ないと思いながらも、マントに手を伸ばすことはできなかったのである。
「――もう行かなきゃな……」
哀愁に近い思いに耽っていたビアンカは、ふと独り言ちる。その声音は至極仕方の無さそうな色を漂わせていた。
◇◇◇
寝室の扉を開け、その先にある食堂を兼ねた部屋にビアンカは足を運ぶ。その肩には、ショルダーバッグと肩掛け用の紐で括りつけた棍を掛ける。両の手にはルシトから渡された、新しい革の手袋を着用していた。
そうしたビアンカの旅装姿に気付いたハルは、腰掛けていた椅子から立ち上がり――、静かにビアンカの元に歩み寄りながら、寂しげなものを察せられる苦笑いを見せた。
「――行くのか?」
「うん。みんなへの言い訳とか。伝える役をお願いしちゃって、ごめんね……」
ビアンカの発した謝罪の言葉に、ハルは構わないということを意味するようにかぶりを振るう。そして寂しげな雰囲気を纏わせていた面持ちに、次には微かな笑みを浮かせていた。
「世界を見て巡るのも、一つの勉強だ。色々な国や街の様子を見て歩くのも――、悪いものじゃ無い。広い世界で沢山のものを見聞きして、得られるものは多い」
赤茶色の瞳を伏せ――、ハルは言う。ハルの見せた仕草は、まるで過去のハル自身が巡ってきた旅路を思い出しているようだと、ビアンカは見ていて思う。
「旅に出ること自体を、俺は止めない。だけど――、本当に一緒に行かなくても良いのか?」
伏していた瞳を僅かに開き、ハルはビアンカを見据える。
ハルはビアンカが旅に出ることを心に決めているのを察し、生まれ変わる前にビアンカと交わした『一緒に旅をしよう』という約束を思い出して口にしていた。
しかしながら――、そのハルの申し出は、ビアンカに固辞をされていたのだった。
「今回の旅は――、私ができることを見極めるための旅にしたいから。ハルと一緒にいると、甘えちゃいそうだしね」
「それは、気にする必要は無いと思うんだけどなあ……」
ビアンカの言い分を聞き、ハルは釈然としない顔をする。そんなハルの態度に、ビアンカはくすりと笑う。
「今までの旅は、ハルを探すための旅だったけれど。私は今のハルのために、“喰神の烙印”の力を上手く使えないかを模索するわ」
「俺は――、エレン王国から出るつもりは無いからさ。いつもでも、ここに戻ってこい」
「うん。ありがとう、ハル」
ハルのいる場所が分かっただけで充分だと。そうビアンカは考えていた。
そして、永い時を掛けて巡り会えた普通の人間として生まれ変わったハルのために、自分自身ができることをビアンカは選び取った。
ビアンカは未だ、“喰神の烙印”の宿主として、真なる主たるに至っていない。
いくらハル自身が魔法や呪いを受け付けない体質をしているとは言っても、彼を取り巻く環境に、ビアンカの持つ呪いの力が脅威となる可能性を秘めていた。そのことを憂虞したビアンカは――、今はハルの元を一時的に離れ、“喰神の烙印”を自在に操るだけの術を求めようと考え及んでいたのである。
そんなビアンカの考えに、ハルは否定も賛成もしなかった。
(俺としては――、限りのある時間をビアンカと一緒に過ごすってのが良かったんだけど。こいつ、言い出したら聞かないからな……)
かような思いを胸の内で吐き出し、ハルは嘆息してしまう。
ビアンカが正論のような物言いを始めたら、梃子でも動かない。そうハルは推し量り、半ば諦めに近い感情を胸に秘める。
(まあ、俺のためを思って……、って言うなら。仕方ないと諦めるしかないよな)
普通の人間としての生まれ変わりを、今回ばかりは運が悪かったとハルは思っていた。
いつか自分は再びビアンカを置いて、先に逝ってしまう。
またビアンカを独りぼっちにしてしまう――。
今の自分自身の寿命が尽きた後、次の生まれ変わりがいつになるかは分からない。
どうにもできない末路に思いを巡らせ、ハルはやむなきことを表す嘆声を零していた。




