引きずり出された、引きこもりニート
城市ティオから18キロほど離れたところにある、城市ファルティア。
そのファルティアの近くに、ローマ軍一個軍団が駐留している。
彼らは、まだ、ティオを包囲していたローマ軍が壊滅したことを知らない。
ポプラの木が風にそよぐ。
その木陰に座っていたクィントゥス・キケロは、
書字版から目を上げ、遠くを見やる。
草原の向こうに、そびえ立つファルティア城市とキュリンドルスが見える。
どちらも異形の建造物で、なかなかに見応えがある。
観光で来ているなら、さぞかし楽しかっただろう。
しかし、悲しいかな、これは仕事だ。
俺の仕事は、あのファルティア城市を攻め落とすことだ。
もう49歳だぜ、俺。
ただでさえ身体のあちこちにガタが来はじめているというのに、
無理やり戦場に引きずり出され、
きつい軍隊生活を強いられることになるとは。
この前の冬のガリアの大反乱は、ほんときっつかった。
不眠不休の超ハードワークに加え、
一つ判断を間違えれば全滅する緊張感が、延々と続くのだ。
毎朝、心臓がバクバクいって、全身汗びっしょりで、目がさめる。
あれで十年は寿命が縮んだ。
それで神経と内蔵をやられたのか、
体調の悪い日がますます増えた。
睡眠の質も悪く、疲労があまり回復しない。
どうして、こんなことになっちまったのかなぁ。
つらいなぁ。腹減ったなぁ。
…いや、空腹ではないのだが、
精神的な空腹が耐え難いのだ。
こんな、文明から隔絶された、ど田舎は、嫌過ぎる。
ガリアのような、なんんんっにも無いところで、残り少ない人生が無駄に消費されていくの、無念すぎる。
ああ、イセエビが食いたい。単なるイセエビじゃなく、ローマの饗宴で出されるような、繊細に料理されたイセエビだ。カタツムリもだ。魚もだ。ヤマネもだ。ワインもだ。
もっと本が読みたい。演奏会に行きたい。劇場に行きたい。大浴場に行きたい。剣闘を見に行きたい。戦車競走を見に行きたい。洗練されたローマ女性たちを見たい。
旧知の創作仲間たちと、芸術について語り合いたい。
俺のようなシティー中年に、ガリアは似合わない。
唯一の救いは、こんな地の果てでも、創作活動だけはできるってことだ。
そうだ、あのシーンのヒロインのセリフ、もう一度、練り直そう。
どうもこのセリフ、面白くないんだ。
なぜ、面白くないんだろう?
うーん…。
うーん…。
うーん…。
…ああそうか! わかったぞ!
クィントゥス・キケロがそれを書字版に書こうとしたとき、
「叔父さん!」
と、背中から声をかけられる。
びっくりして振り返ると、甥のセルウィウスが、いきなりまくし立てはじめる。
「いったい、いつまで我々はこうしていなきゃいけないんです?」
えーっと、ヒロインのセリフ、なんだっけ?
えーと、えーと、えーと、
…忘れちゃったじゃないかよ!
セルウィウスが、キケロの書字板を覗き込んで言う。
「またやってる。
あなた、総督代理の自覚、あるんですか?
仕事をサボってギリシャ悲劇を創作してる場合じゃないでしょう!」
ほんと、うざいな、こいつ。
姉ちゃんそっくりだ。
子は親に似るな。
「いいだろ、どうせカエサルから返事が来るまで、何もすることがないんだから」
「なんでいちいちカエサルに聞くんですか!
ヴァルルニ族のような弱小部族を討伐するのに、
いちいち細かいことまでカエサルの指示を仰ぐの、
おじさんぐらいですよ!
