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取引

暗闇で、刀身がギラリと光る。


ナイフを突きつけられた桐生涼介は、

観念したように、両手を上げる。


ち。

油断していた。

まさかローマの真ん中で強盗に襲われるとは。


ローマの夜は、東京の夜とまるで違う。

灯りがないのだ。


林立する集合住宅(インスラ)の黒いシルエットの合間から、銀河が見える。

暗い谷底から、星空を見上げているようだ。


静寂の中、遠くから 水の流れる音が かすかに聞こえてくる。

給水場だろう。

ローマの水道は 流れっぱなしで、栓を閉めることができない。



涼介のリュックサックに 強盗が手をかけた時、

強盗の背後で、何かが蠢く気配がした。


強盗がそれに気を取られた瞬間、

その強盗の身体は、空中に浮いていた。


払腰をもろに食らって

地面に叩きつけられた強盗から、

涼介がナイフをもぎ取る。



強盗の背後で蠢いていたものが、

次々に立ち上がっていく。

5、いや、7人いる。


涼介の背後から、ルキウス・ビティニクスが言う。

「かまうな。行くぞ」


涼介が、シルエットに向かって聞く。

「誰?」


シルエットの1つが言う。

「家賃が払えなくなって、家を追い出されまして…」


子供が泣き出す。


家族連れか。


涼介は、ポケットから セステルティウス青銅貨を数枚 取り出して 渡す。


ビティニクスがうんざりしたように言う。

「貧乏人に出会うたびに、金を渡すつもりか?

