#Interceptor:laggards;
ようやく暖房が効いて暖まった理事長室で、晴山タクトを見送った後も神月シオンは一人コーヒーを飲みながら考え込んでいた。
一番上の引き出しを開けると、黒いハードカバーにゴムの留め具がついたモレスキンの手帳が入っている。
手帳に手を伸ばし、革製品を模したざらついた表面に触れると、乾いた感触が返ってくる。
使っていた記憶は無いがどこか懐かしく、事あるごとに手帳に書こうとする癖が蘇っているようだった。
「晴山、タクト……」
まるで検索ワードをキーボードで入力するように呟く。
シオンは自分の記憶から彼の名前を探しているようだが、彼女には最初のリメイクより前の記憶は無い。
リメイクが発生しストラドルであることを自覚した途端に、それまでのあらゆる記憶を失っていた。
ある日突然リメイクは起こり、これまでの生活を全て失い、代わりにこの学園の理事長であることに記憶ごと書き換えられたのだ。
自分の家族も友人も、誰一人思い出せず、ただこの学園の事だけが理解出来た。
机の引き出しに入れている手帳は、リメイク発生時に手にしていたもので彼女にとってそれが自らの出生に関する唯一の手掛かりだった。
中は身に覚えのないスケジュールばかりだったが、裏表紙の内側にはボールペンで乱雑なサインが書かれていた。
『Seiji Kozuki』
このサインが手帳は自分の家族の持ち物であることを示しており、記憶のない彼女にとっては家族の存在を証明してくれる唯一のもので、自らに記憶がないことの証明にもなった。
壁の向こうから、施錠のためのコンソールを操作する音が聞こえ、慌てて引き出しを閉じロックをかける。
「ーー戻りました」
そう言いながら赤瀬ナオヤがドアを開けて入ってくる。
晴山タクトを駅まで車で送り戻ってきたのだろうが、ここを出発する時から普段の陽気な性格が影を潜めている。
「ごくろうさま。彼、大丈夫そうだった?」
「はい。寮に泊まるよう説得したんですけど、断られちゃいました」
「そう。予定通り、ミチオくんとナナちゃんで監視してもらってるわ。何かあれば連絡があるでしょう」
シオンもまた、ナオヤ同様に表情は冴えない。
二人とも何かに怯えるような表情ではあるが、畏怖する対象は別々のものだ。
「コレがバイアスチェッカーだと伝えなかったんですね。タクトはほぼ100%ブランクですよ。なぜ渡したんですか?」
ナオヤは自らの腕に付けられたシルバーのブレスレットを掲げて、普段よりも幾分か早口に言った。
通常、ブランクと呼ばれる存在には与えられないバイアスチェッカーを、タクトにのみ特例で渡したことが気にかかっているようだ。
「ナオヤくん、私たちがこの現象にリメイクと名前をつけたのはどうして? 世界を何者かが作り変えていると感じたのはどうして?」
「……事実が変えられていたから」
「そう、いたはずの人が居なくなったり、無いはずのものが有るように変化した。でも、彼は私を“シオン先輩”と呼んだわ。まるでリメイク前から私を知ってるみたいに。でも、私は彼の名前も顔も見たことがない。リメイク前の記憶がある私が彼を知らないということは、リメイク前から別の私がいたことになる」
「それは、つまり……」
「可能性は2つ。この世界にもう1人の私がいるか、彼が別の世界から来たか」
「そんな、ありえない。同姓同名で見た目も似てる人間なんて、いる訳ありませんよ」
「すでにリメイクなんてありえないことが起こったこの世界では、もうありえないことの方が少ないんじゃない? とにかく、彼は今までのストラドルとは何かが違うのは確かよ。注視するに越したことはないわ」
『お取り込み中わるいんだけどさ、ちょっといい?』
会話の区切りを見計らって、理事長室に備えられている校内放送用のスピーカーから聞こえてきた音声が2人の会話を遮った。
声の主はラボにいるミチオと呼ばれる男だ。
理事長室には警備のために集音マイクが取り付けられており、2人の会話はラボに伝わっていた。
「どうしたの? 何かあった?」
『ハルヤマタクトのスマホを調べてたんだけどさ、彼のツイッター宛にメッセージが来てる。博多の陥没に反応してるから、ストラドルで間違いないよ。時刻は6時38分、ハルヤマタクトが学園に来る前だね』
「彼はメッセージに気づいていないのね。差出人は?」
『今調べてるけど、特定には少しかかりそう。先にハルヤマタクトを抑えた方がいいかも』
「どういうこと?」
『過去のやりとりを見る限り、2人は知り合いみたいだ』
「わかりました。ナナちゃんにはこちらから伝えます。ミチオくんはそのままラボでリサーチを継続、私とナオヤくんも彼の実家に向かいます」
『ちょっと待って! なんでハルヤマタクトの実家? アイツまだ博多駅にいるよ?』
「……!? あのヤロウ、帰るって言ってたのに」
「イングレスに勘づかれると厄介ね。ミチオくん、差出人の特定急いで!」
ナオヤとシオンはさっき乗ってきたばかりのゴルフに乗り、博多駅に向かって走り出した。
車内で2人ともインカムを着けて、シオンはナナミに連絡を入れている。
「……そのままタクトくんの尾行を続けて。異常があれば確保、そのほかはスルーよ」
そう告げて電話を切ると、車内はアスファルトを擦るタイヤの音が聞こえるだけになった。
沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは、ナオヤの方だ。
「イングレスもタクトのツイッターアカウントを知ってる。メッセージの受信はタクトがバイアスチェッカーを着ける前です。奴らも確実に接触してきますよ」
「分かってる。駅に着いたらナオヤくんはグリーンホテルの屋上から狙撃の用意しておいて。発砲の判断は一任します」
短く了解とだけ呟いて、ナオヤはハンドルを握る手に力を込めた。
シオンもまた、助手席に深く座りながらも全身の強張りを感じている。
陥没を知る人々の誰も、この夜からはまだ逃げ切れそうにない。