夜の訪問客
秋も深まったある日のこと、俺の持ち前の放浪癖が疼き出し、山登りを兼ねたキャンプにふらりと出掛けたくなった。
清貧を気取っているわけではない、ただ単に金がないというだけのことで、車にもバイクにも縁がない自分は、もっぱら公共交通機関にお世話になっている。
鈍行列車と路線バスを何本も乗り継いで辿り着いた山の麓の広大なキャンプ場は、この日は俺一人の貸し切りだった。こんな寒い時期にキャンプをするような酔狂な人間は他にいないとみえる。
目の前一面に芝サイトが何処までも広がり、所々に低い樹木や腰ほどの高さの草藪が点在する開放感のあるキャンプ場で、夜は天然のプラネタリウムが満喫できる。この時期は、周りを囲む山々のカラマツの葉が黄金色に輝いて、夏場よりもかえって明るく賑やかに出迎えられる感がある。カラマツの葉は幽かに柔らかく甘い香りを発散していて、それを肺一杯に吸入すると、何とも言えない安堵感と快感が体の奥底から湧きあがってくるのだ。
それは空気自体が甘い黄金の蜜で出来ていて、その蜜の海の中をクラゲの様にふわふわと漂っているような脱力しきった恍惚感である。
秋の日暮は早い。五時を過ぎると一気に暗くなり、急激に冷え込んでくる。明日の登山に備えて早めにインスタントな夕飯をかき込み、寝る支度を済ませてから、ホットウィスキーを片手にしばらく星などを眺めていた。
この日の夜空は冴え渡り、無数の星が頭上で瞬いていた。これは今夜は冷え込みそうだな、明日の朝は霜が降りるんだろう。
天の川は滔々と流れているし、流れ星は頻繁に出現するしで、いつまでも見飽きない頭上の風景だが、もう顔も手も大分冷えてきたのでそろそろ寝ようかと思ったのは七時頃だったろうか。
突然近くの草むらがザワザワと揺れたような気がした。今日は風のない夜なのにおかしいなとは思ったものの、もうそれ以上は何もなかったので、気のせいかと思い直し寝袋に手をかけた。
するとまたサワサワと草の擦れる幽かな音がする。今度は気のせいではない。あわててテントから顔を出して見回して見たが、またもや何の音もしなくなった。山で一番恐れるべきは熊である。もしもこれが熊の足音だったら大変なことになる。俺はゆっくりと靴をはき、右手に熊撃退用のスプレーを持ち、左手には登山用のストックを握りしめて、そっとテントの外に這い出した。
そしてそのまま、真っ暗な草むらに目を凝らしてじっと息を殺した。
しばらくの静寂の後に聞こえてきたのは、草を分ける『ザワザワ』と土を踏む『ヒタヒタ』という二種類の物音のハーモニーだった。これはもう間違いない、確実に何かが居る!俺は全身の筋肉が硬直し、体中から血の気が引いてゆくのを覚えながらも、ヘッドランプを点けて草むらに向けて光を照らして見た。だが何も見えない。
と、その時、いきなり目の前の草むらの奥から、
「クシャン!」というオヤジくさい声色のクシャミが発射された。
これはヤバい!熊よりも遙かにたちの悪い人間だ!
淋しいいキャンプ場に来た客を殺しまくる殺人鬼の映画が頭をよぎった。
もしも大鎌やチェーンソーで襲いかかられたら、ひとたまりもない・・・
だが、あれはフィクションのはずじゃないか?
そんなことが現実に起こるのだろうか?
こんな山奥に殺人鬼がわざわざ住んでいるのだろうか?
でも最近は変な奴も多いので、殺人マニアなんてのも本当にいるのかもしれない・・・
一瞬のうちに様々な思いが交錯し、俺はパニック状態に陥った。
・・・俺は殺されるのか・・・?
