第百四節 初湯治
鼻孔を抜ける海水と似た香り。それは海が近いために湯が塩化物を多く含んでいるから、というのがヒロの説明だった。
広い浴室の床は乱型石が敷き詰められ、浴槽は周りを大き目な石で囲われていて、湯自体も普通の風呂より温度が高い。
温めの湯に、胸から下を浸けての半身浴が主流であった東の大陸。その方法での入浴に慣れてしまった身には、浴槽が深く肩まで浸かる温泉の湯は熱い。
だけれども、意外と熱い湯に浸かるのは気持ちが良い。温泉には癒しの効能があるというが、熱い湯に浸かることが癒しに繋がるのだろうか。さように推しながら、ビアンカは微かな吐息をつく。
「ビアンカ。暑くなってきたら、お湯から出て縁に腰掛けると良いよ」
頬を朱に染めて湯に浸かるビアンカを目にしたヒロは、苦笑混じりに促す。
あまり無理をして温泉に浸かったままでいると、逆上せてしまう。様子を気に掛ける紺碧色の瞳は下心など欠片も抱いておらず、本気の心配を示唆させる。
「ええ。ちょっと暑くなってきちゃった」
ヒロの促しにビアンカは同意を示し、立ち上がった。すると、湯を吸って身体に纏わり付く入浴衣が、水音を浴場に奏でる。
頭上で団子状に結った髪の乱れを直し、浅く息を吐き出す。浴場に持ち込んで近くに置いていた湯上り用の巾布を手に取ると、露出を隠すように肩へ掛けて浴槽の縁に腰を下ろした。
いくら入浴衣があるとはいえ、肩や胸元が露出することに少しばかり抵抗感があった。入浴衣自体は膝まで長さがあるので、まだ良いと思うのだが――。
傍らで湯に浸かっているルシアもカルラも、ヒロが同じ浴場にいる現状を気にしていない。二人の様子を目にして、自分が気にしすぎているのだろうか、などと思う。
そして、ついついルシアの胸元に目を向け――、自身の身体が成長を止めていることを悔やんだ。内心で「女の人は胸だけじゃないわよね」と、自分自身に言い聞かせる。
ビアンカの視線に気付いたのか、ルシアが赤色の瞳を上げて小首を傾げていた。それにビアンカは、気まずげに作り笑いを浮かべた。
「そういえば、ビアンカさんは東の大陸出身でしたよね?」
目が合ったついでと言わんばかりに、ルシアが口切る。その問いにビアンカは首肯すると、質問の意図が分からなそうに瞳を瞬く。そんな表情の変化を気に留めず、ルシアは尚も言葉を続けていった。
「東の大陸出身者は、厳格な教育を受ける方が多い印象なのですけれど。ビアンカさん、よく他人とお風呂に入ることを承諾しましたね」
「ああ……。実は、未だ少し抵抗はあるんだけど。旅を続けるなら柔和な考えを持つようにした方が良いって、ヒロに言われてね」
ちょうど抵抗感を覚えていたことに対して問いを投げられ、まるでルシアに考えを見透かされたようだと思ってしまう。
ビアンカの出身である東の大陸は、厳格な考えを持つ者が多い。幼少の頃より礼儀作法を叩き込まれ規律を守り、仕えるべき主君に尽くすことを教えられる。
特に女性の場合は、結婚適齢期になるまで異性との交流はなるべく控えること、必要以上に素肌を晒すのが恥ずかしいことだと教育されるため、身持ちが固いのが特徴だった。
東の大陸の風習を了しているからこそルシアが感じた疑問にビアンカが答えると、浴槽の縁に肘を付いて凭れ掛かるヒロへとルシアは目を向けた。ルシアの眼差しは「どんな入れ知恵をしたのだ」と語っており、さような声無き質疑にヒロはへらりと笑う。
「えへ。『郷に入りては郷に従え』って教え込んだんだ。群島に来て家庭の教育が何だとか言っていたら、温泉にも入れないし浜にも行けないし。勿体ないじゃない?」
