第百十四節 誰がために
斬り落とされた腕がカトラスを握りしめたままで転がり、玉砂利を赤く汚している。
その有様を翡翠色の瞳で打ち見して、背を丸める姿勢で蹲るハヤトへと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
開口一番に気遣いの言葉を投げ、寄り添うように跪く。そうしたビアンカの声掛けに、ハヤトの濃茶の瞳が煩わしさを宿して睨みつけた。
「……これが、大丈夫な状態に見えるのか?」
苦痛と失血から、顔色の芳しくないハヤトは嫌味を口に出す。立ちどころにビアンカは眉を顰めてしまうが――、怪我を負ったことで気が立っているのだろうと結論付けた。
ビアンカは気を改め、ハヤトの傷の状態を確認する。
先の無くなった右前腕部からの出血が酷い。身に着けていた衣服を残った左手で押さえ、胸よりも高い位置に右腕を上げてはいるものの、間を置かずして失血症状を誘発するだろう。
額に浮かぶ冷や汗、かんばせは良くなく呼吸も早く浅い。このままではいけないと考慮して、ビアンカは羽織っている黒い外套のポケットを漁ると魔法札を取り出した。
「止血だけでも急いでしましょう。これ以上、血を流し過ぎてしまうと――」
「お前たちとは違い、死ぬだろうな。人間は丈夫では無い」
ビアンカの憂慮に被せて綴られるハヤトの言葉。さような返しにビアンカは声を詰まらせて押し黙ってしまう。
今まで隠していた本心が、危機的状況に陥っていることで露見している。ハヤトは人間以外に良い感情を持っていない。そのことは、先にカルラから言明された。
そこから考えるに、自分自身もハヤトには快く思われていないのだ。だので、このような物言いで返されるのは、仕方がないこと。
例え自分たちを蔑む存在であろうと、ヒロは身を呈して助けようとしている。
これはハヤトを死なせないためではなく、ヒロのためだ――。
どこか腑に落ちない想いを感じながらも、ビアンカはハヤトの右腕を手に取った。
「“水属性”魔法札に込められた治癒魔法で止血をします。少し辛抱してください」
感情を押し殺した声がビアンカの口をつく。その応じにハヤトは面白く無さそうに一笑を立て、忌々しいと言いたげな眼差しをビアンカに送る。
ビアンカは左手に握った魔法札に意識を集中させ、小声で魔力を解放させる言の葉を紡ぐ。淡い青色の光が魔法札に描かれる“水属性”を表す紋様に灯ると、ハヤトの右腕――、衣服の布地を通して滴っていた血の勢いが緩やかになり、鋭い痛みが和らぐのが分かった。
その成り行きをハヤトは濃茶の瞳で見つめていたが、澄ました顔で対応するビアンカが癪に障ると思う。
そもそも何故に“オヴェリアの英雄”であるヒロは、襲撃者であるシャドウと剣を交えながら悠長に語らっているのだ。早々に片を付けない理由が、ハヤトには解せなかった。
剣の腕が互角で状況を覆せないのだというならば、“海神の烙印”の力を使えば良いものの、何故それをしない。ここにはヒロの補助ができるビアンカもいるのにも関わらず――。
「――英雄殿は伴侶であるお前の身を、第一に考えているのか?」
「え……?」
ついとハヤトの口端から漏れ出た言葉に、ビアンカは首を傾げた。急に何を言っているのだと、ビアンカの翡翠色の瞳が語るが、ハヤトは一瞥をくれるとすぐに目線をヒロへと移し眉間を寄せる。
「バケモノ風情が生意気に相手を思いやり、愛を語るか。滑稽な事この上ないものだな」
「なにを言って……」
「お前からも言うがいい。ぐずぐずと遊んでいないで、早々に敵を排除しろとっ!!」
「えっ?! やめ――っ!!」
突如としてハヤトは声を荒げると、血に塗れる左手でビアンカの襟首を掴んだ。
驚愕に目を見開いたビアンカは咄嗟にハヤトの腕を握るが――。後が無くなり形振り構わなくなっている人間の発揮する力は計り知れず、ハヤトを制することができなかった。
「ハヤトッ! 何をしているんだっ?!」
状況に気付いたヒロの大声が聞こえる。それに反応を示したハヤトは増悪の色を含んだ濃茶の瞳をヒロとシャドウへと向ける。
困惑を宿した紺碧色の瞳と、険悪感を彩る銀の双眸が自身を見やっていることに不愉快さを醸し出し、ハヤトはビアンカの襟首を掴んだままゆるりと立ち上がった。
「国守の英雄ならば、さっさと脅威を始末しろ。貴様の細君に補助をさせて“海神の烙印”を使えば良いだろうっ!」
「な……っ!」
ビアンカを捉えていることをヒロへと見せつけるようにして、ハヤトは恫喝の声を立てる。その言様にヒロは紺碧色の瞳を見開いて絶句してしまう。
「人間の魂ならば、先ほどそいつが殺した護衛のものがあるだろう。いくらでも喰らわせて、始末を付けろっ!!」
「馬鹿なことを言うなっ、ハヤトッ!!」
「……お前も腹を空かせているだろう。英雄殿を助けたければ早く忌々しい呪いの力を振るえ」
ヒロの静止を耳にも入れず、ハヤトは細めた濃茶の瞳でビアンカを見据える。低い声音で提言されたそれに、ビアンカはかぶりを左右に振るう。
さようなことができるはずが無い――、そんなことをしてはいけない、と。ビアンカが口を開くより先に、ハヤトは怒りから顔を赤く染めて顰めた。
