第百二十六節 好き、の想い②
腰を上げたヒロはソファに座るビアンカの前へ歩み、ゆるりと跪く。
呆気に取られて瞬く翡翠色の瞳を実直な紺碧色の瞳が見上げ、ヒロは膝をついたままで拳に握った右手を自身の左胸に押し付ける仕草を見せた。
その風格は仕えるべき主君を敬う騎士――、さながら姫君に傅く愛寵の騎士のようだ。
「オヴェリア群島連邦共和国の海に誓う。――今から口にする我が言葉は、嘘偽りの無いもの。我が真心からの言葉だと宣言しよう」
普段のふやけた印象とは違う覇気を含有した口上は、力強いながらも穏やかさを彩った。
突然にどうしたのだと尚も瞬く翡翠色の瞳を目にし、ヒロは微かに頬を緩めて言葉を続けていく。
「ビアンカ。僕はね、君のことが大好きなんだ。この想いは『好き』、なんていう言葉だけじゃ言い表せないくらいで――」
そこでヒロは一度言葉を止めると、瞬刻の一考を示唆させて再び口を開いた。
「これは『好き』、の想いよりも『愛しい』……、うん。この気持ちは、愛しているって言うべきなんだ」
「ヒロ……」
意想外なヒロの言葉に、ビアンカは眉をハの字に落としてしまう。まさかこの時期で、かようなことを言われるとは思わなかったと、戸惑いに揺れる翡翠色の瞳は物語る。
ヒロはビアンカが眉を下げる様を認めながらも、頬を朱に染めて微笑んだ。
「――愛しているよ、ビアンカ」
穏やかでいて優しい声音でヒロは言う。だが、ビアンカは声を詰まらせて唇をはくはくと隠微に動かすだけで、返弁を考えあぐねいているのが明確だった。
「ごめんね。こんなことを言うと、困らせちゃうのは分かっている。僕の自己満足なんだ」
決してルシアやシャドウに焚き付けられたからではなく、自らの意志でビアンカに伝えなくてはと思った。
ビアンカは遠くない内にオヴェリア群島連邦共和国を離れる。
彼女は旅から旅へ、大空と海と大地を飛び越える自由な鳥――、“旅人”なのだ。それを強引に捕まえ、鳥籠に囲ってはいけないのも了している。
ビアンカを酷く困惑させてしまうのも、予想をしていた。
だけれども、ビアンカを黙って送り出してしまっては、次に巡り会えるのがいつになるかも分からない。
今、自分の想いを伝えねば――。そうしなければ、きっと自分は新たな悩みを抱え、鬱屈として過ごしてしまう。
「あの……、ね。ヒロ、私は――」
「ストップッ!!」
漸くビアンカが喉から声を絞り出そうとすると、ヒロは慌てて左腕を上げ、掌をビアンカに差し向けることで制する。
それはソレイ港で初めて出会った時に、ヒロがビアンカの言を押し止めた光景を真似ているようにも思えた。
「えっと……、ハッキリと言わなくても、大丈夫。――これが叶わない想いなのは、分かっているんだ。君の心の中にはハルがいるし、あいつに僕が敵わないのも分かっているよ」
左手を下げたヒロは頬を指先で掻くと僅かに視線を落とし、諦めたような――、どこか寂しげな笑みを浮かせる。
「ハルより先に君に出会えていたら、少しは僕にもチャンスがあったかなとも思った」
堰を切ったヒロの想いは猶々と綴られる。言葉を止められたビアンカは、二の句を出せぬままに清聴していく。
「でもね。君はハルと出会ったからこそ、僕が好きだなって思う君になった。ハルがいなかったら、僕は君と出会うことは無かっただろう。全てはハルが先にいたからこそで。――ほんと、ハルには敵わないし、あいつが羨ましい」
戦友であり、心の拠り所でもあったハル――。その彼が永い時をかけて探し求めていた存在が、ビアンカなのだ。
そして、ビアンカもハルのことを一途に想い、ハルと共に安寧に過ごす夢を抱いている。
縁の糸で固く結ばれたハルとビアンカの間に、自分が入り込む余地は無いのだ。
それをヒロは痛いほどに分かっている。だからこそ、ハルへの義理立てもあって、一歩引いてハルとビアンカの幸せを願う心づもりでいた。
しかし――、ビアンカに対して抱いた恋慕を、吐露せずにはいられなくなってしまった。
利己的で我儘なことだとは承知の上。叶わぬ想いで玉砕するのは覚悟の上。そう考えての、思いきっての告白だった。
言葉を切ったヒロは唇を引き結ぶ。徐にビアンカの右手を取ると、伏せ気味だった紺碧色の瞳を再びビアンカに向けた。
「――ビアンカのことが好きな想いは嘘や誤魔化しの無い、変えようの無い事実。だから、君を想うことだけは、許してほしいんだ。こんな風に考えている僕と、また会ってくれる?」
このようなことを口出してしまっては、ビアンカに困窮から距離を取られてしまうだろう。それがヒロにとって、一つの憂慮となっていた。
告げなければ後悔をしてしまう。しかし、告げてしまったが故の後悔で胸中は複雑だ。
ビアンカは揺らぐ翡翠色の瞳でヒロを見据えていた。が、眉根を落としたままに不意と微笑み、自身の右手を取るヒロの手へと左手を添えて包み込んだ。
「また会うもなにも……、ねえ。私は『ヒロのお嫁さん』なんだから、長い間いないなんてなったら、変な噂が立っちゃうわ」