「それにしたって、ねえ。普通は東の大陸で嫁ぐ前の女性は、異性に肌を見せたり見せられたりは避けるものでしょう? ビアンカさんはリーダーのこと、何とも思わないのですか?」
ヒロの得意げな口舌に、次にルシアはビアンカを見やる。すると、ビアンカは冷然とも取れる色を目元に彩り、口を開いた。
「……慣れたから」
「え?」
ぼそりとビアンカの喉が鳴る。その呟きにルシアが首を傾げると、ビアンカは嘆息を漏らした。
「ヒロはね。私が嫌だって言っても、止めてくれなかったの。強引に自分の良いようにしていって、私の気持ちは無視して。酷いと思わない?」
「うん、ビアンカ。その主語が抜けている言い方は止めよう。何ていうか――、凄く人聞きが悪いんだけど……っ!!」
あてつけがましい溜息混じりに言い述べられるビアンカの弁。それを聞いた途端にルシアの眉間に怪訝げな皺が寄り、ヒロが焦燥に声を荒げて弁解を口にした。
ビアンカに犯意は微塵も無く、至って普通の物言いをしたつもりだ。しかも、ヒロは主語の無い答弁の内容に心当たりがあるので、ビアンカは間違えたことを言っていない。しかしながら、兎にも角にも言い方が不味い。
事情を詳しく知らない者が耳にしたら、あらぬ誤解を受けそうだと。そうヒロが焦りを抱くと――、ルシアの赤色の瞳が冷ややかに差し向けられているのに気が付いた。
「……何をなさっているんですか、リーダー?」
「うぐ。そんな犯罪者を見るような目を、僕に向けないでもらっていいかなっ!!」
刺すような視線だと。そう感じてしまうほどの氷のような眼差しをルシアに向けられ、ヒロは思わずたじろぐ。そして大げさな溜息を吐き出した。
「“ニライ・カナイ”への船旅の間に、ワケあってビアンカとは同室だったんだけどね。僕は眠らないから、ベッドはビアンカに使ってもらっていたんだけど。――浴室は僕も使いたかったから共同だったの」
「ほうほう」
本来であれば帆船に風呂の備えがあることは珍しいのだが――。“ニライ・カナイ”行き航行船は観光目的で出帆する船なため、汲み上げた海水を“火属性”魔法札の仕組みを応用した設備で沸かす海水風呂が、特等以上の船室には存在した。
ヒロは“海神の烙印”がもたらす悪夢を忌避し、眠ることを放棄していたためにベッドはビアンカ専用になっていたが。風呂設備だけは、話が別だったのだ。
「どっちかが浴室を使いたい時は、部屋から出ていようって決めていたんだけど――」
オヴェリア群島連邦共和国出身者――、『群島者』と呼ばれる者たちは、大らかなで開放的な気質と、決まり事に対しての緩さが側面にある。生粋の群島者であるヒロも例に漏れず、その特徴を大いに有していた。
それが原因でヒロとビアンカは、度々と生活態度で衝突することがあった。
ヒロとは相性が合わないのではないか、などとビアンカが思っていた矢先に、ある一つの事件が起こったのである。
――どちらかが浴室で風呂を使いたい時は、もう片方は部屋から退室していよう。
ヒロとビアンカは互いに気を遣い、そう取り決めをした。そんなある日、偶々ビアンカがユキとアユーシの部屋へ赴いていたこともあり、不在だった。
その期を見計らってヒロが先駆けて浴室を借りてしまおうと思い至り、使用していたのだが――。
風呂上りに髪を乾かすのもそこそこに脱衣場からヒロが出ると、船室に戻ってきていたビアンカと鉢合わせをしたのである。
流石に下穿きは身に着けていたが、油断していたと後から猛省はしたものの――。異性の裸など見たことの無いビアンカの激怒の様は、後にも先にもヒロ以外経験できないのではと感じるものだった。
