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そんなの、どうでもいいこと

ギラギラした真夏の太陽に焼かれている城市ティオ。

ヴァルルニ族の本拠地だ。


つい先程まで、

ローマ軍に攻め落とされそうだったが、

突如として、緑色の「なにか」に

ローマ軍が蹴散らされてしまった。



決死の覚悟でローマ軍を防いでいた兵士たちは、

何が起こったのかよくわからないまま、城壁から降りた。



負傷者の手当を済ませると、

奇妙に潰れたローマ軍の遺体をつつきまわして好奇心を満たし、

水浴びをしてさっぱりしてから、

平服に着替えて、飯を食って、酒を飲んで、くつろいでいた。



「あれは何だったのだろう?」と誰もが尋ねた。

妖精の仕業だとか、

大きな獣なのだとか、

神の化身なのだとか、

いろいろな答えが飛び交っていた。


人間は、なんにでも答えを出す生き物だ。

その答えが正しいかどうかは、また別の話だ。



しかし、最底辺の人たちにとっては、

そんなの、どうでもいいことだった。


戦争に勝とうが負けようが、

彼らの暮らし向きが、

たいして変わるわけではない。


たとえローマの奴隷にされたところで、

いまの生活と、どこが違うというのか?



そのティオのメインストリートから一本奥へ入った道で、

銀髪の痩せた子供が1人、水桶を運んでいる。



ギラギラとした真夏の太陽に焼かれ、

汗塗れになり、息を弾ませながら、

埃っぽい道を、のたのたと進んでいく。


進みが遅いので、

ロバに引かれた荷車や、荷物を背負った人が、

その子供をどんどん追い越していく。



放し飼いにされた豚と鶏が、

無秩序に歩き回っている。



その子供の服はあちこち破れていて、

肌が露出している。

右の靴の先は破れ、足の先が出ている。

足には傷があり、出血している。



手の痛みに、子供が顔をしかめる。


全身の疲労と痛みで、

座り込みたい誘惑にかられるが、

休んでいる暇はない。


今日中に片付けなければならない仕事は、

まだまだたくさん残っている。


この水運びをあと12往復しなければならないし、

排泄物を肥溜めに運ばなければならないし、

家畜小屋の掃除、家畜の餌やり、薪割り、

洗濯炊事の手伝いをしなければならない。


すべてが終わるころには、深夜になっている。


いつものことだ。


そして、翌朝また、暗いうちから働き始める。


そうしないと仕事が終わらない。



ガートラーダ叔母さんも、

こんな生活を34歳まで続けていたが、

一昨日の朝、馬小屋の隅で冷たくなっていた。


彼女の死体は、生活ゴミと一緒に、

ゴミ捨て場に捨てられた。



叔母さんは長く生きた方だ。


私もずっと休みなく働き続けて、

30歳になる前に歯が抜け、髪が抜け、

シミとシワだらけになり、

老婆のように老け込んで死ぬだろう。



そうか。

あと20年、こんな暮らしを

続けなければいけないのか。


もう疲れた。


こんな人生は、

今すぐにでも終わりにしたい。


しかし、私が死んだら、

母さんも妹のミーシャも、もっと酷いことになる。



戦争の緊張から開放され、

小洒落た身なりに着替えた4人の若い男が、

その子供の脇を通り過ぎていくときに、

足を出した。


子供がその足に引っかかって、転倒する。

水はぶちまけられ、桶が転がっていく。


男たちがどっと笑う。

「ソニアは相変わらずトロいな」



ソニアが泥まみれの顔を上げると、

ダルディアス・マクネルタと、その取り巻きたちの、

ニヤニヤ顔があった。


父の目の前で母を輪姦し、

一晩中、父をリンチし続けて殺した男たちだ。



言いたいことはあったが、

この男たちに逆らうと、うちの家族は生きていけない。



ダルディアスがソニアの腹を力任せに蹴り飛ばす。

ほとんど手加減なしの蹴りで、大きな音がした。


蹴り飛ばされたソニアは、何メートルも飛んで落下し、

道の上を転がってゆき、

門柱によりかかって立っていた桐生涼介の足元でとまる。



ソニアは腹部を両手で押さえて、

涙と鼻水を流し、

顔を真赤にさせて、

呼吸が出来ずに、口をパクパクさせている。


それを見て男たちがゲラゲラと笑っている。

「おもしれえ、魚みてえだ」

「ずいぶん飛んだな」

「よし、次は俺がやる」



ソニアは、自分がふわりと助け起こされるのを感じる。


黒髪の男が、

自分の顔についたホコリを、