そのための小銭をいれるリュックサックが あと2つは必要になるな」


涼介は子供にアメを配り始める。


さすがにビティニクスがキレる。

「いい加減にしろ。

客が待っている」


涼介はしぶしぶ、商品サンプルがぎっしり詰まったリュックサックを担いで、歩きだす。



しばらく歩くと、遠くの方から、かすかに音がしてくる。

商品搬入の音だ。

ローマの商店は、夜の間に、商品を搬入するのだ。



---



広々とした、気持ちのいい空間だった。


小鳥が鳴き、花が咲き乱れ、蝶が舞っている。

様々な工夫をこらした噴水と彫像が、あちこちにセンスよく配置されている。

よく手入れされた、風通しのいい林。

笑いさざめく少女たち。


よくある金持ちの大豪邸(ドムス)中庭(ペリステュリウム)だ。


ここが、ローマの中心部でなければ。


ローマの中心部に

これほどの規模の中庭(ペリステュリウム)のある

大豪邸(ドムス)を所有できるのは、

犯罪的なまでの超大金持ちだけだった。


首都ローマでは、

ほとんどのローマ人は、5~7階建ての集合住宅(インスラ)に、ぎゅうぎゅう詰めになって暮らしている。

とんでもなく家賃が高いからだ。

集合住宅(インスラ)は、上下水道もなく、不衛生で、悪臭に満ち、人がバタバタ死んでいく。


そんな集合住宅(インスラ)の密集するローマの中心部に、7つの丘がある。

その丘の1つに、この大豪邸(ドムス)は君臨し、下界を睥睨していた。


プブリウス・ポルビュオスは、

その中庭(ペリステュリウム)を囲む列柱回廊を

ニヤニヤしながら歩いていた。


この家の主、カッシウス・ドラリスから、

500万セステルティウスもの融資を引き出すことに、

成功したからだ。

これで、アルミサッシの調達資金の半分近くが用意できた。


その中庭(ペリステュリウム)で、

侍女たちとキャッキャウフフしていた少女が、

ポルビュオスに気がつく。


その少女は、ポルビュオスのところに、一直線にやってくると、

ポルビュオスの手をつかみ、

階段を上がっていく。


少女は、ポルビュオスを自分の部屋に連れ込んで、ドアを閉めるなり、

ポルビュオスに言う。

「ひざまずけ」


ポルビュオスは、言われるままに両膝をつき、

怯える目で、少女を見上げる。

「ドラリアさま、」


とポルビュオスが言いかけたところに、

ドラリアが平手打ちを食らわす。


手加減のない、強烈な打撃に、ポルビュオスの耳がキーンとなる。


ドラリアがニヤニヤしながら、嗜虐的に言う。

「ねえ、そんなに私と結婚したい?」


鼻血をすすりながら、ポルビュオスが言う。

「も、もちろんです」


ドラリアがポルビュオスの髪の毛を掴み、

頭を床に押し付ける。


ドラリアは、ポルビュオスの頭を踏みつけて言う。

「してやってもいいわ」


「ありがとうございます」


「その代わり、

絶対に私に指図はしないでね。

私は、私のやりたいことをやって暮らすんだから」


「もちろんですとも」


ドラリアが、もう一度、ガン、とポルビュオスの頭を踏みつける。

「忘れるなよ、犬っころ」


「はいっ」


ドラリアは、それだけ言うと、また中庭(ペリステュリウム)へと戻って、キャッキャウフフを始める。


ポルビュオスはため息をつくと、

額の血を拭いながら、

玄関へと向かう。


ドラリスの娘は、

美しいことで有名だったが、

嫁の貰い手がないことでも、有名だった。


ドラリスが甘やかしすぎたためか、

もともとそういう性格なのか、

あるいはその両方なのかは分からないが。


たいていの男は、ドラリアの横暴に耐えきれず、

逃げ出してしまう。


ポルビュオスだって逃げ出したかったが、

今は、どうしてもドラリスからの融資が必要なので、

ドラリアの機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。



---



ローマの街は夕闇に沈んでいたが、

ポルビュオスの邸宅(ドムス)は、真昼のように明るかった。


無数のソーラーランタンに照らされていたからだ。


※ソーラーランタン: 昼にソーラーパネルで充電し、夜にLEDで照らす器具。


殺風景な中庭(ペリステュリウム)は、

大量のアルミサッシで埋め尽くされている。


そのアルミサッシの山の谷間で、

奴隷たちが忙しそうにアルミサッシを運んでいる。


ポルビュオスが2階から中庭(ペリステュリウム)を見下ろす。

「おーい、もうちょい慎重に運んでくれ。

それ1個で、お前たち40人分の値段なんだぜ」


2階の列柱回廊を、ポルビュオスが女奴隷と密着しながらすれ違う。


廊下には大量の砂糖の袋が積まれていて、

すれ違うのにも一苦労だ。



1階に降り、執務室(タブリヌム)に入ると、

天井まで積み上がったインスタントコーヒーの段ボール箱に囲まれて、

経理奴隷のガニウスが、シャーペンでノートに数字を書き込んでいた。


ポルビュオスがその段ボール箱を見上げながら言う。

「また、随分買い込んだな」


ガニウスがインスタントコーヒーをすすりながら言う。

「しばらく自分で飲んでみてわかったんですが、

これ、しばらく飲み続けると、

やめられなくなります。

絶対値上がりすると思います」


「いくら使った?」


「私の有り金、全部つっこみました。

一世一代の大勝負です」


奴隷たちは、みな、それぞれ、お金を貯めている。

お金が十分に貯まったら、自分自身を買い取って、自由の身になる。

ガニウスは、そのためのお金を、全部、インスタントコーヒーに投資してしまったのだ。


「勝負師だなぁ」


「旦那様を見てたら、私たちも、ここ一発というときは、勝負しなきゃと思い始めまして」


「私『たち』?」


「うちの奴隷たちは、ほぼ全員、全財産つっこみました。

アントネッラは紅茶に、クロリンダは唐辛子に、ジャンニは歯ブラシと歯磨き粉に…」


アントネッラとクロリンダの場合、他の奴隷とは、少し事情が異なっている。


アントネッラは妊娠している。

一般に、奴隷の子供は、生まれてすぐに殺されてしまうか、捨てられてしまうことも多かった。

とくに都市部では、育てるコストが高すぎて、採算が合わないからだ。

(奴隷は、牛や馬と同じ経済動物なので、採算が合わなければ、殺されるか捨てられる)

