4000兵 v.s 2人
裕子さんへの電話が終わると、すぐにタクシーを呼ぶ。
タクシーが到着するまでの間に、サーシャが涼介を見上げて言う。
「私を手伝って」
「手伝うって、何を?」
「早くローマ軍の侵攻を止めないと、
ヴァルルニ族の首都ティオが陥落する。
そうなれば住民は、殺され、犯され、
奪われ、奴隷として売られる」
いや、そうは言っても、納期の迫った仕事が…。
涼介は困りながら、「出来る範囲でな」と答える。
サーシャも困った顔をして言う。
「悠長にやってたら、間に合わない」
「どのくらい急ぐんだ?」
「もって2~3日。
朝から晩まで仕事しても、間に合うかどうか…」
朝から晩まで?
「いや、おれ、明後日から昼間は仕事あるし…」
「おまえ、何の仕事やってるんだ?」
えーと、…いや、紀元前の人間に、
ITエンジニアって、どうやって説明すればいいんだ?
涼介が四苦八苦しながら説明していると、
サーシャが「ふ。」と笑って言う。
「もういい。要は、『雇われ』なんだろ?」
雇われ? ひどい言い方だな。
そりゃ、俺はサラリーマンだが…。
「いや、でも、毎月決まった給料を貰えるんだぞ。
これって、すごいことだよ」
「それは理解している」
してんのかよ!
サーシャが続ける。
「だが、いちいち上司の評価を気にしながら仕事して、楽しいか?」
くっ。
なかなか痛いところをついてくるじゃねえか。
涼介が開き直って言う。
「楽しいわけないだろう?
上司なんて持たないで仕事できるなら、
そっちの方が人生楽しいに決まってる」
「じゃあ、なんで自分の事業をやらない?」
なんだこいつ。
怪しい起業セミナーの講師みたいなこと言うな。
「いや、だって、起業して失敗したらどうするんだよ?」
サーシャが「はー」とため息をついて言う。
「いいからお前、今の仕事辞めろ。
そして、お前の資産を全て私に投資しろ。
そうすれば、上司を持たずに生きていけるようにしてやるぞ」
涼介がサーシャを見下ろす。
こんな小さな子供に言われてもなぁ…。
涼介の手を握っている、サーシャの一つしかない小さな手が震えている。
泣きそうな顔をしている。
不器用なやつだな。
素直にお願いすればいいのに。
まるで子供の頃の可奈みたいだ。
俺は、困っている人を見ると、
どうにも助けたくなってしまう。
子供のころから、ずっとそうなのだ。
いまさらもう、この生き方は変えられない。
それに、よく言うじゃないか。
情けは人のためならず、って。
涼介が肩をすくめ、諦めたように言う。
「わかった。付き合うよ」
サーシャは輝く黒髪を揺らし、ニッコリと微笑む。
お菓子のコマーシャルにぴったりの笑顔だ。
呼び出し音が鳴る。タクシーが来たようだ。
---
順番待ちをすっとばして診察室に乗り込んできた涼介が、
毛布からサーシャを取り出す。
サーシャには、涼介の白いTシャツを着せてある。
Tシャツの丈が膝まで届いていて、ワンピースみたいになってる。
サーシャの顔を見て、裕子が「可奈との子供?」と聞く。
「他人の空似です」
涼介は、サーシャが着ているTシャツを脱がせる。全裸になる。
裕子が『え?』と思う。
冗談? 映画の惨殺死体の特殊メイク?
この傷が本物なら、生きているわけがない。
胸から腰にかけてざっくりと切れた傷をめくってみる。
その感触に、裕子がぎょっとする。
本物と変わらない感触だ。
子供が苦痛に顔を歪める。
裕子の血の気がさーっと引いていく。
裕子は立ち上がると、走りだそうとして蹴つまづき、
コテンと倒れる。
転んだ時に膝を打ち、涙目になる。
歩く惨殺死体と涼介が、慌てて助け起こす。
むくりと起き上がった裕子は、
急いで看護師たちに指示を出して、
最優先でX線撮影を依頼する。
出来上がったX線画像をひと目見るなり、
裕子は「え? …うそ…え? …まさか…え?」と、
「え」を三連発する。
裕子は看護師に用意させた超音波エコー装置を出してきて、
子供の内臓を調べてゆく。
涼介がおそるおそる尋ねる。
「どう?」
「致命傷がたくさん」
裕子さん、日本語としておかしいです。
致命傷ってのは、1つでもあれば死に至る傷のことでしょう?
大急ぎで手術の準備が整えられ、
サーシャが手術室に運び込まれる。
涼介はその合間に、
どうしても緊急避妊薬が必要なんだと訴える。
あっさりOKが出る。
手術室に入った裕子は、
メスでサーシャの皮膚を切開しようとして、
ぎょっとする。
人間の皮膚の感触じゃない。
すごい抵抗。
まるで革のバッグを無理やり切っているような。
普通に指で触った感じは人間の皮膚と変わらないのに、
切ろうとすると、すごく強靭なことが分かる。
内臓の傷口が、ピンク色のネバネバのようなもので覆われている。
まるで応急処置で傷口を接着剤で塞いだような。
裕子は、そのネバネバをどかしながら、切開していく。
あまりに強靭な皮膚で、メスの刃がすぐにダメになる。
裕子は何本ものメスを交換しながら、
なんとか刺さった矢の先端を取り出す。
内蔵も筋肉も神経も血管も皮膚も、
縫って縫って縫いまくった。
あまりに縫うところが多く、
肉片を縫い合わせて肉のぬいぐるみを組み立てているような気分だ。
致命傷がいくつもあるのに、なぜ心停止しないのか。
なぜ呼吸が止まらないのか。
ものすごい違和感に包まれたまま、
黙々と手を動かし続ける。
---
サーシャは裕子さんにお任せして、涼介は大急ぎでアパートに戻り、
強姦された女性たちに緊急避妊薬を飲ませる。
右腕の腫れと発熱と悪寒は、
ますますひどくなってきている。
しかし、気力を振り絞って、仕事に取り掛かる。
なにしろ納期は2~3日。時間は無駄にできない。
パソコンを開き、テキストエディタを立ち上げ、
そこにメモを書きながら、考えを練ってゆく。
機関銃を使えば、ローマ軍なんて瞬殺なんじゃないだろうか。
アメリカは銃規制がゆるい。
アメリカで機関銃を調達するというのはどうか?
しかし、アメリカでは旅行者は銃を買えない。
最低でも永住権を取得しないと無理だ。
つまり、俺がアメリカで銃を買うのは無理だ。
調べてみると、他の国でも同じみたいだ。当たり前か。
日本でヤクザから銃を買うのはどうか?
