第百十六節 心奥
ヒロの腹を踏みつける足に力を籠め、シャドウは唇を歪める。
処刑人の剣の平坦な切っ先をヒロの身に触れぬ程度の距離で滑らせ――、左肩から左腕へ。そして、左手首の上でピタリと止めた。
「ずっと疑問に思っていたんだがよお。“呪い持ち”ってのは、呪いが宿る左手を斬り落とされたら――、どうなるんだろうな?」
深い傷を負った腹部を圧されて窮愁に唸るが、紺碧色の瞳は尚も睨みつけてくる。もしも目で人が殺せるのであれば、それをやってのけそうなほどの鋭い眼差しだ。
しかしながら――、口火を切った疑問を耳に入れた途端に、威迫に満ちた紺碧色は驚愕と困惑を孕ませた。
「そんなの……、知るはずがない、だろ……」
声を発する度に腹に響く惨痛で眉間を寄せ、途切れ途切れにヒロは言う。その応じにシャドウはふと鼻を鳴らす。
「左手っていうのは、“全知全能の女神・マナ”の教えじゃあ、人間の五体の中で最も神聖な部位だって言うじゃねえか」
“全知全能の女神・マナ”を崇め讃える世界宗教の教えでは、心臓がヒトの心を司っていると伝えられる。それ故、左手を心に直結する神聖な部位と提唱していた。
「そこに魔族が呪いを遺すってのは、なかなかにエグイ発想だって、俺様は常々思っているんだよな。神聖だとされる左手に居ついて宿主や周りを不幸に貶め、不老不死の存在にして死ねない苦悩を味わわせ、人間への脅威となって畏怖を撒き散らす――」
多弁に語られるシャドウの考えに、ヒロは眉根を寄せる。考え及んだことの無い着意に紺碧色の瞳が「何を言いたい」と雄弁に物語るが――、ヒロを見下ろしていた銀の双眸が細められ、くつくつと笑いが喉を鳴らす。
「初めて出くわした時に視たんだが――。テメエは俺への敵対心と一緒に、強烈な『死にてえ』っていう願望を持っていた。それが妙に印象に残っていたんだ」
ソレイ港から程近い農村。そこにある小さな教会で非凡な神父に身を窶していた、元差別主義組織の幹部が一人。その人物を襲撃した際に、シャドウはヒロと邂逅を果たしていた。
その際に銀の双眸が視たのは、ヒロが心海の奥底に沈めこんでいる“海神の烙印”という呪いから解放されて死を望む――、“死への羨望”だった。
死を望みながらも覇気を宿し、生あるもののためと闘志を燃やす不整合さが妙に印象的で、よく覚えている。
「どうなるのか、検証してみてもいいよな? 左手が無くなることで、死ぬか死なねえか。もし死ぬとしても、テメエは願いが叶えられるし、俺も疑問が解消されてスッキリする。お互いに万々歳だろ?」
シャドウは厭わしげに口角を吊り上げ、ヒロの腹を踏みつけていた足を上げると、次には逃がさぬように左手の甲を足踏する。処刑人の剣を慣れた手付きで中空に放り投げて受け止め、柄を逆手に握り直した。
力を籠めやすいように持ち直された処刑人の剣。その平坦な切っ先の刃が、改めてヒロの左手首に向けられる。
「やめろ……っ! 僕は……っ、もう――っ!!」
死を望んでいない――。ヒロは声を荒げ、左手の甲を踏み締めるシャドウの足から逃れようと身を捩る。そんなヒロの焦慮の動向に、シャドウは唇を増々愉快げに歪めた。
銀の双眸が見定めているのは、ヒロの左腕と脇腹の間。そのことを焦燥するヒロは気付いていない。それが堪らずに可笑しかった。
「――話に耳を傾けて、血が上った頭は冷えてきたか……?」
ぼそりとシャドウは呟く。漏れ出した言葉が終わると同時に、腕に力を籠めて処刑人の剣を突き下ろす動きを見せた。