アントネッラは、自分の子供の養育費を自分で支払うという条件で、子供を産み育てることを認めてもらおうとしていたのだ。

自分の自由よりも、生まれてくる子の命を買うつもりなのだ。


クロリンダの場合、既にそういう形で生かしてもらっている子供がいる。

その子供に、読み書き計算を学ばせたいと言う。

読み書き計算ができれば、デスクワークの仕事をさせてもらえるからだ。


年を取ってくると、肉体労働はどんどん辛くなる。

自分の子供にまで、そんな辛い思いはさせたくないのだ。



ポルビュオスが言う。

「アルミサッシの方は、いくつ売れた?」


「累積で672個。

664万2千3百セステルティウスの売上です」


ポルビュオスが、安堵のため息をつく。

「この調子なら、

今週中には、借金、全額返済だな」


7日前、アルミサッシというものを初めて見たポルビュオスは、圧倒され、魅了された。

この世のものとは思えない、とてつもない透明度のガラス。

どんな職人にも不可能なほどスムーズにスライドするガラス窓。


それを、1つあたり、わずか2500~5000セステルティウスで売ってくれると言うのだ。

途方もないビジネスチャンスだった。


その場で、「在庫があるだけ全部くれ」とビティニクスに掛け合ったが、

現金商売しかしていないと言う。

現金、金、銀、のいずれかしか受け付けてないと言う。


そこで、全財産の3倍もの借金をして、

現金、金塊、銀塊をかき集め、

アルミサッシを買えるだけ買ったのだ。


一世一代の大博打だ。



「ただ…」

とガニウスが言葉を濁らせる。


「何?」


「売掛金が、回収できないのです」


ポルビュオスがドキリとする。

売掛金が回収できないと、借金が返済できない。

借金を期限までに返せないと…


有限責任の株式会社なんて制度はないし、

自己破産という制度もないから、

個人の無限責任での借金だ。


返済できなければ、身の毛もよだつ、恐ろしい事態が待ち受けている。



「なぜ?」


「みな、現金を持っていないのです」


…そういえば、あちこちで、

「現金が手元にない」という話を聞く。


どういうことだ?


ローマ中から現金が消えた?

まさか。


「みんな、決裁はどうやってるんだ?」


ガニウスがポケットに手をつっこみ、

机の上に、ジャラリとコインを出す。


とてつもなく精巧なコインだった。

セステルティウス青銅貨とは、まったく比べ物にならない。

人間にこんなものが作れるとは思えない。

なんだこれ?

魔法? 妖精? 神?


ガニウスが言う。

「これは、『ペリカ』という通貨だそうです。

居酒屋(タベルナ)食堂(ポピーナ)では、すでに支払いのかなりの部分が、ペリカで行われてます。

10ペリカ=1セステルティウスです」


「これ、金でも銀でもないよな?

なんでこんなものが、貨幣だと認められるんだ?」


ガニウスは、引き出しから、商品カタログを出す。

「ここに載っている商品が、ペリカで買えることが保証されているらしいんです」


ポルビュオスは、そのページを捲って、ぎょっとする。

化粧品、蚊取り線香、ソーラーランタン、砂糖、唐辛子、ウィスキー、インスタントコーヒー、紅茶、ココア、タバコ、ライター、風邪薬、目薬、頭痛薬、胃腸薬、布、服、下着、靴、ひげそり、ひげそりクリーム…。

これは、どれも、ビッティクスが商品サンプルをプレゼンしてみせたものだ。


そうか、わかったぞ。

なぜ貨幣に価値があるかというと、商品と交換できるからだ。

ということは、さまざまな魅力的な商品と交換できることが保証されているコインは、貨幣として認められるんだ。



ガニウスが言う。

「ペリカでいいなら、すぐに売掛金を回収できますが、どうします?」


その時、女奴隷のクロリンダが、執務室(タブリヌム)に顔を出した。


ポルビュオスがクロリンダに言う。

「何?」


「ドラリス家が破産したようです」



…はい?