まず、知り合いにヤクザがいない。
たとえヤクザから買えたとしても、せいぜい拳銃ぐらいのようだ。
拳銃の有効射程はせいぜい5~10メートル。
弓矢の方がまだ射程が長い。
何万ものローマ軍相手では、役に立ちそうにない。
---
翌日。8月13日。日曜日。
桐生涼介のアパート。
あちこち痒くて、ボリボリかきながら目覚めると、
顔の上に脚が乗っかっていた。
掴んで持ち上げると、子供だった。
目が合う。
明るいブルーの瞳。寝癖の付いた金髪。男の子。
なんだこれ?
驚いて上半身を起こすと、
アパートが大量の人間で埋め尽くされている。
一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、
徐々に昨日の記憶がよみがえってくる。
いろんな感情がごちゃごちゃで、
気持ちの整理がつかない。
頭痛がする。
発熱と悪寒はますますひどくなっている。
右腕の腫れは、いまや肩や胸にまで広がり、
赤紫色に変色してきている。
右腕の傷口は黒く変色している。
サーシャの腕から突き出た矢じりが、
浅く切り裂いただけなのに。
矢じりの先端に、毒でも塗ってあったのだろうか。
子供たちがグズり始める。
お腹が空いたのだろう。
すぐに食事を作らなければ。
扶養家族がこれだけ増えると、
おちおち寝込んでいる暇さえなくなる。
子沢山の家庭って、こんな感じなんだろうか。
咳はないが、念のためマスクをして、
給食室のおばちゃんになった気分で
大量の食事を作る。
みんなに食させ終わり、
皿洗いをしていると、
裕子さんから電話がかかってくる。
サーシャが今すぐ帰ると言って聞かないのだと言う。
裕子さんがサーシャに電話を代わると、サーシャが言う。
「すぐに仕事を始めないといけない」
「もう動いて大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないが、大丈夫になるまで休んでいたら、
ティオが陥落して、何千人も殺される」
涼介が少し考えてから言う。
「裕子さんに代わってくれ」
涼介は裕子を説得し、
タクシーでサーシャをこちらへ送ってもらう。
サーシャが家に着くなり、涼介が聞く。
「あんたのお母さんは、何世紀の人間なんだ?」
サーシャが説明をする。
その要旨は、以下のようなものだった。
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サーシャの母親は、キュリンドルスから出てきた。
キュリンドルスは、城市ティオの北西、二十数キロのところにある建造物だ。
11年前、突然そこに出現した。
キュリンドルスは未来から送られてきた。
『グレイグー』対策で作られた建造物だそうだ。
『グレイグー』とは、自己複製機能を持つナノマシーンの暴走のことだ。
「自己増殖するナノマシーンが暴走したら、無限に増殖してしまい、地球を覆い尽くしてしまうのではないか?」というリスクが、1986年にK・エリック・ドレクスラーによって指摘されている。
しかし、21世紀初頭においては、「自己増殖のためのエネルギーを環境中から取り出すのは容易ではなく、グレイグーを引き起こすほど高度なナノマシーンなど、杞憂に過ぎない」と考える人達が大半だった。
しかし、22世紀以降、人工知能の飛躍的な発展に伴い、人工知能を駆使したナノマシーン開発が加速し、自己増殖型ナノマシーンも飛躍的に高度化した。
結果、グレイグーのリスクが単なる杞憂ではなくなってきた。
このため、自己増殖型ナノマシーンは、厳しく法律で規制されるようになった。
一方で、自己増殖型ナノマシーンによって人間を不老不死に近づける研究を望む声が多く、人体用ナノマシーン開発の推進派と反対派が激しく争っていた。
何十年も続いた論争の末、高度な自己増殖型ナノマシーンの研究・開発・利用が、以下の3つの条件付きで許可されることになった。
(1)高度な自己増殖型ナノマシーンは、外部から完全に隔絶された閉鎖空間でのみ研究・開発を許可される。
(2)高度な自己増殖型ナノマシーンの研究・開発は、人間を不老不死に近づける研究を目的とする場合にのみ許可される。
(3)高度な自己増殖型ナノマシーンは、人体への安全性が十分に確認された後でないと、人体には適用できない。
このうち(1)を満たす為に作られたのが、キュリンドルスだった。
また、この時ボトルネックとなったのが(3)の「人体への安全性が確認されないと人体には適用できない」という、矛盾した条件だった。
この条件をクリアするために、「人権を持たない人間」が実験に使われることになった。
過去に人体冷凍保存で冷凍された人間は、法的には「遺体」だ。
遺体は人権を持たない。
ここに目をつけた推進派は、21世紀初頭までに冷凍保存された遺体を蘇生させて、ナノマシーンを注入し、ナノマシーンの安全性確認試験を行うことにしたらしい。
大昔の遺体なら、もはや親類縁者が死に絶えているので、クレームをつけられる心配がないからだそうだ。
ところが、この実験が開始されると、
グレイグーのリスクを狂信的に恐れる一部の過激派がテロを起こし、
キュリンドルスがまるごと、別の世界線の過去に飛ばされ、
封鎖されてしまったのだと言う。
それが、11年前、キュリンドルスがこの世界にやってきた経緯だ。
それ以来、一度もタイムゲートは開いていないらしい。
未来から「送られてきた」というより、「捨てられた」と
言った方が正確かもしれない。
キュリンドルスとは、ラテン語で「円筒」という意味だ。
直径15キロメートルくらいの円筒形の物体で、高さは2キロメートルぐらい。
円筒形というか、巨大なボタン電池みたいな形状だ。
ただし、それは地上に露出した部分だけの話だ。
ティオの城壁の上からも、その姿が見えるという。
キュリンドルスが出現してから数ヶ月後、
そこから50~60名くらいの素っ裸の人間が出てきた。
その一人が、サーシャの母親なのだと言う。
---
「お母さんの名前は?」
「カナ・ビルフィート」
もしかして、可奈か?
