第百三十一節 等価交換
「えっと、私は……」
「ビアンカ、じゃろう。ビアンカ・ウェーバー。――かつて東の大陸で栄えたリベリア公国に仕える将軍家の一人娘。リベリアの国を治めた公爵家の血を引く“ウェーバー一族”の名は捨てて久しいようじゃがのう」
クロエの不遜な自己紹介に続いてビアンカが名乗ろうとすると、クロエが先に口を開くことで制する。そして、思いもかけずに自らの姓名を出されたことで、ビアンカは微かに眉間を寄せた。
そこまで知っているのかと思い、気分が良くない。別に出自を隠そうとする気は無いものの、自ら公にする気にもなれず、このまま忘却してしまおうと思っていたからだ。
心中穏やかでないビアンカは顔色で顕著に表している。それを見やり、クロエは深紅色の瞳を細めて嘆息した。
「さような顔をするでない。誤解無きように言うておくが、おんしのことを嗅ぎまわっていたワケではないからの。偶々と他の調べものをしていたところ、おんしの存在が明るみになっただけじゃて」
「……どこまで、知っているの?」
「わらわは小童――、ハルの旅の末路を調べておった。そこで、おんしの存在に行き当たり、ちらりと出自を知った程度。その後から最近までのことは詳しく掘っていないでな、安心せい」
どこまで嘘で、どこまでが真実なのか。なんとも理解しづらいと思う。ビアンカが疑ってかかっている節もあるのだが、今まで覗き見されていたのを知り、クロエに対して心証が良くないのもある。
さようなことを考え、ついとビアンカの口端から溜息が漏れ出した。やはり未だ警戒を怠るわけにはいかないとして、心に留めておこうと思う。
「……おんし、まだ疑っておるな」
ビアンカの未だに残る警戒心が顔に出ていたのだろう。クロエはふと白眼視気味に指摘するが、ビアンカは一笑すると惚けて首を振った。
「気のせいだと思うわ。――えっと。クロエさん、よね。あなたに逢ったら聞きたいことが、色々とあったのよ」
「ほほ。『さん』付けなど他人行儀に呼ばず、呼び捨てて構わんぞ。わらわも適当に呼ばせてもらうでな」
目を細めて可笑しそうに喉を鳴らし、クロエはふらりと樹幹に寄り掛かって座り込んだ。ここで腰を据えて話をする気かとビアンカも腰を下ろしたのを認め、クロエは「それと――」と前置いて言葉を続けていく。
「お喋りな小僧は教えてくれなかったのかえ? わらわから情報を買うには、高くつくぞ?」
「あ……、そういえば……」
含みを持った言い方でクロエは唇に弧を描くが、確かに以前ヒロは言っていた。
ヒロの知人である魔族や“呪いの烙印”に精通した存在は――、情報を与える際に対価を求める。しかも、『身体で払えって言われる』とヒロが口にしたのを思い出し、ビアンカは眉間に深い皺を寄せた。
「やっぱり……、血を寄こせとか、言うわけ?」
身体で、ということは――。クロエが吸血鬼の魔族だと考えるに、情報料と称して血を寄こせと言うことか。さようにビアンカが先入観から引き気味にしていると、クロエはフッと鼻を鳴らした。
「よいか、娘っ子。吸血鬼の魔族が人間や動物を襲い、血を啜り生き永らえるというのは人間どもの戯言――、それも悪意あるな。人間が魔族に対し、如何様な仕打ちをしてきたか、おんしも分かっておろう?」
饒舌に語られるクロエの言は、妥当な意見だった。
魔族に関わる事象や文献から得られる情報が捏造されていると感じてはいた。人間の大半が、魔族の全てを忌むべき存在と考えている。そうした中で、吸血鬼の魔族も人間に都合の良い解釈から、人間や動物を襲うなどという間違えた特性を賜ったのだろう。
幾度となく誤りだと思っていたにも関わらず、自分も『厄介な存在』と吸血鬼を心証付けてしまったと、ぐうの音も出ない。
そんなことをビアンカが自省している中、クロエは尚も言葉を続けていった。
「そもそも、じゃ。吸血鬼が本当に人間の生娘の血を好むとしても、おんしの血は当て嵌まらぬじゃろうて」
「へ?」
ふとクロエが指摘すると、ビアンカの翡翠色の瞳が瞬いた。
ビアンカは暫しクロエの言葉の意味を熟考して咀嚼したと思えば、何か思うところがあったのだろう。忽ち頬を赤く染めて首を左右に振るい――、その様子にクロエは思わず噴き出してしまう。
唐突にクロエが腹を抱えて笑い出したものだから、今度は何事かと翡翠色の瞳はまじろぐことになった。