---



もう初秋だというのに、

南国ローマの日差しはあいかわらず強烈だ。


その日差しに焼かれながら、

大勢の奴隷たちが、ドラリスの大豪邸(ドムス)から、

ベッド、クッション、衣服、テーブル、棚、食器、彫像などを運び出している。


その奴隷たちは、ドラリス家の奴隷ではない。

ドラリスの債権者たちの奴隷だ。


ソアエリアスが奴隷を止めに入る。

「おい。その棚は、うちのものだ。

棚は全部、うちのものだという取り決めだろう?」


コクレスがそこに割って入る。

「これは食器棚だから、うちのだよ。

キッチン関係の器具は、全てうちのものだと決まっただろう?」


債権者同士で言い争いが始まったので、

その食器棚を運ぶ奴隷たちが立ち往生する。


「おい。

そこで立ち止まるんじゃない。

通行のじゃまだ」

別の債権者が叫ぶ。


そこに馬車がやってきて、

ポルビュオスとガニウスが降りてくる。


「ポルビュオスだっ」

と一人が叫ぶと、

どっと債権者たちが、ポルビュオスを取り囲む。


債権者代表のソアエリアスが、契約書をポルビュオスに見せる。

「500万セステルティウスは、

我々に返済してもらうことになった」


ポルビュオスは落ち着いていた。

「ペリカでいいなら、いますぐ払いますよ」


ソアエリアスは一瞬驚いたように目を見開き、債権者たちを見回す。

みなが頷くのを確認して、言う。

「それでいい」


ポルビュオスは、別のことに驚いた。

こんな高額の決裁まで、ペリカでいいんだ。

というか、現金が消滅したから、ペリカで決裁するしかないのか。


その時、ポルビュオスの聞き慣れた居丈高な少女の声が、大豪邸(ドムス)の中から響いてきた。

「私にこんなことをして、

後でどんな目にあうか、わかってるんでしょうねっ。

一生後悔することになるわよっ」


ドラリアの声だ。


ポルビュオスが ゲンナリした顔で 債権者たちを見ると、

みな、同様に、ゲンナリした顔をしていた。


ガニウスがクスクスと笑う。


ポルビュオスは、近くにいた男に聞く。

「なんでドラリスは破産したんだ?」


その男、ブルデンディウスが、訳知り顔で、嬉しそうに、ペラペラと事情を話し始める。


ドラリスは負債も大きかったが、

その何倍もの資産があったから、

純資産は巨額だった。


ドラリスは、資産のかなりの部分を、東方(オリエント)貿易に投資していた。

貿易船への投資も巨額だったが、

エジプトのパピルス産業への投資も巨額だった。


ところが、ここ一週間で、

ノートとボールペンとシャーペンが爆発的に普及し、

だれもパピルスを買わなくなった。

ノートの方が、パピルスよりもはるかに便利な上に、価格も安いからだ。


また、東方(オリエント)から輸入している絹、香辛料、香料、化粧品、宝飾品などの価格も、大暴落した。

ビティニクスが、極めて高品質で安価な布、香辛料、香料、化粧品、宝飾品などを、洪水のように売り始めたからだ。


それによって、ドラリスの資産は急速に縮小し、あっという間に債務超過に陥った。



ブルデンディウスが言う。

「…もちろん、やられたのはドラリスだけじゃない。

貿易業メインの家は、どこも似たような有様さ。

ほら」


ブルデンディウスが指差した方を見ると、

そちらの大邸宅(ドムス)でも、似たような事態が起きているようだった。



ドラリス家の玄関から、鎖につながれた奴隷がぞろぞろと出て来る。

ドラリス家所有の奴隷たちだ。

これも資産として、債権者たちに、分配され始める。

その奴隷の中に混じった一人の少女が、居丈高な声で喚き散らしている。

ドラリアだ。


ドラリアを見ながら、ソアエリアスがうんざりして言う。

「家事の仕方も知らないし、

調教するにも、手間も時間もかかるだろうから、

売春宿に売るしかないけど、

客に暴力を振るうだろうし、

口に突っ込まれたものを食いちぎりかねないから、

歯を全部抜いて、手足を切って…」


ポルビュオスがソアエリアスに言う。

「よかったら、私が引き取りましょうか?」


ソアエリアスがきょとんとする。

「へ?

あの野獣を?」


ポルビュオスが苦笑する。

「2000セステルティウスでどうです?」


ソアエリアスが即答する。

「売った!」

大人の奴隷の相場は、だいたい200セステルティウス。

その10倍。

迷う理由はない。



そのとき、背後から声が聞こえてくる。

「…それで、カエサルがクビに…」


ポルビュオスがギョッとして振り向く。


え?

聞き間違い?


思わず、確認する。

「カエサルが ガリア総督を クビになったってこと?」


「ああ。

そんでもって、

ポンペイウスが 20個軍団を率いて、

ヴァルルニ族を征服することになったらしい」


人々の間に、衝撃が走る。


あんな弱小部族に、20個軍団?

ポンペイウスが出動?

何がどうして、そうなった?


