第二十九節 遠くない別れ
ハルが淹れてきた飲み物は、中央大陸の東部を国土とするゼクセ多民族国家の名産品である“珈琲”だった。
珈琲は焙煎する豆の種類で、苦みや酸味などの味に諸々の違いが出る。
そのことをハルは、ゼクセ多民族国家を旅する最中で知り――。それ以来、珈琲豆を色々と買い揃えて、趣向品として楽しむようになったのだと。ここ一週間の合間に、ビアンカへ語った自身の趣味の一つであった。
ビアンカが普通の人間として過ごしていた百余年ほど前までは、ゼクセ多民族国家という国そのものが存在しなかったため、珈琲という飲み物は主流なものでは無かった。
そのため、ビアンカは珈琲の存在を知らなかったのである。そんな彼女は、初めてハルに珈琲を淹れてもらい口にした際、その苦さに戸惑ってしまったほどだった。
「――珈琲とは。また、珍しいけれど。偶には悪くないね……」
ハルに渡された茶器――、マグカップに口を付け、ルシトは感心したように呟く。
椅子に腰掛けもせず、珈琲を飲み干したルシトは、ベッド脇に置かれているサイドテーブルに乗せられたトレイに空になったマグカップを戻す。そうして、はたと何かを思い出した様子を窺わせた。
「そうそう、ビアンカ。あんたに渡しておくものがある」
ルシトは言うと、身に着けている法衣の内ポケットを漁る。そして懐から、一対の革で出来た手袋を取り出し――、それをベッドの上に腰掛けたままでいたビアンカに投げ渡していた。
ルシトから突如投げ渡された手袋は、ビアンカも両手でマグカップを持っていたため、咄嗟に受け取ることができずに彼女の膝の上に落ちる。
その渡された手袋にビアンカは翡翠色の瞳を向け、キョトンとした表情を浮かしてしまう。
「これは……」
「新しい手袋。――森で無くしたって聞いたし、前に渡したやつは封印の護符で補強をしないといけなくなったって言っていたからね。だから、少し改良したものを持ってきたよ」
ビアンカは、エレン王城の裏手に広がる森に入り込み、“欲深い狼”たちに襲われ掛けた折に、“喰神の烙印”の力を行使しようとして、その呪いの力を封じ込める効力を持っていた手袋と包帯を外していた。
だが、その後すぐにハルがビアンカを助けに現れ、彼女を抱き上げ救出した――。そして、ビアンカは森の中に、その手袋と包帯を取り落として来てしまっていたのだった。
ルシトは恐らく、ニコラスによってビアンカの治療を依頼された時に、ビアンカが“喰神の烙印”に封印を施していないことを聞いたのであろう。そうビアンカは推し量る。
「ありがとう。やっぱり自力で抑える術を身に着けたとは言っても、そのまま晒しているのは不安だったのよね。助かるわ」
ビアンカは礼の言葉を述べると、笑みを表情に作る。
そんなビアンカの言葉に、ルシトは口角を上げ微かに笑っていた。
「――それじゃあ、僕は戻るよ」
「え、もう帰っちゃうの……?」
唐突にルシトが帰投を告げたため、ビアンカは意外そうな――、どこか残念そうな声音を上げる。
「城の方の仕事も残っているしね。それと、少し早めに戻って休みたい」
「そっか。――ルシト、本当にありがとうね。あと、お礼がなかなかできなくて、ごめんなさい」
ルシトが魔力をビアンカのために行使した故、疲れていることを揶揄する言葉を吐き出すと、ビアンカは申し訳なさげに言う。
そうしたビアンカの謝罪と礼の口舌に、ルシトは「構わない」――と。そう言いたげな面差しを端正な顔に窺わせる。
「まあ、いずれ――、僕の仕事の手伝いでもして、倍にして返してくれれば良いよ」
「ルシトの仕事の手伝い……?」
「いずれ……、ね」
ビアンカが疑問混じりでルシトの放った言葉を反復すると、ルシトは含みのある言い回しを口にし、赤い瞳を細めて返す。
それは、エレン王国の“神官将”や、“調停者”としての仕事の手伝いではないのかと。ビアンカは内心で思うが、ルシトの何かを企んでいるような物言いに真意を量り兼ね、ビアンカは思わず小首を傾げてしまう。
「時が来たら――、あんたにも話をするよ」
首を傾げるビアンカを傍目にし、ルシトは言う。だが、その言葉は、ビアンカに増々首を捻らせる結果になっていた。
自身の言葉に不思議そうな面持ちを見せるビアンカを目にして、ルシトは微かに苦笑をしてしまうのだった。
「――んじゃ、玄関まで案内するか?」
ビアンカとルシトの会話に区切りが見えたところで、ハルは手にしていたマグカップをトレイの上に乗せながらルシトに問うた。しかし、そのハルの問いに、ルシトは緩くかぶりを振るう。
「いや、構わないよ。勝手に出て行かせてもらうから」
