3
ダン、というのが、名前ということになっていた。
ちなみに、父親もダン、会ったことはないけど遠くの死刑場で働く、父親の年が離れた兄、つまり叔父さんもダンで、父親が小さい頃に死んだっている父親、つまり祖父もダン。べつに、生まれつき皆が『ダン』という名前がつけられている妙な趣味の一族というわけではなくて、これはある意味での渾名みたいなものだった。一族以外の人達は本名だと信じている、渾名。
この家業から取った、名。
『土壇場』作りの一族だから、そこからとって『ダン』。なんて安直。だいたい読みは『どたんば』なのに、何で真ん中の感じだけを取って『ダン』なんだって突っ込みを入れたくなるくらい微妙な安直さ。そもそもどうして三文字の真ん中から取った? とかって思わなくもない・・・、けど、だからって『ド』とか『ドタ』とか呼ばれても語呂が悪すぎるし、『バ』とか『ンバ』とか意味不明な呼ばれ方をされても困る。そんでもって、色々否定した挙げ句、名無しでは流石に虚しいし。
「そうだねぇ・・・、そうなると、やっぱり『ダン』が一番無難だったんだろうね。音読みで『ツチ』とか呼ばれても微妙だろうし」
「・・・まぁ、そうだけどさ」
確かにしょっちゅう土を運んでいるけど、だからって『ツチ』は嫌だ。尤も、そう呼ばれる可能性はそもそもあまりなかったんじゃないかとも思う。直接聞いたわけじゃないけど、所謂、一般的な人達は、運ばれていく土に物凄い悪いイメージがあるみたいだから、呼ぶことすら忌避するだろう。運ばれて、死刑囚の首切り台になる土。作り上げられる土壇場という完成形以上に、不吉なものを感じているらしいから。
まるで、罪そのもののように。死、そのもののように。・・・馬鹿みたいだと思う。罪は運ばれてくるものではなく、犯すものなのに。
そこまで考えてふと我に返ったのは、黙っているはずなのに聞こえてくる、声の所為だった。「ダン、ダン、ダン・・・、うん、いいって、いい。いい感じ」等という、意味があるようでないような、意味ある、言葉。他人の、言葉。ぼんやりとどこかへ向けていた視線を意識的に向かいに投げつけると、そこには当然、他人がいる。なんだかやたら楽しげで嬉しげで、押しつけがましいほど爽やかそうな少年が。
ソイツ・・・、七三一号は、この場所にごく自然に馴染む独り言を漏らしていたかと思うと、向けたこちらの視線にすぐに気づいたらしく、いきなり漏らしていた独り言を止め、視線をしっかり絡めて尋ねてきたのだ。「ねぇ、ダンって呼んでいい?」と。
「・・・べつに、いいけど、どうでも」
「どうでもって言い方はよくないと思うけど・・・、じゃあ、ダン、ダンね」
本当に、どうでもいいという気分での肯定に、少しだけ不服そうな声を漏らした七三一号は、それでもすぐにまた、気分を持ち直して笑う。笑って、呼びかけてくる。『ダン』と。もう、久しく誰にも呼ばれたことのなかった名を、まるで歌うように連呼する。弾むように連打する。打ち込まれる音は、いつしか名の形を持たなくなるけれど、牢の冷たく硬い石に何度も跳ね返り、どこにも落ち着くことなく跳ね続ける。
落ち着きを、なくしていたのは他の何かや誰かではなく、自分自身だったのかもしれない。しかも、どうやって取り戻したらいいのかが分からない。こんなこと、今までなかったのに。落ち着かないなんて、そんなこと。いつもは、今までは・・・、自分、だけの世界、予定調和で成り立つ世界なのに。
「それでさ、結局、なに?」
「・・・なにって、なに?」
「いや、さっきさ、言ってたでしょ、崩さないでとかって。それ、何のこと?」
「あー・・・、それ・・・」
