遠距離の彼
午後11時になると、わたしの携帯が着信を告げる。
わたしはベッドの上に寝転がって、それを取る。
「よ、リン」
携帯から流れて来るカレシの声に、わたしは、
「こんばんは」
と平板な声を返す。我ながら可愛くないとは思うけど、ぶりっ子もできないので、仕方ない。嬉しいことはもちろん、もちろんというか、この時のために一日生活していると言っても言い過ぎじゃないくらいなんだけどね。
「今日はどんな日だった、リン? 何かあった」
彼の問いかけに、
「べっつにー、普通」
と返すわたし。ますますもって可愛くない。
彼は苦笑したようだ。
「普通って言ったって、何かあるだろ。何も無い一日を過ごしたとしたら、一日無駄にしたってことじゃね?」
「そういうそっちはどうなの? 何かあったの?」
「もちろん。ありまくりだよ」
「へえ、どんなん?」
「まず今朝は朝6時に起きただろ。それから、二度寝して6時半に起きた。そのあと、朝飯を食って、歯を磨いて、学校に行った。授業をきちんと受けて、部活をして、帰って来て、明日の宿題をしたってわけ」
「……エキサイティングだね」
「だろ? そうして、今リンと話してる。これが一番大事なことだな」
「怪しい」
「ん?」
「いきなりそういうこと言うときって、大抵浮気してるときだって、近所の喫茶店のオーナーが言ってた」
「ええっ、してねえよ、浮気なんて」
彼は焦ったような声を出した。
わたしと彼は去年、小学6年生の時に同じクラスになって、最初の印象こそ悪かったものの――教室の戸のところで、出て来た彼と入ろうとしたわたし、おでこをぶつけ合って、互いにそれが相手のよそ見のせいだと言って罵り合えば、いい印象になどなるはずない――それから徐々に仲良くなって、卒業するころには一番の友だちになっていた。その親友から、
「友だちとしてじゃなくて女の子として好きだ!」
なんてことを言われて、実はわたしもそういう気持ちがあったから浮かれまくったのも束の間、彼は卒業後に引っ越すことが決まっていて、つまりは告白は、お別れのあいさつにプラスアルファってな感じだったんだろうけど、わたしがOKすると、彼はなぜだか顔を青白くして、
「遠距離でもいい? オレ、絶対、リンカを寂しがらせるようなことしないからっ!」
と鼻をぶつけそうな勢いで迫って来て、それもまたOKしたわたしと彼はもうどのくらいになるだろうか、かれこれ、その遠距離恋愛を始めて3カ月になろうとしている。
遠距離恋愛っていうのは、響きこそロマンチックだけど、実態は全然そんなんじゃない。存在を感じられるのが、携帯電話の声とメールだけ、フェイストゥフェイスで向かい合えないのは辛すぎる。彼は電車で2時間くらいするところに住んでいて、休日にちょこちょことこっちに遊びに来てくれてるけど、毎週ってわけでもなく、部活やなんやで来れないときもあって、そうすると次の休日まで全く会えないわけで、正直に言えば、その週は会えない寂しさで死にたくなる。
でも、寂しいなんてこれまで言ったことはない。言ったってどうしようもないこと、言うだけ不毛だし、そんな弱い子だなんて思われたくもない。リンカちゃんは、クールで売ってる。切ない片想いを続ける友だちを抱きしめてあげる立場。逆はあっても逆はない。
「わたしよりも好きな人できたら、いつでもそっちに行っていいからね」
わたしは、彼にそう言った。いつものように。
「そんなことあるわけないだろ」
彼もいつものように答える。
多分、
「好きだよ」
とか、
「早く会いたいよ」
とか、そんなことを言ってあげられるのがいいカノジョなんだろう。でも、どうしてもそんなことが言えないのだ。性分なのである。いつかこの性分に嫌気が差して彼が別れを告げるかもしれない、とそんなことを考えると、わたしは背の中に氷を入れられたみたいにひやっとする。
「……で、今週はどうなの? 来られるの?」
わたしは、どうでもいいような感じで訊いた。
「ごめん、今週は部活なんだ」
告げられたその声に、わたしの頭の中で、ドラマのヒロインが不治の病を宣告されたときのように、「ガーン」という音が鳴り響くのが聞こえた。
「ふうん。別にいいけど」
全然良くないけど、そんな風に言うしかない。
「ちょっとは寂しいと思えよ」
彼がからかうように言う。
思ってるよ! めちゃめちゃさみしいよ!
