第百十五節 毋望之禍
頭痛がする。頭の中が揺れて、眩暈が酷い。ヒロの足枷になってしまっていると分かっているものの、すぐに起き上がって逃げ出すことも対抗することもできない。
背を踏まれる感覚を覚え、思いの外に力強く押されることで息苦しさと痛みもあった。
ビアンカの耳に、怒りを懐抱したヒロの声が届く。焦りを彩ったカルラの声も聞こえる気がする。次に耳にしたのはハヤトの制裁を告げる口上だった。
(動かなきゃ。動いてヒロもハヤトさんも止めないと、このままじゃ――)
このままではヒロはハヤトの言いなりになって、シャドウとの対峙を続ける。もしかすると自分を助けようとして、ハヤトに手を挙げるかも知れない。
どちらに転んでも、その後に起こる事柄はヒロを不幸にする。
矢張りこれは“喰神の烙印”がもたらす、『身近なものたちに不幸を撒き散らし、死に至らしめる』という性質のせいなのだろうか。
いくら自身が“呪いの烙印”の扱いを心得てきたとはいっても、呪いの本質たる忌まわしい力を抑制することは叶わないのかもと思慮する。
(どうして、こうなっちゃうのかな。――人間に関わると、本当にろくなことにならないな)
不意と脳裏を掠めるのは『人間っていうのが一番怖い』という、いつかヒロが零した言葉。そして、人間に対しての絶望に近い諦めの感情。
人でありヒトではない存在に身を窶したと雖も、ビアンカも元々は普通の人間だった。心は人間のままで人間に寄り添っていたいと思っていた。だけれども、世の中がそれを許してはくれない。
(なんだか、疲れちゃうな。こんなことばかり、考えるの……)
漸く四肢に力が入るようになってきた。未だ頭の芯が微かに振られるのを感受しながら、ビアンカは無意識の内に“喰神の烙印”が刻まれる左手を握る。
ビアンカの心の内に湧き上がり始めた何かを感知したのか、“喰神の烙印”が愉快げに嘲笑う気配を漂わせた。
――『ならば、娘よ。お前の意欲を取り戻すため、力を貸そうか?』
突として頭の中に響くのは、男とも女とも、大人とも子供ともつかない声。
――『諍いの無い貶めのない世を求めるのも、また一興かも知れないな』
くつくつとした笑いに賛同を示すかのように、ビアンカは口端を歪める冷たい笑みを浮かした。
「ビアンカお姉ちゃんっ! ダメ――っ!!」
場にカルラの大声での制止が響き渡った。
物静かで大人しい少女が声を張ってまで、何を阻止したいのか。ハヤトの暴挙か、それとも――。
頭の片隅で纏まらない思考を巡らせていると、ふと頬に温かな濡れる感触を覚えた。ぽつぽつと頬を叩く雫の感覚にビアンカは我に返り、ゆるりと視線を上げる。
翡翠色の瞳に映ったのは、深紅と濃緑――。
何だろうかと疑問に思うが、徐々に覚醒してきた意識で事を察した。
倒れ込んでいるビアンカのすぐ脇に、ハヤトが佇立する。抜身の短剣を左手に握り、振り下ろす前の姿勢を取ってはいたが――、その腕と短剣には無数の茨が絡みつき、動きを制していたのだ。
ハヤトの左胸から撚り合わされた茨の槍が生え、先端を朱色の液体に染めて滴らせる。
突然の出来事だったのだろう。ハヤトは驚愕に目を見開き、はくはくと陸に打ち上げられた魚のように声も無く唇を動かす。――かと思えば喉が下から上へと膨れ、吐瀉音をくぐもり鳴らしながら、鮮血と赤い泡を溢れさせた。
「――“海神”の野郎は煮え切らねえし、反面でお呼びじゃねえ“喰神”どもはやる気を出すし。堪んねえなあ」
些かの焦りの色が宿る声音でシャドウが嘆息した。
