輝く黒髪の、お菓子のCMにピッタリの女の子
先日、桐生涼介は、降格された。
年収は67万円下がった。
プロジェクトが赤字になったからだ。
「結果が全てだ」と上司は言う。
いや、でも、これ、俺のプロジェクトじゃないんすけど。
同僚の照井孝之が困っていたので、手伝ってやっただけなんすけど。
そう上司に訴えたら、
汚いものでも見るような目で、
「言い訳は見苦しいぞ」
と言い放たれた。
その場にへたり込み、
およよよよ
と泣き崩れる代わりに、
同僚たちに裏を取ってみた。
どうも、照井が根回ししていたようだ。
このプロジェクトが赤字になるということに気づいた照井は、
このプロジェクトを俺に押し付けて逃げたのだった。
最初からそれが照井の狙いだった。
それに気づいたときには、もう手遅れだった。
あたしって、ほんとバカ。
困ってるやつを見ると、ついつい助けちゃう俺は、
よく酷い目に遭う。
先日は、迷子の10歳くらいの女の子を助けてあげようとして、
危うく通報されそうになった。
情けは人のためならず、って格言、ウソだよ。
人助けをすると、ろくなことにならない。
で、結局、照井は俺の上司になった。
俺が苦労して成功させたプロジェクトは、照井のものになっていた。
スマホを見ると、照井からメッセンジャーが来ていた。
「桐生くん、『照井』じゃなくて『照井さん』と呼びなさい。
上司に対して敬語を使うのはビジネスパーソンの基本だぞ。」
「照井さん、すみませんでした。以降気をつけます。
照井さんのような、素敵な上司のもとで働けるかと思うと、
ワクワクします!」
とレスをしておく。
今日は土曜日。
まだ朝の10時だというのに、べとべとした暑さだ。
桐生涼介は、築36年のアパートで、
旧式のエアコンの騒音を聞きながら、
ノートPCで仕事をしている。
涼介は立ち上がってコーヒーを淹れる。
香ばしい匂いが、2LDKのアパートに広がっていく。
ちょっと息抜きをすっか。
ゲームか、
漫画か、
あ、そういえば。
涼介は、小さな円筒を、ポケットから取り出す。
先日、実家で、子供の頃の荷物を整理していたら、出てきたものだ。
ホコリまみれのビー玉や爆竹に混じって、お菓子の箱に、入っていた。
懐かしいな。
小学校の頃、幼馴染の橋本可奈からもらったやつだ。
赤いチェックのスカートのポケットから取り出して、手渡されたのを憶えている。
黄色人種のものとは明らかに異なる、真っ白な手だった。
あれも、今日のような、べとつく暑い日だった。
夏休み中の登校日。
校庭の隅のケヤキの大木の下。
セミが鳴いていた。
木漏れ日が可奈の白い顔にかかり、
瞳が茶色に輝いていた。
「何に使うもの?」と可奈に聞いたが、
いたずらっ子のような笑顔を返されただけだった。
この笑顔に大金を払うと言う人が、
はるばる東京から訪ねてきたことがあった。
大手の広告代理店の人間だ。
透き通るような白い肌と、
輝く黒髪が、
お菓子のコマーシャルにぴったりなのだと言う。
あれから21年。
思えば遠くへ来たもんだ。
あのころは現在を生きていた。
未来にワクワクしていた。
なんで俺は、こんなつまらない大人になっちまったんだろう?
ソリューション? ビッグデータ? 社内政治?
ほんと、心底どうでもいいわ。
なんとなく、その円筒についている小さな突起を、爪の先で押してみる。
その瞬間、バラバラと何かが飛び込んできて、
真っ白なコーヒーカップにぶつかって、ひっくり返す。
机の上に広がっていく香ばしいコーヒーの液体に浸されたそれは、
指だった。
4本。
人差し指と中指と薬指と小指……だろう。たぶん。
続いて、またなにかが背後から飛んできて、
窓ガラスにべちゃっと貼り付き、ずり落ちてゆく。
人間の顔半分。
金髪。青い目。
白いカーテンに血しぶきが付いた。
血のシミは洗濯しても落ちにくい。
いやそんなことを考えている場合じゃない。
どこから飛んできたんだ?
そう思って振り返る。
背後の壁が消失していた。
たくさんの葉を茂らせた、巨大な樹々の枝が、
風に吹かれて、わっさわっさと揺れている。
サウナのような、乾燥した熱い空気が入ってくる。
なんだこれ。
セミが鳴いている。
蝶々が飛んでいる。
倒れた人間らしきものが散らばっている。
木々の間を縫って、黒髪の子供が飛び込んでくる。
背中に、2本の矢が刺さっている。
右腕には矢が貫通し、矢じりが飛び出ている。
左腕は上腕部で切断され、骨が突き出ている。
うっわ。
腕を切断されたら、20分もたたずに失血死する。
時間がない。
なにか傷口を縛るもの…手ぬぐい、どこに入れておいたっけ?
その子供が、
最後に残った命の炎を、燃やし尽くすようにして叫ぶ。
「『使節団を襲うのは許されざる犯罪だ』
と言ったの、カエサルじゃないか。
そのカエサルが、われわれの使節団を襲うとは、
どういう了見だ?」
ラテン語だ。
その子を追いかけて、長剣を持った男が飛び込んでくる。
大きな赤い盾を持っている。
兜をかぶり、鎖帷子を着ている。
長身の涼介よりもさらに背が高い。
その男が子供に向かって
長剣を振り下ろす。
涼介は反射的に子供を抱きかかえ、
横に飛び退く。
空を切った男の剣が、
ノートパソコンを叩き割る。
液晶ディスプレイとキーボードが砕ける。
破片とキーが飛び散る。
やりやがったな、このやろう。
それ、最高グレードのCPUと大容量SSDを組み込んだやつだぞ。
その大男が涼介と子供の方を振り向く。
鎖帷子がジャラリと音を立てる。
右手に持った剣を伝って、血の雫がしたたり落ちる。
どっくん、どっくん、と、自分の心臓の音が聞こえる。
その男もラテン語で言う。
「蛮族どもが『ローマの使節団』を襲うのは、
いかなる場合も許されざる重大犯罪に決まっている。
しかし、我々ローマ人は、場合によっては、
『蛮族の使節団』を捕らえる必要がある」
捕らえる?