よっぽど言ってやりたい言葉をわたしは飲み込んで、
「部活がんばんな」
と言ってやった。
おう、と元気な声を出して、彼は電話を切った。
そんな声を聞いていると、こっちが寂しがっているほどはあっちは寂しくないのだろうか、ていうか、いちいち週末ごとに来ることなんか面倒くさいんじゃないかと思って、わたしはその想像に、はあ、とため息をついて、ベッドにもぐりこんだ。
かくも遠距離恋愛はメランコリックなのである。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
お昼休みの学校の中庭は、おしゃべりスポットだ。
みんなランチの腹ごなしに、お腹に溜めた想いを吐き出しに来る。
飛び交う話し声の中、燦々と夏の日が降り注ぐ下、
「アキ、そろそろ回復した?」
わたしは目の前にいる友だちに声をかけた。
同い年の女の子である。
回復と言っても病気というわけではない。
実は彼女は、つい最近、3年越しの片想いにピリオドをつけたのである。
その精神的ショックから立ち直ったかどうか、確かめてみたところ、
「そろそろって……まだ3日しか経ってないんですけど」
アキは、渋い顔で言った。
「3日もあれば十分でしょ。なに? まだ引きずってんの?」
わたしが言うと、
「引きずりまくりだよぉ」
アキは、肩を落とすようにした。
「引きずらない、引きずらない。新しい恋を見つけなよ」
落ちた肩をぽんぽん叩きながらなぐさめてやると、
「リンカ」
真面目な顔で見てくるアキ。
「ん?」
「恋は見つけるものじゃないよ、落ちるものなんだよ」
なにやら語り出した彼女の頭に、わたしは空手チョップをお見舞いした。
「痛いなあ、なにすんの!?」
「なんとなくムカついて」
アキは頭を押さえると、「ひどいよ、ひどいよ」と泣きそうな顔で言った。普段なら普通のスキンシップなのに、反応が重い。まだまだ回復からは遠いようである。
「誰かクラスの男子、紹介する?」
「え?」
「その子と一緒に転がり落ちていけばいいじゃん、恋にでもなんでも」
「なんでもってなんだよ。恋以外に落ちたくないよ」
泣きそうな顔から怒るような顔になる忙しい彼女に、わたしは言った。
「とにかくスマイルだよ、アキ。女の子の笑顔は男の子を幸せにするっていううわさでしょ。笑顔でいれば、不幸な男子が寄って来るかもしれないからさ」
「……嫌だな、それ。まあ、でも確かに暗い顔してかまってちゃんをやっててもダメだよね。よし!」
アキはにこぉっと、笑顔になった。
「うん、若干キモいけど、大丈夫!」
わたしが太鼓判を押してあげると、なぜかアキの笑顔は崩れた。
そのとき。
男子が一人歩いて来て、わたしたちの前まで来ると、わたしの方をちらりと見てから、
「佐久間、ちょっといいかな」
アキに向かって言った。
アキは不思議そうにその男子を見た。わたしも見た。
アキのクラスメートで、わたしも何回か話したことがある男子だ。
どこか落ち着かない様子である。
わたしはピンと来た。そうしてアキに向かって、親指をぐっと立てた。
アキは分からない顔だ。
「えっと、なあに? 田原くん」
やれやれ、とわたしは心の中でためいきをついた。
こんなに鈍感な子見たことない。恋を取り逃がすわけだ。
ちょっと訊きたいことがあるんだけど、と続ける田原くんに、まだ分からない顔ながらも、アキはうなずいた。わたしは気を利かせて、自分からその場を立ち去って、教室へと戻った。
休み時間はまだあまりがあって、手持ちぶさたになったわたしは、むやみに自分のカレシのことを考えた。考えると、ため息が漏れる。今頃、彼は何をしているんだろう。あっちも今昼休みで、もしかクラスメートの可愛い女の子と楽しそうに話をしているんじゃないかなんて考えてたら、胃がムカムカしてきた。
なんで今週来れないんだよ! 休めよ、部活!
