5
慌てて日誌を閉じて、それを引き出しに放り込みながら立ち上がるのと、小屋の木戸がノックも声もなく開かれるのは、ほぼ同時だった。
手入れなんてされたことがない木戸は、それなりに開きが悪く、軋むような音が鳴るけれど、無言のまま入り込んできた男達の足音に比べればまだ可愛げのある音だ。少なくとも、無意味に偉そうじゃないし、傲慢そうでもないし、威圧感や侮蔑や嫌悪を撒き散らすような音でもない。
自分達だって、大して変わらない身分のくせに、といつも思う。いつも思っているから、今日だって思っている。・・・けど、口は開かない。三人の男達が無言のまま七三一号の牢屋の前に横並びに立って、中にいる囚人を、七三一号を見ている、その様を壁に背を押し当てるようにして立って見ている間、一言だって発さない。偉そうな声で囚人にお決まりの問いを発し始めても、一言だって口にしない。まるでこの小屋の中には囚人と自分達しかいないと自分で自分に言い聞かせているかのような男達には、一言も。
そういう、決まりだった。たぶん、決まりがなかったとしても無視されるのだろうし、声なんて聞きたくもないと思われていただろうけど、とりあえず今現在は、正式な決まりとして声を発してはいけないことになっている。他の一般人ならともかく、似たような職種を与えられているコイツ等に下だと思われているみたいで、業腹だけど。
偉そうにして・・・、囚人を連れ来て、偶に様子見て、あとは綺麗に作ってやった壇の前に連れてくるだけじゃん・・・、胸の内だけの呟き。口に出せばただでは済まないと分かっているけど、三回に一回は思わずにはいられない。あの、首を切る係の奴らは流石に色んな意味で別格だと思うけど、コイツ等に下扱いされる覚えはない。
ただ、こちらになくてもあちらにはあるらしく、決まり切った確認事項を行ったソイツ等は、やっぱり偉そうな態度で振り向くと、こちらに一度、侮蔑的な視線を投げかけてからこれまたやっぱり何も言わずに、その割には足音だけは煩く鳴らしながら小屋から出て行った。ご丁寧に、最後の奴が態とらしいほど煩く、後ろ手に小屋の木戸まで閉めて。
振動として伝わる音は、嫌みったらしく鼻を鳴らす音にも似ていた。きっと、アイツ等が鼻を鳴らすと、全く同じ音がするに違いない。鼻が詰まって死んでしまえばいいのに。そうすれば不名誉な一族として、二度とダンの一族に偉い態度を取れなくなるはず。物凄い恥ずかしい思いをして、一生下を向いて生きていけばいいのに。
「ねぇ・・・、もう、歌わないの?」
突然、七三一号が声をかけてきたけど、すぐには返事が出来なかった。意識が自分の中にだけ向いていたから、唐突に引きつけられた意識の方向に、すぐに対応出来なかったのだ。
二、三秒の空白。それから方向性を確認して向けた視線の先には、ずっと楽しげで、今も楽しげで、でも・・・、何故か少しだけ真面目な顔をした七三一号がいた。何故か、そう、何故か。
「・・・気が、乗らなくなった」
「アイツ等の所為?」
「そう」
「そっかぁ・・・、ってかさ・・・、なんで、喋らないの?」
「・・・何が?」
「いや、俺とはこうして話してくれるけど・・・、さっきの奴等とは一言も喋ってなかったじゃん。挨拶とかもないし・・・、まぁ、アイツ等もしてなかったけど・・・、なんで、なのかなって思って」
少しだけ、聞き辛そうな声と口調、それにどことなく申し訳なさそうな顔をしているような気がした。たぶん、それは気の所為じゃなくて、でもこの相手がそんな態度を取ることが意外だったし、人生の中でそんなものが自分に向けられるなんて、最初で最後かもしれないと思ったらなんだか妙な気分だった。
感じていたイライラがどこかに出て行ってしまったかのような、身体の一部がむずむずするような、この場所にいることが居たたまれないような、そんな気分。
きっと、そんな気分なんて夢みたいな気の所為だとは思うけど。
「あのね、汚れた一族なんだよ、『ダン』は。だから喋っちゃいけないし、向こうも喋りかけてなんかほしくないの。声を聞いたら汚れるんだってさ。汚れて困る面かよって思うけど」