殺そうとしているように見えるんですがそれは。
涼介は、その子の左腕の切断箇所を、手ぬぐいで縛り終わると、
ラテン語で話しかける。
「とりあえず武器を置いて、話し合いで…」
男がギョロリと涼介を見る。
猿か豚でも見るような目だ。
そこに、さらに別の男2人が部屋に入ってくる。
その男たちも、全く同じデザインの武装。
こちらは白人としては小柄。
痩せたイタリアのちょい悪おやじと、
カルロス・ゴーンを叩き潰して小汚くしたような小太り。
…あかん。
こりゃ、話し合いとか、win-winとか、落とし所とか、
そういう感じじゃない。
仕事で培った俺の交渉スキルは、役に立ちそうもない。
逃げよう。
涼介は、子供を片手にかかえて、リビングに飛び込む。
寝室とリビングの間のドアを、叩きつけるように閉める。
巨漢がそのドアを開けようとする。
しかし開け方が分からないのか、手間取っている。
ドアに嵌めこまれたガラスの破片が、飛び散る。
男が、ドアのガラスに、剣を叩きつけたのだ。
涼介は、子供を抱えて、玄関へ行く。
子供を脇に置く。
スニーカーを履く。
巨漢は、サンダルのかかとでドアを蹴飛ばす。
2発目で、ドアが蝶番ごと千切れて、吹っ飛んでいく。
男たちが、リビングになだれ込んでくる。
スニーカーを履き終わった涼介は、バネのように立ち上がる。
子供を片手で抱えて、玄関のドアを開けて飛び出す。
もわっと、重たく湿った暑い空気に包まれる。
涼介の部屋は、3階建てアパートの、3階にある。
子供が身をよじる。
涼介の右腕に鋭い痛みが走る。
子供の上腕を貫通している矢の先端が、
涼介の皮膚を切り裂いたのだ。
子供はかなり出血しており、
血でぬるりと滑って、涼介の手を抜け出す。
子供は転がり落ちるように階段を駆け下りていく。
速い。
涼介もその後を追って階段を駆け下りていく。
一階まで駆け下りると、
玄関ホールのオートロックのドアのところで、
子供が足止めを食らっていた。
子供が涼介の方を振り返る。
ぎょっとするほど、可奈に似ていた。
輝く黒髪と、透き通るような白い肌。
お菓子のコマーシャルにぴったりの少女だ。
涼介の記憶の中にある、小学生の頃の可奈そのままだった。
涼介がオートロックのドアを内側から開ける。
一緒にアパートの前の道路に飛び出す。
涼介が振り返ると、男たちが階段から次々に降りてくるところだった。
アパートの壁が、真夏の太陽に焼かれて白く輝いている。
「あっち」と言いながら、涼介は走る方向を指で指し示す。
子供は涼介の指さした方向へ走りだす。
異様に速い。
狐のような敏捷さで、通行人の間を縫って、駆け抜けていく。
可奈が50m走で小学生日本新記録を出したときのことを思い出しながら、
涼介はそれを追いかけていく。
…まずいな。
これだけの傷を負って、
こんな速さで走ったら、すぐに死ぬぞ。
この男たちを振り切ったら、すぐにこの子を、病院に…。
---
角を曲がって少し走ると、すぐに商店街だ。
ちょうど店が開き始めている。
いつものように、60代の八百屋のおやじが、野菜と果物を並べている。
駅ビルのスーパーとの価格競争&住み分けのためか、
どれもスーパーよりも少し安く、少し質が悪い。
別の客層を狙っているのだろう。
その横を、子供と涼介が走り抜ける。
それを追いかけて、剣を持った男たちが、キョロキョロとあたりを見回しながら、走っていく。
走り抜けるとき、痩せた男が、りんごの置かれた台をひっくり返す。
りんごがアスファルトの上に転がっていく。
男はりんごを蹴飛ばしながら、そのまま走って行こうとする。
「おい、こら」
八百屋の主人が、あたりに響き渡る大声で呼びとめる。
3人の男のうち2人が立ち止まって振り返る。
2人とも全身に返り血を浴びている。
ぜいぜいと肩で息をしている。
2人で何かしゃべっている様子。何語だか分からない。
その2人の男は、路上生活者のような臭いがした。
長く風呂に入っていない臭いだ。
いや、それ以上に臭い。
八百屋の主人は、汚物でも見るような目で、その男たちを見る。
彼は臭い人間が大嫌いだった。
路上生活者はさらにもっと嫌いだった。
消えていなくなってほしいと思っていた。
そういう目で、その2人の男たちを見る。
目は口ほどに物を言い、それは男たちに伝わる。
2人の男たちの顔つきが変わる。
侮辱に敏感な人間に特有のそれだ。
しかし八百屋の主人は、侮辱された人間の気持ちに鈍感だった。
見下す側は、見下される側の気持ちなど、気にしないものだ。
八百屋の主人は、完全に男たちをバカにしきっていた。
ナメていた。
主人が小太りの男の肩をつかむ。
「おい、弁償…」と言いかけたところで、
小太りの男が、長剣を、八百屋の主人の顔面の真ん中に突き刺し、引きぬく。
八百屋の主人の顔面の中央に、ぱっくりと赤い穴が空く。
血と一緒に内容物が流れだす。
丁寧に三角に積み上げた大根の山の上に、主人の身体が崩れ落ちる。
ところどころ赤く染まった大根がアスファルトの上を転がってゆく。
ベビーカーを押していた、目も口も小さい色白の女性が悲鳴を上げる。
携帯用警報機のようなすごい音量だ。
驚いた背の高い男が、反射的に剣をその女性の喉に突き刺して、引きぬく。
悲鳴が止む。
頸動脈が切れたのか、意外なほど大量の血液が噴出し、
ベシャベシャとベビーカーの上に降り注ぐ。
女性の身体がベビーカーの上に崩れ落ちる。
ベビーカーの中の幼児が、火がついたように泣き出す。
幼児の上に、無造作に剣が振り下ろされる。
ぺしゃんこになったベビーカーから、赤いものがアスファルトに広がっていく。
もう泣き声は聞こえない。
---
残りの1人の男は、八百屋のところで引っかからず、
そのまま涼介と子供を追いかけていく。
身長190cmを越える巨漢なのに、とんでもなく足が速い。
異様に膨れ上がった筋肉の塊。
樹々をなぎ倒す土石流のように、路地の通行人を次々に弾き飛ばしながら、突き進んでいく。
アメフトの選手になれば、チアリーダーの熱い視線を集めるスタープレーヤーになりそうだ。
涼介と子供がもう一つの角を曲がった所で、「涼介!」と呼び止められる。
涼介が振り返ると、可奈が立っている。
つられて、片腕のない子供も立ち止まる。
なんでここに可奈がいるんだ?