少々届かない場所まで旅立っていた自分が、七三一号の問いかけで、いつもの場所まで戻ってくるのを感じた。足が地面に着く感触。尤も、ここは石畳だけど。「それ、ね・・・、壇、なんだよねぇ」戻ってきた自分の口が、溜息に似た言葉を吐き出すのを、溜息が漏れそうになる心境とともに聞いていた。口癖。誰も聞くことがない、でも漏らさずにはいられない口癖。ずっとずっと、不満に思っていること。どうあっても、諦めきれない不満。
漏らせばいっそう積もる不満は、人生初の、聞く相手がいるという状況で明確な形になる。ぼやきではなく、完全なる、呟きに。
「せっかく完璧に作った壇をさ、崩さないでほしいんだよね」
もうさ、完璧なわけ、歴代の『ダン』が作った物なんて目じゃないくらい、すっごい綺麗な長方形を作るわけ。でもそれなのに、死刑になる奴って、必ず首斬られる前に暴れてさ、その完璧な壇を崩すわけ、何してくれちゃってんの? ってくらい、崩すわけ。
完膚無きまでに崩されるならさ、まだ可愛げがあるけど・・・、だって、完全にただの土に戻るわけでしょ? 大地に戻る的な。それならまだいいんだけど・・・、実際のところは、そこまでは崩さないんだよ。崩す前に係の奴に抑えつけられて、ちょっきん、だもん。いっつも、そう。いっつも、中途半端に崩されて、中途半端に残って・・・、それがさ、どうしても耐えられないっていうか・・・、
「人の完璧な仕事、中途半端に崩さないでほしいんだよね、つまりは」
「ふーん・・・、なんか、本当に職人みたいだよね」
「みたい、じゃなくて職人なんだよ。しかも先祖代々の」
「そっかぁ・・・」
長々と、今まで誰にも訴えることが出来なかった不満をぶちまき、漏らされた感想に突っ込みを入れれば、七三一号は、深く、深く頷いた。まるで、何か凄い偉大な話でも聞いたかのように。ともすればこちらを馬鹿にしているようにも見えるくらいオーバーな仕草は、たとえそうだとしても、少なくとも『まとも』な人間の仕草に見えた。まともな、ごく普通の人間の仕草に。眉間に皺を寄せて、今までの会話を振り返って何か感想めいたことを呟いている仕草も、酷く普通だ。普通で・・・、異常、だ。
こんな場所なのに、普通。檻の中にいるのに、普通。それは間違いなく、異常で異様なことだ。首を数度上下に動かし、理解を示す姿は、この場所では有り得ないはずのもの。有り得ない・・・、はずのものが、どうして今、目の前にあるのだろう?
「ねぇ、壇が崩れるの、そんなに嫌?」
「嫌。物凄く嫌」
疑問の海に溺れるように、足らない息を求めるように、返事は短く吐き出された。窒息間際の金魚のように、ぱくぱくと。嫌、凄く、物凄く嫌、と。ずっとずっと、訴えたかったこと。訴えられなかったこと。訴えたとしても、届かないこと。それを知っていて尚、受け入れられなかったこと。理解していて、理解したがってなかったこと。
だって、果たした仕事ぐらい、満足のいく形で在り続けたっていいはずだって、そう思わずにはいられなかったから。
まだ、大して長くない人生。二十年も生きていない。それでも、その十数年の間ずっと抱いていた思いを、短い単語、しかも吐き出す息に混ぜた単語で伝えきれるとは思えない。詰め込むことも解すことも出来ないくらいの思いは、冷たい石畳の上を軽快に滑り、やっぱり同じ石畳の壁のどこかにぶつかって、粉々に崩されてしまうのだと・・・、そう、確信していた。
「じゃあ、崩さないであげようか?」
