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その八 「最終想定 後編  そして……」



 黙々と刻まれる歩み―――――


 飢えと乾き、そして疲労によって、極限まで冴え切った感覚の前には、暗闇は前進に当たって何ら障害とはならない。


 長く辛い最終想定の二日目を、ぼくらは広大な奥羽山脈の南、それ以外は何処とも判らぬ暗闇の中で迎えた。


 「――――第三分隊は明朝0234までにポイント△▼に到達。到達後速やかに通信塔爆破の準備にかかれ」


 身体に堪えるラベリングによる降着、それに続き弾薬と爆薬とを受領した直後に、地上で待ち構えていた野村教官の冷厳なる命令。それがぼくらを行軍・・・というより彷徨へと誘い、それは未だに続いていた。


 「寒い……」


 と、誰かが言い、その後ほどなくしてぼくも口走る。誰かの吐く息の白さ、地面の枯れ枝を踏み締める音、装備の擦れあう音……それだけが、あの世のように永遠とも思える闇と静寂の中でぼくらの存在と生存を証明するものであり、大自然の中にそれらを許されたぼくらは、大自然に対し、これより此処に在る意味を証明して見せなければならないのだった。


 月明かりすら満足に届かない山中の密林……その只中を、得体の知れない何かの遠吠えを聞きながらぼくらは歩き続ける。


 吊紐を通じ肩に食い込む小銃の重み。


 同じく肩と背中に圧し掛かる背嚢の重み。


 前後を歩く仲間の息遣い。


 それらを感じながら一歩、また一歩、さらに一歩……ぼくの意識がただそれだけに集中されるようになって、果たしてどれだけの時が過ぎただろうか?……それ以外のことを考えれば、忽ち歩く力を失ってしまうかのような恐怖にぼくは襲われていた。


 ……だが逆に言えば、ただひたすら歩くことに集中しておけば、万事上手く行くように思えてくる。




時間にして0233。ぼくらは爆破目標たる通信塔とその周囲を一望できる集合ポイントに展開し、すぐさま行動を開始する。


 「杉山、爆破だ。やってみろ」


 と門田軍曹が言い、杉山二等主計は頷く。前日の失敗を払拭する意味でも、それは意味のある事だろう。雷管と爆薬を持った門田、杉山の二人が小走りに通信塔に接近。ぼくらもまた、何時敵襲を受けても速やかに離脱できるよう、背嚢を背負ったままで通信塔の周囲に散り、銃を構えて警戒する。


 爆破係は吸着式の爆薬を鉄塔の基部に据付け、有線式の発火装置を装着する。後は遠隔操作で爆薬を発火させ、支柱の一本でも破壊すれば、理論的には重心破壊による崩落を誘導することができる……演習ではそこまでやらないにしても、実際に爆薬を発火させねば「爆破」したことにはならない。そこで、「実爆教程」で学んだ技術が生きてくるというわけだ。


 だが……


 「どうした杉山?」


 「スイッチが……スイッチが入りません……!」


 「そんな馬鹿な……どれ、貸してみろ!」


 屈射の姿勢で小銃を構える背後から聞こえてくる奇妙な遣り取りに耳を疑う間にも、山地を支配する寒気と研ぎ澄まされた感覚は、迫り来る何者かの気配をひしひしと感じさせてしまう。込み上げる焦燥に抗いかねたぼくが、思わず背後を振り返ったそのとき――――


 「…………!?」


 カッ……という光の生まれる音を、ぼくは振り向いた反対側の頬に聞いたように感じた。それも頭上!?


 照明弾!……それも多数! 


 直後に何かが蠢く気配は一層に感じられ、それはやがて森の各所で瞬く機銃の発砲音となってぼくらの前に迫って来た。そして周囲に散らばるぼくら以上にそれを察したのは、爆破係たる門田軍曹だったのだ。


 「撤退! 撤退しろ!」


 反射的にぼくは伏せ、そして眼前に森に向かい匍匐する。爆破が失敗した際、速やかに離脱すること。離脱後は事前に決定しておいた集合ポイントまで個々に移動し終結すること。事前に打ち合わせたそれら二つを、脳裏で呪文のように何度も反芻しながらぼくは匍匐し、そして身体を起こして山道を駆け出した。頬に、そして胸に受ける風。「戦闘」を経験したことによる興奮がぼくの身体に力を与え、自分でも信じられないほどに疾走を持続させる。