後にも先にも、これほどの恐怖感と緊張感とに襲われたことはない。
硬直して動けないでいる俺の目の前で草むらが静かに割れて、黒い影が音もなくスーッと現れた。
俺の心臓が、一度大きく跳ね上がった・・・
・・・そこにいたのは、小さな一匹のアナグマだった。
そのあまりにも予想外の展開に、かえってビックリしてもう一度心臓が跳ね上がった。
だが次の瞬間にはもう全身の筋肉の硬直がスーっと解けて、長い安堵の溜息が漏れていた。それでも手足はまだ小刻みに震えてはいたのだが・・・
目の前にちょこなんと存在する白と黒のストライプの鼻面は、見れば見るほどまるでピエロのようで、なんだか段々からかわれているような気がしてきた。
だがとにもかくにも、熊でも殺人鬼でもなくて、本当に良かった・・・
「こんばんは。」
と、澄ました顔をしてアナグマが話しかけてきた。そしてまた一つ「クシャン!」とくしゃみをした。
人が死ぬほどの恐怖に襲われていたというのに、あまりに何事もなかったかのような呑気な様子に腹が立ったので、
「おい、ビックリするじゃないか!いきなり人間の前に現れるもんじゃないよ。熊かと思ってもう少しで催涙スプレーをお見舞いするところだったんだぞ!」と怒鳴ってやった。
それでもアナグマは一向に悪びれる風もなく、
「驚かせてしまってすみません。夜回りの時間なので歩いていたのです。今夜は冷えますねぇ、おかげで風邪をひいてしまいました。ここで人間様にお会いするのも何かの縁かもしれません、厚かましいお願いですが、もしできましたら風邪薬を譲っていただけませんでしょうか?」
などと言ってきた。随分と人間慣れした奴だ。
アナグマも風邪をひくのかと、変な所に関心してしまったが、あいにく風邪薬は持っていなかったので、
「風邪薬は持ってないけど、ホットウィスキーを一杯どうだい?それを飲むと体が温まってぐっすり眠れるよ。」
と勧めてみた。
「私はホットウィスキーというものは今まで戴いたことがないのですが、それはどういったものでしょうか?」
「それはね人間の作り出した飲み物で、一口飲めば身も心も軽く暖かくなって、心配事も病気も吹っ飛んでゆくものさ。」
「さすが、人間様の飲み物ですねぇ。では是非一つ、風邪ひきの哀れなアナグマに恵んでください。」
俺はガスコンロを取りだして鍋で湯を沸かし、人肌程度に温まったところで、その鍋に適当な量のウイスキーを注ぎ入れた。そしてその鍋ごとアナグマの前に置いてやった。
しばらくは立ち昇る湯気に鼻を寄せて、クンクンと匂いを嗅いでいたが、
「これはなかなか良い匂いのものですね。なんだか懐かしい故郷の香りがします。」
なんて一人前のことを言いながら、少しずつペロペロやりだした。
最初は恐る恐る少しずつであったが、どうやら味も気に入ったのか、どんどんペースが上がって行った。こいつはアナグマのくせに結構イケる奴である。アナグマ界に酒があったなら、かなりのウワバミだったに違いない。
やがて、鍋一杯のホットウィスキーを呑みほしたアナグマは、頭を振り上げ星空に向かってクィーと一声鳴いた。
「ワタクシ、こんな美味しいモノは初めて戴きました。人間様はなんてシアワセなのでしょう!これが毎日飲めるんでしたら、もうアナグマなんか辞めてもかまいません!」
「おいおい、大丈夫かい?あんなに一気に飲んで気分は悪くならないのか?」
「トンデモナイ!おっしゃった通り、体はホックホク、心はウッキゥキー、風邪もどっかにフットンデしまいました!なんてスバラシイキブンでしょう!夜の闇がバラ色です!お星さまもいつもより急ぎ足でクルクルと空を巡っています!アア、この軽やかな心持ちはなんでしょう?ワタクシはフクロウにでもなって空を飛んでいるのでしょうか?」
「こいつは参ったな。君の今の状態は『酔っぱらった』って言うんだよ。もう早く家に帰って寝た方がいい。さもないとまた風邪がぶり返してしまうよ。」
「ワタクシはヨッパラッタのでありますね、アリガトウございます。このヨッパラッタシアワセを家族の者にも早く教えてやりたいと思いますので、お名残り惜しいのですが、この辺でシッツレイさせて頂きます。これはほんのアナグマのキモチです、お礼ですので受け取ってクダサイナ。」
舌ももつれ気味にそう言ったかと思うと、どこから取り出したのか何やら小さな塊を目の前の地面にポトッと置いてそそくさと立ち去って行った。
しばらくはヘッドランプの明かりの中に、よたよたと千鳥足で遠ざかって行く小さな後ろ姿が確認できたが、すぐに森の暗闇に飲み込まれて見えなくなってしまった。
目の前に置かれたお礼とやらを拾い上げてみると、大きな朴の木の葉に包まれた三個の山胡桃の実だった。
ふと見上げた夜空は、いつの間にか星の位置が変わっている。ずいぶん遅くなってしまったようだ。そういえば続けざまに欠伸にも襲われる。俺もそろそろ寝ないと明日の朝が辛いだろう。
寝袋の中に潜り込んでから夜の物音に耳を澄ませているうちに、アナグマはちゃんと家に帰れたのだろうかと、ちょっと心配になってきた。
道端で眠り込んで夜露にあたり、風邪が悪化したりしなければ良いが・・・
それから明日の朝、酷い二日酔いに悩まされたりしなければ良いのだが・・・
そんな事をつらつら考えながらも、俺の意識は次第に心地よい睡魔の波にゆっくりと呑み込まれて行くのであった。
眠りの国の入口に向かって薄れゆく意識、その最後に残った幽かな現の中、どこか遠くで、クシャミがひとつ聞こえたような気がした。