「お母さんの生前の名前は?」
「聞いてない」
「お母さんに会わせてもらえる?」
「母さんは、一昨年、出かけたまま、
帰ってきていない。
行き先は、機密扱いになっている」
「お母さんに似ているって言われる?」
サーシャが頷く。
なんだか、反応が鈍い。
「お父さんは?」
サーシャがぶっきらぼうに答える。
「知らない。
死ぬ前に、受精していたみたい」
「キュリンドルスの中はどうなっている?」
「分からない。
キュリンドルスから出ることは出来るが、
入ることはできない。
唯一の例外は、私の母。
母だけは、今でもキュリンドルスに入ることが出来る」
「キュリンドルスの武器を使えば、
ローマ軍を撃退できるのでは?」
サーシャが返事をしない。
「おい、聞いてるのか?」
「あ、ああ…。
キュリンドルスからは、何も持ち出せない。
持ち出せるのは、自分の肉体だけだ」
涼介はサーシャの話を聞きながら、
パソコンでメモを取っていたのだが、
サーシャはそれが気になって気になってしょうがないようで、
まるで会話に集中できなくなってる。
猫じゃらしに気を取られて、
目の前のことがどうでもよくなるネコみたいだ。
ついにサーシャが、我慢しきれずに聞く。
「これはなんの機械だ?」
答えにくい質問だ。
パソコンという機械は、できることが多すぎて説明しにくい。
まあ、「文章が書けるやつ」とでも言っておくか。
涼介はワープロソフトを起動し、
ラテン語の文章を入力して見せながら言う。
「こうして文章を入力して、印刷メニューから…。
あれ? ミスったか。もう一度…」
プリンターから出てきた紙を見て、
サーシャが仰天する。
「同じものが2つ!!!」
「あ、間違って2部出しちゃったね」
「何回同じものを出せるんだ?」
「とくに回数に制限はないけど?」
サーシャが飛び上がって叫ぶ。
「これ欲しい!」
めっちゃ瞳をキラキラさせている。
お菓子のコマーシャルにピッタリのショットが撮れそうである。
…ていうか、痒い。
あちこち痒すぎて、もう限界。
足首のところに、赤いぶつぶつがあり、猛烈に痒い。
あ、なんか虫が付いている。
潰すと、ぶちょっと血が出てきた。
というか、頭も痒い。
頭をボリボリかくと、爪の中に、なんか虫の潰れたのがいる。
なんじゃこりゃあああ。
もしやと思って、
同居人たちの髪の毛をかき分けて見てみると、
根本に、うじゃうじゃ虫がついている。
ぎょえええええええ。
ネットで調べてみたら、
どちらも吸血虫らしい。
足首に噛み付いてたのは、トコジラミ。
髪の毛のは、毛じらみ。
もう、マジで勘弁してくれよ…。
涼介は泣きそうになりながら、
ダッシュっで家を飛び出し、
近所の薬局に、
毛じらみ撃退用のスミスリン入りシャンプーと
殺虫剤を買いに行く。
ついでに、虫下しも買う。
この調子だと、あの人達のお腹の中は、
生きた寄生虫博物館になってるだろうから。
ほんと、現代に生まれてよかったわ。
殺虫剤のない時代に生きるの、地獄だな。
帰宅すると、
問答無用で、同居人たちの服を全て脱がせて、
洗濯乾燥機に放り込む。
乾燥機で75度に熱すれば、全ての虫は死滅するはずだ。
どんな虫も、しょせんはタンパク質でできているからだ。
部屋中に殺虫剤を念入りにスプレーした後、
同居人たちを片端から風呂に入れ、
スミスリン入りシャンプーで髪の毛と陰毛を洗い、
近所のスーパーで買ってきた下着とジャージを着せる。
そういう感じで、虫はなんとかなったんだけど、
俺の体調の方は、一向に回復しない。
頭痛。発熱。悪寒。
病院に行こうかと思ったが、あいにく日曜日で、ほとんどの病院は閉まっている。
しかたなく、みんなでぞろぞろ電車に乗って、
新宿の家電量販店に行き、
一人一台のパソコンを買う。
その帰り道、
涼介がふと気がつくと、村人たちがついてきていない。
あれ?と思って振り返ると、
みんなでアーチェリー店のショーウィンドウに、
顔を押し付けて、変顔になってる。
大人の金髪女性たちまでそれをやってる。
ホラー映画かよ。
店員のイケメン男子が
怯えている。
村人たちは、
『夕飯の準備をするために、
弓矢を持って、近くの森に食材を調達しに行く』
という、
都会人憧れのスローライフを送っていたため、
弓矢が気になってしょうがないようだ。
サーシャを通訳にして説明してやると、
コンパンドボウやクロスボウのような
高価なものを欲しがる。
弓矢の性能次第で、夕飯の内容が決まるので、
妥協を許さない構えを見せている。
痛い出費なので迷ったが、
彼女たちの固い意思を曲げることは不成功に終わり、
一人一個ずつ買うことになった。
帰ってきてから、
全員分のパソコンをセットアップした後、
サーシャに使い方を教える。
まるで幼いころの可奈のように、
異様に飲み込みが速い。
Webブラウザの使い方を教えていると、
揺れると光るLEDネックレスの広告が出て、
サーシャがそれをクリックする。
欲しいと言うので、ポチる。
サーシャが言う。
「これも、強力な武器になる」
???
何言ってんだこいつ。
残りの時間で、ヴァルルニ語を全力で勉強する。
ヴァルルニ語の習得は、予想外に簡単そうだった。
生活がシンプルなので、語彙の数がものすごく少ないからだ。
生物が細胞からできているという概念がない。
銀行もない。
三権分立もない。
自転車も冷蔵庫もない。
それらを言い表す単語がない。
だから、覚えなきゃならない単語数が、信じられないほど少ない。
---
8月14日。月曜日。九時少し前。
背中を丸め、
大きな体を小さくして、
おずおずと社長室に入ってきた涼介。
社長の山田慎一郎が、パソコンのキーを叩きながら、顔も上げずに言う。
「なんや?」
「社長のような、頭脳明晰、容姿端麗、風光明媚な方の下で働かせていただき、光栄至極にございます!」
「うむ。まさしく俺は、頭脳明晰、容姿端麗、
…風光明媚い!?
