第百節 貪婪な魂喰い
紺碧色の瞳の前で起こった一連の事象に、呆気に取られた思いが顔に出てしまう。
ビアンカが“喰神の烙印”を行使することはした。
しかしながら――、ヒロの推当てであった魂を喰らうという呪いの性質を利用して、手の届かない上空にいるペリュトンを掃滅させるという方法では無かった。
まさかビアンカが“喰神の烙印”が実体を持った存在――、モルテを“呪いの烙印”から引きずり出すなど、ヒロは思ってもみなかった。
しかも、モルテが姿を現すとなると、実態を保つために“喰神の烙印”が更に魂を必要とするのではないだろうか。
だが、モルテ自身がルシアと交渉らしきものをしていたようだ。魂から得られる魔力の代替え分を、ルシアの有する魔力で補う算段なのかと見通していく。
ビアンカなりに思案した結果なのだろうが、その考え方は強かだ。
何とも言えない複雑な思いに苛まれ、ヒロの口端から溜息が漏れ出していた。
離れた位置で頭を抱えそうになっているヒロの心情など知る由もなく、ビアンカから命を受けたモルテは上空を飛び交うペリュトンを銀色の双眸で見定める。
魔物たちの姿を追い、数を確認するために銀色が左右に動く。モルテは魂を捉える力を、どの程度の範囲で発動させれば良いかを一考していった。
「――魂を全て喰らって良いのだな?」
静かな声音でモルテはビアンカに問う。それにビアンカは首肯する。
「船に乗っているヒト以外は構わないわ。海の魔物も空の魔物も操られているみたいで可哀そうだけれど、仕方ないしね」
魔物の命を奪うことに対して、悪びれた様子もないビアンカの返弁。詮方無さを口振る割には罪悪感を微塵も抱いていない声音に、モルテは愉快げに一笑を漏らす。
「……以前にも口にしたが。本当に女の方が強かで恐ろしいな」
モルテがぽつりと呟くと、ビアンカは翡翠色の瞳をまじろいだ。そして、不思議げに小首を傾げたかと思えば、口を開く。
「そうかしら? モルテが“悪食”で何でも食べるから良いと思ったんだけど?」
本心からの言葉を耳にして、モルテは癪だと言いたげに鼻を鳴らした。しかし、強い否定の二の句が出て来ないところを見ると、半ば認めているのではないかとビアンカは思う。
「私は貪婪なわけではない。本来であれば――、娘よ。お前に近しい者の魂が私にとって一番の好物なのは、分かっているだろう?」
「『近しい者に不幸を呼び込み、死に至らしめる』、でしょう。私の大切な人たちの魂を喰らうことは許さないわよ」
“喰神の烙印”が有する本来の性質。それを失念することは、ビアンカには無い。徐々に力を増していく“喰神の烙印”は、今は大人しく従っている素振りを見せているが――。
怜悧狡猾さを持つ“呪いの烙印”が、いつ奸邪な行動に出るか分からないとビアンカは常に気を張り詰めていた。
現状でビアンカにとって、最も近しい存在になっているのはヒロだ。“喰神の烙印”が魂喰いの対象として最も欲しているのが、ヒロの魂だろうとビアンカは予測している。
だがしかし――、ヒロは“海神の烙印”という呪いの宿主だ。“呪い持ち”に他者の宿す呪いの力は通用しないと聞いてはいたが、“喰神の烙印”が呼び込む不幸な事柄で間接的に命を落とす可能性があることも危惧した。
魔物が襲い掛かって来る謎の現象も、“喰神の烙印”が呼び込む不幸が一役買っているのではないかと、ビアンカは推考していく。
モルテは人のことを強かだという。だけれども、邪知深さで言えば、どちらが強かなのだろうか。
そんなことを内心で嫌味ともつかず思いなし――。また、自らのせいでヒロを含めたオヴェリア群島連邦共和国の人々に、多大な迷惑を掛けてしまっている事実を感受した。
例え傍にいてくれる者たちに呪いの力が通用しないと雖も、“喰神の烙印”の及ぼす不幸な事柄は確実にビアンカの周りに影響している。そう感じずにはいられず、ビアンカは歎きともつかない息を吐き漏らした。
「……早くペリュトンを始末しちゃいましょうか。あなた自身が力を使うことを許可してあげる」
気を改めたように翡翠色の瞳に覇気を彩ってビアンカが言えば、モルテは口の端を吊り上げて左手を中空に掲げ上げる構えを取った。領解を意味する仕草を認めたビアンカも、同様に左手を微かに持ち上げる。すると、立ちどころに辺りの空気が一変し、重苦しい印象を与えるものに変わった。
