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夕飯を差し入れてないことに気づいたのは、すっかり脱力して一日中ふて寝して、夜になったのにそのまま何も食べずに寝て、日中ふて寝していたにもかかわらずに熟睡した後の、朝日を拝んでからだった。
睡眠時間が多くなっても早起きということが出来ないらしく、いつもとほぼ変わらない時間に目が覚めて、朝日を拝んで『あぁ、朝食』と条件反射にも似た発想が頭に浮かんだ途端、ふと思い出したのだ。思い出した、というか、思いついた、というか。
自分が食べなかったので、他人の食事まで綺麗さっぱり忘れていたみたいだけど、人生の中で初体験だったので、ベッドの上に座ったまま、ほんの少しの間、驚きで固まってしまった。囚人の食事の用意だって仕事の一部、それを忘れてしまうなんて。
・・・いや、本業は土壇作成だよね? うん、そうそう、そのはず!
少しだけプライドが傷ついた気がして、誰に言い訳するわけでもないのに、声に出さずにそんな断言をしていたのは、聞くべき相手が自分自身だったから。勿論それも承知の上で、実はさり気なく高めのプライドを宥めつつ、急いで朝食の準備に取りかかったのは、プライドは宥められても、多少の罪悪感めいた感情を宥めることが出来なかったからだろう。
ただでさえ、囚人には一日二食しか出さない。おまけにもうすぐ人生が終わるわけだから、残り数回の食事なわけで。
その、残り僅かな食事をうっかり忘れたとあっては、多少の罪悪感を感じないわけにはいかない。たとえそれが、もう生きていくに値しないと判じられた相手であっても、それとこれとは結構別なのだ。だからその感じたくない罪悪感払拭の為、とにかく急ぐ。急ぎながらも、手は抜かずに・・・、なんてことはせず、ただ、急ぐ。
だって手を抜こうが抜くまいが、出来映えに大した違いはない。料理は土壇のような芸術的な作品が作れたためしがないし、特に努力もしてないのだ。ただ、何もしてない、という状況が嫌なだけで。それだけがプライドに障るだけで。
さくさく、さくさく、切って、切って、剥いて、焼いて、混ぜて混ぜて、また混ぜて。バリエーションが殆どないから、同じメニューが三交代ぐらいで出てくることになるけど、元々食にそこまで拘りがないから、同じ料理を何回食べても気にならない。この料理を出す相手にしたって、三交代ぐらいならそれで充分。だって、飽きるほどの回数を食べる機会なんてないから。
ぐちゃぐちゃした料理っぽい食べ物を皿に載せて、その皿を盆に載せて、それから食事。食べている間にもう一人分はほどよく冷めてしまうけど、気にしない、気にしない。料理の温かさを噛み締める人間が食べることなんて、ないんだから。
でも、アイツはどうなんだろう? ・・・もしかしたらアイツだけは、そのぐらいの余裕も持っているのかもしれないと思った途端、昨日の表情を思い出した。牢に入っているとは思えないほど料理を満喫していた、その顔を。思い出したら、少しだけ困ってしまう。早く料理を運ばなければいけない気がしてきてしまうから。まだ、自分の分を食べ終わってないのに。
皿にフォークが当たって、甲高い音が鳴る。耳障りな音。何かが、勘に障った。フォークの音じゃない。それはただのきっかけで・・・、いや、きっかけというか、きっかけが鳴らした音で、本当は違う理由でイライラしていた。どうして急かされなきゃいけないのか分からないから、勘に障っている。誰も、急かしてないのに。
「・・・なんだか、もう」