「どうし…」と可奈が言いかけて、可奈と子供の視線が合い、可奈が絶句する。
その子供も、可奈を見つめたまま、凍りついたように動きを止める。
その子供は、幼い頃の可奈と似すぎていた。
「似ている」と言うより、「同じ」と言った方が適切なくらいだ。
クローン?
時間差ドッペルゲンガー?
その子供が何かを言う。
日本語でも英語でもラテン語でもないことは分かる。
意味はわからない。
そこに剣を持った巨漢が角を曲がって、走り抜けていく。
男が少し行き過ぎてから、たたらを踏んで、振り返る。
男が可奈の顔を見て、目を大きく見開き、「カナ!? いや、カナの姉か?」と叫ぶ。
その場に数名の日本人がいたが、
この言葉の意味がわかったのは、可奈と涼介とその子供だけだった。
ラテン語だったからだ。
男がその子供に向かって、剣を突き出す。
それを見た涼介が総毛立つ。
重たい鎖帷子を着込んでいるというのに、
電撃のように鋭い突きだ。
その子供は、きわどいところで身体を捻り、
なんとかそれを避ける。
男の剣は、代わりにバーコード頭の太った背広の男の腹部を貫通し、
剣先が背中に飛び出る。
背中から吹き出る血を見て、
周囲から悲鳴があがり、
パニックが伝染していく。
人々が逃げ惑い、
太ったおばさんが躓いて倒れ、
それに後続が次々に躓いて、
連鎖的に折り重なって転倒していく。
小さな子どもが押しつぶされて、
あぎゃうげえええええと、
小動物の断末魔のような叫びを上げる。
男はまるで、
子供が剣を避けるのを予測していたかのように、
背広の男から剣を引き抜くと、
途切れなくさらに踏み込んで、
次の刺突を繰り出す。
子供もそれを読んでいて、
またしてもきわどいところで避け、
男の剣は空を切る。
しかし、子供が避けた先は、
建物の窪みになっているところで、
子供は追い詰められた形になった。
男は最初からそれを狙って、
詰将棋をするように連続技を繰り出していたのだ。
男が勝利を確信して、
最後の王手を子供に突き出す。
子供は、残されたわずかな力を振り絞って、
跳躍する。
しかし、背中に刺さった矢が、
建物から出ている看板につっかかってしまい、
空中で止まる。
子供の胸部を狙った男の右手の剣は、
結果的に子供の太ももを貫通して、
壁に深々と刺さる。
子供は、建物の壁に、
剣で縫い止められる形になった。
男は剣から手を離す。
右拳を振り上げ、
ピンで固定された蝶の標本のように動けなくなった子供の腹を、
力任せに殴りつける。
内臓が潰れる嫌な音が響き渡る。
周囲の見物人が一斉に顔をしかめる。
ついで左拳。
左斜め下から、
強烈なフックが腹部を直撃する。
異音が辺りに響き渡り、
子供の口と下腹部から、
赤い液体が勢い良く吹き出す。
男がさらに殴り続けようと右拳を振り上げた瞬間、
涼介が体当たりで男を突き飛ばす。
男が涼介と一緒に転倒する。
男の鎖帷子と兜がアスファルトで擦れて、
火花が散る。
体重140kgはありそうな鷲鼻の巨人は、
まさか自分を体当たりで突き飛ばすような男がいるとは想像だにしておらず、
結果的に不意打ちになった。
涼介が一瞬男に馬乗りになろうとするが、
血でぬるりと手足が滑って男に振り飛ばされる。
涼介は隣のラーメン屋の看板に激突。
看板が倒れて割れ、
派手な音を立ててプラスチックの破片が飛び散る。
巨漢が立ち上がる。
剣で壁に縫い止められた子供は、
剣にひっかかってぶら下がっていて、
ピクりとも動かない。
巨漢が剣を引き抜く。
子供、もしくは、さっきまで子供だった肉の塊が、
べちゃりと下に落ちる。
涼介がふらつきながら立ち上がると同時に、
巨漢が剣を振り上げる。
涼介にその剣が振り下ろされる直前、
可奈が涼介を突き飛ばす。
しかし体重106kgの涼介の身体は、
瞬時に弾き飛ばすには巨大すぎ、
タイミングがわずかに遅れた。
それで残った可奈の左足の膝から下が、
男の剣に切断され、
アスファルトに転がってゆく。
可奈の左脚の切断面から、
勢い良く血が噴き出る。
可奈の真っ白な左足が、
アスファルトの上にモノのように転がったまま、
血に染まっていく。
涼介の中から、
怒りとも悲しみとも悔恨ともつかない感情が吹き出す。
涼介が跳ね起きる。
男の腕を掴んで男の足を払い、
後頭部からアスファルトに叩きつける。
ものすごい音が響き渡り、
衝撃で男の兜が飛ばされ、
ガランガランと転がっていく。
頭蓋が砕けたかもしれない。
男は受け身を取らなかったのだ。
まるで素人だ。
涼介はダメ押しで、
男の顔面をかかとで踏みつけようとする。
しかし、おどろくべきことに、
男は信じられないほど敏捷に避けて、跳ね起きた。
死ぬどころか脳震盪すら起こしていない。
人間離れしているどころではない。
まるで巨大なゴム人形のようだ。
その大男は涼介の足を右手で掴んで引き倒し、
まるで魚の尾を掴んでまな板に叩きつけるように、
涼介の身体を地面に叩きつける。
腕力も人間離れしている。
涼介は受け身をとったが、
効果的な受け身のとりようのない攻撃でもあった。
全身を地面にたたきつけられた涼介が、
脳震盪を起こしかけている間に、
男は涼介に馬乗りになる。
ブランクがあるとはいえ、
涼介が路上でマウントポジションを取られたのは
初めてだった。
しかも、その巨漢の動きは、
まったく素人のものだった。
ただ単純に筋力と耐久力が人間離れしていただけだった。
桁外れの筋力と耐久力が、
涼介が長い年月をかけて積み重ねてきた
技もテクニックも、
やすやすと凌駕してしまう。
男が剣を逆手に持って、
涼介の胸に突き刺そうと、振り上げる。
次の瞬間、男は「う…」とうめいて、
動きが止まる。
可奈が、右斜め後ろから、
男の首に、左腕でしがみつき、
右手でボールペンを、
男の右目に突き立てたのだ。
男の右目からドロリと内容物が流れだす。
男の髪の毛が逆立ち、
恐ろしい形相になる。
「このクソ蛮族がああああああっ」
と、凄まじい怒声が男の口からほとばしり、
周囲の建物の窓ガラスをビリビリと震わせる。
男はたまらず、
涼介に突き刺そうとして振り上げた剣の方向を変え、
自分の右後ろにくっついている可奈の身体に突き刺す。
服と皮膚と筋肉と内蔵を突き破る音がして、
可奈の背中から剣が生える。
涼介が「可奈あああああああああ」と
血を吐くような絶叫をあげる。
しかし、脳震盪を起こしかけているせいと、
男が巨大すぎるせいで、
男のマウントポジションを跳ね返すことができない。
剣で貫かれた可奈は、
