第百一節 鬱屈
静寂を取り戻した海原の彼方に、何隻かのガレオン船が見える。航行船へ向かい、航跡波を引き進んでくる船団の船首旗の柄を目にして、ヒロは嘆息を漏らした。
「もー、リュウセイってば遅いよ。魔物は片付いちゃったっていうの」
リュウセイ率いる海賊船団が海の巡視の最中で異変を察知し、急ぎこの場に船首を向けたであろうことは解る。ヒロが口にしたぼやきは戯言の一つであり、憤りは微塵も抱いていないと彼の安堵の表情が物語った。
海賊船団が合流すれば、きっとリュウセイたちが港まで護衛をしてくれるだろう。そうすれば、万が一に再び魔物が襲来しても事無しを得られる。リュウセイたち海賊はヒロが面倒を見る舎弟ともいえる存在であり、統率力の高さはヒロが認めるものだった。
ヒロは近づいてくる船団から視線を外し、踵を返して甲板を見渡した。
警戒と緊張感の抜けた紺碧色の瞳が映すのは、怪我を負った仲間たちに治療を施す船夫や水兵の姿。思いも掛けずに魔物の強襲を受けたが、軽症者だけで死者はいない。船自体も損傷は無く、筈緒の一本も切られていなかった。
スキュラが総領となった海の魔物たちは、ルシアの操る“大地属性”の魔法で陸地に打ち上げた挙句、砲撃で一網打尽にしてしまったものの。魔物の群れは、船の進路を妨害するような動きを見せただけ。
もしかすると、掃討する必要は無かったのではないか。船体に被害が出ては堪らないという思いから率先して指揮を取ってしまったが、全てを終えた後にヒロの中で引っかかりが湧き上がっていた。
上空を飛び回っていたペリュトンに関しても――、当初は様子を窺うような動きを見せるだけだった。ルシアが魔法を使ったことで、初めて反応を示して襲い掛かってきた印象を受けた。
(――魔物たちの動きは不自然でおかしかった。陸も海も何か予期せぬ事態が起こっているのか……?)
逡巡と思慮していき、事態に対しての違和感を覚える。なんとも言えない気持ちのすっきりとしない感覚に、ヒロは端正な顔を顰めてしまう。
「ヒロ。ちょっと良いかしら?」
物思いに耽っていたヒロの耳に呼び掛けの声が届く。はたと考えごとによって下がっていた首を上げれば、ヒロの元に歩み寄って来るビアンカの姿が映る。
「ビアンカ、お疲れ様。まさかモルテを引っ張り出すなんて思わなかったよ」
ヒロは労いを口にして微笑む。それはどこか、笑顔を取り繕っている風をビアンカに察し付かせた。
ヒロが“呪いの烙印”を宿すのを、人々の目から隠したがっていることはビアンカも分かっている。
早く魔物の討伐を済ませるためとはいえ、ヒロに要らぬ深慮をさせてしまったと今更ながらに気付き、ビアンカも釣られるように苦笑いともいえる笑みを見せて頷く。
「ごめんなさい。あの魔物たちを何とかするには、ああするのが一番早いと思ったから」
「ううん、ちょっと驚いちゃっただけだから。早く事が片付いて助かったし、謝らないで」
ビアンカが謝罪を口にすると、ヒロは首ゆるりと振るう。そして今度こそ作ったものは違うヒロらしい人当たりの良い笑みを見せ、ビアンカを安心させた。
「ところで、どうかした?」
「ええ、ちょっと気になったことがあって」
「ん? なあに?」
「さっきね。ルシアさんと少しお話をしていたんだけれど……」
口切り出されたビアンカの言葉に、ヒロは何だと言いたげに首を傾げる。紺碧色の瞳に続きの促しを乗せると、どのように話を整理して伝えるか一顧してからビアンカは口を開く。
「もしかしたら。陸や海での魔物の行動に、シャドウが関わっているのかもって思ったのよ」
「え?」
「魔物たちの動き。何だか不自然じゃなかった?」
ビアンカの口からシャドウの名が出てきたことで、ヒロは一瞬だけ意外そうに瞳をまじろいだ。だが、その後に続けられた言に、ビアンカの話の本筋を悟る。
矢張りビアンカも違和感を覚えたかと内心で思いつつ。そこで何故シャドウのことに繋がるのか、すぐには上手く繋がらずに首を傾げてしまった。
「ちょうど僕も魔物の不自然さは考えていたところだったんだけれど。……シャドウが関わっているかも知れないって、どういうこと?」
「うん。あのね……」
つい先ほど、ルシアが感じたという創られた存在特有の魔力の話を。論じの中で思い至ったのが、“邪眼”を使って魔物を操る術を有するシャドウだったということをビアンカは啓していく。
海の魔物はシャドウの差し金だったのではないか――。行き着いた憶測を綴っていくと、ヒロは傾聴の姿勢の中に納得の様相を見せ始めた。
「うーん、そうだね。そう言われれば、シャドウは“邪眼”の力で魔物を操るみたいだから、この現象も腑に落ちはするね。――何のためにっていう疑問は結局残るけど」
シャドウがオヴェリア群島連邦共和国に訪れてまで、そのような現象を引き起こすのは何故なのか。