漏らす、呟き。気がついたら、料理はもう残っていなかった。一体いつの間になくなったのか? 記憶にない料理が腹の中に溜まり、体重という目に見える形で存在を主張されることほど、理不尽なことはない。その理不尽さを予感しながら、今度は溜息を漏らして立ち上がる。気になっていることは、早く終わらせてしまうに限る。
食べ終わった皿を流しに片してから持ち上げた、もう一つの盆には、一人分の冷めかけた料理。少しだけ足が重いけど、これさえ終われば全て終わったようなものだと思えば、重い足もなんとか動く。これさえ、そう、これさえ終われば・・・、あとは大好きな作業。『ダン』の生き甲斐。
土壇作りだ。
考えるだけで、うきうきしてくる。何とか動く程度だったはずの足が、軽やかにすらなってくる。早く、早くと気が急く。これこそ本当に急かされている。しかも、望んで急かされている。この急かされ方は、好きだ。生きているという感じ。まさに生き甲斐。歌が、あの歌が口をついて出そうになる。あの、人生のテーマソングが。
いつも通り片手に盆、もう片手でドアを開け、足は真っ直ぐ牢がある小屋へ。空は絶好の土木作業日和で、つまり昼過ぎ、もしくは夕方頃には絶好のちょっきん日和になるだろう。
作業するには雨なんて以ての外だし、嘘みたいな青空か、冗談みたいな夕焼けが、手鞠みたいに転がる生首にはよく似合うから。きっとあの訳が分からない七三一号の首も、青空か、もしくは夕日の中をころころと転がるだろう。
あの、訳が分からない言動を永遠に止めて。
少しだけ、変な気分。その妙な気分の中を一瞬通り過ぎた、微かなイメージ。崩れてしまう土壇。完成したばかりの、綺麗な土壇。崩れてしまった土壇を前にした時の、悔しさ。「・・・本当に崩さないでいることって、出来るのかな」七三一号がいる牢、その牢へ入るドアの前での躊躇。
色々吃驚しすぎていて、一番吃驚していたはずのことをすっかり忘れていた。でも、確かに言っていた。聞き違いなんかじゃなく、言っていた。崩さないでくれると。ただ、代わりに『お願い』がある、と。
結局聞いていないお願い。昨日までなら、脅しにすら聞こえてきたもの。最終的に、どうとなれと思ってしまったこと。でも、死の直前、首が転がり落ちるのに、自分の首が転がり落ちるのに、土壇を崩さないでいられるのだろうか? それを約束出来る、実行出来るだけの『お願い』って・・・、何?
改めて気になるそれを抱えて、また片手で開くドア。中は、高い位置にある小さな窓から嘘っぽい白い光が差し込んで、隅々の闇を際立たせている。そしてその、際立った闇に四隅を囲まれた中心、白っぽい光に晒された場所に・・・、昨日までと同じように、七三一号はいた。胡座を掻いて、酷い間抜け面で、そこに、いた。
そして視線を入ってきたこちらに向けて、一瞬、間の抜けた顔の真ん中ら辺についている目を見開いてから、ほんの少しの間に何度も見かけた、何度も見かけたのにちっとも慣れない、満面の笑みを浮かべてその口を開くと・・・、
「お腹減った」
・・・等と、ほざきやがった。これ、絶対今日中に死刑執行、首ちょっきんになる奴の台詞じゃないって。もう本当に有り得ないから。
出そうだった歌も引っ込んだし、上昇中の気分のおかげで引っ込んでいた諸々の複雑怪奇な感情も引っ込んだところかどっかに吹っ飛んだし、ついでに手に持っていた盆を牢目がけてぶん投げそうになったけど、視界の先にある笑顔があまりにあんまりな感じだったから、それすら出来なくなって・・・、なんだか物凄く疲れながら、牢の中に盆を突っ込んでやった。
