第百三十節 怠惰な吸血鬼
月明りが心許なく足元を照らすだけの、宵深き森をビアンカは歩む。口は閉ざしたまま、翡翠色の瞳を真っ直ぐに行く先の道へ向けているが――、その意識は後方を気に掛けていた。
「……ねえ。いつまでついて来るつもり?」
不機嫌を声音に含有して、足を止めずにビアンカは問いを投げる。すると、目も向けずにいた背後から、フッと一笑に鼻を鳴らす音が聞こえた。
「言うたであろう。おんしと打ち解けようと思うて、と」
「私にはあなたと打ち解ける気がないわ。そもそも、ついてくる許しも出していないじゃない」
何者なのか分からない。しかも、吸血鬼の魔族などと付き合う気は、ビアンカにはさらさら無い。けれど、白銀髪の女性はビアンカが由としないにも関わらず、彼女の後を当然のようについてくる。
何が目的で近づいてきたのかも理解できず、ましてやビアンカから声をかける――、否、不意打ちを仕掛けるまで蝙蝠に扮して監視していたのだ。『打ち解けたい』と口にしているものの本気で言っているとは到底思えず、警戒するなという方が無理があった。
そうした心中をビアンカは声と態度に籠めて顕著に示すも、白銀髪の女性には大して響いていないらしい。
「さようにツレナイ態度を取るでない。別に取って食おうというわけでもなし」
これ見よがしの大げさな嘆声がビアンカの耳に聞こえる。「そもそも、おんしは……」などとぶつぶつ続けていたが、それすらも無視してビアンカは歩みを進めていく。
だがしかし――。
「その身に宿す“喰神の烙印”。――今はわらわの気配を察して鳴りを潜めておるが、そやつとも古い顔見知りじゃて」
背後から投げかけられた言の葉にビアンカは足を止め、目尻鋭く翡翠色の瞳を女性に向けていた。
「ようやっと興味を示したかえ?」
ビアンカが留まり振り向くと、女性は満足げに口角を吊り上げた。反目にビアンカの表情は怪訝さを帯び、白銀髪の女性を見据える。
実際に白銀髪の女性が口にした通り、“喰神の烙印”は鳴りを潜めて静かにしている。
極稀に“喰神の烙印”が黙したままな時がある。ヒロと初めて出会った時が良い例だ。しかし、あれは宿主と“呪いの烙印”が共にまだまだ未熟で、取るに足らぬと判断されたがため。
ならば、この白銀髪の女性も危険の無い存在だと判断が下されたのか――。その答えは、恐らく否だろう。
“喰神の烙印”に意識を集中してみると、微かに感じたのは口を固く閉ざして息を潜めている様子。それは、「相手をするのが面倒臭い」という不可解な空気を感受させ、白銀髪の女性と“喰神の烙印”が顔見知りだという言に嘘はないとビアンカに思わせた。
「……あなた。何者なの?」
ビアンカが問えば、白銀髪の女性は不思議そうに深紅の瞳を瞬かせた。
「おんし。わらわに心当たりは無いのかえ?」
「吸血鬼の魔族に知り合いがいた覚えは無いわ」
『心当たりは無いか』と聞かれるも、ビアンカと白銀髪の女性は初対面だ。このように印象の強い女性ならば、ちらりと見た程度で記憶に残ったのかも知れないが、そのようなものも無い。
ビアンカの訝しさを宿した反応で、女性まで解せぬと言いたげに眉根を寄せ、顎に手を押し当てて首を傾げていた。
「はて、おかしいのう。あれと共に過ごしたのなら、わらわのことをポロッと言うておっても不思議は無いと思うたのだが」
「……あれ?」
不意と出された表現が何を指しているのかが分からず、ビアンカは思わず首を傾いでしまう。
徐々に話に興味を示し始めたビアンカに、白銀髪の女性は愉快げな様相を窺わせるが、それにビアンカは気付いていない。まんまと話に乗せられて――、などと内心でほくそ笑んでいるとは露知らずといったところだ。
「おんしの相方じゃ」
「え? 相方?」
いったい誰のことを言っているのだろう――。理解の追いつかなさをビアンカが体で顕すと、女性は話が通らないと察し付いて嘆息した。
「うーむ。思いの外に鈍いのう、まどろっこしいのう。あれの名は何じゃったか。『小僧、小僧』と呼んでおったから失念してしもうたが。――ほれ、あれじゃ。群島の引き籠り、黒髪に碧い目の騒々しい小僧じゃ」
「あ……」
そこまで言われ、ビアンカは漸く白銀髪の女性が誰のことを言っているかを悟った。
オヴェリア群島連邦共和国から永年出ずにいる、女性の言う『引き籠り』――。黒髪に碧い目の男性といえば、ビアンカが思いつく人物は一人しかいない。
「あの声のデカい小僧ならば、わらわのことを何か一つでも言うておったじゃろう? “呪い”に精通した知り合いがおるとかなんとか言うてのう?」
「あなた……。もしかして、前にヒロが言っていた――」
「おお、そうじゃそうじゃ。ヒロとか言うたの。ヒロ・オヴェリアじゃ。あやつから聞いておろうよ、わらわの話をのう」
