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ローマ最大の英雄

サーシャの自宅から、南東へ1300キロ。

世界最大の文明都市ローマに、

強烈な陽光が、容赦なく降り注いでいた。


そのローマに、

サーシャの書いた小冊子がようやく到着し、

各所に配布され、

あちこちで騒がれ始めていた。



そのローマの路地を、ディベリウス・カイナップとその息子が、よたよたと歩いている。


息子が、泣きそうな声で言う。

「お父ちゃん、お腹すいた」


カイナップが、すまなそうな顔をする。


もう金がないんだよ。

頼りない父ちゃんで、ごめんな。



カイナップは、前方を歩いている、ポンペイウス一行を睨む。

ローマ最大の金持ちの一人だ。

ようやく、あいつに接触するチャンスが来た。

今日は、なにがなんでも、あいつに取り入って、定職をゲットしてやる。


カイナップが息子の頭に手をおいて、言う。

「まってろよ。

もうすぐ、腹いっぱい食わせてやるからな」



空を見上げると、

何本かの白く細い煙が立ち上り、

風に流されていっている。


ローマの公共浴場(テルマエ)の出す煙だ。



奴隷と従者を引き連れたポンペイウスが、

公共浴場(テルマエ)に入っていく。


そのすぐ後を、カイナップ親子が入っていく。



カイナップのような貧乏人が、

ポンペイウスのような大富豪と接触するチャンスなど、

めったにあるものではない。


公共浴場(テルマエ)は、

その、数少ないチャンスを与えてくれる場所の1つだ。



ローマの公共浴場(テルマエ)は、単なる風呂ではない。

総合遊戯施設だ。

図書館、スポーツジム、球技場、格闘技場、公園、談話室…さまざまな施設がある。

マッサージや垢すりなどのサービスや、飲食物の販売も行われている。

スチームサウナも、水風呂も、ぬるい浴槽も、熱い浴槽もある。



格闘技場で、

ポンペイウスが腰布一枚になる。


いつものように、奴隷相手に、格闘練習を始める。


奴隷と激しく組み合いながら、

「年々きつくなるな」

とポンペイウスは思う。


今年の9月29日で53歳になるポンペイウスは、

自分の容姿と肉体の衰えに抗おうと、

必死の努力を続けていた。


若い頃から美男の英雄としてもてはやされていたポンペイウスにとって、

若さと美しさを失うことは、

とうてい受け入れがたいことだった。



「痛っ」

と奴隷が叫び、かがみ込む。


ポンペイウスは格闘練習を中断し、

奴隷の足を診てみる。


こりゃ、捻挫だな。


運悪く、もう一人の格闘練習用の奴隷は、体調不良で休んでいる。

雑用係の奴隷たちは、とてもポンペイウスの相手が務まる体格ではない。


まいったな。

今日は、もう無理か。


このチャンスを見逃すまいと、カイナップが必死で大声を張り上げる。

「ポンペイウス・マーニュス!

私がお相手いたしましょう!」


ポンペイウスが、嬉しそうな顔で、振り向く。

ポンペイウスは、マーニュス付きで呼ばれるのが、大好きなのだ。


ラテン語で「マーニュス」とは、アレクサンダー大王の「大王」という意味だ。

ギリシャでもローマでも、世界史上最高の英雄はアレクサンダー大王とされている。

見栄っ張りなポンペイウスにとって、史上最強の英雄になぞらえて呼ばれるのは、すごく嬉しいことなのだ。



しかしポンペイウスは、

声のした方を見て、がっくり来る。


(あばら)の浮き出た貧相な中年男。


幼い頃から鍛えまくっているポンペイウスに比べると、

肉の厚みが圧倒的に足りない。


とても練習相手にはなりそうにない。


どうやって断ろうか迷っていると、

カイナップが大声でまくし立てる。

「地中海の海賊掃討作戦、ほんとうにシビレましたよ!

20個軍団、軍船500隻を率いて、

3年がかりで掃討するはずだったのに、

それを、たった3ヶ月でやり遂げてしまうなんて!

天才の中の天才!

圧倒的世界最強の軍事司令官!

マーニュス、まさに、マーニュスです!

しかもその軍団を解散せず、

そのまま東方へと進んで、東方諸国の征服!

ポントス王ミトリダテスを打ち破り、

シリアをローマの属州にし、

エルサレムを陥落させ、ユダヤも征服し…」


ポンペイウスは困った風な顔をして聞いていたが、

内心は、まんざらでもなかった。


ああ、もっと言って!

もっと褒めて!

それを、もっとみんなに聞かせて!


