第百三十二節 森の声
夜も明けて辺りは朝陽に照らされる。奥深いグローブ大森林も、葉と葉の間からは眩く爽やかな陽光が射し込んでいく。
木々の枝に鳥たちが止まり、朝を告げる歌を奏でる。栗鼠などの小動物や鹿などといった大型動物も見掛け、人の手の入り込まぬ森が如何に自然に溢れているかを物語った。
「ここから北北西に上がると、“ユグドの大樹”が聳える保護区域に出る。あの辺りは聖気が多くてのう。わらわは好かん」
グローブ大森林を抜けるために、ビアンカとクロエは連れ立って歩みを進める。その最中でクロエは足を止め、林道から北に向かって伸びる獣道を顎で指し示していた。
「聖気が多い……、ってことは。私も行ったら気持ち悪いって思うのかしら?」
“ユグドの大樹”は世界創生の頃から根付くと伝わる世界樹で、“全知全能の女神・マナ”の化身だとも依り代なのだとも伝承される、世界宗教である“マナ教”が崇め讃える聖樹だ。
彼の大樹の周りは神聖な空気を湛えると言われているため、魔族であるクロエは“ユグドの大樹”が生える聖域に足を踏み入れると気分が悪くなると言う。
ならば“呪い持ち”である自分もであろうか――、と憶測でビアンカが問うと、クロエは首肯していた。
「おんしも神聖なる“光属性”魔法の癒し術を苦手だと思うておるじゃろう。あれがイヤならば、間違えなく“ユグドの大樹”の聖気に中てられるであろうな」
「ふむ」とビアンカの喉が鳴る。そうなると、“ユグドの大樹”の周りは普通の人間、もしくは神族の血脈くらいしか入り込めないのかと推測する。だが、今は姿を見なくなって久しいという異種族――、エルフ族や亜人族といった種族はどうなのか。
「クロエの探しているヒトは、あなたが聖なる気配を避けているのを知っていて、聖域で身を潜めている可能性は無さそうなの?」
「それは無いじゃろうて。――なにせ、わらわの探し人は魔族じゃからのう」
「……ねえ。そういうことは早く教えておいてもらって良いかしら」
「なんじゃ。さようなことを聞きたかったのかえ?」
白眼視な翡翠色の瞳に睨まれるも、クロエは悪びれなくカラカラと笑う。
反目で、せっかく頭を使って考えたのに徒労に終わったとして、ビアンカは深く溜息をついた。
「あのね。私がクロエの探している人を知っているかも、とかは考えないのかしら? もしかしたら旅を続けている中で出逢っていて、行方や居場所を知っているかもしれないでしょう?」
「聞かれんかったからの。そうそうとさような偶然も起きぬだろうて」
尚もクロエは笑い続けるものだから、ビアンカの目端が増々釣り上がっていく。
クロエは本当に“契約”を結んだ通り、ビアンカを同行させることしか考えていないのだ。
もしかしたら、クロエの探し人がビアンカも知る人物――、という偶然があるかも知れない。極めて低確率ではあるが、決して可能性が無いわけではない。だけれども、クロエは端からビアンカが知るはずが無いと決めつけてかかっている。
考えていたら、何やら妙に腹が立ってきた。飄々とした風体のクロエとは相性が悪そうだ。
そんなことをビアンカが考えていると、クロエは愉快げにくつくつと喉の奥を鳴らし、再び足を動かし始めた。ビアンカも倣うように歩みを進め、それに続いていく。
「それで、結局は探しているヒト。その魔族を探し出して、あなたは何をするつもりなのかしら?」
「なんじゃ、愛い奴よのう。さようにわらわのことが気になるのかえ? 姉でも慕うつもりで、カワユク強請ってくれれば、教えてやらんこともないぞ?」
「……別に教えてくれなくて良いわ」
クロエが深紅の双眸を厭わしい印象を受けるほどに細め、嘘か真かも測れぬ冗談を口にする。すると、立ちどころにビアンカは表情を冷然たるものに変え、クロエを追い抜いて足早に林道を進み始めた。
