第十六節 深い森のように
(――少し、大人げ無かった。嫌な言い方、しちゃったな……)
ビアンカは物憂鬱な様子を醸し出しながら、エレン王城の裏手に広がる森の中を一人で歩んでいた。
ハルに突き放すような別れの言葉を放ち、その場を後にしたビアンカは――、自身ではどうにもできない事実を突きつけられた故に熱くなった頭を冷やそうと、一人になれる場所を求めて森の中へと足を踏み入れていたのだった。
辺りに生い茂る木々や草花の青々とした香りが清々しく――、ビアンカの混乱していた感情は、徐々に冷えていった。
そうして、漸く冷静さを取り戻したビアンカは、先ほどハルに言い捨てた言葉に対し、罪悪感の感情を抱き始める。
(でも、私がこの子と一緒にいるならば。私は、ハルとは一緒にはいられない)
ビアンカは考えながら、左手を軽く掲げ上げ、革の手袋に覆われる左手の甲を見やる。そして、その下に隠されている“喰神の烙印”の存在に、思いを馳せる。
「――漸く見つけたと思ったら、こんなことになっちゃうなんてね。ちょっと『嘘つき』って思っちゃったわ……」
彼のハルという名の青年が、ビアンカが百余年以上の月日をかけて探し求めていた、再会の約束を交わした想い人である少年――、ハルの生まれ変わりであると、彼女は気付いた。
だが、時に運命は残酷で、物事を上手く運ばないものである。
生まれ変わり、この世に新たな生を受けたハルは、ビアンカとは共にいられない、普通の人間だった。
かつてハルは、『一緒にいられる存在に生まれ変わる』――、と。そうビアンカに約束をしていたが、その約束とハルの願いは――、叶わなかった。そのことに対してビアンカは、仕方がないことと理解しつつも、胸の奥底で「ハルに嘘をつかれた」と微かに感じてしまう。
“身近な者たちに不幸を撒き散らし、死に至らしめる”呪い――、“喰神の烙印”は宿主の身近な人間。特に想いを強く寄せる存在の魂を好む。
いくらビアンカが、“喰神の烙印”を上手く扱えていると自負していても、いつ呪いが彼女の言うことを聞かなくなるかは分からなかった。その時が訪れ、またハルの魂を喰らってしまうことを――、ビアンカは恐れた。
そのため、ビアンカは敢えて、今のハルを自分自身から遠ざけようとしたのである。
「そうそう上手くはいかないって、頭では解ってはいたつもりだけれど……」
――いざ、眼前に事実として見せ付けられてしまうと、冷静ではいられなかった……。
ビアンカは思い、嘆声する。そうして、掲げ上げていた左手を下ろし、歩みを進めていく。
尚も森の奥深くに向かって歩きながら、ビアンカは張り出した茂みの細枝を避けるため、それに手を掛ける。
すると――、その手の掛け方が悪かったのか、手を掛けて押し退けたことでしなった枝が、手を離れて弾かれる。そうして、ビアンカの頬を掠めていった。
「――いた……っ!」
ヒュッ――、と空気を切る音をさせ、ビアンカの頬を薙いでいった細枝は、微かにビアンカの頬を傷つけた。
枝先に引っかかれ、傷付いたビアンカの頬から、じんわりと赤い血が滲み出ていく。
「はぁ……」
自身の不注意に嘆息を漏らし、ビアンカは手袋が汚れるのも厭わずに、その傷に手を添える。
ビアンカが傷口から滲み出る血を拭ったかと思うと――。今しがたビアンカの頬に作られた傷口は、既に跡形も無く消え去っていた。だがビアンカは、そのことをさして気にする素振りも見せず、いつものことといった様相を窺わせる。
“喰神の烙印”の呪いを宿す者の特性として――、ビアンカは不老不死の身体を持つ。
それは、ビアンカのような呪いの宿主という、『呪い持ち』と呼称される存在が保有する特徴だった。呪いの宿主は老いも死も知らず、永遠ともいえる時を生き続ける。それ故に、僅かな掠り傷や怪我は――、呪いの宿主にとって、気に留める必要も無いものであった。
ただ一つ――、ビアンカの宿す“喰神の烙印”の呪いは、他の『呪い持ち』の宿す呪いとは違う点が存在した。
(――あまり怪我をしたりすると……。また、この子に魂をあげないといけなくなっちゃう……)
“喰神の烙印”の呪いは――、宿主を生き永らえさせるため、人間の魂を必要とする。
そうして、“喰神の烙印”が力を扱うために喰らう魂は、今はビアンカが主導権を握り、喰らっても良い魂を選んでいるものの――。“喰神の烙印”が真に飢えを訴えれば、宿主であるビアンカの意思に反して人々の魂を喰らう。
(大きな怪我はしないように――、気を付けないと……)
ビアンカが命に関わるほどの大きな怪我をすれば――、その傷を癒す力を呪いが発揮するためには、やはり人間の魂を要する。そうすると、間違えなく“喰神の烙印”の呪いはビアンカの意思に反し、彼女を生き永らえさせるために“暴走”という形を持ってして猛威を振るった。
――もうこれ以上は、誰にも迷惑を掛けたくない……。
エレン王国に辿り着くまでの旅の合間に、ビアンカは多くの戦争や動乱に巻き込まれた。
その最中で出会い、親しくなった者たちの多くが――、まだ“喰神の烙印”の扱いに不慣れだったビアンカが、死に至らしめることとなってしまっている。
様々な人々を自分自身の宿す呪いで死に追いやり、そして自身は、その魂を喰らって生き永らえていく。
今の自分が、多くの人々の命を犠牲にし、足蹴にして生きている――、と。そうビアンカは常々と考え、後悔の念から“喰神の烙印”を飼い慣らし、扱うという術を覚えていった。
これまでの自身の行いを思い返し、ビアンカは暗雲とした――。まるで、歩みを進め入り込んできた深い森のように、鬱屈とした気持ちに苛まれていた。
(――エレン王国も、早い内に出て行かないと。気持ちが不安定になっている時は、あまり誰かと親しくすることは良くないし。下手をしたら、ハルの魂を喰らってしまう……)
“喰神の烙印”の制御には、多大な精神力を扱う。常に気を張り詰めていないと、その呪いの力はすぐにビアンカと親しくなった者たちに牙を向こうとした。
呪いの力を上手く扱うためには、“安定した心の持ちよう”も必要不可欠なものであった。心身が健やかであればあるほど、呪いの力をコントロールしていくことが容易いことも、ビアンカは知っている。
だがしかし――、現在のビアンカの精神状態は、至極不安定だと。そう彼女自身、気付いていた。
ビアンカは、これほど落ち込むことになるとは思わなかったと自分自身で思うほどに、ハルの生まれ変わりである存在との再会に対して落胆していたのである。そして、何度目になるかも分からない溜息を吐き出す。
(いつ、エレン王国を出て行こうか……)
ビアンカは――、心中で寂しげな思いを抱きながら、考える。
(――仲良くしてくれた人たちには悪いけれど。やっぱり……、夜中の内にこっそりと出て行った方が良いかな……)
エレン王国で出会った、優しい気質の多くの人間。そんな人々に迷惑を掛けない内に――。また、別れ際に詮索をされないように、悲しい思いをしないように、と。ビアンカは思案する。
さようなことをビアンカが上の空で考え、森の中を歩いている最中だった。
不意にビアンカの目にしていた森の木々が開け、その視野に空が広がった。――かと思うと、ビアンカが声を上げる間も無く、彼女の視界は瞬時に反転していった。




