第百二十五節 好き、の想い①
ルシアとカルラ。そして、シャドウがオヴェリア群島連邦共和国の地を離れ、半月ほどが経った。
その間にヒロの元へは大統領代理の職務が数多く持ち込まれ、オヴェリア群島連邦共和国の長としての忙しさが垣間見えてきた。
それは、ビアンカとも多忙により顔を合わせない日が続くほど。きっと今頃、ヒロは嘆いているだろうと、容易に想像がついてしまう。
ビアンカはヒロの計らいで、首都ユズリハの城に程近い宿を取ってもらって滞在している。時折と独りで街に出ては散策をして、観光ついでに暇を潰す日々を送った。
首都ユズリハから出てしまわないのは――、ヒロへの気遣いと情。案内の申し出を受けてここまで世話になっておき、勝手に余所の地へ足を運んでしまってはヒロに失礼だという思いもあった。
思いも掛けずにできた暇は、この百余年を旅から旅にと気を張り詰めて過ごしていたビアンカに、心のゆとりをもたらした。
何も気にせずにのんびりと送る日々は貴重だ――。
そんなことを考えながら、衆目の中に入る気が起きぬ日のビアンカは止宿部屋――、そこの窓際に置かれた一人掛け用のソファに座り、趣味である刺繍に打ち込む。
「――よし、これで良いわね。完成っと」
悦を含む独り言を吐いて刺繍針を針山に戻し、膝の上に乗せていた布地を広げる。ビアンカが手にしたのは、生成り色のワンピースだった。
首都ユズリハの城下で無地のワンピースを購入し、オヴェリア群島連邦共和国独自の染料で染められた刺繍糸を用いて襟元や裾に刺繍を施した。
ヒロと会えない日が続く中でビアンカが見出した暇潰し――、無地の衣服を買ってきて刺繍で一手間加える作業は、これで三着目になる。
さて、次は何をしようか。さように気の向くまま窓際に居座っていると、ふと廊下に人の気配を感知し、ビアンカは翡翠色の瞳を扉へ向けた。
黙したまま扉を見つめていれば、感じていた気配に合わさって廊下の床板を靴で踏み叩く音が聞こえ始めた。堅い靴底で重さを有したブーツ――、を履き歩くやや大股な足音の主の正体を察し、ゆるりとソファから腰を上げる。
動き出したビアンカの耳に、次に聞こえてきたのは扉をノックする音だった。
来訪者は思い浮かべた人物で正解だ、などと思ってくすりと笑いを漏らし、何者かと尋ねぬままに扉を開けると――。
「ビアンカ、久しぶりっ! なかなか会えなくてごめんねっ! ――あ、これ、群島のお菓子なんだ。飲み物も持ってきたから、一緒に食べようっ!!」
やにわに、矢継ぎ早な底抜けに明るい声が部屋に響いた。その声の主――、ヒロはビアンカと顔を合わせた途端、満面の笑みを見せる。
ヒロの人懐こい笑顔を目にすると、ついつい釣られるようにビアンカの頬が緩んだ。
「いらっしゃい、ヒロ。お仕事の方、区切りがついたの?」
「うん。とりあえず、押し付けられていたことが片付いて、休んで良いって言ってもらったよ。――っていうか、可愛い服を着ているね。凄くよく似合っていて君にピッタリだ」
ヒロは猶々と饒舌に喋り続け、ビアンカの着ている服に気が付くと極々自然にさも当然に称賛の言葉を贈る。
ビアンカが身に着けている膝丈の白いワンピースには、花と蔓草を象った刺繍が施されているが――。これもビアンカ自身が既成の品に手間を加えたものだ。
「ありがとう。これね、街で買ってきた服に自分で刺繍をしたのよ」
「え? そうなの?!」
売り物にできるくらい綺麗じゃないか。群島者はそういうのが好きだから、絶対に大評判になるよ――。さようにして手放しに誉めてくるヒロの言葉の数々で、ビアンカは嬉しそうに笑う。
ヒロが部屋に訪れ、部屋の中が立ちどころに華やいだ気がする。やはりヒロの気さくさや明朗快活さは傍らに居て心地良いものだ、とビアンカは実感するのだった。
◇◇◇
ヒロを止宿部屋に招き入れ、窓際に置かれるテーブルセットのソファへ通す。彼の手土産であるオヴェリア群島連邦共和国の菓子と茶を楽しみ、談笑を続けていく。
「――ところで、ヒロ。大統領代理のお仕事、調子はどう?」
不意とビアンカが問えば、途端にヒロの眉間に微かな皺が寄った。大いなる不服と不満を物語る表情は、あまり調子が良いと言えないことをビアンカに悟らせた。
「うん、まあ。ぼちぼち、かなあ。僕は読み書き系の仕事が苦手だから、正直言うとシンドイけどねえ」
前任の大統領であるハヤトの死後――、大統領の代理業務をオヴェリア群島連邦共和国を古い時代から知るヒロが担っている。いくら仮の立場だと雖も、何とかといった体で職務をこなしていた。
だけれども、ヒロは元来身体を動かすことが得意であり、反目で机上の職務を苦手としていた。
「ほんとさあ。人を顎で使って書類と睨めっこして自分で動かないなんて、僕の柄じゃ無いんだよ。早々に次の大統領を決めてもらわないと……」