それでも、男の背中から離れなかった。
ここで離れれば、
この男が次に涼介を殺すのが明らかだったからだ。
可奈はもう自分が助かる気はなかった。
可奈は血に浸った奥歯を食いしばると、
指ごとボールペンを更に奥にねじ込む。
さらにもっとドロリとした液体が眼球から出てくる。
男は巨獣のように咆哮し、
可奈に突き刺した剣を横に薙ぎ払う。
可奈の腹部が半分ちぎれ、
肝臓と腸がアスファルトにぶちまけられる。
しかし、それさえも、
可奈の意志を打ち砕くことは、できなかった。
並の人間なら失神どころか発狂しそうな凄まじい激痛の中、
可奈の目は爛々と輝き、不敵に笑っていた。
人間に可能な美しさを超えた可奈の容姿は、
恒星が死ぬ瞬間に超新星爆発の煌めきを放つような、
壮絶な美しさを周囲に放っていた。
一方で、可奈の脳は、
まるで現場から離れた作戦司令室のように、
冷徹にこの戦いに勝つ方法を計算していた。
可奈の脳裏には解剖学的イメージが浮かんでいる。
可奈が狙ったのは男の右目ではなく、
その後ろにある脳だった。
鋼鉄のような確固たる意志が込められた可奈のボールペンの先が、
男の脳に達し、
力任せにボールペンをかき回して、
豆腐のような脳を撹拌する。
赤い粘土のようなものがヌチャリと出てくる。
男の絶叫がクライマックスに達し、
白く輝く積乱雲が峰のように盛り上がる青空に響き渡る。
次の瞬間、その絶叫が途切れ、
男はビク、ビクビクン、ビクと痙攣し、
動かなくなる。
涼介はよたよたと男の下から這い出すと、
動かなくなった巨漢から可奈を引き剥がす。
可奈のとびだした内蔵を拾い集めて、
体内に戻そうとする。
可奈は、あの日、
小学校の校庭で見せたのと同じ人懐っこい微笑みを浮かべながら、
涼介の頬に手を添え、
ゴボゴボと血を吐きながら、
満足気に言う。
「無事で良かった」
涼介も何か言おうとするが、
言葉にならない。
パトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
---
人間のノドから発せられたとは思えないような異様な悲鳴。
ちょうど八百屋の裏の道を、自転車で巡回中だった警察官は、
「いったい何事か」
と、八百屋の角から顔を出す。
イタリアのちょい悪おやじを下品にしたような痩せた白人と、
小太りの汚い白人。
どちらもコスプレしてる。
足元に血だまりらしいものが広がっている。
テレビか映画の撮影か。
これ、なんの格好だっけ。
昔、なんかの映画で見たことがある。
中世ヨーロッパ?
テレビカメラを探す。
カメラが見当たらない。
どこから撮影してるんだろう。
アスファルトに広がった血だまりの中に、
八百屋の主人と、
色白の女性が倒れている。
潰れたベビーカーも、真っ赤に濡れている。
すごい臭いがする。
血の匂い? 動物の血を使った撮影?
…いや、なんかおかしい。
警察官が本能的に異変を感じて、
表情が変わる。
身を硬くする。
腰の拳銃の場所を確かめる。
そこに、薄紫のスウェットの初老の女性が、
自転車に乗ってやってくる。
『この狭い路地でこのスピードはむちゃだろう』
というスピードで、角を曲がって現れる。
ちょい悪おやじにぶつかりそうになって、
急ブレーキをかける。
間に合わずに、少しぶつかる。
「ちょっと、
なに通路の真ん中で突っ立ってるのよ!
邪魔なのが分からな…」
調子よく甲高い声で言い終わる前に、
ちょい悪おやじの剣が、
その初老の女性の頭部に振り下ろされる。
重量のある長剣が、
スイカを割るように頭蓋を砕き、
辺りに脳漿が飛び散る。
女性の体が、
自転車と一緒に血だまりの中にバシャリと倒れ、
さらに血だまりが拡大してゆく。
警察官が大慌てで
腰のホルスターのカバーを開ける。
拳銃を取り出し、
銃口をちょい悪おやじに向ける。
この警察官の構えているのは、ニューナンブM60。
回転式拳銃だ。
回転式拳銃は構造がシンプルなので故障しにくい。
命がかかっているその瞬間に、確実に動作する銃だ。
「刃物を捨てなさい」
鋭い口調で命令する。
国家権力から、法と秩序を守るために与えられた、
強力な権限。
アウトローを法に服従させる気概と気迫に満ちた、
高圧的な声だ。
ちょい悪おやじの顔に、
不快感とイラつきが浮かぶ。
言葉の意味は分からなくても、
『命令された』ことは、分かるらしい。
さっきの八百屋の主人に侮辱されたこともあって、
いらだちは怒りに近いものになってゆく。
「きさまごときが、俺に命令するとは、
ただで済むとは思うなよ」
とでも言いたげな居丈高な態度で、
何かを言い返す。
日本語でも英語でもない。
男たちのただならぬ剣幕に、
「こいつは一筋縄ではいかない」
と感じた警察官は、
片手で銃を構えながら、
無線で応援を呼ぶ。
周囲に野次馬が集まってくる。
「危険です。離れてくださいっ」
と警察官が叫ぶ。
それでもしつこくスマホをかざして
写真を撮ろうとする金髪の若者を、
警察官が怒鳴りつける。
「馬鹿野郎っ。
さっさと逃げろっ。
こいつらは人殺しだっ。
お前も殺されるぞっ」
親にすら、これほど苛烈な罵声を
叩きつけられたことのなかったその若者は、
ショックで涙目になりながら逃げ出す。
他の野次馬たちも、
蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そうして、警察官とコスプレ男たちが睨み合っている
ほんのわずかなうちに、
すごいスピードで、3人の警察官が走ってやってくる。
合計4丁の銃が
コスプレ男たちに向けられる。
どの警官も同じ銃を構えている。
みなニューナンブM60だ。
日本の警察官は、だいたいこの銃を使っている。
全長20センチ。重量685グラム。
常時携帯していても負担にならない実用的なサイズだ。
一見、無秩序に取り囲んでいるようにも見えるが、
発砲しても銃弾が他の警察官に当たらないように、
ちゃんと射線を考えて配置している。
さすが、よく訓練された先進国の警察官。
ならず者の烏合の衆とはわけが違う。
しかし、あまり戦闘経験のない警察官たちの心臓は、
尋常ならざるペースで脈打ち、嫌な脂汗が出ている。
浅黒い顔をした30代の四角い顔の警察官が、
引きつったような顔で、
緊張のあまりどもりながら、
日本語と英語の警告を交互に繰り返す。
コスプレ男たちは、自分たちが「下」に見られて、
「命令」されていることを、敏感に感じ取り、
獰猛な目つきに変わる。
自分が下に見られることに
恥と怒りを感じるタイプの人間であることが、