見たこともない滑らかさの布で、

拭ってくれている。



気がつくと、涼介とソニアの周囲を、

男たちがぐるりと囲んでいた。



金髪でひときわ体格の大きなダルディアスが

「うちの使用人に勝手に触るんじゃねえ」

と言って、涼介を睨みつける。



男たちは、平たい顔のよそ者をジロジロと眺めている。



涼介は、男たちの話が聞こえていないかのように、

ソニアの腹の辺りを触る。

ソニアが苦しそうに呻く。


これ、やばいんじゃないか。

早く病院に連れていかなければ。



「聞いてんのか、コラァ!」

と男の1人が怒鳴り、

しゃがんでいる涼介のこめかみを、力任せに蹴る。


バアンという大きな音が、周囲に響き渡る。



涼介が昏倒するのを予期していた男たちは、

次の瞬間、何事もなかったかのように

立ち上がった涼介を見て、

あれ? と思う。


蹴りがうまく入らなかったのだろうか。



男の1人が、涼介の腹に、

渾身の力を込めてパンチを叩き込む。


「ぐぅ」と、うめいたのは、

涼介ではなく、殴った男の方だった。


くじいたのか、手首をおさえて、

涙目になっている。



他の男達が笑う。

「なにやってんだよ」

「下手くそ」


殴った男も、なんでパンチが上手く決まらなかったのか

よく分からないまま、

つられてへらへらと笑う。


いや、本当は分かっていたのだが、

仲間たちの手前、

それを認めることができなかったのだ。



そこに、用を済ませたサーシャが建物から出てきて、

「何?」と聞く。



サーシャが生還していたことに、男たちが驚く。


いつ帰って来たんだ?

これで、ローマとの関係はどうなるんだ?

分からない。

あとで家長に聞いてみよう。

家長なら、これが何を意味するのか、分かるはずだ。



ダルディアスが言う。

「俺達が楽しくソニアで遊んでいるのを、

こいつが邪魔しやがったんだ」



サーシャはソニアを指差し、涼介に言う。

「これが欲しいんだな?」



涼介は言われたことの意味がすぐに分からず、

返答に詰まる。


欲しい?

意味がわからない。

聞き間違えか?

ヴァルルニ語の「欲しい」には、何か別の意味があるのか?


涼介は、まだヴァルルニ語の細かいニュアンスまでは分からない。



サーシャがダルディアスに言う。

「これをくれ」



ダルディアスは一瞬、目が点になった後、

大きな声で笑い出す。

取り巻きの男たちも追従のように笑う。


「お前、こんなの買って、どうするんだ?」



サーシャは無表情のまま、事務的に言う。

「いくら?」



ダルディアスが脊椎反射的に何かを言おうとし、

思いとどまって口をつぐみ、

思考を巡らせ始める。


危ない、危ない。


ここで焦ってはだめだ。


おれはいつも肝心なときに焦って失敗をする。


落ち着いて考えよう。


なんでサーシャがこんなことを言い出したのか分からないが、

これはチャンスの臭いがする。


ソニアとその家族が稼ぎ出す金から、

こいつらの生活費を差し引くと、

わずかな利益しか出ていない。


俺がこいつの親父を殺しちまったせいで、

こいつの家では働き手がいなくなり、

こいつの家に貸した借金を回収できなくなっちまったからだ。


ああ、失敗した、殺さなきゃよかった。


女房を犯されたぐらいで

ギャーギャーわめきやがるから、

ついかっとなってやっちまった。


いつも俺は、短気で失敗する。


だから仕方なく、こいつらを働かせて、

少しずつでも回収しなければならなくなった。


効率が悪くてたまらない。


美人の母親を、

いつでも好きなだけ犯しまくれるから、

元がとれるかと思ったが、

さすがに1年も犯し続けると、飽きてきた。


またガキを孕みやがったら、

また蹴飛ばして流産させなきゃならないし。


前回のときもやばかったが、

次やったら、

こんどこそ本当に死んじまうかもしれない。


そしたら、借金回収の目処はもう立たなくなる。

最悪の事態だ。


このまま行ってもジリ貧だ。


ここで売り抜けて、

新しい女奴隷を買い入れる資金を作るのだ。


今が、今こそが、売りどきなんだ。


ここで売り抜けないと。


ダルディアスがちらりとサーシャの顔を見る。


うっと詰まる。

冷や汗をかく。


だめだ。

サーシャには、こちらの事情がバレてる。

きっと足元を見てくるに違いない。


まずい。

どうすれば、どうすれば、高く売りつけられる?