おれは観光地か!」
このジャバ・ザ・ハットは、とんでもない自信家で、
本気で自分のことを頭脳明晰、容姿端麗だと思ってそうなのが怖い。
「わたくし、桐生涼介は、2週間後に、この会社を退職します!」
と言いながら、退職届を机の上に置く。
ジャバ・ザ・ハットがじろりと涼介を見る。
涼介は冷や汗をかきながら、
ハハハハと気弱に笑ってごまかす。
ジャバ・ザ・ハットが、ゆっくりと、威圧するように言う。
「何の気の迷いか知らんが…考え直せ。
うちを辞めたら、どこにも行き場は無いぞ。
人殺しを雇ってくれるような心のひろーい会社は、
うちくらいなものだからな」
もちろん、山田はゲートデバイスのことなど知らない。
一昨日、涼介がローマ兵を殺したことも知らない。
山田が言っているのは、涼介が大学生のころに起こした2件の「事故」のことだ。
それを「事故」と呼ぶべきかどうかは、議論の別れるところだが、
少なくとも法的には「事故」として処理されている。
あれが「事故」でなく「殺人」なのだとすれば、
涼介が人を殺したのは、一昨日が初めてではない。
試合の前に、涼介はしつこく相手に警告しておいた。
俺のパンチをくらったら、内臓が破裂するおそれがある。
あんたは死ぬかもしれない。
死ぬのが嫌なら棄権しろ。
そしたらあいつは小馬鹿にするような口調で言ったんだ。
あんたこそ、死ぬのが嫌なら棄権しろと。
そして俺達は試合をし、ああいう結果になった。
お互い納得ずくだったはずだ。
しかしスポーツ業界のお偉方はそうは思っていなかったようだ。
スポーツは殺し合いじゃない、
スポーツは平和で安全だからこそ楽しめるのだ、
格闘技は心身の健やかな育成のためにある、云々。
俺はお偉いさんのお小言は無視して、次もフリーダムに戦った。
じゃないと、面白くないからだ。
面白くないのなら、なんのために格闘技をやるのか、意味がわからない。
結果、総合格闘技の大会で、また対戦相手が死に、
俺はさんざん殺人鬼呼ばわりされた挙句、
スポーツ業界にも格闘技業界にも居場所を失った。
何処にも行き場がなくなった俺は、こんなところでくすぶっているというわけだ。
涼介が黙っていると、
ジャバ・ザ・デラックスがカッと目を見開いて怒鳴る。
「そもそも売上も達成しとらんのに、
何を勝手なことを言ってるんだ?」
湯婆婆のような ものすごい圧力に、涼介がのけぞる。
「ほ、法律上は2週間前に退職届を出せば…」
「ふざけるなぁ」と怒鳴りざま、
怪物が、デスクを叩く。
ノートパソコンが浮き上がり、ガッシャンと音をたてて落下する。
身体組織の大部分を占める脂肪が、ブヨブヨと揺れる。
「法律もクソもあるかいっ。
仕事をおっぽりだして辞めるなんて、
許されるわけがないだろうがっ」
「ひ、引き継ぎはしますし…」
「そういう問題じゃない」
ジャバ・ザ・ハットがドスの利いた声で言う。
「貴様がどんな人間かを、業界中に言いふらすぞ。
俺の人脈がどれだけすごいかは、よう知っとるやろ」
困った。
ジャバ・ザ・ハットに人間の理屈は通用しないようだ。
突然、涼介が、窓の外に視線を移して言う。
「んん…?
なんだ、あれ?」
ジャバ・ザ・ハットが振り返って、
窓の外を覗き込む。
青空が広がり、
いつものビルと公園が眼下に見える。
「え? どれ? どこ?」
涼介は、
「じゃ、そういうことで」
と言うと、ネコのようにひゅっと社長室を退室する。
ジャバ・ザ・ハットが慌てて
「おい待て、まだ話は…」
と言った時には、既に涼介の姿はなかった。
---
涼介の右腕の腫れはいまや全身に広がっていた。
発熱と悪寒も相変わらず酷く、
仕事に集中できないほどだったので、
会社を早退して病院に行く。
かなり大きな病院だったが、
医者はさんざん問診と検査をやった挙句、
なんの病気かよく分からないと言う。
その日は血液採取されて、抗生剤を処方されて帰された。
血液検査の結果がでるのは、しばらく先のことだと言う。
涼介は、病院帰りの駅のプラットフォームで、母親に電話し、会社を辞める旨を報告する。
「ほんとにバカだねえ。
どうやって生活していくつもりなの」
「しばらくは貯金で…」
「そんなのすぐに無くなるでしょ。
なんで転職先が決まってから辞めなかったの」
「自分で事業をはじめようかと…」
「はあ? どんな?」
険悪な声だ。
「いや、まだ決まってないんだけど、」
「開いた口が塞がらないとはこのことだねえ。
ほんとに、いつまで経っても成長しないねえ…さっさと転職先を探さな…」
まるで歌うように抑揚をつけて言う。
もはや気分だけで喋ってる。
このモードになったら、この人は止まらなくなる。
時間の無駄だ。
「あ、電車が来たから、切るね」
「ちょ…」
アパートに帰り、ドアを開ける。
サーシャがものすごいスピードでキーボードを打っている。
片手打ちだが、両手打ちよりも速いんじゃないだろうか。
覗き込むと、ラテン語でカエサルのことを書いているようだ。
「ここにこの図を入れたいんだけど、やり方を教えて」
と、ノートを見せてくる。
ノートには、大量の図ととイラストが描き込まれている。
なかなかのクオリティだ。
こんなの作ってどうするつもりか?
と聞いたら、印刷して配りたいのだという。
どうせなら、と、友人のデザイナーとイラストレーターにメッセンジャーで連絡を取る。
サーシャの写真を送ると、
エサに群がる養殖魚みたいな勢いで食いついてきて、
さっそく今晩、
ファミレスで打ち合わせをすることになった。
大きなお友達が二人できるね!やったね!
あれ?
サーシャの切断された腕の付け根のあたりに、
何かがついている。
Tシャツの袖をまくって見てみると、
十センチほどの肌色の突起物が生えている。
「なにこれ?」
とサーシャに聞くが、
サーシャにもなんだか分からないと言う。
部屋は賑やかだった。
リビングの中央を空けて、
みんなでコンパウンドボウとクロスボウを、
巻藁に撃っている。
あぶないなぁ。
外したらどうするんだよ。
それにしても、2LDKのアパートに18人もの人間を押し込めているの、健康に悪すぎる。
誰かがエコノミー症候群になる前に、引越しをしなければならない。
---
城市ティオを包囲しているローマ軍の陣営。
重装歩兵のスプリウスは、投石紐をぐるぐると振り回し、
遠心力のついた石を、
城壁の上のケルト兵めがけて飛ばす。
狙いは大きく外れ、かすりもしない。
右隣の部隊が放った石は、
城壁の上のケルト兵の盾や兜にゴンゴン当たっている。
ときたまケルト兵が倒される。
当たり前といえば当たり前か。
あっちは、バレアレス諸島出身の投石兵部隊が攻撃している。
彼らは投石の専門家だ。
投石のスキルを買われて、カエサルに雇われている。
ローマ軍の重装歩兵である俺より投石が上手いのは当たり前だ。
そういえば、あいつら、いくらの年俸で雇われてるんだろう?
