第十四節 ハルとビアンカ
人通りも疎らな、活気ある大通りから何本か外れた通り道。そこは寂れた雰囲気を漂わせながらも、古くから存在するエレン王国らしい情緒ある建て構えの家々が軒を連ねている。
治安もそれほど悪くなく、良く言えば『閑静な住宅街』といった呼び方がピタリと当て嵌まる。そんな場所だった。
その通り道を、物珍しげに見渡しながら歩く一人の人物に――、ハルは気付いていた。
亜麻色の長い髪を、赤い布飾りで一括りに結い上げた後姿。自身の身体より大きめな男物の黒い外套を身に纏ったその人は――、ハルが最も気に掛けている存在。ビアンカだった。
ハルは自警団の仕事で城下街の見回りをしていたのだが、ビアンカの姿を通りで見掛け、心ともなく速足になりビアンカを追う。
「――よう、ビアンカ」
ハルは極めて明るい声で、追いついたビアンカの顔を覗き込むようにして声を掛けた。すると、不意に声を掛けられた当のビアンカは驚いたのか――、翡翠色の瞳を丸く見開き、声を掛けてきた主であるハルに目を向ける。
「ハル……、さん……?」
声の主がハルだと気付いたビアンカは、驚いた面持ちを緩める。しかし、ハルの名を呼ぶ声音は――、どこか遠慮気味のそれを窺わせた。
「あ、『ハル』って呼び捨てにしてくれて構わないぜ? 気軽に話、してくれよ?」
先日のことは気にしていない呈を漂わせ、ハルは笑顔で口にする。
そうしたハルの言葉に、ビアンカは頷いて返事をした。
「うん、ありがとう。そうしたら、遠慮なく呼ばせてもらうわね」
ビアンカは言いながら、年頃の少女らしい笑みを見せる。
そのビアンカの様子を目にして、ハルは胸を撫で下ろす思いを抱いていた。
(別に警戒されているとか。そういう感じじゃ無さそうだな……)
さくら亭で、ハルが自らの名を名乗った後のビアンカの反応。そのことを思い返していたハルは、ビアンカに警戒心を抱かれているのではないかと心配をしていた。だがそれは、杞憂だったようだと。そう彼は思う。
それならば、あの反応の仕方は何だったのだろうか――と、ハルは考えていたのだが。答えとなるものは、ハルには考え付かなかった。その結果、彼は早々に思案することを放棄していたのだった。
「ハルは、今日はお仕事の日なの?」
隣で連れ立って歩く形となったハルが、右側の腰に帯剣していることを見止めたビアンカは、ハルに問うた。
エレン王国では剣や槍といった刃物武器の携帯は、基本的に“公共安全維持局”と呼ばれる組織に許可を受けた者にしか許されない決まりとなっている。
それは殺生事などの事件を城下街で起こさせないため、エレン王国が取り決めた施策の一つであり――。それ故に、エレン王国は治安の良い国として、近隣諸国にも名の知れた国となっていた。
「ああ。今日は自警団の仕事で外回りなんだ。――ビアンカの方は、さくら亭の手伝いは休みなのか?」
「うん。今日は――、イヴさんにいつも手伝いでお店に入り浸っているんだから、観光するつもりで休みなさいって言われちゃってね」
ハルの問いにビアンカは答えると、眉をハの字に下げて、困ったように笑う。
ビアンカは“豊穣祈願大祭”の祭りで賑わうエレン王国の城下街と、アインやシフォンに連れて行かれたエレン王城の裏手にある湖など――。そうした一部の国の様子しか知らない。
ビアンカが旅をしていることを了しているイヴは、エレン王国も様々なところを見て、観光していくようにと念を押したのだった。
「せっかくイヴさんが提案してくれたんだし。普段のエレン王国も見て回ってみようかなって思ってね。お散歩に出てみたのよ」
「それで敢えて人通りの多い大通りじゃなくて、こっちの道を歩いていたのか?」
「そうそう。大通りって、やっぱり旅人の目に一番付くところだから、観光客向けの雰囲気がするんだけれど。ここの通りって、古い建て構えのお家が多いじゃない。歴史の永い国を観光するなら、こういうところの方が良いかなって思って」
