#異変
駅構内に入ると、どこからともなく甘くて香ばしい匂いが漂って来た。
この時間のこの匂いは、福岡県民の肥満度をあげる策略、もしくは日本精糖協会によるニオイテロとしか思えない。
無意識のうちにニオイの発信源を探していた時、スマホの着信音がなって我に帰った。
スマホの画面には、案の定カズキの名前がある。
よかった、折り返しの電話があったら言おうと決めていた言葉をようやく吐き出せる。
「遅せーよ!」
寝坊で遅刻したのはお前だろ! と、罵ってくれるものだとばかり考えていた。
その方が、シオン先輩を待たせたことに対するショックを和らいでくれる。
きっとずっと後になって、笑いながら懐かしめるエピソードにもなる。
そこまで考えていたのだが、カズキから帰ってきたのは罵声でもノリツッコミでもなかった。
『わりーな、バイトがあまりにも忙しくてケータイ見るの忘れてたわ』
……なにこれ。
新手の嫌がらせか?
「いやいやいや、ゼミの飲み会は? お前来ないの?」
『え? 今日なんか飲み会なん? 俺誘われてないよ!』
なに言ってんだコイツ。
昨晩スーパーハイテンションで誘ってきたのはカズキじゃないか。
それにシオン先輩とサプライズ待ち合わせまで仕組んでおいて、なにを言ってるんだ。
「ちょっと待て、訳がわからん。俺は昨日の夜、カズキに誘われたんだぞ。ジョークにしても笑えんのやけど」
ちょっと、いや、かなりイライラする。
感情の高ぶりにつられて無自覚に声が大きくなっていたらしく、近くをすれ違う人がこちらを訝しんで見ていることに気がついて自分に落ち着けと言い聞かせる。
遅刻を咎められるのは仕方ない、全面的に俺が悪い。
なのに、咎めるでもなく許容するでもなく、全て無かったことにするつもりらしい。
まるで俺の存在を一度の過ちで消し去るように、居ても居なくても大差ないというように感じさせるこの仕打ちは、あまりにも酷い。
内心のイライラは脳から体をすり抜けて早足に変わり、いつの間にか構内を抜けて博多口に来ていることに気づいて立ち止まった時、カズキは先ほどより声のトーンを落として言った。
『お前こそなに言ってんだよ。俺、昨日お前に電話してねーよ』
「そんな履歴でわかる嘘ついてどーすんだよ。さっきもLINE送ってきてたじゃん。待ち合わせの相手がシオン先輩だって」
詰めが甘いのか、ただの馬鹿なのか、着信履歴なんていう基本機能を知らないのか、カズキの嘘はもう嘘にもなりきれていない。
それどころか、口調からも声のトーンからも、嘘をついている気配を一切感じなかった。
それでも、カズキの言っていることを信じることはできない。
現に俺のスマホには着信履歴もLINEも残っていて、それはカズキのスマホにも当然残っているはずだ。
それなのにカズキは、真面目に、誠実そうに、信じるものを疑わせるには十分すぎる嘘をつく。
『ごめん、全然なんのことかわからん。シオン先輩って、誰?』
先ほどまで高ぶっていた感情が誰に対するものだったのかもわからなくなるほど、カズキの声は落ち着いている。
あまり人付き合いが多くない俺にとって、カズキは数少ない信頼できる友人だ。
それは、幼い頃から一緒に行動していた時間経過によるものだけでなく、こういうことを言わない良いヤツだと知っているからでもある。
何より、信頼していたいと互いに思っていることを、表に出さなくても感じあえる関係性だからこそ、互いに親友と認識していられる。
どちらとも言わず、このまま電話で話していたら、それが揺らぎかねないと判断した俺たちは、ほぼ同時に電話を切り上げようと判断した。
それを思い立ったことで一気に周りの景色が目に入り、博多口を行き交う人の顔や声や、立ち並ぶビルの明かりが判別できるほどに落ち着きを取り戻す。
「ごめんカズキ、また連絡するわ」
『おう、またな』
電話の切れるか切れないか、ギリギリのタイミングで慌てて声を上げる。
「カズキ待って!」
『なんだよ、どうした?』
ここは今日、テレビチャンネルをジャックするほどの大陥没を引き起こした博多口だ。
なのになぜ、こんなに普段通り人が行き交っている? 封鎖は? 警察や消防車両は?
「……なあ、今日さ、博多駅前の道路が陥没したニュースやってたよな?」
一度落ち着いた感情は、再び高ぶって視界を揺らがせる。
揺らぐ視界の中で、事実を事実として認識できるだけの思考を、脳細胞の一片も残さず使い切るつもりでいるけれど、カズキの言葉は悪気もなくそれを遮ってくれる。
『そうなん? 俺は見てないけど』
どんなに目を凝らしても、目の前に広がるのは疑う余地のない普遍的なまでの日常で、陥没した道路のある光景の方が特異な非日常だと分かっていても、俺の目はそれを探して彷徨い続ける。
博多口から少し歩いて、駅前通りの信号を渡る。
何度も何度もニュースで見せられた場所だ。
あのセブンイレブンは歩道が無くなって入れなくなっていた。
こっちの銀行なんかは基礎部分が露出して今にも倒れそうな状態だった。
この信号が音を立てて地中深くに沈んでいく様子を何度も見た。
それにも関わらず、足元のアスファルトは昨日今日出来たものには見えず、お世辞にも綺麗とは言えない古びた質感をしている。
陥没前の状態を覚えてはいないけれど、陥没している光景なら退屈な休日にテレビをジャックしてくれたおかげで、事細かに覚えている。
その記憶の全てが、陥没の発生そのものを否定するに足りる証拠になった。
陥没の痕跡は、どこにもない。
本当に、何も無い。
スマホからはカズキの声が聞こえていたけれど、今は何も言える気がしなくて、僅かに残る気力を使って終話ボタンを押し、その行為をもって意思表示することしか出来なかった。