「俺、一日三食きっちり食べる人だったからさぁ、一日一食とかって、結構辛くって」と、楽しげに、嬉しげに、脳天気にしか見えない様子でほざくソイツは、今、そうして食べている料理が最後の晩餐ならぬ、朝餐になることを理解しているのかどうか、見ている側としては甚だ疑問だった。
でも、確認はしない。もしうっかり確認して、この調子で『分かってるよぉ』なんて肯定されてしまったら、そっちの方が怖すぎるから。
だからさり気なく視線を逸らしつつ、壁際の机、その前に置かれた椅子に座って、食事が終わるのを待った。終われば皿を回収して、それからいよいよ土壇作りに入る。心置きなく、全身全霊で作る為にも、作業に入る前に雑務は全部終えておきたい。
つまり、皿を下げるまでは作業に入れない。いや、作業には入れるけど、満足のいく土壇が作れない。だから、早く終わらないかなぁと思いつつ、ただ、待つ。
「あっ! 別に責めてるわけじゃないから!」
「あー・・・、そう」
「いやっ! マジで!」
もう本当にどうでもいいんですけど、そんな言葉を飲み込んでの生返事に、七三一号は何故か妙に焦った声で訴えてくる。身の潔白を訴えるかのように。
潔白なんて、今、訴えても手遅れでしかないと思うけど。微かな突っ込みは、胸の内。本人の弁を聞く限り、全然潔白なんかじゃないし、それについて弁解する意思すらないようだから、口にしても仕方がないのだ。
でも、そんな奴が、今更どうしてこんなに必死の弁解をしているのだろう。食事なんて、どうでもいいことで。いや、そうじゃない。食事がどうでもよくないことなら、それを用意し忘れた相手に対してどうして弁解なんてしなくちゃいけないのだろう? 非難するなら、まだ分かるけど。
本当に変な奴。改めて抱く感想は、初心一貫に近い。近いけど、一貫しようと思っているわけじゃないから、やっぱり不思議な気がした。どうして、そんな必死に? もしかして『お願い』の所為? でも、それなら『人形遊びのことを黙っててやるから』と言えばいいだけのはず。あの遊びが許されないものだなんて、ある程度物事が分かるようになっていれば、子供だって分かることなのに。
「よく考えたらさ、今までは少し食べ過ぎだったのかもしれないし! やっぱり、人間、三食なんて生き物として贅沢すぎるって言うか!」
「・・・ってか、なんでそんなに必死なわけ? 別に、そんな取り繕わなくてもいいんじゃない?」
「いやっ! よくないって! つーか、別に取り繕っているわけじゃなくって・・・」
「同じでしょ」
「同じじゃないって! とっ、とにかく! わ、悪い意味で言ったわけじゃないから、気を悪くしないでほしいんだけど・・・」
「はぁ・・・」
牢の中の必死さはますます強まり、座って食事を取っていたはずの囚人は、今や世界を隔てる檻に両手で掴まって縋りついて、顔を隙間に押しつけんばかりに近づけている。近づけて、必死に訴えている。訴えるメリットなんてなさそうな、『ダン』に対して。死刑執行の手伝いをする人間に対して。
コイツ、マジに何、考えてるんだろう、なんて何度目になるか分からない疑問が沸いてきたのは必然で、沸いた疑問を解消するべく口が開いたのもまた、必然だった。
「あのさ・・・、ご機嫌取りなら、もっと別の人間にした方がいいと思うんだけど? こっちは土壇作りが本業でさ、死刑に関する権限とか、何にもないんだし・・・、機嫌とっても、メリットなくない?」
「あるって! 滅茶苦茶あるって! つーか、だって・・・!」
やっと喋れるようになったのに!