その男の周りに、人が集まってくる。


みなが根掘り葉掘り質問し、

その男が答えていく。


その話を順序立てて要約すると、以下のようになる。



---



発端は、ビティニクスという男が、奇妙な商品を売り始めたことだった。


その商品は、恐るべき速度で、ローマ中に広まっていった。


食堂(ポピーナ)では、砂糖入りの紅茶が飲まれるようになり、居酒屋(タベルナ)では、グラスでウィスキーが飲まれるようになった。

街中、いたるところでタバコが吸われるようになった。

ソーラーランタンによって夜の街が明るくなり、奴隷は夜遅くまで酷使されるようになった。

女性たちの化粧のレベルは飛躍的に上がって、街が美人だらけになった。

居酒屋(タベルナ)飲み屋(バール)と売春宿は深夜まで営業するようになり、看板はLEDでビカビカ光るようになった。

街中で蚊取り線香がたかれ、ゴキブリほいほいが置かれ、ハエ取り紙が吊り下げられ、害虫が激減した。

ノートとシャーペンと消しゴムが使われるようになり、読み書きできる奴隷の値段が高騰した。


わずか1週間の間に、ローマ人たちは、さまざまな種類の依存症になった。

カフェインなしにはいられなくなり、

ニコチンなしではいられなくなった。

中流以上の女たちは、化粧なしでは外出できなくなった。

ソーラーランタンなしでは仕事も生活も立ち行かなくなった。

蚊取り線香のない生活には耐えられなくなった。

窓ガラスのない生活なんて考えられなくなった。


人々は、それらを失うことを、恐れるようになった。

どこからやってくるかも分からず、いつ供給がなくなるかも分からないそれらの商品を、人々は、買いだめに走った。

買いだめに走る人々を見て、他の人達も、恐怖に駆られた。

他人に買い占めをされる前に、買おうとして、商店に殺到した。

借金をしてでも、買って買って買いまくった。


抜け目のない商人たちも、買い占めに走った。

ライバルよりも、少しでも早く、少しでも多く買うために、借金に借金を重ねて、買って買って買いまくった。


ビティニクスは卸売業者だったので、ローマ中の商人たちが、これらの商品を仕入れようと殺到した。


ビティニクスは現金払いを要求したため、商人たちは、ありったけの現金、金、銀を、ローマ中からかき集めて支払った。

ローマ中から、現金と貴金属が枯渇し始めるまで、さほど時間はかからなかった。


ビティニクスは、現金だけでなく、ペリカでの支払いも認めるようになった。

それと並行して、集合住宅(インスラ)大邸宅(ドムス)別荘(ヴィラ)、農場、船、奴隷をペリカで買い取るようになった。


商人たちは、不動産や奴隷をビティニクスに売却してペリカを入手し、そのペリカで、ビティニクスの商品を購入するようになった。


現金が枯渇したため、商人たちは、使用人の給与をペリカで支払うようになった。

食堂(ポピーナ)飲み屋(バール)居酒屋(タベルナ)も、ペリカでの支払いを受け付けるようになり、砂糖や紅茶やウィスキーの仕入れを、ペリカで行うようになった。

ペリカでの決裁は急速に広まり、ビティニクス商品と関係ないものまで、ペリカで支払われるようになった。


気がつくと、膨大な数の不動産、船、奴隷などが、ビティニクスの所有物になっていた。


ビティニクス商品を仕入れた商人は大儲けしたが、競合商品を扱っていた商人が大損害を被ったため、この問題が元老院で取り上げられることになった。

ビティニクスは元老院に呼び出され、事情聴取された。


その時、ビティニクスが語った内容は、以下の通り。



---



これらの商品は、アンティネスという男から買ったものだ。


アンティネスはマッシリア(※)に住むギリシャ商人。


※現在のフランスのマルセーユ。地中海沿岸にある都市で、当時は、ギリシャ人の植民都市だった。


ビティニクスはローマ商人で、アンティネスとは20年来の取引関係がある。


マッシリアに住むギリシャ商人たちは、何百年も昔から、ガリア貿易で潤ってきた。

ガリア人たちはワインが大好きで、奴隷や毛皮を売って、ワインを買う。


※この時代はまだ、ガリアの気候では、ぶどうが育たず、ワインを作れなかった。