俺の年収500セステルティウスよりは高いんだろうなぁ。
矢が頭をかすめて飛んできて、ヒヤリとする。
くっそ。あぶねえ。
気を抜くと死ぬな。
すぐ隣で、ガイーンと大きな音がする。
隣で投石紐を振り回していたマニウスの兜に、
ケルト兵の投げた石が当たったのだ。
マニウスが仰向けに倒れる。
やばい。
スプリウスは大急ぎで攻城塔の陰にマニウスを引きずっていく。
スプリウスがマニウスの身体を揺すりながら聞く。
「おい、マニウス、大丈夫か?」
マニウスは返事をしない。
戦場の喧騒の中、マニウスの口元に耳を寄せる。
呼吸音は聞こえる。
死にかけているのか、それとも失神してるだけか、判然としない。
ちきしょう。この仕事を選んだのは失敗だったか。
日雇い農場労働者の方が、もっと稼げるし。
いや、そうでもないな。
日雇いの農場労働者が稼げるのは、農繁期だけだ。
俺の親父が日雇い農場労働者をよくやっていたから、身にしみてわかっている。
とくに冬がきつい。
稼ぎ口はなくなるし、服を買う金すらなくなると、
薄着のまま一日中過ごさなければならない。
燃料もろくに買えないから、夜も寒くて眠れなくって、
ほんとうに惨めな気持ちになる。
俺たち兄弟姉妹は、ろくなものも食わしてもらえず、
日に日にやせ細り、骨と皮になっていって、
寒さの中で衰弱していった。
ある朝起きると、幼い妹が冷たくなっていた。
妹が死んでから、少しだけ生活がマシになった。
その代わり、母親が何日間も家に戻ってこないことが多くなった。
幼い頃はその理由がわからなかったけど、
ある日、母親が見知らぬ男と歩いているのを見て、ピンと来た。
母親は、その男に乳房を揉まれながら、
媚びるように、腰をくねらせていた。
そのことを親父に言ったが、
親父はとくに何も言わなかった。
親父は知っていたんだ。
黙認していたんだ。
そうするしか、家族を食わせていく方法はないって、親父もわかっていたんだ。
俺はあまりにも惨めで、将来、金に困るような暮らしは絶対にしたくないと思ったんだ。
だから俺は、軍団兵になった。
この兵役を終えたら結婚することになっている幼馴染のフルヴィアも、それに賛成してくれた。
彼女も貧しい家で育ったから、それ以外に道はないと理解しているんだ。
たしかに軍団兵は給与額はそれほどでもないが、毎月決まった給料が支払われる。
これって、すごいことだよ。
それに、カエサルのような「勝てる指揮官」のもとで働けば、
略奪で大儲けできるチャンスも巡ってくる。
俺達のような貧民にとっては、こんなに割のいい仕事は他に見当たらない。
---
桐生涼介の住む区域を管轄する警察署の、剣道場。
窓から、夕日が差し込んでいる。
小坂伸行の竹刀の切っ先が、ゆらりゆらりと揺れている。
それに向き合いながら、菊池功夫は思う。
学生時代は「神速の小阪」と言われて調子に乗っていたらしいが、
いまはキャリア組の警察官僚。デスクワーカーだ。
毎日、事件現場を走り回っている刑事の俺が負けるはずがない。
こてんぱんに叩き潰して、赤っ恥をかかせてやる。
菊池がそう思って踏み込もうとした瞬間、面を打たれていた。
ゾクリとした。
何が起こったのかわけがわからない。
菊池功夫はそれでも挫けずに、
「まだまだぁ」と叫び、竹刀を振り上げる。
今度は胴を打たれていた。
全く反応ができなかった。
やべえ。こいつは正真正銘の「神速」だ。
合同練習が終わった後、菊池功夫は小坂伸行を飲みに誘った。
焼き鳥をかじりながら、菊池が言う。
「あんた、本物の天才だな。
なんで剣道やめちゃったんだい?」
「練習は今でもたまにやってるよ」
「そういうんじゃなくてさ。
あんたなら世界一になれただろう?」
「なれないってことがわかったのさ」
「はは、あんたに勝てるヤツなんか、いねえだろ?」
「いた。
手も足もでなかった」
菊池が驚いて小阪の顔を見る。
「誰だよそれ」
「桐生涼介って言ってな…」
「桐生涼介え!?」
菊池が素っ頓狂な声を上げる。
菊池は、自分の署の管轄区で起こった、
古代ローマ兵コスプレ殺人事件の顛末を話す。
途中で、小坂が口をはさむ。
「いや、それはありえない」
「え? 何が?」
「あの桐生涼介が手も足も出ないなんて、ありえない」
「でも、相手は体重140kg、身長195cmの筋肉の塊だぜ」
「そんなの関係ないよ。
たとえ体重200kgの怪物でも、
桐生涼介はものともしないよ」
「まさか」
菊池は徳利からおちょこに日本酒を注ごうとするが、中身がもう無かった。
店員に追加注文をする。
小坂が日本酒をぐびりとやり、少し考えてから言う。
「その140kgのコスプレ野郎は、
ホモ・サピエンスではないかもしれんな」
菊池が笑い出す。
「いきなり、何を言い出すんだ?」
小坂が真顔になって言う。
「いいか、常識にとらわれず、事実だけを冷静に見てみろ。
桐生涼介がグローブをつけて相手の腹を殴ったら、
内臓破裂で相手が死んだんだぞ」
「知ってる。2人死んだってな。
それがどうした?」
「人間の力で、そんなことが可能だと思うか?」
菊池は焼き椎茸をもぐもぐしながら、しばし考える。
「…無理だろう。
そもそも、そんなことができないように、
グローブは設計されているはずだ。
それがスポーツってもんだ」
「そこから導かれる結論はなんだ?」
菊池が額にシワを寄せて、考え考え言う。
「『人間に不可能なことを桐生涼介がやった』という事実からは、
『桐生涼介は人間ではない』という結論が導かれるな」
「『その桐生涼介が手も足も出なかった相手』は人間だと言えるか?」
なんだか妙な話になってきたな。
小坂が菊池の瞳を覗き込むようにして言う。
「そのコスプレ男の司法解剖はやったのか?」
「いや、やってない。
死因は明らかだったから、その必要はないという判断だった」
「じゃあ、もう火葬されて、骨しか残ってないな。
その骨、なんとか調べられないかな」
「難しいだろう。
調べる口実がないからな」
---
ローマ軍の攻城塔が、城市ティオの城壁に寄せ付けられている。
そうした攻城塔が、数十個もある。
攻城塔の上にはローマ兵たちが乗っており、
ティオの城壁に乗り移ろうと、攻撃を仕掛けている。
ティオの城壁の上では、
ケルト兵たちが、
ローマ兵に乗り移らせまいと、
奮戦している。
そうしたケルト兵の一人が、ルコニウスだ。
ルコニウスは、めったなことでは怒らないと評判の、
温厚で実直なケルト農民だ。
そのルコニウスが、死に物狂いで長剣を振り回している。
ちきしょう。
オレの親父を殺しやがって。
生まれ育った家も森も燃やしやがって。
俺が嫁と息子と娘と一緒に、汗水たらして育てた農作物を踏みにじりやがって。
今年の冬は何も食うものがねえ。
俺たちはどうやって今年の冬を生き延びたらいいんだ?