他の総督代理はみんな、このぐらい、自分の裁量で…」
「今回はこれでいいんだよ。
カエサルにも話はつけてある」
「どんなふうに?」
クィトゥス・キケロは、
「ここだけの話だぞ」と前置きをして、
カエサルとのやり取りの一部始終を、
セルウィウスに話し始める。
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クィントゥス・キケロは、カエサルの天幕の前で待たされていた。
天幕の中からは、カエサルの声が聞こえてくる。
誰かと会話しているのではなく、カエサルだけが一人で喋りつづけている。
口語ではなく、文語調だ。
奴隷に口述筆記させているのだろう。
聞こえてくる内容からして、
ローマにいる元老院議員に向けた書簡を作成しているようだ。
どの元老院議員かは分からない。
その元老院議員は、
「甥を、カエサル軍に就職させたい」
と言ってきているようだ。
カエサルは「そのためのポストを用意した」と返事をしている。
そして、その見返りに、
カエサルに不利な法律が成立するのを、阻止するように、
依頼している。
聞こえるような音量で喋っているのは、
聞こえても問題ない内容だからだろう。
いつもやっていることだ。
カエサルは暇さえあれば、こうやって、
ローマから来た大量の書簡を読み、
大量の書簡を作成してローマに送っていた。
そうやって、遠く離れた場所から、
リモートコントロールで、
ローマでの政治活動を続けている。
カエサル軍の上層部には、
こうやってコネで就職した高給取りが、大勢いる。
一般の軍団兵の何十倍もの年収を、彼らは受け取っている。
カエサルは、そうやって、ローマ本国の有力者を味方にし、
政治的影響力を増大させていっている。
コネ就職した人間は、
一族の名誉を汚すわけにはいかないし、
紹介者のメンツを潰すわけにもいかないので、
けっこうしっかり働く。
しかし、クィトゥス・キケロの場合は、
いささか事情が異なっていた。
カエサルは、ローマ最大の弁論家である、兄のマルクス・キケロを味方に引き入れるために、クィトゥス・キケロを総督代理にしたのだ。
一種の人質であり、政略結婚のようなものだ。
引きこもりニートとして、金にもならない創作活動をしていたクィントゥス・キケロにしてみれば、これほど迷惑な話もなかった。
カエサルの書簡作成がようやく一区切りつき、
天幕に入れてもらえたクィントゥス・キケロは、興奮気味にまくしたてる。
「ヴァルルニ族討伐などという大役を私にやらせるのはやめた方がいい。
この際だからはっきり言ってしまうが、そもそも私は、ガリア征服などに興味はない。
兄に頼み込まれて、仕方なくあなたの総督代理をやってるだけだ。
戦場で手柄を立てたいとも思ってない。
あなたに言われたことを、言われたとおりにやってるだけだ」
カエサルは優雅に椅子にもたれかかり、
鼻歌でも歌うような調子で言う。「知ってます」
カエサルは、いつもだいたい上機嫌だ。
順風満帆のときはもちろん、酷い逆境においてすら、上機嫌だ。
「だったら、なぜ?」
仕事が山積しているカエサルは、時間節約のためもあって、
単刀直入にそれに答える。
というか、単にカエサルは、単刀直入に言うのが好きなのだ。
「第一に、たしかにヴァルルニ族討伐は大役ですが、一番の大役ではありません。
一番の大役は、ゲルマン人の討伐です。それは私がやります。
ライン川の向こう側は、何が起こるかわからない未知の世界です。
そういう場所に攻め込む時、一番不安なのが、
輜重隊(食料・糧秣・備品・武器の輸送隊)の守りです。
ここが安心して任せられないと、
果敢に攻め込むことができません。
だから、輜重隊を守る大役は、
最も有能なレガトゥス、すなわちラビエヌスに任せたいのです。
したがって、ヴァルルニ族討伐をラビエヌスにやらせることはできません。
第二に、今いるレガトゥスたちの中では、
あなたは実績と安定感があります。
この前の冬の大反乱のときも、
サビヌスはエブロネス族の奸計に嵌って全滅しましたが、
あなたはネルウィイ族に甘言を持ちかけられても、
安易にのせられたりはせず、陣営を守り抜きました」
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「ようは、叔父さんは、ラビエヌスほど有能じゃないので、こっちに派遣されたってわけね」
「そうだよ」
「で、ラビエヌスほど有能じゃないので、カエサルの指示待ちをしてると?」
有能じゃない、有能じゃない、っていちいちうるせーな。
「いいか、俺に求められてるのは、『独創性』でも『斬新な発想』でもない。
『安定感』だ。
言い換えれば、『軽率な判断をしないこと』だ。
ファルティア城市があんな射程の長い投石機を持ってるなんて、
俺にとっては想定外だ。
俺の判断で無理して攻略しようとしても、犠牲が増えるだけだ。
こうして、大人しくカエサルの指示を待ってることが、
俺たちにできる最善の対応だと思うけどな」
そのとき、土埃を蹴立てながら、馬に乗った伝令がやってきた。
馬も伝令も汗まみれて、苦しそうに呼吸している。
相当な距離を、無理なスピードで走ってきたことが、ありありと分かる。
甥のセルウィウスが、不安な顔で、クィトゥス・キケロの方を見る。
キケロはものすごく嫌な予感がして、顔をしかめて身構えている。
その伝令が息を弾ませながら言う。
「ティオを攻略していた軍団が、壊滅しました」
足元が崩れていく感覚。
嫌な予感が当たりやがった。
しかし、なぜだ?
なんの奇策も、無理な攻略もしていないはずだ。
無難に取り囲んで、手堅いやり方で攻城しろと、
指示を出しておいたはずなのに。
ティオに籠城しているヴァルルニ族の戦力は小さい。
ローマの一個軍団をどうこうできるとはとても思えない。
近隣のガリア部族がヴァルルニ側に寝返ったんだろうか。
そう思いながら話を聞くが、どうも、そういうことでもないらしい。
ヴァルルニ族の策略に嵌ったというわけでもないようだ。
緑色の「何か」にやられたと言うばかりで、話が要領を得ない。
「で、ようは、誰にやられたわけ?」
「わかりません」
「どこの部族の軍隊にやられたの?って聞いてるんだけど」
「わかりません」
「せめて、その軍隊の特徴を、なんでもいいから教えて。
騎兵なの? 歩兵なの? 弓兵なの? 投石兵なの?」
「どれでもないです」
意味がわからない。そんな話があるかよ。
キケロが深いため息をつく。
俺は単に、無難に仕事をこなして、早くローマに帰りたいだけなのに、
なんでこう、次から次へと、やっかいごとがやってくるのだろう。