そのアンティネスという男は、曽祖父の代からヴァルルニ族と取引があった。


アンティネスは、いつものように、商品サンプルを持ってきて私に見せた。

私は、その商品が気に入ったので、あるだけ全部くれと言った。


いったいどうやって運び込んだのかは分からないが、

アンティネスは、私の別荘(ヴィラ)に隣接する草原に、膨大な数の、巨大な鉄の箱を置いていった。

その中には、商品がぎっしり詰まっていた。


アンティネスは、昔からそうなのだが、

代金は、ある時払いでいいと言う。


ペリカも、アンティネスが私に貸してくれたものだ。


商品は、凄まじい速度で売れていき、

現金と金銀財宝が、山のように積み上がった。


ペリカは、すごい勢いで、不動産に変わっていった。


また、ペリカを貸してほしいという人が大勢やってきたので、

ペリカで金融業も始めた。


わずか6日後に、アンティネスは、その現金と金銀財宝を受け取って、姿を消した。


アンティネスに対しての買掛金がまだ膨大に残っているが、

不動産とペリカの運用益を使って、少しずつ支払いをしていく予定だ。



---



同様に、数人のティターンが元老院に呼び出され、事情聴取を受けた。


ティターンたちは、「これらの商品は、キュリンドルスにも存在する」と証言した。


キュリンドルスは海岸沿いにある。


ビティニクスの別荘(ヴィラ)も、海岸沿いにある。


元老院は、以下のように結論づけた。

「これらの商品は、ヴァルルニ族領のキュリンドルスから運び出され、

船のようなもので海上を運搬され、

ビティニクスの別荘(ヴィラ)に持ち込まれたのだろう」


元老院の関心が、キュリンドルスに集中した。


ローマ軍2個軍団がヴァルルニ族に壊滅させられたのも、

キュリンドルスから持ち出された兵器によるものだと結論付けられていたからだ。



そして、元老院で、カトーの演説が行われた。


その概要は、以下のようなものだ。



---



ローマの富の総量の10倍以上の富が、キュリンドルスにある。

また、キュリンドルスにある自動車、トイレ洗浄剤、コンパウンドボウは、桁外れに強力な軍事兵器であり、これらを手に入れられれば、ローマは、全世界を容易に征服できる。


キュリンドルスの鍵は、ヴァルルニ族が握っている。

ヴァルルニ族を征服し、その鍵を奪った者は、全世界を手に入れ、全ローマの富の総量の10倍の富を手に入れられるだろう。


そして、今、まさに、カエサルは、ヴァルルニ族を征服しようとしている。

カエサルは、ローマの王になるどころか、全世界の王になろうとしているのだ。


そんなことは、決して許してはいけない。

カエサルではなく、我々こそが、ヴァルルニ族を征服し、世界を手に入れなければならない。



---



もちろん、いつものように、カエサル派の元老院議員たちは、カトーに異議を唱えた。

カエサルは、ローマのためにヴァルルニ族を征服しようとしているのであって、それを私物化する意思などないのだと。


いつもなら、ここで、カトー、ビブルス、マルケッルス、アヘノバルブスなどの反カエサル派を抑えて、カエサル派が優位に立つはずだった。


なぜなら、カエサルは、ローマ最大の超富豪クラッスス、及び、ローマ最大の英雄ポンペイウスと、三者で同盟を組み、ローマ政界を牛耳っていたからだ。


ところが、今回は、いつものようにいかなかった。


まず、超富豪クラッススは、カエサルを支持しなかった。

今年の春、パルティア戦役で戦死していたからだ。


また、今回は、ポンペイウスが寝返った。

ポンペイウスは、反カエサル派を支持したのだ。


これらが決定打となり、次の2つの法案が可決された。


(1) ガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナの総督は、カエサルから、アヘノバルブスに交代する。

これに伴い、現在、カエサルの指揮下にあるローマ軍8個軍団は、アヘノバルブスの指揮下に入る。


(2)新たにローマ軍20個軍団を結成し、カトー、ビブルス、マルケッルス、アヘノバルブス、ポンペイウスが、これを率いて、ヴァルルニ族を征服する。総司令官は、ポンペイウスとする。