理屈抜きに伝わってくる。
自分が他者を支配し、服従させることが当然であって、
その逆は受け入れがたいと思っているのだろう。
しかし、法と秩序を守らせることに
強い使命感を感じている日本の警察官が、
そんなもので引き下がるはずがない。
浅黒い顔の警察官が、威嚇射撃をする。
雷鳴のような凄まじい音に、男たちが仰天する。
後退って、よろめく。
そして、轟音に怯えた自分自身に、腹を立てる。
その狼狽を、遠巻きに見ている野次馬たちに見られたことを羞恥し、
顔が赤く染まっていく。
先ほどまでの横柄な態度が吹き飛び、
手負いの野獣のような目つきに変わる。
公衆の面前で恥をかかされたのだ。
このまま引き下がっては自分の名誉が守れない。
生かしてはおくわけにはいかない。
目がそう言っている。
しかし、こういう手合との殺し合いの経験のない
交番勤務の警官たちには、
その表情の意味が読み取れない。
あ。と思うまもなく、二人の男が、
まるでタイミングを示し合わせたかのように、
猛然と警察官たちに突進する。
パンパンパンと3発銃弾が発射される。
そのうち1発がちょいワルおやじの肩に当たり、
1発が小太りの男の胸に当たる。
警官たちのニューナンブM60は38口径。
38スペシャル弾が装填されている。
この弾薬の物理エネルギーは256ジュール。
この程度の弾丸を撃ち込んだくらいでは、
男たちの突進は止められない。
男たちが長剣を振り下ろす。
ちょい悪おやじは警察官の腕を叩き斬る。
小太りは警察官の頭蓋を叩き割る。
ちぎれた腕が転がる。
スイカを叩き割ったように、
髪の毛のついたままの頭蓋骨の破片が
アスファルトに散らばる。
残りの2人の警官は、恐怖と怒りに突き動かされて、
残りの弾丸をありったけ男たちに叩きこむ。
そのうち一発は小太りの男の頭に穴を開ける。
ちょい悪おやじは、
腹部と胸に合計3発の銃弾が撃ち込まれ、
首に撃ち込まれた弾丸が切り裂いた頸動脈から
大量の血が吹き出す。
後には、頭部を割られて即死した警官の死体。
片腕を切断されてのたうち回る警官。
全弾撃ち尽くして呆然と立ち尽くす2人の警官。
そして2体のコスプレ男の死体が残った。
サイレンの音が近づいてくる。
---
病院の廊下。
3人の白衣の男性が近づいてきて、
涼介の腰掛けている長椅子に座る。
涼介の隣は、五分刈りで小太りの男だ。
冷房がきいているのに、汗をかいている。
窓から、東京タワーが見える。
男が「失礼ですが、桐生涼介さんですか?」と聞く。
涼介が「はい」と答える。
「日本クライオニクス・ラボラトリーの進藤と申します。
橋本可奈さんがお亡くなりになられた場合、
契約に基づいて処置を施すことになっています」
涼介が頷く。
涼介はこの男の顔写真をネットで見たことがある。
人体冷凍保存を支持している医師で、
その界隈では、ちょっとした有名人だ。
進藤自身、
「自分が死んだら
自分の体をクライオニクスで冷凍保存し、
未来のナノマシーンで蘇生されるつもりだ」
と、ブログや短文投稿サイトで公言していた。
やがて手術室のランプが消え、
中から出てきた医師が可奈の死を告げる。
涼介は目の前の医師が告げる内容に
リアリティが感じられない。
可奈は存在するのが当然で、
彼女が存在しないという状態が
身体に染みて来ない。
実際のリアルは、
意外にリアリティがないものだ。
棒立ちしている涼介の隣で、
進藤医師が可奈との契約書と同意書を提示し、
手術室に入る。
持ち込んだアイスボックスから氷水を取り出し、
可奈の死体の頭部を冷やす。
脳は温かい状態で長時間無酸素になると
細胞組織が損傷しやすいからだ。
とりあえずの応急処置だ。
進藤医師がひと通り処置を終えると、
可奈の遺体が、別室に移される。
その部屋に可奈と涼介だけが残される。
ベッドの白いシーツの上に横たわる可奈の前に、
涼介が立つ。
なぜ、可奈と自分がここにいるのか、
よく分からない。
可奈は眠っているように見える。
ふと、熱い夏の日の午前中、
芝生の上を、
可奈と一緒に転げ回って笑った、
幼い日の光景を思い出す。
八宮市鈴原にある可奈の実家。
橋本家の庭の芝生。
冬、こたつの中に可奈と一緒に潜り込んだ。
こたつの中の真っ赤な光に照らされた、
可奈のいたずらっ子のような笑顔。
こたつで、みかんを食べながらトランプをした。
ストーブの上で、ヤカンから湯気が出ていた。
実家のバスタブに、二人で一緒に入った。
二人でお湯の中に潜って、湯の中で目を開けて見た。
水の中で揺れる可奈の幼い裸体。
二人で背中を洗いあった。
可奈の祖母のアトリエの暖炉の前で、
一緒に並んでかじかむ手を炎にかざした。
楽しかった。
楽しかった。
楽しかった…。
…そうか、もう、二度と可奈と一緒に笑い合うことはないのか。
突然、涼介が咆哮を放つ。
その響きは、近隣の家々まで広がっていく。
仲間の死を悼む巨大な狼の遠吠えのように、
はるか遠くまで伝わってゆく。
気がつくと、
涼介の目から涙があふれて、
頬を伝って流れていた。
涼介は、ようやく、少しずつ、
可奈の死を理解し始めていた。
---
涼介が病院から自宅へと向かう電車の中で、
警察から電話がかかってくる。
重要参考人として
警察に出頭して欲しいとのこと。
「心身ともに疲弊しているので、
回復してから、後日、出頭する」
という趣旨のことを、たどたどしい口調で要領悪く伝える。
話す内容が
ろくに文章として成立していない。
話している途中、警察の人が心配して
「大丈夫ですか?」
「ほんとに大丈夫ですか?」
と何度も聞いてきた。
涼介はまるで認知症患者のように、
大丈夫、大丈夫と繰り返す。
自分が何をしているのか認識できていない。
可奈が死んだショックで
脳が半ば麻痺状態になっているのか。
酷く頭が痛い。
悪性の風邪にかかったかのように、
発熱し、悪寒がある。
右腕の切り傷のところを中心に、
右腕全体が腫れている。
電話を切ってスマホのステータスバーを見る。
11時46分。
飲食店や惣菜屋の前の人通りが増え始めている。
大通りでタクシーを降りる。
そこから自宅のアパートの共同玄関のところまで、
歩いてくる。
アパートの陰から、
先程の可奈そっくりの子供が、
よろよろと出てくる。
あいかわらず、
切断された左腕の上腕部から、
血まみれの骨が突き出している。
血が固まって赤黒くなっている。
刺さっている矢はどれも折れて、
矢羽の部分はなくなっている。
なんで、この子がここにいるんだ?