「リンカ、なんか怒ってるの?」
おそるおそる声をかけてきたのは、アキだった。
なんだか複雑な顔をしている。
「別に。何か用?」
「田原くんのこと、どう思う?」
アキはいきなり言った。
わたしは気を取り直した。自分のことはひとまずおいて、親友の新たな恋路を応援してやらなければならない。
「いいんじゃない」
「そう思う?」
「うん、かっこいいしさ。サッカー部だし。この前しゃべったらしゃべりやすかったよ。あとさ、優しいし。校内清掃のとき、全然関係ないのに、わたしたちの班のゴミも持って行ってくれたんだよ。誰にでもできることじゃないね」
「リンカが好きなんだって」
「付き合ったらいいんじゃない」
「わたしじゃないの、リンカが好きなの」
「……ん?」
わたしは、自分の顔に向かって、指を向けた。
アキはうなずいた。
「リンカにカレシいるのか訊かれたんだよ」
「……マジ?」
「こんなことでウソつくわけないでしょ」
「なんて答えたの?」
「遠恋中のカレシがいるって答えといたけど、よかった?」
いいも悪いも無い。それが事実なんだから。
「わたしって、ひょっとしてモテる?」
「知らないよ。そんでさ、放課後話したいから、ちょっと時間くれないかってさ」
「つまりそれって……」
「告白でしょ」
わたしはちょっと考えた。「……どう思う?」
「どうって……カレシがいるんだから、断るしかないでしょ。え? 迷ってるの、リンカ?」
「田原くんって優しそうだよね」
「ゴミ持ってくれるしね」
「え、なんでそれ知ってるの?」
「……なんで失恋したばっかで、他人の恋の取り次ぎなんか……」
「そのうちいいことあるよ」
「適当ななぐさめやめてよ。それで?」
わたしは会うことに決めた。もちろん、断るためだ。
アキにそう言うと、「分かった、じゃあ伝えておくから。あとは二人でやってよ」と続け、ため息を一つ落とすと、教室を出ていった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
わたしが放課後、教室を出ると、田原くんはすでに廊下で待ってた。
彼は、校舎裏というステキスポットにわたしを連れていくと、
「ずっと好きだったんだ。カレシいるって聞いたけど、でもそれだけは伝えたくて」
とまっすぐにわたしの目を見て言ってくれた。
自分に好意を持ってくれていると思うと、その人がかっこよく見えるから不思議だ。いや、元からルックスは悪くないんだけど。
わたしは、想いを受け入れることはできないけどありがとう、と答えた。
田原くんはハッとした顔をして、ふうと息をついた後、照れ笑いをして、
「相良が好きだってことは、すごくいい人なんだろうな」
嬉しいことを言ってくれた。
わたしは、全然だよ、と手を振って、ひとしきり大吾――カレシの名前――のことを悪く言ったあと、田原くんが、
「これからもおれと友だちでいてくれる?」
と差し出してきた手を、喜んで、と握った。
その手を離してから、
「そうだ、田原くん。アキのこと、どう思う?」
訊いてみると、
「え? 佐久間がどうかしたの?」
分からない声が返ってきた。
「アキって結構可愛いでしょ」
「まあ、可愛いと思うよ」
「今、恋人募集中みたいだよ」
わたしが言うと、田原くんは、突然真面目な顔になった。
「相良」
「はい?」
「おれが好きなのは佐久間じゃなくて、相良だから。おれ別に誰でもいいからカノジョが欲しいって思ってたわけじゃなくてさ、相良をカノジョにしたかったんだよ」
その声の熱さに、はい、認めます、ちょっと胸がきゅんとしました。
「ありがとう」
「どういたしまして」
人に好かれるってなんて素晴らしいことなんだろう。
その素晴らしいことを、その日の夜、電話でカレシに言った。
もちろん、素晴らしさを伝えたいとか思ったわけじゃなくて、これはカレシに伝えなければいけないことだろうと、そうしなければ秘密を持つことになるわけだし、という気持ちと、あとちょっと、ううん、かなりかな、嫉妬させてやりたいと思ったからだ。
「断ったよ。当たり前だけど」
わたしがそう言って告白劇を結ぶと、ちょっと間があって、おおっ、これはもしかしたら嫉妬しているのかもしれないぞ、と期待していたところ、
「リンカもてるんだなあ」
なんていう、なんか感心したような声が返ってきた。
「……まあね」
全然、心配してくれないの? カノジョが他の男子から告白されちゃってるんだよ!