テーブルに肘を置き、頬杖をつく。そして、堰を切ったようにぼやき始めるヒロの言を聞き、翡翠色の瞳が瞬いた。
(そういえば、本来であれば“群島諸国の立役者”と呼ばれたヒトが大統領の立場に座すはずだったって。そう書いてあったような……)
ふと思い出したのは、過去に目を通した“群島諸国大戦”に関する文献だった。
その重厚の本には、オーシア帝国の悪手から群島諸国を救うために同盟軍を率い、ばらばらにあった諸国を一つに纏める切っ掛けを作った軍主――。後に“群島諸国の立役者”と称される人物が、オヴェリア群島連邦共和国と名を変えた群島諸国を治めるはずだったと記載されていた。
元同盟軍の軍主――、ヒロのことなので、『自分の柄じゃ無い』という理由でそれを放棄したのではないか。そして、ヒロが歴史的に死んだことになっているのは、大統領に座すことを嫌がり、敢えて元同盟軍の面々に無事を報せなかったからではないかと。そんな風にビアンカは推測していった。
しかし――、本人は向いていないと豪語しているものの、そんなことは無いと思う。
「私はヒロがこのまま大統領をしていても良いと思うんだけど。あなた、向いているわよ」
仕事ぶりを聞く限り、ヒロはよくやっている。愛する故郷のためと、懸命に職務をこなしているのが垣間見えた。
ビアンカが思ったことを口にすれば、ヒロの眉間に増々皺が寄って顰められていく。
「冗談でしょ。……それにね。国を真に動かしていく者っていうのは、僕みたいな存在じゃいけないと思うんだ」
「……どういうこと?」
ヒロの口火切りに、ビアンカの首が傾ぐ。急に何を言い出すのかと思えば、ヒロは表情を真摯なものへ変えて言葉を続けていった。
「僕たちには――、永遠ともいえる命の時間がある。だからこそ、僕たち“動かない時間”を持つ者じゃなく、いつかは“ニライ・カナイ”へ赴くことになる“動く時間”を持つ者が国を動かすのが相応しいんだ」
「“動く時間”――、ね。確かに私たちは、古い時代の考え方をしがちではあるけれど……」
「そう。特に僕は古い群島の考え――、四百年以上前の決まり事なんかを中心にしがちだ」
ヒロはオヴェリア群島連邦共和国が群島諸国と呼ばれていた時代の風習を特に大切にし、今でもその思考を引きずっている。『女性を大事にしたい』『男として強くなくてはならない』『自身の正しいとする信念を曲げない』――、といったヒロの凝り固まった想いは、彼の融通の利きづらい性質を大いに物語った。
「新しい時代っていうのは、今の時世の人々が作らなくちゃいけない。――僕が古い淀んだ空気を国にもたらすんじゃなくって、その時々を生きる者たちが新しい風を取り込んでいくべきなんだ」
そこまで口にすると、ヒロはふっと一息を吐き出し――。と思うと、頬を緩めてへらりと笑った。
「――僕はね。群島の人々が道筋だけは誤らないようにして、見守っていく立場が丁度良いんだ」
永い時を生きるからこそ、自分は人々の上に立つことに向かない。古い考え方を以てして、国を取り纏めようとしてしまうから。
だので、“オヴェリアの英雄”という守護者としてオヴェリア群島連邦共和国を見守り、不測の事態が起こった際には身を張って祖国を守る。
かような立ち位置がヒロとしては気も楽だし、祖国のためになっていくと考えていた。
「僕は群島諸国――、オヴェリア群島連邦共和国が大好きだから。大好きな祖国の大好きな国民たちが、国を今以上に良くしていくのを見ているのが一番楽しいんだ」
オヴェリア群島連邦共和国を治めるのは、限りある命を有する者であるべきだ。そうすることで、祖国はより良くなっていき安泰するだろう。
ヒロが信じて疑わない様でつらつらと語れば、ビアンカは感嘆の思いを胸に抱いた。
決してでしゃばることをせず、祖国を見守りたいとする姿勢。
一歩後ろへと引いて、余計な口出しをしすぎないこと――。
国を思うからこそ誰しもが口を挟みたくなる。だけれども、ヒロは決してそれをしないと心に決めているのだ。
「ふふ。ヒロらしいわね」
人々を率いる才を有する者として、それはおいそれと出せる決断では無い。ある意味で一つの英断だと思った。
そうした驕り高ぶらない心的傾向は、ヒロらしさをビアンカに感じさせる。
「あは。ちょっと語りすぎちゃったかな」
ついつい祖国のことになると熱くなりすぎてしまう。それを自嘲気味に一笑したと思えば――、ヒロは微かな笑みを浮かしてビアンカを見やった。
ヒロは微笑みながら、紺碧色の瞳が何処か真剣さを彩っている。
そんなヒロの様子にビアンカが首を傾ぐと、ヒロはすっと腰を掛けていたソファから立ち上がった。
「あのね、ビアンカ。――君にはもう一つ、僕の『好き』の話を聞いてもらいたいんだ」
はにかんだヒロは、強い意志を窺わせる声音で口切り出すのだった。