「何を勘違いしておるか。おんし……、顔に似合わず存外むっつりよのう。小僧に悪い面で影響を受けおったか?」
「ええっ?! むっつり……、って。私、そんなつもりじゃ……」
「わらわが言いたかったのは、おんしが『人間』と呼ぶに、ちーっとばかり事情が違うじゃろうという意味じゃて」
「あ、ああ……、“呪い持ち”だから、ってことなのね。急に何を言い出すのかと思って、ビックリしたわ……」
ビアンカの完全なる早合点の焦りだったが、どうやら彼女の勘違いらしい。
クロエの呆れ混じりの溜息が聴こえ、表情も些かの呆れを含んだものに変わったのに気付き、ビアンカは気まずげに苦笑いを浮かす。
「まったく、あの小僧は幼気な娘っ子に悪影響を与えおってからに。今度逢うたらお灸を据えてやらねばのう。――まあ、それは置いておいて。吸血鬼の一族が血を求めるは真実であるのじゃが、わらわたちは腹を満たすために血を啜るわけではないと言うておこう。見境なく人間や動物を襲うことはせん」
「はあ……」
何やらヒロに大きな濡れ衣を着せた気がしなくもないが――。結局のところ、吸血鬼の魔族が血を必要とするのが本当だとは理解した。
しかし、糧として血が必要ないならば、何のために血を啜るのか。戯れや嗜好品と同等な理由だとしたら、褒められたものでない。それを問い詰めたいところではあったが、クロエは勿体ぶっているのか話す気が無さそうだった。
ビアンカが不信を湛えた眼差しで見つめているのも気にせず、クロエは再びフッと小さく笑いを溢し、気を改めたように口を開いた。
「わらわはのう。探し人がおるでな」
「探し人? その人を探す手伝いをしろっていうの?」
まさか捜索を“対価”の条件に出されるとは思わなかった。この広い世界の中で行方の知れぬ人物を探し出すのは至難の業。それはビアンカも了している。
“喰神の烙印”について、詳しく教えてもらいたいところではあるものの。その情報の等価交換としては、何とも厄介で時間を取られそうな頼み事だと思う。
だがしかし。クロエはビアンカの問いに否を示し、ゆるりとかぶりを振った。
「探し出してくれれば苦労は無いのじゃが、すぐに見つけられると思うておらん。――おんしは西側に向かうつもりなのじゃろう? わらわは西の港町から西の大陸へ渡ろうと考えておるでな。暫しの間、それに付き合え」
「ええ?! 何よ、それ……」
「言うたであろうよ。『旅は道連れ世は情け』とな。女子の一人旅は心細くて敵わんて、ちょうど話し相手を欲しておったところ。だので、おんしを付き添いに任命しようぞ」
この人に『心細い』なんていう感情があるのか――。相変わらずな高姿勢な態度に納得のいかなさを感じつつ、目的地が同じで同行しろという条件ならば断る理由も無い。寧ろ、無理難題を押し付けられ困窮するよりはマシだったので、良しとしよう。
さような思慮の下、ビアンカは諦観から一つ溜息を吐き出し、宜いに頷いた。
「分かったわ。西の大陸に渡るか、私は未だ決めていないけれど。港町までなら付き合うから」
「うむ、契約成立じゃの。したらば、早々に契約の履行とするか」
「それは良いんだけど。――そろそろ夜が明けるけれど、大丈夫なの?」
腰を上げたクロエの動きを目で追いながら、ビアンカは思い至った疑を投げる。
宵の暗さを呈していた森は、いつの間にか仄明るくなってきている。辺りには鳥の囀りも聞こえ始め、夜明けが近いと告げていた。
吸血鬼の魔族は太陽の光を嫌う。ならば夜の内に行動しなくては、クロエに支障があるのではなかろうか。そう思い至っての問いであったが、クロエは深紅の瞳を細め、可笑しそうにカラカラと笑い出した。
「ほほほ、吸血鬼が太陽を恐れるなんぞ、それこそ人間の言い出した戯言よ。わらわたち一族は色白の者が多いでな、日焼けを嫌うだけだとて」
猶々とクロエは笑い、と思うと右手を胸の高さ辺りに上げる。すると、その右掌に淡い光が寄り集まっていき――、次には一本の白い日傘が手に握られた。
「ほれ。このように日除けも万端じゃし、なんじゃったら頭から被る羽織物もあるでな。問題無いぞ」
「そ、そう。なら良いんだけど……」
至極得意げに返され、呆気に取られてしまう。どうにもクロエの飄々とした雰囲気に飲まれてしまっていると感じながら、ビアンカはクロエと行動を共にすることになるのだった。