なんてことをちょっとも口に出さずに、代わりに、
「モテるカノジョを持って幸せでしょ」
そんなことを言ってしまったわたしは、気分がムカムカしてきて、でも自分から言い出した告白話で怒るなんていうのはしゃくだから、とにかく、クールに、
「じゃ、わたし今日は早めに寝るからね」
と携帯を切ろうとした。
「うん、じゃあな」
その明るい声に、ますます腹が立ったわたしは、「バカ!」と大きな声を出した。携帯を切ったあとに。
なんだよ、わたしのこと大事じゃないのかよ! 所詮、カノジョより部活を取るような男子なんだ! 寂しい思いをさせないって言ったのに!
わたしは、もぐったベッドの中で、大吾を散々にけなした。
けなしているうちに、眠ってしまったようである。消し忘れた電気の明るさで起きてみると、まだ朝の4時だった。もうひと眠りすると、7時。寝過ごしたああ、と思ったわたしは、それもこれも大吾のせいだ、と罪をカレシになすりつけて、準備をしてから階下に降りて、朝食をかっこんだ。
「会いに行けばいいんじゃない、こっちから」
学校に行って、お昼休みの社交場で、ちょっとだけ大吾のことを冗談交じりに愚痴ったところ、あっけらかんとしたことを言ったのは、友達のマモリだった。
「その怒りとか、悲しみとか、そういう色々な感情をぶつけるんだよ、カレシに!」
マモリは、やあっ、と拳を突き出すようにした。
「別にそんなに強い気持ちないし」
わたしはかっこつけて言ってみた。
マモリは夢見るように瞳を輝かせると、
「でもさ、その方がドラマチックじゃん」
言った。
人のことだと思って、と思ったけど、確かに人のことなので仕方ない。
待てよ、と考えたわたしは、それはなかなかいい案かもしれないと思った。
よくよく考えたら、こっちから会いに行って悪いということもない。住所は分かっている。
いきなりわたしが目の前に現れたら、どんな顔をするだろう。
これはなかなか楽しそう。
わたしは計画を練ることにした。
計画と言っても、いつ会いにいくか、というそのことだ。
部活があると言っている土曜日に会いに行こうと思った。電車で2時間かかるので平日はキツイし。部活が終わる時間をさりげなく聞いて、その時間に合わせて会いに行くことにした。
決行は2日後。
何をするにも先だつものが必要なので、わたしはお母さんにお小遣いをねだった。
「何に使うの?」
と訊かれて、カレシのところに会いに行く、なんてこと答えられるはずもなく、友達と遊びに行くということにしておいた。
「友達ってアキちゃん?」
「そう、失恋したみたいだから、それを慰めてあげたいんだよ」
許せ、アキ。
だしに使ったことを心の中で謝りながら、お金をうまいことゲットしたわたしは、2日後を待って、その日、電車に飛び乗った。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
11時の電車に乗って、どんぶらこっと揺れること2時間、わたしは目的の駅に到着した。
やることのない電車の中で好きなロックバンドの曲をMP3プレーヤーでずっと聞いてたら、耳が痛くなった。
駅の構内から出ると、わたしは、うーんと背伸びをした。駅はわたしの町と同じくらいの大きさで、駅前の風景もよく似ている。
ダイゴの部活は3時までらしいので、現在1時、会えるとしてもあと2時間もあるわけで、時間をつぶさなければいけない。1時の電車に乗ればぴったりだったわけだけれど、待ち切れない気持ちだった。
ダイゴの住所は分かっていて、昨日パソコンでアクセスは検索済み。もしもうまく着かなくても、最悪、ダイゴに電話すればいい。
わたしはハンバーガーを食べて時間をちょっぴり使うと、ダイゴの中学校に行ってみようかなあ、という気になった。彼がどんなところに通っているか興味があるし、学校で部活をやっているのなら、部活をしている姿を見られるかもしれない。部活終わりまで見学して待って、いざ終わったときに駆け寄ったわたしを、ダイゴは友だちになんて言って紹介するだろう。カノジョって言えるかどうか、それで、ダイゴの本当のところが分かる。わたしって、S? いや、悪女……じゃない、小悪魔だな、うん。
わたしは、バスターミナルで、目的の中学校まで行くにはどのバスに乗ればいいかを、訊いた。やたらと綺麗なお姉さんがカウンター越しに愛想よく教えてくれたので、わたしはいい気分になった。幸先よし。