「く――っ!」
左手を斬り落とされる、と。ヒロは血の気が引く思いを抱く。まさか永年に渡って死を望んだ自分が、死を恐れるとは思ってもみなかった。ここまでなのか。――そう思ったのも束の間だった。
ヒロの紺碧色の瞳は、シャドウの剣を握る腕に飛び掛かるビアンカの姿を目にしたのだ。
「うおっ?! テメエ……っ!!」
「そんなことさせないっ! モルテッ!!」
突然の出来事にシャドウが狼狽えていると、ビアンカは大きく声を張り上げた。そこへ間髪入れずに空を切る音が鳴る。
「――――っ! 危ねえぞ、この馬鹿が……っ!」
風切り音の正体を察したシャドウは、自身の腕に縋り付くビアンカを押しやるように一歩踏み込んだ。
押し退ける動作から些か遅れた亜麻色の髪を掠め、銀の軌跡が上方へ流れる。その刹那、シャドウは右腕に感覚が無くなったのを察知した。予期していなかった事態に、舌打ちをつき、顔を顰める。
次の瞬間に銀の双眸が映したのは――、ビアンカがシャドウの腕を抱え込んだままで体勢を崩し、勢い余ってヒロの身の上に倒れる様だった。
「この野郎……っ!!」
悪態を吐き漏らし、足を振り上げる。自身の腕を斬り落とした存在に向けて払われた蹴りは、その人物が後方へ飛び退ることで躱された。
黒い外套と白銀色の髪を翻し、シャドウの腕を斬り落とした正体――、モルテは目を細めた。銀の双眸が滑稽だと言い表す色を有してシャドウを見据える。
「テメエ……。いくら“呪い持ち”が呪いで死なねえからって、宿主の小娘もろとも斬ろうとするんじゃねえよ。相変わらず手段を選ばねえクソみてえな野郎だ」
「そうすることが、あの娘の望みだった。私はそれに乗り、従ったまで」
冷めた声音で返される言を聞き、シャドウは忌々しげにして再三の舌打ちをつく。
ビアンカはシャドウの剣を握る腕に縋り、動きを留めている隙にモルテにシャドウの腕を斬り落とすようにけしかけたのだ。それによって、自分までもがモルテの大鎌に斬られる覚悟を抱いて。
身を顧みずにヒロを救おうとしたビアンカの気概に、シャドウは既視感を覚えて眉間を寄せた。
さようなことをして、助けられた者が喜ぶと思っているのか。怒りともつかない感情が胸の内を湧き上がっていく。
「本当に予測がつかないもんだな。相手を思いやる時の、ヒトの取る突飛な行動ってのは」
ついと思ったことが口に出る。頭の片隅を過った何かを振り払うようにシャドウはかぶりを軽く振るい、警戒から驕りを持たぬ眼差しをモルテへ差し立てる。
「……退却はさせぬぞ。お前の足も止めるよう、娘から言われたのでな」
「俺の考えを視るんじゃねえよ。――そもそも、利き手を斬られちまったら武器も上手く振るえねえ。不利な状況じゃあ、逃げるに決まっているだろ?」
モルテの有する銀の双眸――、心を読む“邪眼”に意中を覗かれて口出され、シャドウは煩わしげに口端を歪めた。
利き手である右腕を斬り落とされては、武器を握って上手く立ち回ることもできない。“邪眼”の魔族である自身の魔力を以てすれば、切断された腕を治癒魔法で繋ぎ治すなど造作もないが――。肝心な右腕の方は、ビアンカが抱え込んでいる状態なために回収することが難しい。ここは止血だけをして、右腕は諦めるしかない。
肩口近くから斬られた右腕に左手を添え、小声で紡がれる“水属性”の治癒魔法で出血を止める。視線を動かさぬままで退路を探るが、その考えすらモルテには筒抜けなはずだ。