「ルシアッ!」
ヒロが周囲に漂う空気の変化を察知した途端に、大声を上げる。声掛けにルシアが反応してヒロに視線を向けると、彼が手振りで指示をする様が映った。
そんなヒロの意図を察したルシアは頷いて返事とすると、次に赤色の瞳をカルラへ移して手招きをして呼び寄せる。
「カルラ、こちらにいらっしゃい。“調停者”の目の届く場所で“呪い持ち”が力を使う際にやるべきことを見ていてくださいね」
ルシアの元に赴いたカルラは何をするのかと言いたげに首を傾げた。そんなカルラの無言な問いに、ルシアは杖を構えて答えを紡ぎ出す。
「時間が無いので詳しい話は省きますが、簡単に言えば“誤魔化し”です。――結界を張って、その中にいるヒトの目を欺きます」
人間というものは、自分たちと違う素質を有するものをヒトとして扱わない。“異能力”を持つ者が排除の対象になるだけならば、まだ良い。最悪の場合は――、人間たちの引き起こす諍いの兵器として扱われて新たな争いを生む材料とされる。そのことは“群島諸国大戦”での出来事が、顕著に言い表していた。
そうした事柄を憂いた一部の“調停者”――。ルシアたちが目の届く範囲で“呪い持ち”が“呪いの烙印”を操ろうとする際に行っているのが、周囲に魔力を察しにくくするための結界を張り巡らせ、普通の人間の目から呪いの力を隠す行為。それが、ルシアの言するところの『誤魔化し』だった。
「<――死に至る呪いよ。我が身に宿りし“喰神の烙印”よ>」
「<我は“強食”の名を冠せし者――>」
ルシアが結界を張るために意識を集中させたと同時に、ビアンカとモルテの口から死を司る呪いの言葉が紡ぎ出される。二人の周りに通常の魔法のものとは違う魔力が溢れて燐光を彩り、赤黒さを持った光が闇を生み出して渦を巻く。
不穏な兆候が増していき、航行船の乗組員が僅かに落ち着かなさを擁する。
心騒ぎを受けたのだろうペリュトンたちも一斉に警鐘ともいえる鳴き声を発し、逃げるように翼を羽ばたかせて慌てたように進路を変えていった。
「<今ここに、我が前の障礙を喰らいつくす力を示すことを赦そう――>」
「<与えられし真名よ。魂を幽囚する軛となり、我が腹を満たせ――>」
徐々に溢れた闇が数多の手の形を成していく中で、ビアンカが力を行使することを聴許する言の葉を、モルテが呪詛を締めくくる。その途端に黒い手の動きが勢いを増し――、上空に触手を伸ばすかの如く不規則な動きを見せてペリュトンたちを捕縛に掛かる。
四辺には嘆声を連想させる重鈍な音が響き、船に乗り合わせている人々の心の奥底に肌が粟立つ畏怖感を植え付けた。
悲鳴を上げて逃げ惑うペリュトンを、闇が形作った黒い手がわし掴みにして捕らえる。
囚われた魔物は生気を闇に吸い取られているのか、身悶え苦悶の声を立て――、次第に動かなくなっていく。息絶えたその姿は、ぼろぼろと灰が散るように砕けて海に舞った。
「これは……。久しぶりに見たけど、気味が悪いな……」
凄惨な情景を紺碧色の瞳で見やり、眉間を寄せたヒロが喉の奥を唸らせる。
左手の甲――、“海神の烙印”が微かな痛みで以て何かを囁いている様を窺わせ、まるで“喰神の烙印”に怯えているような感覚だと思った。
事態を静観しているだけで重い痛みを訴える自らが宿す呪いに、痛みを嫌うヒロは眉を顰めてしまう。
「“海神の烙印”を怖がらせるほどの――、か。本当にビアンカは凄いな。敵には回したくないって感じだね……」
四百年以上前の“群島諸国大戦”の折、似たような場を目にしたことがある。
ハルが “喰神の烙印”の力を使い、たった一人でオーシア帝国船の乗組員を全滅させたのだ。その際は初めて目にした他者の宿す“呪いの烙印”にもの恐ろしさを覚えたが――。
今回はその時以上の力を目の当たりにして、驚愕の思いを持つ。
想像していた以上にビアンカが“喰神の烙印”の偉力を引き出し、いとも簡単に操っている。さようにヒロへ印象付けた。
どう足掻いても自身がビアンカに敵うことは無さそうだ――。
闇の手の束が最後の一匹となったペリュトンを補足したのを黙して映しながら、“呪いの烙印”に関してだけはビアンカに太刀打ちできないことを痛感するのだった。




