第二十三節 暗躍者
「これは――、本来であれば、俺が言ってしまって良いものではないが……」
物思いに耽るビアンカの思考を断ち切るように、ニコラスは言葉を発する。
その声に誘われるよう、ビアンカは伏せ気味にしていた翡翠色の瞳を上げて、ニコラスを見やった。
「この国には、かつて“七魔将”の長という座に就いていた存在が――、居ついている」
「え……?」
ニコラスの発した内容に、ビアンカは眉を顰めて反応を示す。それは、あまりにも思い掛けていなかった要旨だったからである。
「“傲慢”の名を冠する存在。――そいつに目を付けられる前に、この地を去った方がお前の身のためになるだろう……」
ニコラスのそれを聞き――、ビアンカの頭の片隅にルシトの言っていた、とある言葉が過った。
――『この国にはあいつがいる。――“世界と物語の紡ぐ者”を自負する……、“傲慢”な奴が……』
「――“世界と物語の紡ぐ者”……」
ビアンカの口を付いて漏れ出た声。その声に、ニコラスは微かに眉を動かす。そして、溜息を吐き出していた。
「分かっているのならば話は早いな。――察しの通りだ」
やっぱりそうか――、とビアンカは心中で思いなす。
ルシトが語っていた、“世界と物語の紡ぐ者”がエレン王国に居ついているという話――。
ハルから聞いた、エレン王国の宮廷魔術師の職務に就いている、膨大な魔力を持つと思われる人物――。
それらを思い返せば、彼の存在が、一介の人間ではない――、という事実に行き当たり、ビアンカは腑に落ちた様子を見せる。
(“七魔将”の長――、“傲慢”の名を冠する者が“世界と物語の紡ぐ者”の正体で……。しかも、エレン王国の宮廷魔術師としての任を担っている……)
何という国なのだろうか――。そうビアンカは考え、言葉が出なかった。
表向きは人間たちの治める穏やかで平和な国――、エレン王国。
だが裏では、かつて人間たちと敵対する立場にいた存在が、暗躍し牛耳っている。
「あれに関わると、“貪欲”の力を受け継ぐ形となっているお前には、ろくなことが起こらないだろう」
唖然としながらも、納得のいった様を窺わせるビアンカに、ニコラスは言う。
「下手をすれば、あれの企みの一手を担うことになりかねない。注意をしておくに越したことはないぞ」
ニコラスの助言に――、ビアンカは静かに頷いた。
ビアンカとしては、“世界と物語の紡ぐ者”という存在の企みに関わるつもりなど、全く無かった。寧ろ――、エレン王国での彼の存在のやり方に対し、険悪感を抱いているほどだった。
そんなビアンカの心中を知ってか知らずか、ニコラスは赤紫色の瞳を細めてビアンカを見据える。
(――まあ、だけれども。あいつのことだ。既にこの娘の存在を察していて、何かろくでもないことをさせようと目論んでいる可能性はあるな……)
ビアンカが素直に、頷きという形で自身の助言に応えたものの――。ニコラスは、自身の知る“世界と物語の紡ぐ者”その人の狡猾ぶりを認知しているために、内心で危惧をしていた。
“世界と物語の紡ぐ者”は慥かに先手を打ち、“喰神の烙印”の呪いを宿すビアンカに、何かしらの方法で自分自身の籌策を果たさせるであろう、と。ニコラスは思い至り、再三の溜息を漏らす。
(この娘が今後――。この世界の有り様を見て巡り、それをどのように受け止めるかによって……。あいつの一手を担うか否かが分かれるだろう……)
さようなことを、ニコラスは考える。
“旅人”として、世界各国を渡り歩くビアンカ。彼女が、その旅の最中。人間たちの業を目にし――、人間の持つ真に醜い部分に触れ、それに絶望を感じたら。その感性の受け止め方によっては、人間を滅ぼしかねない。
それほどまでの強大な力をビアンカが宿す“喰神の烙印”は有しており、その力は“世界と物語の紡ぐ者”が望む結果を生み兼ねなかった。
(“傲慢”を冠するあいつは――。何でも自分の思い通りに動くと。そう思っている節があるからな……)
ニコラスが知りうる、“世界と物語の紡ぐ者”が画策するもの。それを思い、ニコラスは幾度目かの嘆息をする。
その“世界と物語の紡ぐ者”の考える画策に対して、ニコラスは加担も否定もしないつもりではいる。しかしながら――、快く思っていないのも事実だった。