「強情な小娘がっ! 反抗なぞしていないで、大人しく魂を喰らい腹を満たせ。このバケモノが……っ!!」
ハヤトは声を張って荒げる。次にはビアンカの襟首から手を離し、彼女の身体を突き飛ばす。――かと思えば、揺れる亜麻色の髪を手に掴み、ビアンカの身体を乱暴に引き倒していた。
「痛っ――!」
「ビアンカッ?!」
「ビアンカお姉ちゃんっ!!」
立ちどころにヒロとカルラの焦燥の声が辺りに響く。瞬きの間でカルラがハヤトを止めようと掴み掛かったが――、身を返したハヤトにいとも簡単に弾かれて尻もちをついてしまう。
突然のハヤトの暴挙にヒロは驚愕を隠せず、唖然とした表情を浮かすが――。反目でシャドウは「見たことか」と言いたげに鼻を鳴らして一笑を漏らした。
「ふひひ。焦って化けの皮が剥がれたな。――あいつはこういうヤツだ。恩を仇で返された腹に据えかねる気分ってのが、身に染みただろ?」
蔑みの口ぶりを切るシャドウは肩を竦め、茫然とするヒロの背を肘で小突く。そして、戯れるようにヒロの肩に肘を置くと、馴れ馴れしく寄り掛かった。
「あいつは人間以外の種族を恐れ、駆逐する羨望で胸の内を焦がしていやがる。オヴェリア群島連邦共和国の国民が異種族に寛容なのも気に食わねえからってんで、それに口出しができる立場に就きたかったんだ」
それがオヴェリア群島連邦共和国の政務に関わり、躍起になっていた理由。その職務に打ち込む姿勢が好感を生み、図らずも大統領という国の頂点を戴くに至ったのだ。
「よほど有頂天になったんだろうなあ。密かに国の金を動かし、支援者になっていた差別主義組織の再起を企て、同胞を国に呼んで信念を語らせて異種族を害していった」
耳元に寄せた唇から饒舌に溢れ出すシャドウの口述に、ヒロの武器を握った両の手に力が籠っていく。
「あいつを生かしておいちゃあ、テメエの大好きな故郷は異種族を忌み嫌う汚え人間だけの国に成り下がる。――さて。“英雄”として、テメエは誰がために、何をする……?」
「僕は……、この国の守護者として、英雄として――」
困惑に紺碧色が揺らぎを窺わせる。心の中に迷いが生じたことで、ヒロはかぶりを落とした。どのような表情をしているのかを見ることが叶わないが、両の手の力は籠められたままでカトラスとソードブレイカーを強く握り直す。
かようなヒロとシャドウの取り交わしを目にしていたハヤトは、濃茶の瞳に鋭さを増していた。ハヤトから見れば今のヒロとシャドウの状態は――、戯れの談笑に映るのだろう。
どういう訳で、自身を打ち取ろうとするシャドウと話などしているのだ。何故に己の命に従わないのだ。こちらはヒロの伴侶であるビアンカを押さえているというのに――。
「――やはりバケモノはバケモノと肩を並べ、人間を裏切るのかっ!!」
「きゃっ!!」
痺れを切らせた叫びに近い声が立つ。同時にビアンカの悲鳴が聞こえ、はたとヒロは下がっていた首を上げた。
紺碧色の瞳の眼界で、ハヤトはビアンカの一纏めにした髪を掴む左腕を持ち上げる動作を取った。そして、力の限りビアンカの身を引き上げ――、腕を振るって地面に叩きつけた。
「あう――っ!」
予期せぬハヤトの行動に対処できず、ビアンカは勢い付けて倒れ込んでしまう。叩きつけられた拍子に頭を打ったことで目が回り、すぐに動けない。
ビアンカが逃げの体勢を取れずに地に伏していると、その背に向けてハヤトは足を落として踏みつけていた。
「ハヤトッ! 止めろっ!!」
「バケモノたちの良いようにさせていると、国がバケモノに支配されるというのは、間違えていなかったようだな。言うことを聞かぬバケモノを躾けるのも、俺の役割か」
眉間と鼻上に深い皺を刻み、射抜き殺さんばかりの濃茶の眼差しがヒロを見据える。
ハヤトは手早い動きで衣服の下に左手を差し込み――、そこから抜身の短剣を取り出した。良く研ぎ澄まされた刃が太陽の光を反照させて煌めく。
それを目にしたヒロの顔付きが瞬く間に変わった。まさかという思いが胸中を苛み、音が鳴るのではないかというほど強く歯噛みする。
「ビアンカお姉ちゃんに酷いことしちゃダメっ!!」
「――――っ! 邪魔だ、小娘がっ!!」
カルラは立ち上がると即座にハヤトに飛びつく。だが、ハヤトは厭わしげに舌打ちをつき、先の無くなった右腕を振るって殴りつける。それによってカルラは呻き声を零し、再び倒れ込んでしまった。
幼い少女にさえ手を上げて暴挙に出るハヤトの動向に、ヒロは増々顔を顰めていく。しかしながら――、未だに心に迷いがあった。
シャドウの言う通りに、ハヤトの為している事柄は許せない。だけれども、それを罰するためにと動くことが、ヒロにはできなかった。
手を下さなければいけないのか。そうでなくては、傷付く者が次々にハヤトの手によって生み出される。
しかし、だからといって、どうする。自分はどうすればいい――。
「裏切りの罪を背負うバケモノに、罰を与える! 命に従わぬことで己が伴侶の傷付くことを悔み、思い知れっ!!」
声高な制裁の宣言が辺りに響く。それと共に、ハヤトは逆手に握った短剣をビアンカに振るい下ろすのだった。