まず、ユキに借りてきたのであろう重厚な本が心火に揺れる感情のまま、勢い良くヒロに投げつけられた。かと思えば、棍を手に取ったビアンカはヒロを追い立て、船室から叩き出したのだ。――下穿き姿のままで。
そのまま扉越しに大声での口喧嘩が繰り広げられ、それはユキとアユーシが通りかかるまで続けられたのである。
「――その時のビアンカの仕打ちがあんまりだったからさあ。これって慣らさないと一緒に行動している間、暑くても表着すら脱がせてもらえないと思ってさ」
「ヒロってば、その件があってから、上半身裸で部屋の中とかをウロウロするようになったのよ。止めてって言っても、止めてくれないし……」
温暖な気候のオヴェリア群島連邦共和国では、暑ければ表着すら脱いで涼を取るのが普通であった。それ故に他者に肌を見られることに抵抗も無く――、ましてや、ヒロは男であるため女性のような肌を晒す恥じらいも無い。
片や異性との交流に関し、厳たる教育を受ける東の大陸で生まれ育ったビアンカにとっては、異性の素肌を見ることさえ気恥ずかしく思う。
そもそもの考え方が、ヒロとビアンカは合わないのだ。早い話が、価値観の相違から来る喧嘩の一つである。
そこでヒロは、ビアンカの考え方を自分の都合の良いように矯正しようと考えた。
――『群島だと、男女とも露出が多いのは普通なんだ。浜辺なんか行くと、女の人でも下着みたいな肌が出た恰好をしているし。今のうちに僕でも見て慣れておくと良いよ』
かような訳合の逸れた説得と共に、ヒロはビアンカが嫌がろうとも上半身裸で過ごした。
そして、そのお陰ともいえるのか。ビアンカはヒロの裸を見慣れた――、ということである。
「ああ。なるほど……」
ヒロとビアンカのぼやきの説話を聞き、ルシアが呆れを含有させた声を漏らす。至極くだらないことを聞いたと、端正な顔が雄弁に物語っていた。内心で「二人の頭の加減は同じ匙加減だわ」などと、雑言を吐露する。
「まあ、ビアンカさんは……、あれですね。半分諦めの気持ちもあるのでしょう……?」
「ええ。もう言っても無駄だなって、思っちゃって」
ルシアの同情の色を含んだ言葉に、ビアンカは辟易と返す。それによって、ヒロの眉間に微かに皺が寄った。
「そんな呆れたみたいに言わないでよ。僕は悠々過ごしたいから、自由が無いのは死活問題なのっ!」
「実にくだらない痴話喧嘩を聞かされた気分です」
「くだらないって……、言うねえ……」
ヒロもルシアも唇に弧を描いて不敵な笑みを浮かし、紺碧色の瞳と赤色の瞳が睨み合いを始める。
その様子にビアンカが頬を引き攣らせていると、不意とルシアの腕をカルラの小さな手が引いた。
「ルシ姉ぇ、暑い……」
はふっ、と浅い吐息と共に頬を赤くしたカルラが言う。
「あら。そうしたら、逆上せない内に上がりましょうか?」
「あ、そうしな。上がったら沢山お水を飲んでね」
「ん。喉も乾いた。お水、欲しい」
ヒロが促すと、カルラは素直に宜いに頷く。そして、ルシアと共に浴槽を上がり、場を後にして行った。
「私も先に上がるわね。――温泉、気持ち良かったわ」
ビアンカも暑さの限界を感じていた。だが、温泉が思いの外に心地良かったのは事実だ。それを口にすれば、ヒロは嬉しそうに頬を綻ばせる。
「あは。そう言ってくれると誘った甲斐があったよ。またみんなで来ようね」
「ええ。また来ましょう」
またいつか――、気安い者たちで同じ湯に浸かって、のんびり過ごすのも悪くない。
初めて経験した温泉という場が楽しかったと、心の底からビアンカは思うのだった。