ニコラスが沈思黙考して、はたと気付くと。自身が言葉を止めてしまったことに、不思議げにしているビアンカと目が合った。
自分自身の不穏な思いから来る考え事に、当の心配の種となっているビアンカがキョトンとした表情を見せていることに、ニコラスは思わず苦笑を零す。
「良いか、ビアンカ。――人間という生き物はな。他の種族とは違い、同族同士での殺し合いも厭わない存在だ」
ニコラスは、まるで幼子を諭すような声音で、不意にビアンカに語り出した。そのことに、ビアンカは更に不思議そうな面差しを窺わせる。
「そのことを、お前はこれから永い時を生き続け、様々な形で見ていくことになるだろう。それを目にし、どのように感じ、どのようにするか――」
ニコラスはそこまで口にすると、ふとして口を噤んだ。そして、一考逡巡する様子を見せる。
(いや。これは――、この娘が人間に対して真に絶望を感じてしまっては、止めることのできない事態か……)
そう思案すると、ニコラスは再びビアンカを見据える。その赤紫色の瞳は、どこか憂いを湛えていた。
「これ以上は止めておこう。俺が、とやかくとお前に言ったところで、どうにもなるものでは無かった……」
「どういう、こと、なの……?」
ニコラスが言葉を言い淀んだ真意が測れず、ビアンカは怪訝そうにしながら首を傾げる。
だが、ニコラスは首を振るい、それ以上の話を続ける気が無いという。そのような意思表示を表した。そうしたニコラスの態度に、ビアンカは不審な点が残る――。それを物語る表情を浮かべてしまう。
「――足の骨折は、普通の人間であれば適切な処置と手術を行っても、完全に癒えるのに半年程度は掛かるだろう」
どうにも納得できない様相を醸し出すビアンカを傍目に、ニコラスは話を変えるよう――、ビアンカの右足首に目を向けていた。
「お前の骨折の仕方は、足首の骨が砕けている。――だけれども、お前の宿す“喰神の烙印”の力ならば、魂を喰らわずとも、一月もしないで完治するはずだ」
「そう……」
話をはぐらかされたビアンカは、覇気を感じさせない声音で返事を漏らす。
「一応、固定の処置はしておいてやる。だが――、その傷を早く癒すためといって、この国の人間の魂を喰らわせることだけは、止めておいてくれ」
「それは……、分かっているわ」
ニコラスが発した言葉の内容は、ビアンカにとっても本意では無かった。
エレン王国で出会った気の良い人々。その魂を“喰神の烙印”に喰らわせるなどという所業を、ビアンカは望んでいない。
「傷を早く癒したいのであれば、適任者を手配しておこう」
「そんな人が、いるの……?」
ビアンカはニコラスの提案に、驚いたように問う。その問いに、ニコラスは頷き返事をする。
「――あとは。傷が癒えるまでの間は、お前をここに運んできたハルの奴の近くに居ろ。あいつならば、魂を“喰神の烙印”に喰われる心配は無い」
「え……?! それって、どういう……?」
ニコラスの発した言葉。それを聞き、ビアンカは、ハルも自身を助け出す際に同じことを言っていたのを思い出す。
――『俺には、魔法や呪いの類は効かないから。安心しろ』
確かにハルは言っていた――、と。ビアンカは思い返す。そして、それが何を意味することなのかは、後で話をすると言われたきりとなっていたのだった。
「そのことについては、本人か若しくは治療に関する適任者に聞け。俺からは、ハルの奴の異能力に関して、エレン王国の上層部から内密にするようにと釘を刺されていてな。話をするわけにはいかない」
赤紫色の瞳を伏せ、ニコラスは口にする。――かと思うと、腰掛けていた椅子から静かに立ち上がった。
ビアンカがニコラスの動きを追うように視線を動かすと、彼の視線とぶつかり合う。
「処置の準備をしてくる。あと――、ハルの奴に事情を話して、お前を引き取ってもらうように交渉しておいてやる」
視線の合ったニコラスは、ビアンカを見下ろした状態で言う。そのニコラスの言葉を聞き、ビアンカは――、黙したまま憂鬱そうな表情を浮かべていた。
(――私に関わらないでって。酷いことを言ったのに。結局、関わらせることになっちゃったわね……)
ビアンカは翡翠色の瞳に愁いを帯び――、思いを巡らせるのだった。