バスに乗って揺られている間、自分で自分のことを、よくやるもんだ、と感心した。わざわざ2時間かけてカレシに会いに来て、会いに来てどうするんだろう、ノリで来てしまったわけだけれど、会ってどうしたいということもなかった。ダイゴの気持ちを確かめたいのかなあ、と考えてみたけれど、それはそれで確かだったけど、それだから来たというわけでもないらしい。
なにしたいんだろ、わたし。
まあ、いっか。
気分を変えたわたしは、バスの背もたれに背を押しつけるようした。
バスは進み、30分ほどすると、中学校前に到着した。
中学校前といっても、校門近くとかでは全然無く、ゲートに至るにはどうやら坂を登らなければいけないらしい。どうして中学校っていうのはどいつもこいつも坂の上にあるんだろう、と全国の中学校を見て回ったわけでもないのに、わたしはそんなことを考えてげんなりした。
がんばって、校門にとーちゃーく。
そのとき、本当にちょうどそのとき、まるでお母さんがよく見ている韓国ドラマの中みたいなタイミングで、見覚えのあるカレシの顔が現れたので、わたしはさすがにびっくりした。びっくりして、そうしてすぐに冷めた。ていうのも、ダイゴの隣に女の子の姿があったからだった。しかも、ぱっと見、結構可愛い。そのとき思わずしてしまった想像にわたしはゾッとした。
「リンカ!」
ダイゴが近づいて来る。「どうしてこんなところに?」
「別に。ヒマだったから」
「オレに会いに来てくれたのか?」
聞かなくてもいいことを聞く彼に、わたしは、「さあね」とそれしか目的なんてあるわけないのに、あいまいなことを言った。
感動したような顔をしているダイゴの後ろから、
「あの、皆川くん」
声がかかる。
近づいて来た彼女は、近くで見ても可愛かった。ふわふわした栗毛とパッチリした目の持ち主で、女の子らしい女の子って感じ。やな感じ。
ダイゴは、その子に、
「いつも話してるだろ、オレのカノジョ」
そう言って、わたしのことを紹介した。
もしも、それが別の状況で言われた言葉だったら、わたしは嬉しかっただろう。でも、今はもう全くそんな気分じゃなかった。
女の子も名乗ったけど、わたしは聞いていなかった。
「皆川くんのカノジョさん。いつも話は聞いてます」
そう言って何がおかしいのか微笑んだ彼女に悪意は全く無いのかもしれないけど、わたしはむかむかして、
「一瞬前まではカノジョだったけど、今はもうどうだか分からないよ」
吐き捨てるように言うと、すっと二人に背中を見せて、坂を降りた。本当は駆けおりたかったんだけれど、まるで逃げるようで嫌だから、やめた。ダイゴには追いかけて来て欲しくないって、これは本心からそう思ってたけど、追いかけて来たようだ。足音がして振り返ると、彼が焦ったような顔をしている。
「なんか勘違いしてないか?」
「なんにも」
「じゃあ、どうして帰るんだよ」
「帰りの電車の時間が迫ってるから」
「折角来てくれたのに、なにも話してない」
「さっきの子と話せばいいじゃん。ほら、こっち見てるよ」
「やっぱり誤解してるな」
「してないってば」
「浮気してると思ってる、そうだろ?」
ダイゴは不機嫌な声を出した。
わたしはできる限り冷静に、「してるの?」と訊くと、
「してるわけないだろ! オレが好きなのはリンカだけだ!」
答えたところに、
「じゃあ、どうして今日来てくれなかったの? 言ってることとしてることが違うでしょ」
言ってやると、言葉を失ったようだった。
わたしは、立ち尽くすダイゴを置いて、坂を降りた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
さっき降りたバス停の反対側にもう一つバス停があって、これもまたちょうどよくバスが来ていたので、行き先を確かめもせず、それに飛び乗った。とにかく一刻も早くダイゴのそばから離れたかった。運のよかったことに、それは駅まで行くバスだったので、やがて着いた駅で少し待ってから、電車に乗った。
電車の中で眠ってしまったせいで、もう少しで駅を乗り過ごしそうになった。
元の駅に帰ってきたら、すっかりと日は暮れていた。
わたしは、あーあ、とため息をついた。
お金と時間を使って、他人様の前で修羅場を演じに行ったのだと思えば、うんざりだ。