サーシャが「やっぱ、いいや」と言って、

歩き出す。



ダルディアスが、慌てふためいて飛び上がる。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとまってくれえっ」



サーシャはそれを無視して歩いて行く。



まずい。

タイミングを逃した。

さっき、値段を即答すべきだった。


サーシャの気が変わらないうちに、

取引をまとめるべきだったのだ。


俺はいつも、肝心なときに、

タイミングを逃して失敗する。


なんで俺は、いつも、

手遅れになっちまうんだろう。


だからいつも、兄貴にも、親父にも、

バカにされるんだ。


最近は、弟まで俺を尊敬しなくなっている。


ダルディアスが必死でサーシャの隣を歩きながら言う。

「こいつの家は、俺の家に、

4200セステルティウスの借金をしている。

そいつを払ってくれるなら、すぐにでも…」



サーシャはそれが聞こえていないかのように、

前を見て歩き続ける。



ダルディアスがだんだん冷静になってくる。


そもそも4200セステルティウスは、

利子で膨れ上がったもの。

元金は1300セステルティウスにすぎない。

2000でも、十分に儲けが出る。

「わかったっ。2000っ」



しかし、それでもサーシャは反応しない。



くそ。まだか。

こうなったら、元金だけでも回収できれば。

「わかった、1300だ!

1300セステルティウスでいいっ。

それでどうだぁっ」



やはりサーシャは無反応。



ダルディアスが泣きそうな声で叫ぶ。

「なんでだぁっ。なんで買わない!?

これは原価だぞ。

これ以上下げたら、赤字になっちまう」



サーシャが足を止める。

「じゃあ、その原価で買いたいという奴に

売ればいいだろう?」



ダルディアスがぐっと詰まる…。

いくらこいつらを鞭打って働かせても、

1300セステルティウスは

とうてい回収できない。


回収する前に、

こいつらは弱って死んじまうからだ。


みんなそれがわかってるから、

こいつらを1300セステルティウスで

買うやつなんていない。



サーシャの口の端に、

かすかな笑みが浮かぶ。



全身からありったけの注意力を

振り絞って交渉に臨んでいるダルディアスは、

それを見逃さなかった。


自分の体がさーっと音をたてて

冷えていくような感じがした。


頭に血が上って、忘れていた。

こいつは、子供とは思えないほど賢いんだった。

サーシャには、こちらの事情が読めているんだ。


ちきしょう。

これじゃ、交渉にならない。


しかし、このままこいつらを抱えていても、

損失は回収できない。


ここは損切りするしかない。


それが俺にとって、最良の選択だ。


500セステルティウス以上の値段で売れれば、

御の字だ。



サーシャが言う。

「1000だ。

ソニアと、その家族に対して持つ全ての権利を、

今すぐ譲渡するなら、

1000セステルティウスを即金で払ってやる」



その言葉は、雷のようにダルディアスの全身を貫いた。

500セステルティウスを覚悟したダルディアスには、

衝撃的な価格だったのだ。


しかも、即金!

これ以上の好条件は、今を逃したら、二度と訪れないだろう。


「よし!それで決まりだぁ!」

とダルディアスが間髪入れずに叫ぶ。



やった。

今度は、今度こそは、タイミングを逃さなかった。

全身で射精したかのような快感が、

ダルディアスの足元から身体を貫いて、天へと抜ける。


あのサーシャを相手に、

この役立たずどもを

1000セステルティウスで売りつけたのだ!


これは勝利だ!

大勝利だ!



爽快な表情になったダルディアスが、

取り巻きの男たちに指示してすぐに公証人を連れてこさせ、

その場で契約が成立する。



ダルディアスは意気揚々と引き上げていく。

どうだ、見たか、兄貴! 親父!