心の中に、そう叫ぶ自分がいた。



空気の読めるポンペイウスの雑用奴隷は、

頃合いを見て、咳払いをし、

「あの、」

と、止めに入ろうとする。


カイナップが、突然、我に返ったかのように言う。

「す、す、すいません!

憧れの英雄にお会い出来た感動で、

つい、我を忘れてしまいました!」


ふふふ。

なかなか、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。


ポンペイウスは、周囲の人々の視線を意識して、

いかにも器の大きい男らしく言う。

「はっはっは。

そんなに恐縮する必要はない。

まあ、一緒に温浴室(カルダリウム)にでも、

入ろうじゃないか」


そう言いながら、ポンペイウス一行は、建物の中へと入っていく。

カイナップ親子が、それについていく。


ポンペイウスが温浴室(カルダリウム)に入ってくると、

黒髪の女性が振り向く。


見事な形の乳房が揺れる。

切れ長の目の、美しいローマ女性。

明らかに、ポンペイウスを知っている目だ。


周囲の老若男女も、ちらちらとポンペイウスの方を見る。

その場の誰もがポンペイウスを知っていた。

ローマでは、ポンペイウスを知らぬ者の方が少ない。


ポンペイウスは「みんなに見られている」

と強く意識しながら、

少しでも自分の身体を良く見せようとして、

背筋を伸ばし、

たるみ始めた腹を凹ませ、

胸をはって、堂々と歩く。


浴室用の木靴の音すらも、

威厳を感じさせるように気を遣う。



ポンペイウスが浴槽の中で手足を伸ばし、

カイナップに、武勇談を語り始めようとしたとき、

右の方から自分の名前が聞こえてくる。


どんな喧騒の中でも、

自分の名前にだけは、強く反応してしまう。


ポンペイウスが聞き耳を立てる。


「…ほんとは、マーニュスを付けるべきは、

ポンペイウスじゃなくてカエサルなんだよ…」


ポンペイウスの血が逆流する。


聞き捨てならない。


浴槽の中で仁王立ちになる。


心臓の鼓動が大きく聞こえる。



その者たちは、

ポンペイウスに背を向けて、

議論に夢中になっているため、

ポンペイウスの存在に気づいていなかった。


ポンペイウスが浴槽の中を歩いて、

その者たちのところへ向かう。


奴隷を引き連れていることから、

若い貴族たちのようだ。


その者たちの一人がポンペイウスに気づいて

「おい、あれ」と言い、

みながポンペイウスの方を振り向く。


ポンペイウスの恐ろしい形相を見て、

慌てて逃げようとする若者たちに、

ポンペイウスの鋭い声が飛ぶ。

「逃げるな」


若者たちが固まる。


「どういうことか、聞かせてもらおうか」


若者たちの一人が、目をそらしながら、

自分たち以外の人間に責任転嫁するように言う。

「いや、あの、みんな言ってますよ」


なんだと?


「ほら、あの本のせいで…」

今度は本に責任転嫁する。


「あの本?」


「まだ読んでないんですか?

この浴場に付属した図書室にもありますよ」


ポンペイウスは浴槽から飛び出し、

振り向いて言う。

「どっちの図書室だ?

ラテン語の方か? ギリシャ語の方か?」


「どっちにもあります」


どういうことだ?