シャドウは徐々に足をにじってモルテから距離を取っていくが、モルテにシャドウを逃す気は更々ない。大鎌を両手に握って構え、開いた距離を詰めるべく地を蹴った。
モルテの動向に反応したシャドウは左手を前に突き出す。その動きに合わせ、攻撃を妨害するべく大地から茨の群れが溢れ出すが――、それは容易に大鎌に切り刻まれてしまった。茨の足止めで怯むことなく向かい来るモルテに、シャドウは何度目になるかが分からない舌打ちを漏らす。
攻撃範囲内にシャドウを収め、大鎌を振り払う風切り音が幾度も鳴る。その度にシャドウは身を翻し、刃が掠めるギリギリで躱していく。
足を止めるようビアンカに言いつけられたと口にしていたが、薙がれてくる大鎌は明らかに殺意を宿している。
「この野郎。主の言いつけを守る気がねえじゃねえかっ!」
“喰神の烙印”――、モルテには宿主であるビアンカに従う気など一切無い。思いなしをシャドウが言すれば、モルテは唇を歪めて大鎌を逆袈裟に振るい上げた。
大振りな刃の軌跡を見据え、シャドウは再び身を返して避ける。同時に口端で魔法の詠唱を紡ぎ、左手をモルテへ差し向けると“風属性”魔法の刃がモルテの身を包む。
大鎌での大仰な攻撃態勢の隙をついた魔法攻撃だった。これで少しは足を留めることができる。そう思った。
だがしかし――。
バチンッ――、と弾かれる音が響く。モルテを取り囲んだ疾風の刃は、彼に届くことなく離散していたのだ。
予想していたものと違う結果に終わり、シャドウが忌々しげに眉間に皺を寄せると――、有無を言わさずに再三の一線が向かってきた。それを大きく後方へ跳躍することで躱す。
「くそ。“呪い持ち”には中級魔法程度じゃ攻撃できねえって聞いていたが、呪いの本体にも効かねえか。今の俺には打つ手無しだな――」
退却もできずに回避一手しか取れないことが癪に障る上に、本気で殺しにかかってくるモルテから離れることも叶わない。
左手しか使えない中で、辛うじて扱えるのは得意としている植物を操る“木属性”魔法と、自然を司る四元素属性の中級魔法のみ。どう足掻いても、現状を打開するのは不可能だった。
万策尽きたか――。そう思い、図らずも溜息が漏れる。
「諦めたか。――互いに損な役回りとなったな」
諦念の気配を感じ取り、モルテは哀憐ともつかぬ色を声音に乗せた。その言葉を耳にして、シャドウは口端を持ち上げて薄い笑みを作る。
「なあに。志半ばっていう残念さはあるけども――、できる限りのことはやった。後悔はねえ」
自らの信念から行い始めた所業だ。だけれども、世間一般から見て――、自分のやって来たことが正しいとは思っていない。ただただ、自分自身の抱いた憤りと人間に蔑まれて命を落としてきたもののため。
身勝手な心奥で執り行った数々は、他種族に翻弄されるのを恐れたハヤトの自己中心さと何ら変わりがない。
攻撃を避けるためと立ち回っていた足を止める。蘇比色の前髪から見え隠れしていた銀の双眸が細められ、モルテを挑発的に見やる。
殺るならば、さっさとやれと――。そう雄弁に物語る瞳を目にし、モルテは軽く頷くと改めて大鎌を構えた。
両の腕に力が入り、耳につくのは風を切る音。
「――さて。俺も“ニライ・カナイ”とやらを、くぐらせてもらえるのかねえ……?」
諦めを乗せた嘆息と疑問が零れ出す。
その時だった――。
大鎌を薙いだモルテの身に、何かが飛びついた。それに銀の双眸が吃驚に見開かれ、はたと斬撃の手を止める。
モルテを止めた正体にシャドウまでもが呆気に取られ、銀色の瞳をまじろいでいた。