話しているうちに、何故か気分が高揚していくのが分かった。べつに、興奮しているってほどじゃない。ただ、気分がすっきりして、自分で自分の声に気分が上昇していくような、そんな今までにない不思議な効果が起き始めていたのだ。
何か、おかしな薬でも打たれたみたいに。打たれたことなんて、ないけど。
でも、気分は上がっていく。上がれば、自然と口をつこうとするのは『ダン』一族のテーマソング。・・・まぁ、作詞作曲全て自主制作なので、一族のテーマソングにする為には、自分で今後一族に啓蒙しないといけない。まだそれはしてないので、つまり、これは今のところ、人生のテーマソングくらいか。
「喋っちゃいけない、かぁ・・・、なるほどなぁ・・・、だから、近づこうとしたら止められたんだ」
「・・・何それ?」
「いや、前にこの辺歩いてた時、声かけようとしたら周りの人間に止められてさ、何でだろうと思ってたんだよね。皆、知ってて当然みたいな顔して、理由教えてくれないし」
「声って、なんで? 用があったの? ってか、何している人間か知らなかったってこと?」
不可解な台詞は、半ば呟きめいていたけれど、あまりに不思議な台詞だったので、捨て置くことは出来なかった。気分は高揚しかけたまま、不安定な位置をうろうろしている。
落ち着きがない。いつもは、落ち着くだけの人生なのに。「何している人かってのは知ってたよ」と、あっさりとした返事。用があったのかどうかの返事はまだなくて、つまり何なんだって気持ちがあって、だけど答えを先走るみたいに、心臓が・・・。
「・・・なんか、」
「なに?」
「盛りたい気分」
「・・・土?」
「他に盛るもん、あんの?」
「・・・ホント、好きなんだ、それ」
原因を追及する間もないくらい高揚した気分の所為で、土が盛りたくて盛りたくて、仕方がなくなってきてしまった。盛り上がるほど、盛りたくなるというか。
その気分を率直に漏らせば、少々呆気にとられた声が聞こえてきて・・・、「当ったり前じゃん、生き甲斐だもんね」と、聞こえてきた声を吹き飛ばすように、高らかに宣言する。宣言? そう、宣言だ。生き甲斐をもって楽しく生きて、何が悪い?
何がなんだか分からないけれど、妙に楽しくてしょうがない。気分が盛る、盛る、盛る。気分が下がって引っ込んでいたはずの歌が、また口をついてきそうなほどに盛っていた。
曲は既に脳内に流れ始めていて、口の中には歌が流れていて。口を開けばその歌が流れ出そうなほどだった。もう出しちゃおうか? そんな気持ちがぷくぷくと。ただ、ぷくっと出る前に七三一号がぷくっと口を開いた。ぷくぷくっと。
「生き甲斐、かぁ・・・、なんだ、俺、てっきり・・・、」
──生き甲斐は、人形遊びなのかと思ってた。
「あんまり楽しそうだから、絶対あれが生き甲斐っていうか、趣味なんだと思ってたよ」
「・・・は? え? ・・・えっ?」
「あっ、ごめん! あれ、あの人形遊び・・・、やっぱり秘密だった?」
でも大丈夫だよっ、別に言い触らしたりしないし! ってか、ほら、もうすぐに死人に口なしじゃん! だから気にしないっ、気にしない! でもさ、アレ見て、声かけようと思ったんだよねぇ、それなのに、知らない奴等に止められちゃって、何なの? みたいな・・・、と、人が口の中に沸いたものを全部潰す勢いで吃驚しているのに、一欠片も悪びれた様子なく、七三一号は明るく言い放った。
放たれた言葉が、どれだけの威力で人のど真ん中を打ち抜いているかも知らずに。
何も、知らずに。
「・・・っと、ま、待って」
「んー?」
「あれ、見て・・・、声、かけようとしたって・・・?」
「うん、そう。ってか、アレを見たから死刑囚目指して頑張っちゃったんだよねぇ、お願い、したいなーって」
物凄い明るい声。もしかしたら、今までで聞いた中で、一番明るい声だったかもしれない。でも、その明るさでこっちの目の前は真っ暗になりかけている。明るいとか暗いとかは、所詮対比もの。だから物凄い明るい物体がここにある所為で、こっちが真っ暗になっているという仕組み。
人生の中で、こんなに暗かった時が今まであっただろうか? 否、ない。自問自答。でも昨日から、人生初ってのが続きすぎている気がする。もしやこの若い身空で、もうすぐ人生の終わりでもくる予定があったりするのだろうか?