ポンペイウスは、従者と奴隷を引き連れ、急ぎ足で、ラテン語の図書室へと向かう。


部屋に入ると、大勢の人たちが、見たこともない形状の、美しい色の書物を机の上に広げて、盛んにおしゃべりをしている。


人々がポンペイウスに気がつき、

部屋がしんと静まり返る。


人々が机の上の書物をコソコソと畳んで、隠そうとする。


ポンペイウスが、精一杯の威厳を保って言う。

「私にも見せてもらえんかね」


小さな少年が、震える手でその書物を差し出す。


その書物は、他の書物のようにロール状に巻いてあるのではなく、一定の大きさに切断されたパピルスを束ねたような形状をしていた。


しかし材質は、パピルスでも羊皮紙でもなかった。

この世のものとは思えないほど手触りが滑らかで、光沢がある。

とてつもなく贅沢な紙だ。いったいどれほどの金を積めば、このような紙を手に入れられるのか、想像もつかない。


表紙に、大きく「カエサルの業績」と書かれている。

この書籍のタイトルだろう。

人間が書いたと思えないほど完璧に均整の取れた文字。

美しい青色の線と控えめなグラデーションで、センスよくデザインされている。


表紙をめくると、見開きページ全体に、イラストが描かれている。

遠景に、押し寄せるヘルウェティイ族の大軍勢。

それを迎え撃つ勇ましいローマ軍団兵。

その指揮を執るカエサルの勇姿。


めまいがするほど精緻に描かれた、美しく、迫力のあるイラスト。

文章は、キケロの書く文章のように情熱的で高揚感があるのに、カエサルの書く文章のように平易で無駄がなく都会的で透き通っている。

奇跡のように洗練された文章だった。


5年前にカエサルがヘルウェティイ族を撃ち破った戦いが、血湧き肉躍る物語として、いきいきと語られている。


控えめに言って、とてつもない本だった。


しかも、信じられないことに、

それとまったく同じ本が、何百冊も、書棚にあった。


その書棚に貼り付けられた、

「ご自由にお持ち帰りください」

という張り紙を見て、

ポンペイウスは失神しそうになった。


1冊で家一軒買えそうなほどの豪華な本を、ご自由にお持ちくださいだと!?


ポンペイウスが取り憑かれたように、次々にページを(めく)る。


ガリア最強と言われるベルガエ人を撃ち破ったカエサル。

ガリア人が誰も敵わなかったゲルマンの大首領アリオウィストゥスを撃ち破ったカエサル。

地の果ての未知の島ブリタニアを征服するカエサル。


敵の凄さが、絵と文章と数値とグラフで、これでもかとわかりやすく、魅力的に、ド迫力で描かれている。

そして、敵が偉大に描かれれば描かれるほど、それを撃ち破ったカエサルの凄さが際立つのだった。

将軍の偉大さは、その将軍が撃ち破った敵の偉大さでできているのだ。



ポンペイウスは、自分は別格の英雄だと思っている。

そうでない状態を受け入れられるほど器が大きくない。

誰よりも賞賛されていないと、耐えられない。

だから、これほど大きな手柄を上げ、人々に英雄として認められているのにもかかわらず、他人の手柄に嫉妬し、よく他人の手柄を横取りしていた。


お前の手柄は俺のもの。

俺の手柄も俺のもの。


それがポンペイウスだ。



ポンペイウスがいままでカエサルと同盟を結んで来た最大の理由は、それがポンペイウスの政治的利益にかなうからだ。

しかし、あくまで、カエサルが格下だからこそ、自分の名声を脅かす心配なく、安心して協力できたのだ。

カエサルがガリアで少々業績をあげようが、とうてい自分がいままでになしえた業績を越えられるとは思っていなかったのだ。


ポンペイウスがさらにページを捲る。

全身の血が沸騰する。

さらにとんでもないインフォグラフィックスが目に入ってきたのだ。


ポンペイウスの凄まじい形相に、周囲の人々が恐れをなして逃げ出し始める。


ポンペイウスがポントス王ミトリダテスを打ち破った業績を讃えて、元老院が定めた感謝祭の日数は12日。

その12日の長さが横棒グラフで表現されている。

一方で、カエサルがベルガエ人を打ち負かした年の業績を讃えて元老院が定めた感謝祭は15日。

ローマ史上最大の長さの感謝祭だった。

カエサルがローマ人として初めてライン川を渡ってゲルマン人討伐を行い、かつ、地の果ての未知の島と考えられていたブリタニアにも侵攻した年の業績を讃えて元老院が定めた感謝祭は、なんと20日。

それらの棒グラフが、ポンペイウスのそれと並べられて、見開きページいっぱいにでーんと表示されているのだ。


そういうふうに、誰が見ても、「ローマ最大の英雄は、ポンペイウスではなくカエサルだ」ということがひと目で分かるようなグラフや、説得力のあるイラスト、文章が、すごい濃度で、この小冊子に詰め込まれている。

まるで敏腕ビジネスパーソンの商品プレゼンのように、嘘は書いていないが、カエサルにとって有利な事実だけを、最高度に魅力的に描き出しているのだ。


こめかみに青筋を立て、肩を震わせながらページを捲るポンペイウスに

「やあ、ポンペイウス・マーニュスじゃないか」

と後ろから声がかかる。


ポンペイウスが振り返ると、供の者を引き連れたドミティウス・アヘノバルブスだった。

高慢な笑顔を浮かべている。

ローマで最も格式ある貴族の一人だ。


アヘノバルブスが机の上に広げられた小冊子を見ながら言う。

「ガリア・トランサルピナとガリア・キサルピナの属州総督の件で話があるんだけど、いいかな」


もちろん、現在のガリア・トランサルピナとガリア・キサルピナの属州総督は、カエサル。

アヘノバルブスは、以前から、カエサルをクビにして、自分をガリア・トランサルピナとガリア・キサルピナの属州総督にすべきだと、元老院で主張している男だ。


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