もしかすると、ユキやアユーシの追行を受けながらも、シャドウが頑強な意思を持って成し遂げようとしているものがあるのか。それはなんなのか――。
「“喰神の烙印”が未だハルと一緒にいた頃――、記憶を失う前のシャドウは人間に対して不義を持っていなかった。でも、今のシャドウは人間に対して強い恨みを持っているようだって、モルテは言っていた」
ぽつりぽつりと続けられるビアンカの言葉。眉を微かに曇らせた面持ちで綴られていく口舌に、ヒロも思案をしながら耳を傾ける。
「ビアンカは、シャドウが人間を恨んでいるから、群島の人間に悪さをするために魔物をけしかけているっていうの?」
考え付いたことをヒロが問いとして投げる。その言葉にビアンカは、否を示して首を左右に振るう。
「前にヒロが初めてシャドウと逢った時のこと、話してくれたじゃない」
「ああ。ソレイ港近くの村での話だね」
「その時は村が魔物に襲われて、村の神父様がシャドウに殺められた。でも、それ以外の村の人たちには、死者はいなかったんでしょう?」
猶々とビアンカが推測として口述していく内容に、ヒロは気付きを顔色に宿した。
ヒロがシャドウと期せぬ邂逅を果たした事件。それは、小さな農村を魔物が襲撃するというものだった。
急ぎ駆け付けた際にヒロが目にしたものは、魔物が暴れ回って家屋を破壊している状景。だが、不思議なことに、村人に軽症者はいたものの死者は出なかった。
「……そうか。さっきの状況と似ているんだ」
言われて初めて気が付いた。農村がシャドウ率いる魔物に襲撃された過去の現象と、航行船が海の魔物に襲撃された先ほどの現象は酷似しているのだ。
唯一の違いは、農村の件では死者がたった一人だけ出ていること。だがそれも、シャドウが直接手を下して村の神父を殺めたため、魔物に襲われて命を落としたわけでは無い。
「シャドウは目的を果たすために邪魔をしてきそうなヒトの目を、魔物を使うことで欺いているんじゃないかしら。――勿論、これも私の予想だけれどね」
「なるほどね。ただ――、その予想だと。群島にも、シャドウが命を狙っている人間がいる可能性があるってことだよね」
「あくまでも予想の中の可能性だけれどね。せめて、どんなヒトたちを狙っているのか。それがハッキリすれば……」
そこまで言うと、ビアンカは微かに喉の奥を鳴らして唸る。そして、ふと思いついたことを出すために口を開いた。
「シャドウが手に掛けたのは、私たちが知る限りだとアユーシさんの故郷――、クトゥル教国の神官長様。あとはソレイ港近くの農村の神父様。どちらも信仰職の人よね……?」
「そうだけど。たった二つの事例だけで、決定付けるのは浅略過ぎかなあ」
ビアンカが言した通り、ビアンカとヒロが知るシャドウが絡む事件の被害者二人は信仰職の者たちだった。
しかしながら、たった二件の事件から、次に狙われるべき相手が同じ神職の者ではないかと考え浮かべるのは浅はかだ。それをヒロに指摘され、ビアンカは再び思慮しだしてしまう。
「ルシアさんはシャドウが手に掛けたヒトのこと、知らないのかしら?」
シャドウの一件は“世界と物語を紡ぐ者”が自ら関わっている事件なため、その下で動く“調停者”であるルシアたちは独断での行動はできない上に、詳しい話は耳に入って来ないと言っていた。
だけれども、どのような者たちがシャドウの手に掛かってきたのか。その程度ならば、予測の範囲も含め、何か了知しているのではないだろうか。
その考えからビアンカが口に出せば、ヒロは借問することへの同意を示して幾度か首を縦に軽く振った。
「そういえば、ルシアたちは何をしているの?」
「ルシアさんだったら。魔物の討伐が終わった早々に、モルテに声を掛けていたわよ?」
ルシアとカルラ。そして、モルテはどうしたのか。思い出したようにヒロが言う。それにビアンカが答えたと同時に、ヒロは苦笑いを浮かした。
「あ、ああ、なるほどね。モルテが姿を現した途端に、ルシアってば。凄い目を輝かせて、顔を真っ赤にしていたよね……」
「ふふ、そうね。あんな反応をするなんて思っていなかったから、ビックリしちゃったわ」
今までに目にしたことが無いようなルシアの反応だったと思う。赤色の瞳を輝かせ、頬を朱に染めてモルテを見やるルシアの姿は――、恋する少女そのものだった。
ルシアもあのような、見目相応な少女じみた態度を見せることがあるのだと。四百年以上もの付き合いがあったヒロも、流石に驚きを隠せなかった。
さようなことを内心で吐露しながら、紺碧色の瞳をルシアたちのいる方へと移す。すると、ルシアとモルテの姿を映した瞳が、次には呆気に取られたように瞬いていた。
「えーっと、ビアンカ。あれ、あのままで良いの……?」
「え? どうかしたの?」
失笑をしつつヒロが言うので、ビアンカも釣られて翡翠色の瞳を動かしてルシアとモルテを眼界に映す。その次には、ビアンカもヒロと同様に、失笑ともつかない面持ちを浮かせてしまうのだった。