ビアンカが思い浮かべた人物――、ヒロの名を出すと、女性は喉元まで出かかったつかえが取れたのかスッキリとした面持ちを浮かし、指をパチンッと鳴らす。なんとも大げさな仕草を取るとビアンカは呆れつつ、いつしかヒロに聞いた話を思い出していた。
それは、“ニライ・カナイ”海域への船旅の最中で、ヒロに“喰神の烙印”の正体について聞いた時のことだった。
ヒロの知人の中に、魔族に関わる事柄を調べ、“呪いの烙印”への見聞が広い存在がいると教えられた。そして、彼は件の存在のことを、『全体的に真っ白な人』『凄く印象の強い人』だと言っていた。
ヒロが話をしてくれた特徴を思い返し、ビアンカは改めて女性の頭の天辺から足の爪先まで流すように見やる。
月明りに照らされて際立つ白銀髪に、透き通るような白い肌。身に着けている衣服も白、と――。全体的に真っ白で、深紅の双眸だけが妖艶な煌めきを持って妙に印象的だ。
「ふふ、合点がいったかえ? 相方の知人であるならば、付き合うのに多少は心持ち軽かろう?」
翡翠色の瞳が腑に落ちたと物語るのを目にし、女性は深紅色の瞳を細めて口角を吊り上げた。
確かにヒロの知り合いというのならば、幾分か気は軽くなる。しかしながら、何故に蝙蝠に化けて監視するような真似をしたのか、何故すぐに声を掛けて来なかったのかなど、意図が掴めない点は多い。
だが、なによりもビアンカの気にかかった問題が一つあった。
「ねえ、待って。なんで私が群島でヒロと一緒だったって、知っているの?」
オヴェリア群島連邦共和国に滞在していた間、ビアンカがヒロと行動を共にしていたのを女性は知っている。まさか今の今まで自分が気付かなかっただけで、ずっと監視をしていたのかと頭を過ったが――。ビアンカの焦燥を含んだ疑問に、女性は口元に手を押し当ててころころと笑う。
「ほほほ。わらわの目は広いのじゃ。見ていないと言えば嘘になる、見ていたと言っても嘘になる。――全ては蝙蝠たちが、わらわの目となって教えてくれるでな」
言いながら女性は口元から手を外し、すっと空を指差した。女性の手の動きに釣られてビアンカが視線を動かせば、夜闇の中に飛び交う蝙蝠たちが「キキッ」と高音の鳴き声を上げる。
その事実になるほど、と思う。蝙蝠が空を飛んでいても、不思議さも不自然さも感じないし、当たり前のこととして警戒も抱かない。知らず知らずの内に視られていたと腹を立てそうになるが、そこはぐっと心に押し込めた。
「例えば――。おんしが“喰神の烙印”の前始祖である小童の再来を待ち望み、彼の生まれ変わりと出くわしたことも、わらわは存知しておるぞ」
ビアンカが内心で立腹気味なのを気にせず、女性は猶々と話を続けていき――、ふと口出された名に反応し、ビアンカは女性へ再び目をやった。
「ハルのことも、知っているの……?」
「それも言うたであろう。“喰神”とも古い顔見知りじゃて。なんじゃったら、おんしの相方が宿しておる“海神”の魔族とも旧知の間柄だったくらいよ」
“喰神の烙印”を宿していたハルのことも、ヒロが宿している“海神の烙印”の大本となった“海神”の魔族のことも知っている。――とすると、この女性が優に三桁の年齢を超えていると想像できた。
魔族の寿命は生まれ持った魔力で左右されるというし、吸血鬼の一族は魔族の頂点に立つほどの魔力を有するといわれている。それらから勘が得るに、恐らく齢四桁は超えているのではないだろうか。
なんだかんだと話をはぐらかされ――、いや、これは勿体ぶられているのか。結局は最初に問い掛けた『何者か』という答えを、ビアンカは聞いていない。
随分と話に乗せられて丸め込まれた気がしなくもないが、気を改め、ビアンカは翡翠色の瞳で真っ直ぐに女性を見据えた。
「あなた、本当に何者なの? 魔族や“呪いの烙印”に関わることを調べて、何をしているの?」
「ふふ。ちょいとばかり彼方此方に顔が利く、しがない怠惰の――、やる気が乏しい一介の吸血鬼じゃて。魔族や“呪いの烙印”について調べておるのも個人の趣味、とでも言うておこうかの」
「趣味……、って……」
さような理由で魔族に関わる事象に首を突っ込むものなのか。下手をすれば、大きな厄介事に巻き込まれかねない。思うにこの白銀髪の女性も、ヒロと同様に嘘や隠し事が多い性質なのだろう。どこまで信用して良いのか――。
そんなことをビアンカが考えていれば、女性は「おお、そうじゃ」と溢し、深紅の瞳を細めた。
「自己紹介が未だじゃったのう。わらわの名はクロエ・ルメール。――よしなに、じゃな」
白銀髪の女性――、クロエは再び腕を組み高姿勢な、ビアンカに「偉そうな態度」と思わせる名乗りを上げるのだった。