「そうか。まあ――、大したお持て成しもできなくて悪かったな」
ルシトから返された言葉に、ハルはやや意地の悪い、一部を強調した口振りを発する。
しかしながら、悪態ともいえる言葉をハルに投げ掛けられたルシトは、それに対して鼻で笑う様相を呈していた。
それらを見聞きしたビアンカは、余程ルシトとハルの馬が合わないのであろうことに察し付き、口から微かに苦笑いを零す。
また口論になってしまうのでは――。そうビアンカが懸念したものの、ルシトは皮肉げな微笑を浮かし、ハルから不意と視線を外した。
「――珈琲、ご馳走様。美味しかったよ」
ルシトが発したのは、嫌味でも何でも無く――。極めて普通の、礼の言葉だった。それにハルは驚き、目を丸くしてしまう。
「お、おう……」
ルシトから礼の言葉を聞くなどとは、露ほども思っていなかったのであろう。ハルは漸くといった状態で、返事を絞り出す。
そんなハルの様子に、ルシトは可笑しげにして笑みを表情に浮かせていた。
「それじゃあ、邪魔したね」
ルシトは言うと、踵を返す。そして、そのまま部屋の扉をくぐり――、場を後にしていった。
そうしたルシトの退室に、ビアンカはキョトンとした表情を見せ、一つの疑問を抱く。
「ルシト……。今日は魔法で帰らないんだ……」
普段であれば、どれほど魔力を極限まで行使しても、ルシトという人物は転移魔法を使用できる分の余力は残している。
ビアンカはそれを了得していたため、ルシトが自分の足でハルの家を後にしていったことを不思議に思ったのだった。
「ああ……。多分、俺がいるせいだ」
ビアンカが疑問から零した声を聞きつけ、ハルが答えた。ハルの言葉に、ビアンカは「え?」と小さく呟く。
「俺が近くにいると、魔法を掻き消すこの体質のせいで、転移魔法の着地点がズレるんだと。前にあいつに嫌味ったらしく言われたことがある」
「あ、なるほど……」
ハルの答弁を聞き、ビアンカは納得の様相を見せる。
(――ルシトの魔法にも干渉するって。ハルは本当に強い力を持っているのね……)
ルシトの魔力は甚だしく、計り知れないものがある。恐らくはビアンカの知る限りで、ルシトほど強い力を持つ魔術師はいないであろう。
しかし、さようなルシトの魔力にさえ干渉を来すハルの能力にも、ビアンカは感心の思いを抱く。
そんな考えに耽っていたビアンカであったが、フッとハルが自身を見つめていることに気付いた。そして次には、どうしたのかと言いたげに、首を傾げる仕草を取る。
「治療の方は――、済んだのか……?」
ハルはビアンカを赤茶色の瞳で見据え、問う。
寂しげな色を示唆させる声音で発せられたハルからの問いに、ビアンカは困ったような表情を見せて頷いていた。
「そうしたら……。そう遠くない内に、ここは出て行く感じか……」
「うん……。このまま私がエレン王国に居続けるのは、周りの人たちに良くないことだし。――また暫くは、彼方此方を巡って、この世界を見てこようと思うわ」
「そうか……」
自身の問いに、ビアンカが後ろめたさを感じさせる声で答えると、ハルは仕方なさげに溜息を吐き出す。
ビアンカの宿す呪いの性質。それをハルは理解したからこそ、彼女を引き止める気は無かった。
だが、頭では分かっているものの。感情としては――、ハルは言い表せぬ侘しい思いを抱いてしまう。
かようなハルの心情をビアンカも感知しているからこそ、ハルに対して自責の念を覚える。
「――ごめんなさい。本当だったら、ハルとは一緒に居たい。でも……、このまま、私がここに居続けたら、ハルにも良いことが無いだろうから……」
“喰神の烙印”を身に宿すビアンカが、このままエレン王国に居座り続けることは、周りに良い影響を与えない。隙あらば“喰神の烙印”は、ビアンカと親しくなった人々の魂を喰らおうとするだろう。
いくら探し求めていた存在である彼の少年、ハルの生まれ変わりの存在がいると雖も。ビアンカがエレン王国に留まることで訪れるであろう結末は――、彼女の望むものでは無かった。
だからこそビアンカは、エレン王国を早々に出て行くことに決めていた。
「お前が決めたことなら、俺は反対しないさ。――寧ろ、生まれ変わる前の俺にはできなかった決断に、称賛を送るよ」
ハルは卑下するように言うと、苦笑いを見せる。そのハルの様子に、ビアンカは眉をハの字に落とし、困ったような笑みを浮かす。
「とりあえず、まだ怪我が治りきるまでは少し時間があるだろ? それまでは、お互いにゆっくり過ごそう」
「うん……」
寂しげな様相で発せられたハルの言葉。それにビアンカは小さく頷いていた。