つまり、合計28個軍団で、ヴァルルニ族を征服することになった。


ヴァルルニ族を征服できれば、全ローマの富の総量の何倍もの富と、圧倒的世界最強の軍事力が手に入るのだから、これぐらいの軍を投入するに値する、という判断だった。



ゲルマニアからヴァルルニ族へと向かったカエサルは、途中、ベロウァキ族の反乱にあって足止めされていたため、まだヴァルルニ族のところに到着していない。

一方で、ローマ軍20個軍団全てをかき集めるのにも時間がかかる。

とりあえず、ヒスパニア(スペイン)とアフリカ(北アフリカ)の軍団を、急ぎ、ヴァルルニ族討伐へ向かわせることになった。

カエサルの率いていた8個軍団と、ポンペイウスの率いるヒスパニア軍団の、どちらが先にヴァルルニ族領へ到着するかは、まだ分からない。



---



馬車に、ポルビュオス、ドラリア、ガニウスの順で座るやいなや、

鮮血が飛び散った。


ドラリアがポルビュオスを殴ったのだ。


「このグズっ。

来るのが遅いんだよっ。

さっさとこの鎖をはずしなさいよっ」


ポルビュオスが鼻血をすすりながら言う。

「私は、あなたを、福利厚生として、奴隷たちに与えると約束しました。

あなたを どう使うかは、私の奴隷たちが決めることです」


ドラリアが 何言ってんだお前? という顔をする。

「はあ?」


ガニウスが言う。

「昨夜、みなと相談して、どうするか決めました。

転売します。

その売却益で、奴隷たちの赤子を育て、栄養のあるものを食べさせ、教育を施します。

子供たちの命と未来を買うのです」


ドラリアがポルビュオスの足をガンと踏む。

ポルビュオスが呻く。


ドラリアが大声で喚き散らす。

「ふっざけんな。

奴隷のガキなど、役に立たない虫けらでしかない。

虫けらはさっさと潰して、ゴミ箱に捨てろ。

そんなもん、わざわざ育てるんじゃない。

そんなゴミを育てるために、私を売り買いするだと?

バカも休み休み…」


ガニウスが、まあまあまあ、となだめながら言う。

「そんな悪い話じゃないかもしれませんよ。

あなたのお父様、ドラリスさんに恩のある方は、たくさんいらっしゃるでしょう?

その中には、あなたを買い取って、自由の身にして、

大切にお世話をして下さる方もいらっしゃるんじゃないですか?」


それでもドラリアはわめき続けたが、

ガニウスはなんとかなだめすかし、

あらかじめアポを取ってあった購入候補者の大邸宅(ドムス)を巡回していく。



「ドラリスにお世話になった?

私が?

はっ。

たしかに、ドラリスとは、ずいぶん取引をしましたよ。

でもねえ、彼には、何度も煮え湯を飲まされてるんです。

ほんとにやり方が汚い。

彼がどんなアコギな商売をやっていたか、

あなただって、知らないわけじゃないでしょう?」



「ドラリスが破産?

いいニュースだねぇ。

心が晴れやかになる。

彼の娘を買わないかって?

ああ、200セステルティウスでいいなら、買うよ。

毎日、ボコボコにぶん殴って、気晴らしするのにちょうどいい」



「ドラリス?

彼には、貸しはあっても、借りはないですよ」




ガニウスがため息をついて言う。

「なかなか、いい値がつきませんねえ」


ポルビュオスが言う。

「後半のアポに期待しよう。

後半は、富豪が多い」



ジルウァヌスの大豪邸(ドムス)の玄関前に馬車が止まると、ドラリアが言う。

「ここは、時間のムダ。

次へ行ったほうがいいわ」


ドラリアは、ジルウァヌスをよく知っていた。

ジルウァヌスは、もともとはドラリス家の奴隷だったからだ。

6年前、ジルウァヌスは、自分自身を買い取って、ドラリス家を出ていった。

そして、すぐに空前のビジネス的成功を連発し、恐るべき速度で、今の地位を築き上げたのだ。


「まあまあ、話だけでも聞いてみましょう」

とガニウスがなだめる。


ドラリアが吐き捨てるように言う。

「やっぱり奴隷は愚かね。

無駄だって言うのが、わからないの?」


ガニウスは、グズるドラリアの背中を押しながら、3人で玄関から入り、豪華な廊下を通り、青い空と白い雲を写す水槽(インプルウィウム)の脇を通り、執務室(タブリヌム)に入る。