俺はマヌケなんかじゃないぞ。

俺はやるときはやる男なんだ。



その時、涼介は別の心配をしていた。


涼介が日本語でサーシャに言う。

「どこか、すぐにゲートを開ける場所はないか?」


「私の自宅は、すぐそこだ」


「案内してくれ。急ぎだ」



サーシャが走り出す。

ソニアを抱いた涼介がそれに続く。



すぐにビルフィート家の門に着く。

門の上には頭蓋骨がずらりと並んでいる。


敷地内に入ると、さまざまなケルト装飾に混じって、

やはり、あちこちにたくさんの頭蓋骨が飾られている。


いかにもケルト人らしい。

ケルト人は頭蓋骨が大好きなのだ。


家の者がサーシャに気づいて、大騒ぎになる。

サーシャを取り囲んで、

サーシャの生還を、涙を流して喜んでいる。


その一方で、少し離れたところから、

その様子を忌々しげに見ている男たちもいる。


「ごめん、急いでいるんだ」と、

サーシャは人混みをかき分け、敷地の奥へと入っていく。

ソニアをかかえた涼介がそれに続く。


ビルフィート家の敷地は広く、高い塀に囲われていた。

内部も高い板塀で区画分けされていて、サーシャがその一区画に入っていく。

涼介はその区画に入って、驚く。

瓦屋根。ところどころ石の壁。板張りの壁。障子。床下の空間。板の廊下。

しかも、人々は靴を脱いで家に入る。

まるで江戸時代の日本家屋と、中世の西洋家屋のハイブリッド。

そしてなにより、ここには頭蓋骨が並んでない。


「ここだけ、他の家と作りが違うな」と涼介。

「私の母が建てたから」とサーシャ。

玄関で靴を脱いで中に入る。

廊下を通って、奥へと入っていく。

一番奥の小部屋に入って、ドアを締めて、内側から鍵をかける。

涼介はすぐにゲートを開き、ソニアを抱えて東京のアパートに戻る。


同居人から毛布を受け取り、その毛布でソニアを包みながら、

「気分は?」と聞く。


ソニアがへらへらと笑いながら言う。

「はは…。もう…。やめちゃってもいい…。かなァ…。」

「何を?」

「人生」


涼介はソニアを抱えて立ち上がる。

「…。あれ?」

ソニアがキョロキョロと辺りを見回す。

大勢の人間がソニアの方を見ている。

「ここ、どこですか? 室内のようなのに、なんか、やけに明るいんですけど…」


玄関で靴を履き終わると、涼介はソニアを抱え、階段を降りていく。

「え? 何? …。何?」

涼介は大通りに出て、タクシーを止め、乗り込む。

窓の外をビルの連なりが流れていく。

ソニアが言う。「な、な、何がどうなっているんだか、さっぱりわからないんですが…」

「…ここで見聞きしたことは、なかったことにしてもらえる?」

ソニアが即答する。「はい! 私は何も見ませんでした! 何も聞きませんでした!」

「話が早いな」

「そういうのは慣れてますから!

ちなみに、サーシャ様とは、どういうご関係で?」


涼介は反射的に「ああ、幼馴染み…」と答えようとして、

慌てて「…じゃなくて…」と付け足す。


サーシャは、なにもかも小学生の頃の可奈と瓜二つだ。


容姿も、話し方も、考え方も、知力も、体力も、

好みも、立ち居振る舞いも。


お菓子のコマーシャルにぴったりの、

輝く黒髪と、透き通るような白い肌の、

笑顔が素敵な少女。


涼介が最も幸せだった時代の可奈と、何もかも同じなのだ。


だから無意識のうちに可奈といるような感覚になっていた。

昔から可奈とつるんでいる感覚の延長線上でサーシャに付き合っていた。


しかしよく考えてみたら、サーシャは可奈じゃない。


いや、なんか変だ。

サーシャは可奈だろ。

そうとしか思えない。

同一人物にしか思えないぞ。

なんだこれは。

頭が混乱する。

可奈を失ったショックで、俺は気が狂ってしまったのか?


いや、狂っていたとして、それで何の不都合があるんだ?

幸せな狂気を生きる人生は、不幸な正気を生きる人生よりマシなんじゃないのか?





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