第十八節 禍福糾纆①
「<――死に至る呪い。我が身に宿る“喰神の烙印”よ……>」
ビアンカは“喰神の烙印”の痣が刻まれる左手を掲げ上げ、呪いの言の葉を紡ぎ始める。
だが――、ビアンカという獲物が動きを見せたことを見止めた“欲深い狼”たちが抵抗をさせまいと、牙を向き攻撃を仕掛けようと飛び掛かって来ていた。
さような“欲深い狼”たちの様に、ビアンカは口元に冷たい微笑を浮かべる。
“欲深い狼”がビアンカに襲い掛かるよりも瞬刻早く――、ビアンカの周りに禍々しい気配が渦巻いていく。
突如辺りを覆いつくす暗く不穏な前兆を察した“欲深い狼”たちは、そこで、はたとした様子を窺わせてビアンカに襲い掛かろうとした動きを止める。そうして――、尾を腹の下へと巻き込み、狼狽した状態を見せ始めた。
「ごめんなさいね。魔物の魂は――、あまりこの子の好みじゃないけれど。今は傷を癒すために、好き嫌いを言っていられないの……」
悪びれを感じさせない声音で、ビアンカは“欲深い狼”たちに言う。
すると、ビアンカの掲げ上げられた左手の甲――、“喰神の烙印”の痣から、仄暗い闇が溢れ出そうと蠢いた。
闇が限界まで溢れ、這い出そうとした。その時だった――。
「ギャンッ!!」
ビアンカを取り囲む“欲深い狼”の悲鳴が、突として上がり森の中に響き渡った。
“欲深い狼”の悲鳴が上がったと同時に、ビアンカの目の前に影が落ち、彼女の視界が遮られる。
「え……?」
突然の出来事にビアンカは驚き、呆気に取られた声を漏らしてしまう。
ビアンカが自身の視界を遮り、影を落としたものを見上げると――。彼女の目に、色の抜けた金髪に赤い上着を羽織った青年の背が映った。
青年は抜剣をし、それを左手に握っている。その剣は今しがた“欲深い狼”を切りつけた血で濡れていた。
「――ハル……ッ?!」
青年――、ハルが現れたことに、ビアンカは焦燥から声を絞り出す。
ビアンカから名を呼ばれたことで、ハルは首だけを動かして彼女に振り返る。そして、焦りの色を滲ませる赤茶色の瞳で、ビアンカを心配げに見下ろした。
「漸く見つけたぜ。――ったく、酷い怪我をして。何やっているんだよ……っ!!」
ハルはビアンカの有様を目にして、眉を顰めた。そうして、ビアンカの状態と彼女が身を預けている崖の岩肌を目にして、何があったのかを瞬時に察する。
「――森に入り込んで、崖から落ちて動けなくなっているとは、流石に考え付かなかった。しかもご丁寧に魔物に襲われかけているとか、どれだけツイてないんだよ……」
呆れの色が混ざる声でハルは言うと、ビアンカから視線を外し、再び“欲深い狼”たちに目を向ける。
「どうして……、私が森に入っていったって解かったの……?」
「城の連中がな。あんたがぼんやりした様子で、森に入っていくのを見ていたんだよ。――それを聞いて、本気で泡を食った気分だった」
ビアンカが不思議に思いハルに問うと、ハルはそう返してきた。
ハルは、さくら亭を出た後に、様々な者たちにビアンカの行方を聞いて回っていた。
その中で、エレン王城に詰めている騎士団の顔見知りに彼女の行方を尋ねたところ――。その人物が、偶々ビアンカがエレン王城の裏手に広がる森の中へ、足を踏み入れるのを目撃していたのだった。
「何で城塞都市の中にある森に、魔物がいるの……?」
そこで不意にビアンカは、現状に場違いな問いをハルに投げ掛ける。
そんなビアンカの緊張感が無い問いに、ハルは嘆息してしまう。
「ここの森は昔の生態系を崩さないようにっていう配慮で、色々な魔物や動物が生息しているんだ」
ハルは“欲深い狼”たちから目を離さず、ビアンカに説明をしてやる。
「だけど普段は、この国の宮廷魔術師をやっている奴が結界を張って、魔物たちが森の中から出られないようにしてある。――もっと森の奥深いところに行くと、とんでもない魔物もいるんだぜっ!!」
言いながらハルは、手にしていた剣を薙いだ。その動きと同時に――、隙を見計らって飛び掛かって来た“欲深い狼”が一匹、悲鳴を上げながらハルの剣に斬り捨てられていた。
(――この広い森全体に、結界が張られているっていうこと? どれだけ魔力のある魔術師なの。その人は……?)