「え……? それって――」
拒絶の言葉を賜るだろうと半ば諦観していたところ、思い掛けぬ返弁を受けて紺碧色の瞳が驚愕を彩った。
「こんなことを言うと呆れられると思う。強かだとか、狡いって思われるだろうけれど。――私はハルのこともヒロのことも好きよ」
いつの間にか、ヒロのことが気にかかっていた。穏やかな中に芯の強さを有するハルとは対照的な、当たりの良い気さくさや明るい人となりに惹かれ――。独りであることに疲弊したビアンカは心の支えとして、ヒロならば何があろうとも共にいてくれると感じた。
だがしかし、それが決して褒められるものではなく、口にしてはいけない想いだと思った。だからこそ、表に一切出さぬように、悟られぬように無知を装って隠していた。
「ヒロに好意を寄せられていたのは、気付いていたの。だけど、あなたは素敵なヒトだから、私なんかよりも、もっと相応しい女性が現れるはずだって、気が付かないフリをしていたわ」
「そ、そう、なの……? それじゃあ、ずっと素っ気ない感じだったのって……」
ビアンカが色恋話に疎く鈍いと思っていたのは――、全て彼女の演技だったのだ。
今までヒロが口にしてきた愛着の意は、ビアンカに届いていた。
しかし、ビアンカはヒロから数多の愛念を受けながらも、ヒロならば他の女性と幸せに過ごせるとして敢えて流していたのだった。
そうした真実を白状したビアンカは申し訳なさそうにして、再び眉を落とす。
「ただ……、ヒロも分かっているでしょう。私が宿している“喰神の烙印”は、一つ処に長く留まり続けるわけにはいかないもの。――私が群島に居たんじゃ、この国もあなたも不幸になるわ」
“喰神の烙印”は『身近なものたちに不幸を撒き散らし、死に至らしめる』という性質がある。今はビアンカが主導権を握り、呪い本来の力を抑制してはいるが――。それも、いつ何の拍子で暴走してしまうかは、ビアンカにも分からない。
オヴェリア群島連邦共和国にいられないとビアンカが綴れば、ヒロは僅かに目尻を鋭くしてビアンカの手を握る掌に力を籠めた。
「君に群島を不幸になんてさせないし、君を不幸にもしない。なにかあったら、僕が君を止めよう。そして、そうならないように僕の命を賭け、君を守るって約束する」
ビアンカの心の中に存在するハルの大きさは、計り知れない。その心を塗り替えるのは、難しいと観念していた。それが、いざ気持ちを伝えてみれば、ビアンカは自身にも好意を傾けてくれているではないか。
ハルのことばかりを考えていたビアンカが、心を揺らがしてくれている。それだけで、ヒロにとっては喜ばしい。
そうして、ビアンカが危惧するのは“喰神の烙印”の呪いで、ヒロやオヴェリア群島連邦共和国に不幸をもたらすことだった。
だが、さような事象など起こさせはしないと、ヒロは強固に言い切った。
「ビアンカは未だ旅を続けるつもりなんだよね。――だけど、僕にもチャンスがあるんだったら、君の気持ちに整理がつくまで、ちゃんとした応えは前向きに待つよ」
「え。そ、それで良いの……?」
ヒロからの慮外な許しに、ビアンカは呆気に取られてしまう。一驚に瞬く翡翠色の瞳を優しく見据え、ヒロはゆるりと首肯する。
「うん。でもさ……、僕は堪え性が無いから、待ちきれなくて迎えに行っちゃうかも知れない。そうしたら、ビアンカがダメだって言っても、強引にでも攫っちゃうからね」
「えええ、手紙くらいは送るし。そこまで急かさなくても……」
「前にも言ったよね。僕は君と一緒にいたいんだよ。――あ。でも、手紙は頂戴。また群島に来る時も前もって手紙で報せをくれれば、ソレイ港まで迎えに行くからさ」
未だ完全な宜いを示したわけではない。なのにも関わらず、ヒロは既に自分が選ばれるという、確証の無い妙な自信を持って言う。
そんなヒロの回申にビアンカが吃驚を顕せば、ヒロはビアンカの手を取ったまま立ち上がり、少年のような幼さを感じさせる笑みを見せた。
「まあ、とりあえずはさ。急いで旅立つワケでも無いよね? 僕も頑張って仕事を片付けて時間を作るから、腰を落ち着けて一緒に過ごしたい。良いでしょ?」
「そう、ね。私も政務に関してならお手伝いできると思うから――。また群島の古いお話とか、聞かせてほしい」
「勿論だよ。夜は寝かせてあげないからね」
「……そんなに沢山お話をしてくれるの? 少しは寝て休まないと、身体に毒よ?」
「あ、うん。まあ……、そうだねえ。……そういう意味じゃあ、無かったんだけど」
下心からの戯れを口にしてみたが、どうやらビアンカには通じなかったらしい。今度こそ演技などではなく、ビアンカがきょとんと無垢な応じをしたのに毒気を抜かれつつ。ヒロは唇を尖らせて残念げに何やら口元で呟いていたと思えば――、「東の大陸出身だもんな」と自己完結から頬を緩めて何かの思想を窺わせていた。
しかし、ビアンカはさようなヒロを不思議そうに見上げ、尚も首を傾げるのだった。