俺の首が斬られる時は、崩れないようにじっとしておいてあげるよ? ・・・という形の台詞を、微かな笑いを含んだ声が作り上げた時、その作られたモノが石畳に反響して、この場においての主従関係を反転するように響いた時、破壊的なほど何か、色々なものが一瞬自分から剥がれ落ちるのが分かった。あまりに強い驚きは、それぐらいの衝撃を伴うものらしい。自分の中にある常識も、経験も、感じていたはずの異常すら吹き飛ばして、ただ、反響する形だけに埋め尽くされる。窒息、したいほどに。
「・・・な、に・・・、言ってんの?」
「いや、だって崩されるの、嫌なんでしょ?」」
「そう、だけど・・・」
「だったら、崩さないようにしてあげるってこと」
窒息しそうなほど窒息したいのに窒息出来ない世界の中で、ようやく出せた声は酷く掠れて、笑えるほどに無様だった。その声がおかしかったからでもないだろうけど、七三一号は、相変わらず楽しげな声を発し続けている。発して、意味が分からないことを言っている。にこにこという、実際に存在するわけもない音が聞こえてきそうなほどの笑顔を維持しているその顔は、たぶん、爽やかと言われる感じを漂わせていて、今にも草原の風でも吹いてきそうな雰囲気だけど、ここは勿論、密閉された棺桶みたいな場所で。
湿っぽい風すら吹かない空間に、死刑囚と土壇場職人。土壇場職人の希望を叶えると言い出した死刑囚。何の冗談を引用したら、こんなことになる?
コイツ、やっぱ、頭おかしいんじゃないだろうか、という疑問は、吐き出される前に消えてしまった。何故なら少し前に、全てが剥がれ落ちていたから。今更剥がれ落ちた疑問が戻るわけもなかったのだ。だから、つまり・・・、綺麗さっぱり色々剥がれ落ちているこの身に宿るのは、いまだこの場所を支配していた言葉だけで。
「本当・・・?」
一言、独り言のように呟いていた。まるで、いつもの独り言。でも、この場所は今、独りではなくて。いつも独りではないけど、いつもは独りなのに、今は、独りではなくて。聞こえてくる、微かな笑い声。それは本当に声として聞こえていたわけではなく、吐息として聞こえていただけなのかもしれないけど。
「本当だよ、勿論。じっとしてればいいんでしょ? そのぐらい、簡単だもん」
明るい、声だった。薄暗いこの場所に全く相応しくない声だった。その所為なのか、世界はどこか、夢見がちになる。現実が、剥がれ落ちていく。夢の世界。ずっと、ずっと夢見ていたこと。願って、いたこと。受け入れがたい現実からの離脱。完璧な、完全な仕事の実現。大切な、土の壇。
「でもさ、その代わり・・・」夢の中を、游ぐ声。
──その代わり、俺のお願い、聞いてくれる?
「一つで、いいからさ」
「・・・お願い? え? でも・・・、言っとくけど、出せないよ?」
「出せないって・・・、ここからってこと? 別に、出ないよ」
そもそも出たら崩すも崩さないもないじゃん、と笑う七三一号の笑みには、曇りがない。真っ青な空みたいに、冗談みたいな突き抜けるような青さの笑みだ。「・・・じゃあ、なに?」その青さに気圧されて、返す問い。笑みなんて、浮かべられるわけがない。夢にまで見た、夢が広がる直前だというのに。
「そんなに凄いことじゃないよ。まぁ、でも・・・、」
まだ、秘密。
「大丈夫、結構簡単なことだからさ!」
軽く言い放つ七三一号が向けてきた眼差しは、希望に満ちているように見えた。光源を持たないこの場所において、何か、とてつもない光を反射したかのように。それがあまりに鮮やかではっきりと光り輝くものだから、つい、実は何かの光を反射しているのではないか、なんて思って辺りを見渡してしまって・・・、結局、その場では告げられた言葉の意味も、その光の理由も、問い質すことが出来なかった。