「本当だったら俺様が直々に手を下そうってのを、“海神”の野郎に譲ってやろうと思っていたのによ。動くのが遅えっての」
カトラスを構えて一歩踏み込んでいたヒロの肩越しに、シャドウの左手が差し伸ばされている。その言動から、シャドウが意図して茨を操ったことは明確だった。
シャドウが腕を下げると、茨は枯れて崩れ落ちていく。茨の蔦で腕と身体を絡め取られていたハヤトも茨の崩壊に合わせて力なく地に膝を付き――、倒れ伏した。忽ち、辺りに深い朱色が水溜まりを作っていく。
事の成り行きを紺碧と翡翠の瞳が唖然と見届けていた。沈黙が続くのを一切歯牙にもかけず、シャドウは頽ちてピクリとも動かなくなったハヤトの元へ、蘇比色の髪を面白く無さそうに搔き乱しながら近づいていった。
「――俺も“喰神”の小娘には手を上げているんでデカいことを言えないが……、女子供に迷いも無く手を上げる下衆の醜態は、黙って見てらんねえんだわ」
背後から茨で心臓を一突き――。あまりにも呆気なく片を付けてしまったことに無念さを窺わせ、シャドウは息絶えたハヤトへと蔑みの一笑を送る。
銀の双眸が緩い動きで目下のハヤトの亡骸から、漸く起き上がれるまでに回復して座り込むビアンカへ――。そして、呆然としているカルラへと向く。そこでまた一つ、浅い溜息をついていた。
「“喰神”の小娘よお。テメエも危ねえことをすんなっつの。――この国を亡ぼすつもりか?」
「え……?」
ビアンカに向け、シャドウは呆れ混じりの諭しを言すると、目線を合わせるために座り込んだ。
シャドウの銀の瞳が真っ直ぐにビアンカの翡翠色の瞳を見据え――、ビアンカの心の奥底に沸き上がった仄暗い思念を視ているようだった。
「テメエが“毋望之禍”になって、その後はどうするってんだ? 国を失くした“英雄”――、“海神”の野郎を敵に回すことになっちまうぞ?」
「え? 何を言って……」
ビアンカにはシャドウの言っていることが解せなかった。
自分が“毋望之禍”――、予期せぬ不幸な事柄だと伝承される事由になるとは、何のことだろうか。
オヴェリア群島連邦共和国を亡ぼすつもりも無い。ヒロの今までの行いを無下にするようなことなど、できるはずがなかった。
シャドウはいったい何を言っているのだろうか、と。それを翡翠色の瞳が物語って瞬くと、シャドウは怪訝げに眉を寄せて舌打ちをついた。
「無意識過ぎて気付いていなかったってか。テメエは“喰神の烙印”を――」
「貴様ああああぁ!!」
やにわに空気を震わせるのではないかという、頭に響くほどの大声が上がった。
それに反応を示したシャドウは即座に立ち上がると、右手で緩く持っていた処刑人の剣を握り直して踵を返す。
シャドウが剣身に左掌を押し当てて防御の構えを取ると、剣戟の高い音が鳴り響いた。踏み締めた両足が微かに地に滑り、砂を噛む。
突如としてシャドウに斬りかかってきたのは、激怒の様を纏ったヒロだった。力の限りカトラスを振るったのだろう。気迫に満ちた重い一撃を見舞わされたことで、シャドウは昂りに口角を吊り上げる。
「おっかねえなあ。そんなに怒るなっての」
「黙れっ! 貴様っ、なんてことを――っ!!」
「なんてことをって言われてもなあ。テメエが悶々と考えてんのが悪いんだろうがよ」
悦楽に表情を歪めたシャドウは小馬鹿にした口振りで、ヒロからの斬撃を防いでいく。
反目でヒロは怒りを顕わにし、シャドウに剣を振るい下ろす。
「そもそも、テメエも剣を握って足を踏み出したじゃねえか。ハヤトの野郎を斬ろうと考えたんだろ。――ぐずぐずしているもんだから、俺様が代わりに殺っちまったけどなあ」