家に帰ると、
「どうだったの、アキちゃんの様子は?」
母が訊いてきた。
わたしは、アキの失恋を癒すという名目で今日出かけたんだということを思い出して、
「もうすっかり元気みたい」
適当なことを答えた。
部屋の中のベッドに突っ伏して、ダイゴとは終わりにしよう、とわたしは思った。
ダイゴが悪いんじゃない。
そうじゃなくて、わたしの責任だった。
わたしは、あのとき、ダイゴの浮気を、一瞬だけど疑った。すぐに冷静な頭に戻って、一緒に帰っているからといって浮気なんて話にはならないと思ったけど。(だって、わたしだって、ちょっと仲いい男子と帰り道で一緒になって話すことくらいあって、それを浮気なんて言われたら窮屈で大変なことになる。)
でも、わたしは疑った。
それが全てだった。
遠恋で遠く離れているとき、相手のことを信じなくちゃ続くわけがないのに、信じることができなかった。
だから、終わりにしなければいけないんだ。
電車の中でも寝たのにベッドでもまた寝てしまって、携帯の着信で目を覚ました。
ダイゴからだ。
わたしは電話に出た。
「今、家か?」
ダイゴが言う。
「そうだよ。あのさ、ダイゴ――」
「入れてくれない?」
「は?」
「今、リンカの家の外にいるんだけど」
伝えようとした決心を頭から吹き飛ばすような答え。
「そ、外?」
「そう。玄関のドアの前」
わたしは大急ぎで部屋を出ると、下に降りて、
「リンカ、ちょうどよかった、今日の晩ご飯――」
「ちょっと待ってて!」
母をかわして、玄関のドアを開けると、そこに確かにダイゴの姿があった。
「ど、どうしたの?」
いきなり家まで来たことにもびっくりだけど、さらにダイゴは、制服を着て、手に手土産的な袋を持っていたので、もう訳が分からない。
「どちら様なの、リンカ?」
後ろから言って来たお母さんに、わたしが答えようとする前に、
「はじめまして、皆川大吾と言います。リンカさんと付き合わせてもらっています!」
ダイゴが家中に響くような大声を出した。
わたしはぽかんとした。
何を言い出すんだろう、この人は。
お母さんも何も言えないようだった。
そのとき、どうしたどうした、と騒ぎに気付いたお父さんがやってきた。
ダイゴは、同じことをお父さんに言って、
「よろしくお願いします」
と頭を下げた。
わたしは、悪い夢でも見ているんじゃないかと思った。
「好きなんです! リンカさんのこと!」
ダイゴがさらに続ける。
わたしは頭がくらくらしていたけど、お父さんが、
「玄関先というのもなんだから、上がりなさい」
と言ってダイゴを招こうとしたときに、
「ちょ、ちょっと待って」
勝手なペースを断ち切って、ダイゴの手を引くと、そのまま外に出た。
「なに考えてんのよ」
「なにって、親公認になろうと思って」
ダイゴの目がやけに真面目だ。「もっと早くこうすれば良かったよ」
「ダイゴ、わたし――」
「タイム。そのあとは聞きたくない」
「え?」
「別れるとか何とか言うつもりなんだろ」
「……分かるの?」
「当たり前だよ。オレのことバカだと思ってないか?」
わたしは思っていたことを彼に正直に話した。
ダイゴは、わたしの話が終わったあと、
「疑えよ」
一言、言った。
「え?」
「疑うたび、ちゃんと信じさせてやるから。オレにとってリンカ以外の女子なんてどうでもいいってことをさ」
その言葉の激しさ。
わたしの胸にあったいろいろな想いを全て吹き飛ばしてくれるような強さを持っていた。
「あの子、けっこう可愛かったけど」
「それは認める。人気もある」
「それでもわたしの方がいいの?」
「方とかそんなんじゃないんだ。リンカしか好きじゃない」
ダイゴの声はどこまでもまっすぐで、それはわたしの胸を確かに貫いた。
「……ここまでなにで来たの、電車?」
「親に頼んで車で送ってもらった」
「ウソでしょ!?」
「ホント」
近くに停車しているらしい。
わたしは、お父さんのところまで案内してくれるように言った。
「いや、まずはオレからだろ」とダイゴ。
「わたしからよ。つべこべ言わないで」
「分かったよ」
しぶしぶうなずいたダイゴを、
「ダイゴ」
振り向かせると、口を開いて、でも、言おうとした言葉を飲み込んだ。
このタイミングじゃないだろう、と思ったので。
「やっぱりなんでもない、行こう」
そう言って、ダイゴを急かした。
(おしまい)