どうやって来たんだ?
というか、なんで生きているんだ?
あの巨漢に腹を殴られて、内臓破裂で死んだはずなのに。
あれで生きていられたとしたら、人間じゃない。
ということは、この子は人間じゃない?
少なくとも、「普通の人間ではない」と断定してもいいだろう。
魔法?妖怪?幽霊?
そんなものは、空想の産物にすぎない。
物理的に存在することはありえない。
古代に生きていた、不死身の種族?
そんな人間が突然変異で自然発生することは、
生物学的に、100%ありえない。
宇宙人?
宇宙人が、こんな都合よく、
人間そっくりに進化するわけがない。
遺伝子操作かナノマシーンで強化された人間?
紀元前1世紀に、そんなものあるわけが…
ああ、そうか。
the gate deviceじゃなくて、
a gate deviceだったのか。
あのゲートデバイスは複数存在するんだ。
21世紀人の俺が紀元前1世紀へのタイムゲートを手に入れたように、
25世紀人の誰かが紀元前1世紀へのタイムゲートを手に入れた、とか。
はるか未来のテクノロジーでなら、
こういう人間を、人工的に作り出せる可能性はある。
21世紀のテクノロジーで、
紀元前1世紀の軍隊をフルボッコにしようなどと、
上から目線で、甘いことを考えていたら、
逆に、25世紀のテクノロジーでフルボッコにされる、
なんてことになりかねんぞ。
自分はあいつよりも有能だから、と、
上から目線で、甘いことを考えているけど、
実際は自分の方がよっぽど無能、
という奴、よくいるよな。
危なかった。
もう少しで俺、そういう奴になるところだった。
重たい足を引きずりながら、
そんなことを、半ば麻痺した脳でぼーっと考えつつ、
子供と一緒にアパートの建物の中に入り、階段を登っていく。
その子供が申し訳なさそうに、ラテン語で言う。
「ごめんなさい。私のせいで…」
「いや。あんたのせいじゃない」
自分の部屋の玄関の前に来る。
ドアが閉まっている。
あれ?
ドアを開け放しで逃げ出したと思ったんだが。
誰が閉めたんだ?
もしかして、誰かが中にいる?
待ちぶせされてる?
まさか、あの男たちの仲間?
本能的な恐怖と緊張が戻ってくる。
心身ともに疲弊し、
もう逃げる気力も戦う体力もない。
しかし、その子供のために、
なけなしの気力と体力を絞り出す。
血中のアドレナリン濃度が急速に上昇し、
脳が回転を始める。
玄関の前で耳をそばだてる。
人の気配はない。
何があってもすぐに逃げられるような体勢で、
注意深く、玄関のドアを開ける。
その瞬間、大きな音がする。
涼介と子供は弾かれたように、
ドアから離れて飛び退る。
しかしそれは、室内に入り込んでいた鳥が、
人の気配を感じて、
ゲートの向こう側へと飛び立った音だった。
音の正体が分かって、涼介は「ふー」と溜息を付く。
改めて、慎重に部屋に入っていく。
自分の心臓の鼓動が聞こえる。
森林の匂いのする熱い風が、
中から外へ吹いている。
玄関のドアを閉め、寝室に戻る。
セミの声。
飛び回る羽虫。
人の気配は感じられない。
樹と草とキノコと血の臭い。
木漏れ日。
日本では見たことがないほどの大木たち。
6~7階建てのアパートぐらいの高さがある。
独特の樹の幹の模様。ブナだ。
向こう側から風が吹き込んでくるわけでも、
風が出て行っているわけでもない。
ということは、気圧が同じということか。
…いや、違う。
さっき玄関を開けたときは、空気が流れていた。
今はこの部屋の戸と窓が全て閉まっているから、
気圧差があっても空気の流れが発生しないだけだ。
窓の下の方に、
金髪碧眼の顔半分がへばりついている。
窓を開けてみる。
森の方から、勢いよく風が吹き込んできて、
部屋の中を通って窓の外へ吹き抜けていく。
森の落ち葉、小枝、木の実などが舞い上がって
部屋の中に吹き込んでくる。
この葉っぱはブナだ。
これはポプラ。
こちらは樫。
子供のころ、旅行先の森で可奈と一緒に拾って、
二人で顔を寄せあって図鑑を調べたから、覚えてる。
可奈のやわらかい髪の毛から、
いい匂いがしたことを思い出す。
古代ローマ人は、
イタリア北部~スイス~フランス~ベルギーのあたりを
『ガリア』と呼んでいた。
紀元前1世紀にユリウス・カエサルがガリアを征服する前、
ガリアには、ケルト人がたくさんの部族に別れて暮らしていた。
現在のヨーロッパは見通しの良い畑や牧草地が広がっているが、
当時のヨーロッパ大陸は、ほとんどが夜のような深い森に覆われていた。
カエサル率いるローマ軍は、
そのどこまでも広がる森の中を進んで、
ガリア部族を次々に征服していった。
フランスの大西洋岸は、
西岸海洋性気候であり、
カエサルの時代、
ブナ、ポプラ、樫がたくさん生えていた。
デスクの上の、赤ペンで書き込んだ仕様書の紙が、
風に飛ばされて窓の外へ飛んでいく。
やばい。社外秘の書類なのに。
涼介はあわてて窓を閉める。
風が止む。
つまり、こちら側の方が気圧が低いわけだ。
子供が、ゲートの向こう側へと走り出す。
涼介が慌ててそれを追いかける。
「どこへ行く?」
と涼介がラテン語で聞く。
子供は走りながら、空の一角を指差す。
煙が上がっていた。
「集落が蹂躙(VASTATIO)されてる」と言う。
「襲撃」でも「略奪」でもなく、「蹂躙(VASTATIO)」?