こいつら、絶対に許さねえ。
ルコニウスが渾身の力を込めて、剣を横に払う。
執念の斬撃がローマ兵の腹部をかすめるが、
鎖帷子にギャリンと弾かれてしまう。
ローマ兵が鋭く刺突を繰り出してくる。
ルコニウスはそれを避けるが、完全には避けきれず、肩をかすめる。
ルコニウスの肩から、どくどくと血が出てくる。
くそったれ。
ローマ兵は完全武装かよ。
装備一式が国家から支給されているんだってな。
俺たちにはそんなもん支給されねえ。
自前で鎖帷子を買う金もない。
汗が目に入って霞む。
息が苦しい。
疲労でだんだん手が持ち上がらなくなってきている。
剣の腕は、明らかにローマ兵の方が上だ。
当たり前だ。
普段は農作業をやってる俺と違って、ローマ兵は職業軍人だ。
フルタイムで戦闘訓練をしてきている。
どうやっても、こいつらには勝てないのか。
ちきしょう。
ちきしょう。
ちきしょう。
疲労と出血で、身体に力が入らなくなってきた。
ああ、俺はここで、なにもできないまま、殺されるのか。
俺達はなにをやっても、ローマには敵わないのか。
悔しい。
悔しいなぁ。
---
涼介が、ヒステリックに喚き散らす照井孝之と
引き継ぎミーティングをしていると、
病院から電話がかかってくる。
症状がどうなったかを聞かれたので、
「全身の腫れ・発熱・悪寒がようやく収まった」
と説明すると、すぐに病院に来いと言う。
「いや、もう治ったので…」と言っても、
とにかく来いと言って聞かない。
しかたがないので照井とのミーティングをリスケして、
会社を早退して病院に行く。
マスクと防護メガネをした白衣の医師らしきおっさんが、
病院の玄関のところで待ち構えていた。
病院の正面玄関ではなく、職員用の裏口のようなところから、
密閉された手術室みたいなところに連れ込まれた。
その部屋には大きなガラス窓があり、
ガラス窓の向こうで、白衣を着た、すごい偉そうな人たちが、ずらりと並んでこちらを見ている。
マスクと防護メガネのおっさんが聞く。
「最近海外旅行をしなかったか?
もしくは、周囲に海外旅行をした人間はいるか?」
心当たりがないと答えると、液晶モニターを使って説明を始める。
液晶モニターに、全身が腫れ上がり、
びっしりと赤いぶつぶつに覆われた人間が映し出される。
「あなたから採取した血液の入った試験管を破損してしまい、
その破片で指先を怪我した男性の、約1時間後の症状です。
この後すぐ、目、鼻、口、耳、肛門、性器などから血を吹き出して、
死亡しました」
いや、それ、俺と関係なくない?
「それ、ほんとうに私の血液が体内に入ったことが原因なんですか?」
「正直に言うと、因果関係ははっきりしません。
ただ、他に原因が考えられないんです」
その医師は、涼介を隔離病棟に入院させたいようだった。
しかし涼介としては、そんな曖昧な理由で病院に閉じ込められたのでは、たまったものではない。
涼介は、病院側の落ち度を攻める作戦に出る。
「これって、かなり深刻な医療事故ですよね?
検査官が、患者の血液に触れてしまうなど、起きてはならない事故でしょう?
そんな事故が起きうるような業務フローを放置した、病院側の管理体制に問題があるんじゃないですか?」
その医師は、困ったように、
ガラス窓の向こう側のお偉いさんたちの方を見る。
一番偉そうな白衣のおじいさんが、手招きをする。
医師が部屋を出てゆき、しばらくして戻ってくる。
すったもんだ交渉した挙句、
涼介が一切を黙秘することと交換条件に、
涼介は解放されることになった。
---
ようやく仕事の引き継ぎ資料が出来上がり、
引き継ぎミーティングも一通り終わったところで、
涼介は有給休暇の消化に入った。
このまま退職日まで、出社する予定はない。
そこからまたヴァルルニ語の猛勉強。
とにかく、朝から晩まで徹底的に村人たちと会話しまくる。
単に暗記しても、それは血肉にならない。
実際の会話で、自分の言葉として使って初めて、それは自分の血肉になる。
外国語の習得ってのは、そういうもんだ。
ルリーカが泣きながら言う。「私、男に生まれたかったの」
ルリーカは、1歳の息子を目の前で地面に叩きつけて殺され、
ローマ兵に強姦された17歳の女性だ。
シアンが横から口を出す。
「ルリーカは、子供の頃から、ずっとそう言ってるの」
涼介がたどたどしいヴァルルニ語で聞く。
「どうして男に生まれたかったの?」
「私、ずっと戦士になりたかったの。
剣術では、子供の頃は、私が一番強かったの。
でも、大人になったら、男たちには敵わなくなってしまったわ。
それが悔しくて、悔しくて。○○○○○○○○(よく聞き取れない)。
両親を殺され、弟を殺され、夫を殺され、子供を殺されても、
仇を討ってやることもできない。○○○○○!」
ルリーカは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、
そんな感じのことを話している。
涼介のスマホに連絡が入る。鉄工所からだ。
装甲車が出来上がったとのこと。
知り合いという知り合いにメッセンジャーで連絡しまくって、ようやく調達できたものだ。
涼介はさっそく装甲車を受け取ると、
ゲートを開き、装甲車を運転して、城市ティオに向かう。
もちろん、本物の装甲車は何億円もするので、とても買えない。
廃車寸前の、凹みとサビだらけの大型4WDを格安で譲ってもらい、
それを鋼鉄の板で覆っただけの、装甲車モドキだ。
迷彩色にペイントしてある。
それに、辺りの草を刈り取って、びっしり貼り付け、
周囲の景色に溶け込ませてある。
助手席にはサーシャが座り、ナビをやってくれている。
揺れが激しい。
覗き窓は小さく、分厚い防弾ガラスがはめ込まれているので、視界が悪い。
視界の悪さを補うため、前後左右にビデオカメラを設置し、
車内のモニターに写しながら運転する。
気持ち悪い。なんだか酔いそうだ。
ときどき停車し、ドローンを飛ばして周囲を偵察しながら、慎重に進んでいく。
涼介がサーシャの左腕の突起の変化に気づき、ぎょっとする。