あぁ、頭がぐるぐるする。・・・否、違う違う、頭がぐるぐるしていたらそれは怪物。正確には、頭の中がぐるぐる。・・・否、正確にはというか、正確に比喩すると、というか。あぁ、本当にぐるぐる。世界が回りそうだ。ってか、世界はずっと回っていたんだっけ?・・・って、違う。違うってば違う。そうじゃない。そうじゃなくて・・・、そう、じゃなくて・・・。
「あれ?どうしたの?」
かかる声に対する返事の用意はない。身体が正直に取る行動に、今はただ、従うだけ。木戸の方へと向かう身体、とにかくこの場を一旦去ろうとしている身体。この行動には、前にも覚えがある。前にも、というか、たった一日前にもやった。対象は檻に入って何も出来ない存在なのに、身体が勝手に、この場からの撤退を命じている状況。そして何の反論もなく、従う状況。
あぁ、なんて弱いのだろう? 『ダン』を名乗っているのに、『ダン』を掲げているのに。恥ずかしい気持ちがなくはない。それでも、身体は相変わらずの撤退命令。今はとりあえず撤退し、態勢を整えろと命じている。態勢を整えて、考えを纏めて、対策を立てろと命じている。
「ねぇ、ねぇってばぁー」・・・相変わらず、脳天気な明るい声。煩い、オマエの声に応える義務なんかこっちにはないんだっつーの。調子乗るな、バーカ、バーカ!
腹の中で盛大に吐いた罵倒は、口から出る前に暴発し、その勢いに乗るように身体を反転。すぐ傍の過去と同じように木戸に手を掛け、開いた先の世界は狭い。そう、いつだって世界は狭い。生まれた時から、ずっと、ずっと。
「昨日、言ってた・・・、お願い、しようと思ったんだよね」
身体がもう半回転しようとしていたのを、何か、知らないものが留めて前進を促した。聞くべきじゃないと、言われているのかもしれない。何か、に。
頭の中で、歌が聞こえる。それは、いつもと同じ、だけどいつもと違う歌。
木戸を片手で全開にして、気合いが入った一歩を踏み出す。外はまだ、少しだけ青みを残した空。踏み出した足は、狭い世界から同じように狭い世界へと身体を促す。両足が出ると、後ろ手に殆ど自動式状態で木戸を閉める。
・・・でも、その直前、確かに聞こえてきた声は「お願い、がさぁ・・・」という、物凄い中途半端に途切れた台詞を吐き出しやがった。閉まる直前まで、続きはない。閉まった後も、隔てられた先から続きの気配すら聞こえない。何も、何も、何も。
だからお願いって何なんだよ!
閉めた木戸の前に立ち、特に面白味のない空を眺めながら・・・、なんだか無性にイライラがつのって胸の内に吐き出した声は、胸の底に落ちた途端、いっそうイライラを生み出して、なんだかどうしようもなくなってしまった。