「しかもこんな、超近くで! 前みたいに誰にも止められないで済むし・・・、それなのに印象最悪になるって、有り得ないっていうか・・・」
「・・・はぁ」
口から間が抜けた声が洩れたのは、たぶん、正しい。何かが違う気がしたのも、たぶん、正しい。だって、いまだ続く言い訳のような言葉を聞く限り、それは、まるで・・・、まるで、顔を見て話しかけることが、会話を交わすことが目的だったかのような言葉だったから。それこそが、目的かのような言葉だったから。
何かが違う気がした。昨日、あの記述を見た時に察した事実とは何かがずれている気がした。半ば確信していた結末がひっくり返ったかのような、そんな気が。
・・・きっと、その所為だ。すっかり忘れていたはずの音が、振動を伴って聞こえ始めてきた。外から聞こえる音じゃない。中から聞こえてくる音だ。中から、外に飛び出そうとしている音だ。
本当に飛び出して、檻すら擦り抜けて、中にいる七三一号に聞こえてしまわないか、心配だった。他の誰に聞かれるより、七三一号にだけは聞かれたくない。何の音なのか、明確に分かっているわけでもないのに、そう、切実に思う。切実に、願う。そしてその希望は無事、誰かに届いた模様だ。きっと、死に神的な神様とかに。七三一号は、全く気づいてない様子で喋り続けている。
「結構何回もチャレンジしたのにさ、もう、お節介な奴等がガードマンみたいに立ち塞がっちゃって・・・、全然声かけらんなくって。アイツ等、超非常識だと思わん?」
「・・・いや、非常識なのは『ダン』に声を掛けようとした、オマエの方だと思うけど」
「んなことないって! 逆だよ!」
可愛い女の子見かけたら、声を掛けるのが男の常識だって!
「ってか、本能だよ、本能!」・・・と、七三一号は、これ以上ないほど晴れやかに笑う。その笑みを・・・、『私』は直視しがたく感じている。
でも、目を離せない。檻から注がれる視線が、何かの力を伴って、『私』を離さない。放さない。「初めて見た時からねぇ、可愛いなぁって思ったんだよー」どこか、照れたような声。それは、たぶん、『私』が感じるべきことなのに、今は、何も認識出来ない。頭が真っ白で、経験したことがないほどの真っ白で、音が、とても煩くて。
笑みは、その強さを信じられないほど増して、動けないでいるはずの『私』の足は、何かに操られるように動き、檻に向かう。たった、二歩。それだけですぐ目の前になった檻からは、一本の腕が突き出て、白い、でも『私』よりずっと大きくて逞しそうな手が、指が、力なく垂れ下がっていた『私』の手首を掴む。
驚きに跳ねたのは、肩。手は、驚きすぎて動かない。掴まれたまま、軽く引っ張られる。振り払う力すら、ないのだろうか? 普段、力仕事ばかりしている『私』が? 土運びが得意の『私』が?
でも、ただ、音が、音が、煩くて、何かの、音が・・・、
「だから思ったんだよね、話したいって」
「なっ、」
「それに・・・」
キミになら、俺も、『────』に加えてほしいなって。
「俺、その為に頑張っちゃったんだ」
「・・・頑張っちゃったって、人殺し、頑張っちゃったってこと?」
「そうそう」
「つまり・・・、それが、言ってた『お願い』?」
「うん! そう!」
「あー・・・、そうぉ・・・」
動かなかったはずの手が、小さく痙攣した。そして煩かった何かの音は、代わりにいきなり聞こえなくなる。口からは、吐き損ねた溜息の残骸みたいな声が。ついでに言えば、手首を掴んでいる指の力はいまだ強く、檻越しには変わらぬ満面の笑顔があって。
物凄い勢いで何かを考えようとしている自分と、物凄い勢いで考えるのを放棄している自分がいて、その二人の間には、もうどうでもよくない? なるようにしかならないし・・・、と何もかもを投げ出したがっている自分が座り込んでいる。
ただ、見渡せばもっと色々な自分がいた。何かを諦めている自分や、期待している自分、何も分かっていない自分や全てを知っている自分が。今まで、こんなに色んな自分が一堂に会したことなんて、一度もない。
とても凄いことで、凄すぎて何も出来なくなる。誰一人、動き出せない。誰もが自分だから、リーダーシップも取れやしない。烏合の集団のような、『私』になるだけ。・・・どうしたら、いいのだろう?
どこかで、また激しい音がする。音源はどこか? 熱が篭もった手首から意識を逸らす為に探したそこは、耳の奥だった。太い血管が、破裂の予感を響かせている。終わりの期待に、震えている。『あぁ、このままでは・・・』
「・・・土壇、作らなきゃ」