「なんだこれ?」
サーシャの左腕の切断面から生えてきた肌色の突起は、
いまや20センチ以上になっていた。
よく見ると、関節があり、先端には赤ちゃんのように小さな手のひらがついている。
その小さな手のひらが、グーパーをする。
「イモリかよ」
イモリは手足が切断されても完全に再生する両生類だ。
STAP細胞はありまーす!の人がこれを見たら、
泣きながら記者会見を開きそうだ。
サーシャが笑っていう。
「私がティターンの娘だからかもしれないな」
「ティターン?」
「キュリンドルスから出てきた人たちのことだ」
そうだ、そういえば、肝心のことを聞くのを忘れてた。
「ローマ軍の中に、ティターンはいるのか?」
「ティターンと、ティタノイドが何人かいる」
「ティタノイド?」
「ゲートから出てきたデカブツいたろ?あれだ」
あの、可奈を殺しやがったやつか。
「ティターンの血は毒なんだ。
ティターンの血がタップリついた剣を人間に刺すと、
だいたい100人中97人は、全身が腫れ上がって赤い湿疹だらけになって死に、
2人は怪物になり、
1人がティタノイドになる」
もっと詳しく聞きたいが、目的地が迫っている。
「まあ、いいや。
ようは、カエサルさえ殺せば、
ローマ軍は撤退するんだろ?」
「カエサルは、今、ライン川の向こうで、
ゲルマン人の集落を蹂躙している」
ライン川は、ここから何百キロも北にある。
「じゃあ、
ティオを攻略しようとしているローマ軍は、
誰が率いているんだ?」
「そりゃ、カエサルの総督代理のうちの誰かだろう。
ティトゥス・ラビエヌスか、ガイウス・トレボニウスか、クィントゥス・キケロか、それ以外のレガトゥス」
「総督代理?」
「カエサルの部下だよ。
ユリウス・カエサルの公式の地位は、
ガリア・キサルピナとガリア・トランサピルナの属州総督だ。
総督代理は、属州総督の部下だ」
装甲車が丘の上に到着する。
城市ティオが見える。
ティオを包囲するローマ軍も見える。
攻城塔を寄せられ、破城槌に城門を攻め立てられているのが見える。
いまのところ、まだ陥落していないように見える。
サーシャがほっと胸をなでおろす。
涼介が双眼鏡を覗く。
映画のローマ兵とは、甲冑がぜんぜん違うし、剣の長さも異なる。
映画の中のローマ兵は、板金を何枚も重ねた鎧を着ていたが、
このローマ兵たちは鎖帷子を着ている。
図書館の専門書で調べてみたら、
板金を重ねたタイプの鎧は紀元後1~2世紀にローマで使われたもので、
紀元前1世紀のカエサルの時代のローマでは、
発明すらされていなかった可能性が高いということだった。
このタイプの鎧の破片で最も古いものは、紀元後9年と年代確定されている。
ローマ兵の剣の長さが短くなるのも、もう少し後の時代の話だ。
涼介が聞く。「どいつが総督代理なんだ?」
サーシャも双眼鏡を覗きながら言う。
「うーん…。どうも、この中には総督代理はいないみたいだな。
総督代理は、ここから12ミッアリウムほど離れたところにある
ファルティア城市を攻略中なんだと思う」
ミッアリウムは古代ローマの距離の単位だ。
1ミッアリウムは1.48キロメートルだから、
だいたい18キロメートルくらいか。
「じゃあ、あの軍隊を率いているのは誰?」
「軍団長じゃないかな。
ちょうど一個軍団くらいの規模だから」
「ざっと見たところ4000人ぐらいだけど、
一個軍団って4000人なのか?」
「公式には一個軍団は4800名だと聞いている。
ただ、カエサル軍では、欠員が出ても補充がなされずに、
それよりも少ないことがよくあるんだ」
「どれが軍団長?」
「あの、真ん中後方にいる、
一番偉そうな頭飾りをつけた、
赤いマントを羽織っているやつじゃないかな」
「んー。あ、あの、馬に乗っている、
背の高いやつね」
「そうそう。それ」
「とりあえず、こいつと話し合いをしよう」
「それは、現実的じゃない」
「なんで?」
「話し合いなど、この4年間、
さんざんやってきている。
その結果が、この現状なんだよ」
「どういう話し合いをしてきたんだ?」
「今はそんなことを話している時間はない。
話している間に、ティオが陥落するかもしれない」
まあ、しょうがないか。
いまいち腑に落ちないところはあるが、サーシャがウソをついているとも思えない。
ここはサーシャを信じよう。
とりあえずサーシャを丘の上に残し、涼介だけ装甲車に乗って、丘を下っていく。
茂みの間を通って、開けた牧草地に出る。
遠くに、ローマ軍が展開し、軍旗がはためいているのが見える。
そのまま、丘の上のサーシャと無線で連絡を取りながら進む。
サーシャとの会話は、主に聞くことに専念し、涼介は、ほとんどしゃべらない。
振動が酷く、喋ると舌を噛みそうだからだ。
だいたいの方向がわかったので、
軍団長のいる場所を目指して、アクセルを踏み込む。
大馬力エンジンが唸りを上げる。
平坦な牧草地とはいえ、スピードを出すと、
しょっちゅう車体がジャンプして、不安定だ。
途中でひっくり返ったら、取り囲まれて殺されるな。
怖い。
これが死の恐怖ってやつか。
だが、怖いのは相手も同じはずだ。
いよいよローマ兵の側面が間近に見えてきた。
彼らの戦列を真横から串刺しする形になる。
彼らのうち何人かがこちらを見ている。
あと50メートル。
30メートル。
一番手前のローマ兵たちが仰天し、へっぴり腰で逃げ出す。
ブレーキは踏まない。
むしろアクセルを踏み込む。
逃げ遅れたローマ兵の中に、猛スピードで突っ込んでいく。
---
城壁の上のルコニウスの疲労と出血が限界に達し、
ついに死を覚悟したとき、
遠くでちらりと何かが動くのが見えた。
ケルト兵たちの手が止まっていく。
ローマ兵たちも、攻撃を一時中断し、
その何かを指差して口々に何か喋っている。
ルコニウスがそちらを見ると、
水しぶきを上げて、水面付近を魚が進んでいくみたいに、何かがローマ兵の中を進んでいた。
水しぶきみたいに周囲に撒き散らされているのは、ローマ兵だった。
人しぶき?