この単語、どういう意味だっけ?
長い間ラテン語を使ってないので、
細かいニュアンスまで思い出せない。
まあ、いいや。
それより、この子、誰だ?
「俺はリョウスケ。あんた、名前は?」
子供が驚いて涼介の顔を見る。
少しの沈黙の後、答える。
「サーシャだ。サーシャ・ビルフィート」
ビルフィート?
可奈の祖母アスリンの結婚前の名前は、
アスリン・ビルフィートだ。
「あんたは、未来からやってきたのか?」
「私自身は、ガリアで生まれ、育った。
私の母は、未来からやってきたらしい」
「あんたのお母さんは、未来と行き来できるのか?」
「できない」
どういうことだ?
一方通行のタイムゲートなのか?
森を抜けると、畑が広がっていた。
その畑は燃えていた。
放射熱がここまで伝わってきて、熱い。
燃えカスが炎に吹き上げられて、空に舞い上がっていく。
8歳くらいの金髪の少女が、座り込み、泣いている。
チェック模様のズボンを履いた、
上半身裸の長髪の男性が一人、
長剣を握ったまま、
仰向けに倒れている。
胸から腰にかけて、ざっくりと斬られ、
傷口に蝿がうじゃうじゃ集まっている。
かっと見開いたままの両目にも、
蝿がたかっている。
サーシャが吐き捨てるように言う。
「クソが。
どれだけ殺せば気が済むんだ?」
「なんで殺されたんだ?」
「カエサルの平常運転さ。
地元の指導者が和平を求めて人質を差し出してくるまで、
畑を焼き払い、略奪しながら前進するんだ」
???
映画や本に描かれている英雄カエサルは、
高貴で寛容な人格者だ。
こんな下劣なことをやるような人間には思えないが…。
「ほんとにカエサルの命令でやってるのか?
カエサルは寛大な…」
サーシャが「ふ。」と笑って言う。
「彼は寛大だよ。
そうした方が得策な場合はね」
サーシャが走り出す。
涼介もその後を追う。
燃える畑の向こうに、
集落らしきものが見えている。
サーシャと涼介は、
畑を迂回して、集落へと走っていく。
集落に入ると、下半身を露出させた男がいた。
泣き叫ぶ少女の金髪を掴んで引きずり倒す。
馬乗りになって、服を引き裂きはじめる。
少女が必死に抵抗する。
男は少女をガシガシと殴って、
おとなしくさせる。
男がこちらに気が付き、
慌てて剣に手を伸ばそうとする。
サーシャはダッシュし、
その男の顎を蹴り飛ばす。
サーシャの全体重が乗った蹴りで、
その男は一撃で失神する。
まるで小学生時代の可奈のような、
正確無比の身体操作だ。
あの頃の可奈がはしゃぎまわると、
まるで興奮した猿のような俊敏さで動き回り、
大人たちが集団でかかっても、
捕まえることができなかった。
サーシャはその男の剣を拾い、走り出す。
家の角を曲がると、
女性の両脚を抱えて腰を振っているローマ兵に出くわす。
そのローマ兵がちょうどこちらを振り返ったタイミングで、
サーシャが剣で、顔面を横に切り裂く。
鼻のあたりにパックリと横一文字に深く大きな傷口が開く。
どっと血が溢れ出る。
男が悲鳴をあげて、
血を撒き散らしながらのたうち回る。
サーシャは持っていた剣を涼介に手渡すと、
自分はその男の剣を拾い、
「急げ! ローマ兵に反撃の態勢を整える時間を与えるな」と言い、
また走り出す。
涼介は、わけも分からずサーシャの後を追いかける。
サーシャが大きな円形の茅葺きの建物に飛び込む。
涼介もその後を追って飛び込む。
鎖帷子を着た3人の男たち。
金髪の男女の死体の上に腰掛け、
骨付きの肉を貪り食い、
壺に入った飲料を飲んでいる。
酒臭いので、酒だろう。
男たちが剣に手を伸ばそうとする時間を与えず、
サーシャは剣を男の口の中に突っ込み、
横に払う。
男の舌が切断され、
歯がへし折れ、
肉片と歯がバラバラと飛び散る。
男が言葉にならない叫びを上げながら、
のたうち回る。
涼介は、
『急いで倒してしまわないと、
反撃されて自分がやられる』
という焦りと恐怖に突き動かされて、
別の男の胸のど真ん中に剣を突き刺し、
すぐに引き抜くと、
振り向きざま、
反対側の男の肩口に、
鎖帷子の上から剣を振り下ろす。
鎖骨がへし折れ、
剣が深くめり込む。
男の肺が潰れ、
口から血を吐き出しながら、悶絶する。
サーシャは「もたもたするな。次だ」と言いながら、
すぐに建物を飛び出す。
涼介がそれを追う。
集落の広場には、
老若男女の村人たちの死体が散らばっていた。
十数名のローマ兵たちが、
酒を飲み、
肉を喰らい、
若い女性や少女たちを犯していた。
そこにサーシャと涼介が突っ込んでくる。
和やかに談笑していたローマ兵の首を、
サーシャが背後から切り飛ばす。
何が起こったのか理解していない表情の首が、
血しぶきを撒き散らしながら空中で回転する。
胴体からは驚くほどの高さに血が吹き上がる。
涼介は、とにかく相手が武装する前に急いで倒してしまおうとして、
鎖帷子などお構いなしに、力任せに長剣を叩きつけていく。
切れなくてもかまわない。
潰せば動かなくなる。
とにかくどんどん潰そう。
涼介はもう一本剣を拾い、
潰す作業の生産性をアップする。
その間に残りのローマ兵たちが剣と盾を拾い、
反撃の態勢を整える。
サーシャと涼介を取り囲もうと回り込み始める。
涼介は二本の剣を構え、前後左右を警戒する。
横から斬りつけてくるか?
背中から刺してくるか?