(ほんと、この人って掴みどころが無いわね。態度は大きいし、何を聞いてものらりくらりと躱されて――。さり気なく“喰神の烙印”のことを聞こうとしても、誤魔化されちゃうし……)
心中で不満を吐露しながらビアンカが歩んでいけば、その背後からは愉楽の含み笑いが聴こえてくる。完全に遊ばれているとすら思わせるクロエの態度に、ビアンカは呆れと慨嘆に苛まれっぱなしだった。
(――“喰神の烙印”は相変わらずダンマリを決め込んでいるし。どんな関係性なのか分からないのは、ちょっと厄介よね)
左手の甲――、“喰神の烙印”に意識を向けて心中で語り掛けても、黙したままで何も語らない。蠢き何かを示すことすらしないため、クロエが注意するべき存在なのかも分からない。
“喰神の烙印”のことを知る人物なのに、一切の反応をしないもの気にかかる。もしかすると、並々ならぬ関係だったりするのだろうか。そんな風に推察してみるも、結局はビアンカの予想にすぎないし、遅疑逡巡と考えるのも無駄だと溜息が口をついていた。
◇◇◇
クロエが一方的に話しかけてビアンカが応える――、という取り交わしを繰り返し、どのくらいグローブ大森林を歩んだだろうか。太陽が真上に昇りきりそうな、間もなくして正午を迎える頃合いだった。
「……川があるわね」
「そうさのう。これを渡らぬと西側には行けぬか」
森の木々が途切れて視界が開けたかと思えば、ビアンカとクロエの進む方向に姿を現したのは清流の川だった。
フィネロ王国領は『高地の国』の別名を持つ、山多い標高ある土地柄だ。冬の季節は雪が降り積もり、辺りは真っ白に覆われる。この川は雪融け水が勾配の強い山間から流れ出したものだと思われた。
川原に立ち、翡翠色の瞳が上流から下流を映す。太さや深さは然程無いものの、流れが穏やかと言えずに強めだ。渡ろうとすれば衣服を濡らすだけでは済まず、下手をしたら流れに押されてしまう。
正直なところ、無理をして川の水に浸かりたくない――。
そう考慮して視線を動かしていると、ふと目が合った深紅色の瞳も同様なことを考えていたようで、緩く首肯された。
「どこかで川幅が狭くなっているところとか、橋が架けられているところは無いかしらね?」
「ふむ。ちょいと下流へ行ってみるかのう」
「そうね。対岸に楽に渡れると良いんだけど、最悪の場合は流れが緩くなっている場所で渡るしかないわ」
「それはできれば遠慮したいところじゃの。さような労力をかけとうない」
川の上流へ行ってしまうと、“ユグドの大樹”の聳える聖域が近くなる。先ほどクロエは聖気の多い保護区域に近づきたくない旨を話していたので、暗黙の了解として互いに上流へ赴こうと口出さなかった。
最悪は川の流れが緩やかな部分に行き当たったら渡ろう――。そんな悪ふざけともつかない提案を口にしながら、下流に足を向けて川原を歩む。
靴裏が細かな砂利を踏むじゃらじゃらとした音を響かせ、ふと空を見上げれば太陽の眩さで自然と目が細まる。天気が崩れる空模様でなく、晴れ渡っていて心地いい。
翡翠色の視線を背後に向けると、クロエは頭からフード付きの真っ白な羽織を着込み日除けにしていた。深紅色の瞳は周りを見回し彷徨い、何かに警戒しているのかと思わせたが――、面持ちは注意を払っているものでなく微笑を湛える。
クロエは黙っていればビアンカでも見惚れるほど綺麗な女性だ。だけれども、口を開くと傲慢不遜な態度が目に余る。非情に勿体ない、などと思ってしまう。
「おんし。なにか失礼なことを考えておったじゃろ」
「……気のせいよ。少し自意識過剰なんじゃないかしら」
「減らず口をよう言うわ。どこでさような口の利き方を覚えおったのやら」