「黙れ! 黙れ、黙れっ!!」
ヒロの迷いから生じた出遅れで、ビアンカの身を危険に晒した自覚と後悔はあった。ハヤトを止めなければという思いも存在した。
ハヤトを止めるに至ったシャドウの行動は正しい。その手段は傍に置き、それがビアンカを助けたという点で感謝すべきなのは分かる。
だが――、“オヴェリアの英雄”という国守の立場として、大統領であるハヤトを手に掛けたシャドウの所業が許せない。
だけれども、シャドウが手を下さなければ、自分はどうしていたのだろう。――何故にカトラスを握りしめて踏み込んだのか。ハヤトの暴挙を止めさせるために、自分は何をしようとしたのだ。
混乱する思考を遮って、ヒロは技術など無く武器を振るった。
「――ったく。頭に血が上って剣筋が滅茶苦茶だなあ、“海神”よおっ!!」
激昂から闇雲にカトラスとソードブレイカーを打ち付けてくるヒロの動きに対し、シャドウは獰猛な笑みを浮かすと、左手を拳に握りヒロの頬を殴りつけた。
「う――っ!」
唐突な殴打に紺碧色の瞳の視界が明滅して揺れる。立て続けに武器を振るっていた手を止め、膝を折らぬように踏みとどまるが――、そこへ間髪入れずにヒロの左側を狙って処刑人の剣が薙ぎ払われる。
ヒロはすぐにソードブレイカーで防御の構えを取るが、逆上していたことで判断力も鈍っていたのだろう。身を反らした勢いを付けて薙がれてきた刃を受けきれないと察し、右腕を挙げてカトラスを押し下げる形で強引に割り込ませる。
「ヒロ――ッ?!」
躱さなければ斬られると、ビアンカにも分かるシャドウの斬撃だった。
ビアンカが息を呑むのを追って辺りに響いたのは、金属の打ち当たる激しい音――。そして、何かがぶつかる衝突音に合わせた苦悶の声。
シャドウの攻撃をヒロは防ごうとしたものの、判断の遅れが仇となり防ぎきれなかった。
処刑人の剣の軌道を変えることはできたが、逸れた刃はカトラスの剣身を舐めてヒロの腹部を抉り、痛みに怯んだ隙をついてシャドウは蹴りの一撃を食らわせていた。
ビアンカの翡翠色の瞳に、シャドウの一蹴りで体勢を崩して倒れたヒロが映る。
ヒロは蹴り飛ばされたことで得物を手放してしまい、完全に丸腰の状態だ。激痛に表情を歪め、腸まで達して血が脈々と溢れ出す傷口を右手で庇う。
身体を起こそうと地に左腕の肘を付く。左手の甲――、黒い革の手袋越しに淡く赤黒い燐光が立ち昇っていき、ヒロの煩悶の感情を“海神の烙印”が喰らっているのを窺い知れた。
「く、そ……!」
痛苦に唸り顔を顰めるヒロを、シャドウは見下して一笑に鼻を鳴らす。銀の双眸を細めて唇に弧を描くや否や、足を上げてヒロの腹部を容赦なく踏みつけて地面に縛り付ける。
「が――っ!」
ヒロの口から、肺を押し出された息声と共に鮮血が上がった。途端にむせ返り、激しく咳き込むが――。血を吐いて口元を朱で汚しながらも、紺碧色の瞳は忿怒で以てシャドウを睨む。
そうしたヒロの覇気を失わない態度に、シャドウはほくそ笑んで喉を鳴らす。
処刑人の剣がヒロへ差し向けられた。ゆるりとした動きで切っ先の無い刃先はヒロの左肩から左腕へと流れ、左手首の上で止められる。
「ずっと疑問に思っていたんだがよお。“呪い持ち”ってのは、呪いが宿る左手を斬り落とされたら――、どうなるんだろうな?」
出し抜けにシャドウの唇から紡ぎ出された疑問。その問いが意図することを悟ったヒロは、卒爾に紺碧色の瞳を見開き絶句していた。