見たことも聞いたこともない、ものすごいスピードだ。
---
スプリウスが攻城塔の陰にマニウスを引っ張ってきて看病していると、
突如として、城壁の上のケルト兵からの攻撃が止まった。
東の方を指差し、口々に何か叫んでいる。
攻城塔の上のローマ兵たちも攻撃を中止し、
一斉に東の方を見る。
それにつられてスプリウスが東の方を見ると、
何か黒いゴミのようなものが、空に吹き上げられている。
いや、あれはゴミじゃない。
人だ。軍団兵だ。
軍団兵を弾き飛ばしながら、何かが、とてつもないスピードで移動しているんだ。
その「何か」が、みるみる迫ってきて、
目の前の攻城塔の一階部分を粉砕し、突き抜けていく。
弾き飛ばされた軍団兵が、血しぶきと脳漿を撒き散らし、
ぐるぐる縦回転しながら飛んでいく。
攻城塔の上部が傾き、崩れ落ちてくる。
攻城塔の上のローマ兵たちが悲鳴を上げながら、落下してくる。
スプリウスは、マニウスを引きずりながら、必死で逃げる。
辺り一面に、弾き飛ばされた軍団兵が散らばっていた。
破裂した下腹部から腸が飛び出して、口をパクパクさせている兵士。
両足が折れ、折れた骨が皮膚を突き破って飛び出ている兵士。
首がありえない角度で曲がっている兵士。
---
装甲車の中の涼介は、リズミカルな衝撃を感じていた。
ブバババババババババババババ。
ブバババババババババババババ。
ブバババババババババババババ。
その衝撃パターンがずっと続いている。
秒間何人の人間を殺しているのだろう。
無線からサーシャのナビが聞こえ続けている。
「もう少し右。右に行き過ぎ。
もうちょっとだけ左にもどして。
そう。それでいい。
そのまま真っ直ぐ。その調子。
もう少し。
よし、やった。
軍団長と6人の軍団副官は、潰した。
これで命令指揮系統は麻痺するはず。
あ、まずい。
軍団副官が2人が生き残ってる。
それ逃しちゃダメ。
そいつらを逃がすと、また軍団が息を吹き返しちゃう。
その2人を丁寧に、確実に轢き潰さないと」
涼介は、注意深くプログラムのバグを潰していくように、
注意深くその二人を轢き潰す。
注意深さはエンジニアに必須の特質だったから、
涼介は、誰に言われなくても、当たり前のように注意深く仕事をする。
---
ティオの城壁の上のルコニウスが、
「あれは何?」と背後のやつらに聞く。
返事は返ってこない。
振り返ると、みんな口をぽかんと開けて見ている。
ソレは、ローマ兵の戦列の中を横に突っ切ったあと、
今度は城壁沿いにこっちへ近づいてくる。
みるみるうちに攻城塔に迫ってきて、
川に石を投げ入れた時の水しぶきのように、木材の破片を撒き散らしながら、
攻城塔の一階部分を貫通していく。
俺が今さっきまで戦っていたローマ兵たちが、斜めに傾き、
悲鳴を上げながら、攻城塔の上部と一緒に、落下していく。
その後も、ソレは、ローマ兵の海の中を、水しぶきを上げながら、縱橫に走り回り続ける。
子供の頃、アリの巣を掘り返した時のことを思い出す。
まるで掘り返された巣の中のアリのように、大勢のローマ兵たちが右往左往している。
やがて、ローマ兵が、蜘蛛の子を散らすように、散り散りになって逃げ出し始める。
ソレは、しつこく蜘蛛の子を追いかけて、潰していく。
---
城壁の下で、スプリウスは混乱していた。
なんだ?
なんだこれは?
俺はどうすればいいんだ?
スプリウスは、無意識のうちに、百人隊長のアウルスの方を見た。
アウルスに限らず、どこの部隊の百人隊長でもそうだが、
何が起こったのかわからないときは、百人隊長に聞けば、教えてくれる。
何をしたらいいのかも、百人隊長が教えてくれる。
訓練中も、戦闘中も、どう戦えばいいのか、どう守ればいいのか、
全部百人隊長が教えてくれる。
年収も俺たちとは桁違いだ。
そのアウルスでも、今回は判断がつかないようで、
今、軍団副官に伝令を飛ばし、指示を仰いでいるところだと言う。
しかし、待っている間に、またアレがやってきた。
南西の方から、ローマ兵を弾き飛ばしながらやってくるのがわかる。
スプリウスは恐ろしくて、居ても立ってもいられなくなり、
マニウスを引きずりながら、他の軍団兵を押しのけて、
闇雲に逃げようとする。
他の軍団兵たちも、我先にアレから逃れようと押し合いへし合いする。
大混乱になる。
その混乱の真っ只中に、またアレが突っ込んでくる。
潰れて、赤いものを撒き散らしながら飛んでいく兵士たち。
狼狽して転倒した兵士に、他の兵士がつまづき、倒れ、
それを踏み潰しながら、他の兵士たちが必死で走って逃げていく。
そこでようやく、百人隊長アウルスのところに伝令が帰ってくる。
伝令によれば、軍団長と軍団副官が、真っ先にアレに潰されてしまい、
指令を出す者がいなくなったことがわかったと言う。
そこからのアウルスの判断は素早かった。
アウルスが大声で叫ぶ。「俺について来いっ」
アウルスは、ローマ軍を襲っている「何か」の位置と進行方向を予測しながら、
そこから一番近い森に向かって、部下たちを引き連れて整然と移動し始める。
スプリウスは盾を捨て、マニウスを背負って、アウルスについていく。
---
涼介は、サーシャのナビどおりに、
こんどはバリスタやスコルピオなどの大型投射兵器を破壊していく。
兵士も兵器もまとめて弾き飛ばしていく。
攻城塔を粉砕し、破城槌を粉砕する。
サーシャの声が耳元で響く。
「よし。メインディッシュは食べ終わり。あとは、削れるだけ削って」
広大な北海道の農地で、農業機械で作物の収穫をしていくように、
兵士たちを片端から収穫していく。
ブバババババババババババババ。
ブバババババババババババババ。
ブバババババババババババババ。
そうやってしばらく走り回ると、
ローマ兵は死ぬか、動けなくなるか、森に逃げ込むかして、すっかりいなくなってしまう。
装甲車が停まり、中から涼介が出てくる。
高性能のデジタル一眼レフカメラで写真を撮り始める。
はるか遠くまで散らばったローマ兵の死体。
手足があらぬ方向へ折れ曲がったローマ兵の死体。
顔が壊され眼球が飛び出している死体。
両足を轢き潰されて泣き叫ぶローマ兵。
見るも無残に粉砕された大型投射兵器や攻城塔や破城槌の残骸。
念入りに撮影していく。
できるだけドラマチックなアングルで、
ローマの大敗北を印象づけるような光景を切り取っていく。
涼介はまた装甲車に乗り込むと、
丘の反対側から回り込んで、
森のなかの洞窟に入っていく。
そこでゲートを開いて、装甲車を回収する。
ケルト風の衣装に着替え、ゲートを閉じると、サーシャと合流し、
素知らぬふりで、徒歩でティオへと向かう。