「あー、それは分かるな。俺も旅をしていた時期があるって、前にも言ったけどさ。その国のことを詳しく知りたいってなると、大通りを外れた場所に行った方が色々な話が聞けるんだよな」
「でしょでしょ?」
ハルの同意の言葉に、ビアンカは嬉しそうに顔を綻ばせる。さようなビアンカの嬉しそうな顔を見て、ハルも釣られて微笑んでしまう。
その後も暫し、ビアンカとハルは一緒に歩きながら――、エレン王国のことを知りたいのならば、どこを見に行くべきかなどの話に花を咲かせていた。
そうしてビアンカと共に歩いていたハルであったが、会話が一段落付いたところで、意を決しあることを話題に上げようとして口を開こうとした。
「あのさ――」
「あのね、ハル――」
ハルが話を切り出そうとした瞬間――、ビアンカも何かを言いたげに言葉を発したのだ。その有様に、ハルとビアンカは互いに呆気に取られた表情を浮かべ、目を合わせる。
「わ、悪い。何だ?」
「あ、あの、ごめんなさい。何かしら?」
ハルとビアンカは、謝罪の言葉を口にするタイミングも合わさり――、また互いに口を噤んでしまう。――かと思うと、今度は互いに小さく笑いを零していた。
「何だか、気が合っちゃうわね」
「そうだな。こうもタイミングが被ると、面白いな」
ビアンカもハルも、可笑しそうにして、くすくすと笑い合う。
「んで? 何を言い掛けていたんだ?」
まずはビアンカの話を聞こうと、ハルはビアンカに話の続きを促す。その促しにビアンカは頷くと、「大したことじゃないんだけれど……」――、と前置き、言葉を綴り始める。
「ハルって、左利きなのよね?」
それは“豊穣祈願大祭”の祭りの最中で、ビアンカが気付いた事柄であった。
ビアンカにとって、左手というものは特別な意味を持つ手――、ということもあり、ハルの利き手が左側だということが心に引っかかっていたのである。
「あ、ああ。左利きで――、しかも左手で剣を扱うから。珍しがられるんだよな」
ビアンカの問いにハルは答えると、自身の左手を目の前に掲げ上げる。
ハルの手は大きく、成人男性の逞しさを感じさせる。そうして、普段は手袋を嵌めず、剣を扱っているのだろう。手の節々には、剣を握り扱うことを示す節くれだった状態が見て取れた。
「昔っからさ。俺、何か左手――、っていうか。左手の甲の辺りが気になっていてな。それを意識しすぎていたせいなのか、気付いたら何でも左手で扱うようになっちまっていてなあ……」
ハルは言いながら、自身の左手の甲を、赤茶色の瞳を細めながら見据える。その眼差しは――、まるで左手の甲に存在している、何かを見つめているようだった。
「――そう、なんだ……」
そんなハルの言葉。『左手の甲の辺りが気になって』――、というそれを聞き、ビアンカは眉を顰めていた。
(――左手の甲が気になる、なんて。“烙印”も無いから、“呪い持ち”でも無いみたいだし。でも、やっぱり彼には、何かがあるのかしら……?)
手袋をしていないため素肌が見えるハルの左手の甲には、ビアンカの左手の甲に存在するような、“呪い”の証である“烙印”と呼ばれる痣は存在していなかった。
それでも、左手の甲が気になると口にするハルの兆候に、ビアンカは首を傾げてしまう。
(触れたくらいじゃ、“喰神の烙印”も何もできないし……。触らせてもらって、確かめてみるしかないかしら……)
ビアンカの探し求めている存在。この青年と同じ名を持つ少年――、ハルとビアンカがかつて交わした言葉を想い起し、彼女は考える。
――『俺の魂の気配――、こいつに覚えさせたから……』
彼の少年――、ハルは、ビアンカとの今生の別れ際に、ビアンカの宿す“喰神の烙印”の呪いに自らの魂の気配を覚えさせる所業を行っていた。それは、生まれ変わりをし、自身が過去の記憶を失っていても、ビアンカが自身の魂を受け継いだ者を探し出せるようにと、彼が取った行為であった。
その時のことを思い出し、ビアンカは目の前に立つ青年――、ハルを翡翠色の瞳で真っ直ぐに見据えていた。