ビアンカの棘を含む言い方が意外だったようで、クロエは嘆息した。その後に「顔に似合わず――」とぼやきを口にしていたが、ビアンカは聞こえない振りで聞き流してしまう。
そうしたビアンカの更なる冷淡な態度に、クロエは再三の溜息をついていた。
「おんしは蝙蝠たちに聞いた話より、ヒトに接する態度に心得を覚えた気がするのう。なんぞ口数も増えたのではないかえ?」
しかも屁理屈ばかり言い述べると思いつつ。そこは口に出さずにいたが、クロエの考えを察したのかビアンカは翡翠色の瞳を冷然と背後に向ける。
「覗き見の蝙蝠は、そんなことまで話をしているの?」
「わらわの目となって世を見る蝙蝠は、物事の分別を付けるのが苦手じゃて。他愛のない、くだらないとさえ思う話すら運んでくるでな」
クロエの使いである蝙蝠は、小動物の目線であるが故か主に伝えるべき情報の選別が苦手だ。ヒトの男女の見分けもつかず、自身が見聞きしたものをそのままクロエに伝えるだけ。そんな存在たちである。
蝙蝠から伝え聞いたビアンカの言動傾向と、クロエが直に接する印象には大きく差異があった。
クロエが当初抱いていたビアンカの印象は、自らの行いに自信が持てぬ控えめで消極的な呪われた少女――。それがいざ接してみれば、真逆な性質の持ち主ではないか。
「――どうやら、群島で良き縁に恵まれ、遠慮気味だった心持ちが入れ替わったようさのう。辛辣な物言いは如何なものかと思うが、人と関わる自信がついたのは良い傾向じゃて」
「まあ。確かに群島では、沢山の人と接する機会はあったけれど……」
“喰神の烙印”を身に宿してから、戦や死のことを考えず一つ処に長く居続けたのは初めてだった。
オヴェリア群島連邦共和国に一年近く滞在し、大統領代理を務めたヒロの補佐役として城に赴き、城勤めの兵や政務に関わる官僚たちの多くと接する機会に恵まれた。その間に数多の人々と打ち解けて沢山の話をし、言われてみれば以前ほど人と関わって話をすることに苦を感じていない。
今思えば――、ヒロの配慮もあったのかも知れない。自分は普通の人間を“喰神の烙印”の餌と見て、一線を置く壁を作って遠ざけていたのだから。それを憂いたヒロが人々と接する機会を作ってくれたのではと思うほど、彼を中心にしてビアンカの周りにも多くの人間が集まった。
そして、考えてみると“喰神の烙印”がよく大人しくしていたとも思う。回顧すれば空腹の訴えも無く、素知らぬ顔で人間の魂を勝手に喰らう真似もしていないのだ。
もしかすると、ヒロが“喰神の烙印”の魔力を補う躍進をしていたか、と頭を過るのだが。それも現状では確かめようがなかった。
(うーん、何かしていたのかしら? 次の手紙が届いた時に聞いてみよう)
ヒロのことなので、何か悟られぬように無茶をしていたのでは――。そんな風に思案して考えを纏めようとしたビアンカだったが、はたと足を止めていた。
唐突にビアンカが足を止めたものだから、クロエも歩みを止めて首を傾げる。
「何事じゃ?」
問いを投げ掛け深紅色の瞳がビアンカを見やると、翡翠色の瞳が辺りの様子を窺っていた。
黙したままで周囲を見回し、耳を澄ませる。徐々に亜麻色の眉の間に怪訝げな皺が寄り、と思うとクロエに視線が向いた。
「ねえ。何か聞こえない?」
「はて? 気が付かなんぞや……」
クロエには分からなかったようだが、川の流れる水音に紛れ、ビアンカの耳に何かの音が届いていたのだ。よく気が付いたと感心するような、留意しなければ聞き漏らしてしまいそうなほど微かな声だった。
「――女の人の声だわ」
「ふむ。どこにおるぞや」
ビアンカが再び耳を澄ませると「誰か、いるのですか」――、とか細い声が聞こえてくる。
「どなたかいらっしゃるなら……、助けて――」
次にハッキリと聞こえた救済を求める悲壮な声に、ビアンカとクロエは顔を見合わせるのだった。