執務室(タブリヌム)は本来、客と実務的な打ち合わせをするための、会議室のようなスペースだ。


3人が執務室(タブリヌム)で待っていると、片目の男が、びっこを引きながら入ってくる。

顔には切り刻まれたような傷があり、左手の指が3本欠けている。

ジルウァヌスだ。


「これはこれはドラリアお嬢様、お久しぶりでございます」


ドラリアは、黙ってジルウァヌスを睨んでいる。


ガニウスが、用件を手短に話すと、ジルウァヌスが言う。

「是非、私に売ってください」


ガニウスが単刀直入に言う。

「おいくらで買ってもらえます?」


「おいくらなら売ってもらえます?」


「単純に、一番、高い値段をつけた方に売ろうかと思っています」


ジルウァヌスは、腕組みをして、背もたれにもたれかかり、目を閉じる。


蛇腹式に開閉できる木製パネルの向こう側を、使用人たちが行き来する音が聞こえる。

掃除をしているようだ。


しばらくの沈黙の後、ジルウァヌスが言う。

「500万セステルティウス」


ガニウスとポルビュオスが顔を見合わせる。


ドラリアが立ち上がって怒鳴る。

「いったい、何のつもりだ、ジルウァヌスっ」


ジルウァヌスは、かっと目を見開いて、仁王立ちになり、

トゥニカを脱ぎ捨てる。


全身に、吐き気を催すような、グロテスクな傷跡がびっしりついていた。


火山から噴出する溶岩のような声が、ジルウァヌスの喉からほとばしる。

「何のつもりか、ですって?

あなたは、何のつもりで、私の目を潰したんです?

何のつもりで、私の指を切り落としたんです?

何のつもりで、私の顔を切り刻んだんです?

何のつもりで、私を鞭打ち続けたんです?

毎日、毎日いいいいいいいいいいいいいいいいっ」


ジルウァヌスの血を吐くような叫びが、壮麗な大豪邸(ドムス)に響き渡る。



---



3人がポルビュオスの邸宅(ドムス)執務室(タブリヌム)に入ると、

ガニウスが言う。

「結局、最高額を提示したのは、ジルウァヌスさんでしたね」


ドラリアが、真っ青になって、ポルビュオスの足元にすがりつく。

「お願い。

ジルウァヌスだけはやめて」


執務室(タブリヌム)の周囲には、奴隷たちが集まってきている。

馬車の御者が、先に事情を奴隷たちに伝えていたからだ。

みな、500万セステルティウスというとてつもない金額に興奮し、目をギラギラさせている。


ポルビュオスが言う。

「でも、それでみんなが幸せに…」


ドラリアがなりふり構わずに叫ぶ。

「なんでもするからっ。

しゃぶれと言われればしゃぶるっ。

股を開けを言われれば、いつでも股を開くっ。

好きなだけこの体を自由に…」


3人に紅茶を出しに来ていたアントネッラが呆れて言う。

「そんなの、奴隷なら、当たり前じゃないの。

どこの家だって、奴隷は、いつでもどこでも、しゃぶるし、尻を差し出してるでしょ」


「そんな…」


ガニウスが遠い目をして言う。

「自分のやったことは、いつか自分に返ってくるんです。

それが人生というものです」


その直後、ドラリアが絶叫し、アルミサッシを蹴飛ばし、ガラスを粉砕した。

奴隷たちが飛び込んできて、慌ててドラリアを取り押さえにかかるが、ドラリアは奴隷を殴りつけ、蹴飛ばし、さらに多くのガラスを粉砕する。


奴隷たちがガラスの破片に怯んだすきに、

ドラリアは、積み上げたインスタントコーヒーの段ボール箱に蹴りを入れる。


段ボール箱が崩れてきて、中身が床にぶちまけられ、

ガニウスが悲鳴を上げる。


アントネッラはガラスの破片で頭部を切られ、血まみれになりながらも、ドラリアの腕を捻って、床に組み伏せ、叫ぶ。

「お願いっ。

子供たちのためなのっ。

大人しく、売られてえっ」


ドラリアは髪を振り乱し、鬼のような形相で叫ぶ。

「この下郎どもがあああああっ。

クソ奴隷のクソガキのために、誰が…」


クロリンダが息を弾ませ、ドラリアに馬乗りになりながら言う。

「ごめんなさい。

本当に申し訳ないと思ってるわ。

けど、子供たちの未来がかかってるの」


それでも暴れ続けるドラリアに、

奴隷たちが次々にのしかかっていく。


ついに身動きが取れなくなったドラリアは、

うえーん、うえーんと、子供のように泣き始める。


ドラリアの尿が、床に広がっていく。


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