まずい状況だ。
ちょっとでも油断したら殺される。
首の後の辺りがチリチリする。
頭の中で警報機が鳴り響いているような感じがする。
背中から斬られて死ぬパターンか。
恐怖と焦りで足が絡まり、転びそうになる。
その瞬間、正面のローマ兵が涼介に斬り込んでくる。
反射的に相手の剣を左の剣で受け、
もう一方の剣で相手の腕を切り飛ばす。
学生時代に教わった、
剣道の師範の言葉を思い出す。
「二刀流というのは、
片方の剣を盾として使うのがコツだ。
どちらを盾にするかを、
自在にスイッチングできるのが強みだ」
サーシャは狐のような俊敏さでローマ兵の背後に回り込み、
鎖帷子で覆われていない腕や脚や首を切断していく。
切断された腕や脚や頭部が、
バラバラと撒き散らされる。
ローマ兵たちは血走った目で、
死に物狂いでサーシャに剣を振り下ろすが、
剣はかすりもしない。
兵士たちの注意がサーシャに集中する。
やった。
チャンスだ。
今のうちに。
涼介は、兵士たちの背面や側面に回り込み、
テニスラケットをフルスイングする要領で、ローマ兵の胴体に長剣を叩き込み、
ローマ兵をくの字にへし折っていく。
脊椎がへし折れ、内臓が潰れる感触とともに、
ローマ兵の胴体が、アリえない方向に折りたたまれる。
だんだん白兵戦のコツがわかってくる。
他のことに気を取られている敵を倒すのは簡単だ。
背中を襲うと簡単に倒せる。
背中から襲われるのは恐ろしい。
挟み撃ちにすると倒しやすい。
包囲されるのは恐ろしい。
準備のできていない敵を倒すのは簡単だ。
準備のできていないうちに襲われるのは恐ろしい。
勝ち目がないと悟った最後の一人のローマ兵が、
逃走しようと馬に飛び乗る。
サーシャは槍を拾い上げ、
小さな体全体をバネのように使って、投げつける。
槍は見事にローマ兵の背中から貫通し、
ローマ兵は落馬する。
涼介とサーシャは、
生き残りのローマ兵がいないか、
集落の中を確認して回る。
あちこちに斬り殺された死体。
撲殺されたり腹を割かれた家畜の死骸。
破壊された農機具の残骸。
井戸は崩されて埋められている。
家屋の壁が破壊され、
衣服は積み上げて燃やされ、
倉庫の食料も燃えている。
死体に取りすがって泣き叫んでいる少女。
燃え盛る家の前で呆然と立ちすくむ女性。
泣きじゃくりながらなにかを喚いている男の子。
股の間から血を流し、裸のまま大の字に寝そべり、目の焦点が合っていない少女。
それを見て、「蹂躙(VASTATIO)」という単語のニュアンスを思い出す。
これこそがVASTATIOだ。
彼らは単に奪うために来たのではない。
恐怖によって相手を『屈服』させるために来たのだ。
逆らう気をなくさせることが目的なのだ。
ローマ兵は、それ以上は見つからなかった。
「やけに人数が少ないな」と涼介が言う。
「ローマ兵というのは、大集団で行動するものじゃないのか?」
サーシャが呆れて言う。
「お前、物を知らないな。こいつらは偵察兵だよ」
いや、そりゃ知らねーよ。
そんな知識、日本で生きていくのに必要ねーから。
と言おうと思ったが、
そんなことで言い争っている時間的余裕はなかった。
涼介は、強姦された女性たちに、
一刻も早く緊急避妊薬を飲ませないと、
望まない妊娠をしてしまう確率が
どんどん上がっていってしまう旨を、
サーシャに説明する。
「直後から12時間以内に飲めば、
妊娠する確率は0.5%。
13時間から24時間以内だと1.5%。
たった12時間遅れるだけで、確率は3倍になっちまう」
サーシャは村人たちを集め、なにやら話し始める。
ラテン語ではないので、涼介には話の内容が分からない。
その間、涼介が村人たちを観察する。
少年が2人。
少女が10人。
若い女性が4人。
なんか、デモグラフィック的にバランスが悪いな。
話が終わったようなので、涼介がラテン語で尋ねる。
「男たちはどこ?」
「殺された」
「え?」
男たちは反撃してローマ兵を殺したので、
見せしめに全員殺されたと言う。
少年たちも武器をとって戦ったので殺された。
抵抗せずに降伏していれば、
男も殺されずに奴隷にされただろう、
男の奴隷もいい値段がつくからだ、
と言う。
老人と幼児は、
いらないものを処分する感覚で殺された。
扱いが面倒なわりに、
あまりいい値段がつかないからだ。
それで結局、
少女と若い女性と幼い少年が、
奴隷として売るために残されたということだった。
サーシャ曰く、
このままここに留まっていては、
またローマ兵に襲われる可能性がある。
ここから一番近い城市のティオへはけっこうな距離がある。
そこに到着するまでの間に、またローマの偵察兵に遭遇する可能性が高い。
なので、いったん、村人たちを涼介の2LDKのアパートに避難させてくれ、
とのこと。
いや、6畳、8畳、12畳に、この人数、入るか?
村人16人と俺とサーシャで18人。
26畳÷18=1.44444。
「起きて半畳寝て一畳」よりはいくぶんマシか。
死体に取りすがって動こうとしない女性の手を引っ張って、
引き剥がす。
泣いている少女をなだめすかす。
強姦されて茫然自失になっている女性の背中を押す。
そうして、なんとかゲートのところにまで連れてくる。
木々の間の長方形に切り取られた空間に、
涼介の2LDKのアパートの内部が露出している。
古いエアコンが無駄に唸りを上げ、
森のなかに冷風を吹き出している。
涼介は先にその中に入る。
例の円筒形のデバイスを拾い上げてポケットに入れる。
大急ぎで部屋を片付け、
箒と掃除機で床をきれいにし、
村人たちを部屋に招き入れる。
ローマ兵に蹂躙されたショックで頭が回っていないのか、
村人たちは、とくに抵抗もなく、素直に部屋に入ってくる。
全員を収容し終ると、
円筒形のゲートデバイスのボタンを
注意深くいじってみる。
弄り回しているうちに、
ゲートの操作方法がわかってくる。
ボタンの1つを押し続けたら、
ゲートが閉じて消えた。
あとには、何の変哲もない2LDKのアパートと、
そこに押し込まれた18人の人間が残った。
エアコンを付けているのに、
部屋が蒸し暑くなる。
息苦しい。
途上国のスラム街の、
子だくさんの大家族貧困家庭を連想する。
涼介はエアコンの温度設定を下げ、
風量設定をMAXにする。
涼介が、突然、思い出した様にサーシャに言う。
「というか、あんた、大丈夫か?」
「大丈夫そうに見えるか?」
見えない。
涼介が裕子さんに電話をかける。
裕子さんは子供の頃からの知り合いで、
今は近所の中規模の病院の院長をしている。
専門は外科だ。
電話がつながると、
「不法入国の子供が、腕を切断する大怪我をしてしまって。。」
と話し始める。