唖然とした様相を醸し出しながらも、ビアンカはかようなことを考える。そこで――、はたと、ある存在のことに勘付いた。
(――もしかして、ルシトが『世界と物語の紡ぐ者』って呼んでいた人が、この国の宮廷魔術師……?)
――『この国自体が、その“収集物”を展示しておく展示場ってわけだ』
ついこの間、ルシトが口にしていた言葉。それをビアンカは思い出す。
ルシトが発した言葉が意味することは――。ルシトが忌み嫌っている“世界と物語の紡ぐ者”が、この国の要人という立場に立つことを物語っていたのだった。
ハルが言う『昔の生態系を崩さないように』――、との言葉も、恐らくは古の時代から生き続ける魔物たちを“収集物”の一つとして見ている“世界と物語の紡ぐ者”が、自ら管理をしているということなのだろう。そうビアンカは推し量った。
「ビアンカ。とりあえず――、俺はこいつらを巻いて、あんたを助けるからな」
ビアンカが呆けた状態で物思いに考えを巡らせていると――。ハルの力強い宣言の言葉が、ビアンカの思考を遮った。そんなハルの言葉にビアンカは眉を寄せる。
「私には関わらない方が良いって、言ったでしょう……っ?!」
先日、ビアンカがハルに発した言葉。それを今一度、ビアンカは声を張り上げて口にしていた。
だがしかし――、そのビアンカの声に、ハルはイラついた様を窺わせる。そのことをビアンカに悟らせるように、ハルは再度ビアンカのことを赤茶色の瞳で睨みつけた。
「――あのなっ! 今はそんなことを言っている場合じゃないんだよっ!!」
ハルはビアンカを睨み、怒声に近い叱責を発した。あまりにも突然の叱責に、ビアンカはビクリと肩を震わせてしまう。
「俺個人に助けてもらいたくないって言うんだったら――。自警団の仕事の一環で、仕方なくあんたを助けるんだって思ってくれっ!!」
尚も捲し立てるように、ハルは怒りを含んだ声をビアンカに投げ掛ける。
さようなハルの憤慨に、ビアンカは眉を落とし――、かぶりを振るった。
「違うの……。ハルに助けてもらいたくないとかじゃ、ないの……」
「――じゃあ、何だって言うんだよっ?!」
怒り冷めやまぬ情態でハルは言う。だが――、ハルの疑問にビアンカは答えず、首を落として押し黙ってしまう。
そうしたビアンカの応じに、「訳が分からない」と言いたげな雰囲気で、ハルは大げさに溜息を吐く。
かと思うと――、ハルは、自分たちを取り囲みながらも、今は襲い掛かってくる様を見せてこない“欲深い狼”たちを不思議に思いつつも警戒を怠らず、ビアンカの方へ身体ごと向き直り、彼女に手を伸ばした。
「ビアンカ、立てるか?」
ハルは言いながら、ビアンカの怪我の状態を窺うように、彼女に触れる。
自身にハルが触れてきたことで――、ビアンカは咄嗟に左手の甲を、ハルの視界から隠すように身体の陰に引いていた。
「ごめんなさい。足を痛めちゃって――、立ち上がるのが難しいの……」
申し訳なさげにビアンカは口にすると、骨折しているであろう右足へ目を向け、それを示す。
ビアンカの返答を聞いたハルは、軽く舌打ちをすると――、一切の躊躇い無しに、ビアンカが自身の身体の陰に隠した左手を、空いている右手で掴んだのだった。そのハルの行動に、ビアンカは身を竦めて反応を見せる。
「左手に――、触っちゃダメッ!!」
ハルに左手を触れられ、ビアンカは慌ててハルの手を振り解こうとする。しかしながら、力強くハルに握られた左手は、彼の手を振り払うことができなかった。
ビアンカの拒絶の言動に、ハルは更に叱責の言葉を投げ掛けようとするが――。そこで、ビアンカの露わになっている左手の甲を目にし、眉間に皺を寄せる。
(――これは……、痣……?)
ビアンカは、常に左手に革の手袋を嵌めているか包帯を巻き付けて、そこを隠していた。その姿を目にしていたハルは、ビアンカが左手に怪我か何かをしているのだと。そう思い込んでいた。
しかし――、白日の下に晒されているビアンカの左手の甲には、どこか禍々しい印象を抱かせる形を擁した赤黒い痣が刻まれている。それに、ハルは息を呑む。
(――そうか。ビアンカは、“呪い持ち”だったのか……っ!!)
ビアンカの左手の甲に刻まれる赤黒い痣を認めたハルは、何故ビアンカが左手に触れられることに拒絶を示すのかを悟ったのだった。