 「…………」


 ……気がついたときには、ぼくは一人で森を抜け出し、そして眼前に飛び込んできた光景に目を奪われていた。森を抜けて達した断崖から望む、宝玉のような眩いばかりの世界の拡がりは――――


 「街……!」


 呻くように呟くと同時に、涙が出た。


 ぼくが目の当たりにしたもの、それは、久しぶりでぼくが目にした娑婆の光だった。山の麓から臨む街の灯、家の灯、車の灯……それらがぼくに、想定の煉獄に身を置いて以来僅か一日のうちに忘却しようとしていた、社会への憧憬を喚起させてしまう。それは言い換えれば、挺身兵課程には不要とされ、徹底的に排除される「人間らしさ」であった。


 知らず、膝から力が抜け、ぼくはその場に崩れ込んだ。


 そして、さらに涙が出た。


 潤む眼下に流れる電気の営み。


 それら文明の営みを、ぼくは愛でるように見詰めるしかなかった。


 何故ならそれが、もはやぼくの手に届かない遠方にあったから―――――


 ―――――それを悟ったとき、ぼくは急き立てられるように守り袋を取り出し、胸に抱いた。


 それに続く嗚咽―――――


 父さん、母さん!……兄ちゃん!……アケミ!……会いたいよぅ!


 アケミ……アケミ!……低い声で名前を喚きながら、ぼくは泣き崩れる。




 そのとき―――――


 「…………?」


 ぼくが泣くのを止めたのは、背後に佇む何者かの気配を感じたから―――――だが、それをぼくが感じたのは、それが初めてではなかった。


 『鳴沢一等兵、貴様こんなところで何をやっているんだ……!?』


 背後から叩きつけられた、抑制の効いた中にも烈しさを含んだ声。それにぼくは我が耳を疑う。


 「へ……?」


 『さっさと行軍に戻るんだ。急がないかこのバカ!』


 ぼくは、頭を上げた。迷彩した顔を涙に汚らしく濡らしながら……そして振り返った先には、やはり陶 大尉の長身。


 彼女と視線を合わさないまま、ぼくは言った。


 「もう……いいよ」


 『鳴沢! 貴様挺身兵になれずしてただで済むと思っているのか!?』


 「ここで襤褸切れのようになるまで訓練させられるより、殺された方がずっとマシだ!」


 『…………』


 辛さ、悔しさ、哀しさ……全てを喉の奥に篭め、ぼくは声を張り上げる。


 「みんなあんたのせいだ……!」


 『…………』


 「あんたがオレの人生に土足で押し入って、オレのことわりも無く何でもかんでも好き勝手に押し付けるから!……オレはこうやってしなくてもいい苦労をしているんじゃないか! 返せっ! オレの楽しい日常を……人並みの生活を返せっ!」


 次の瞬間、ぼくは襟を捉まれ、凄まじい勢いで大尉の目線まで引き摺り上げられる。疲れきり、脅えきったぼくの目のすぐ前には、ぼくを睨みつける爛々とした大きな瞳。それにぼくは戦慄する。


 ……だが、ぼくは自覚していた。戦慄以外に、何か別の感情が、ぼくの冷え切った胸底から芽生え、姿を現そうとしているのを……


 陶 大尉は、言った。


 『いい加減に目覚めろ。鳴沢一等兵!』


 「…………」


 『貴様……軍務を、自分の天命を何だと心得ている? 貴様はただ本官に命令されたから、本官に脅かされたからというだけで、此処まで生き残ってきたというのか!?』


 「…………」


 『いいか鳴沢一等兵……貴様は、選ばれた人間なんだ! どう回り道をしたところで、貴様にはこの道しかない。これが、貴様の運命だ!』


 「…………!」


 『どうあがこうが人生はなるようにしかならない。鳴沢一等兵、貴様であってもなるようにしかならなかった結果がこれだ。だから諦めて道を進むしかないんだ。それでも貴様の人生がイヤだというのなら……』


 「…………」


 『いま此処で、死ねばいい……!』


 「…………!」




 ――――どれくらい、ぼくは倒れていたのだろう?


 愕然―――――それを覚えた直後にぼくは幻影から解き放たれ、草叢に突っ伏したまま、静かに我に返る。


 ちくしょう!……幻のくせに言うだけ言いやがって……悔しさがぼくの身体を突き動かし、そしてぼくは立ち上がる。


 嗚呼、この鳴沢 醇も、幻に馬鹿にされるまでに落ちぶれたか……湿っぽい息を吐き、装備を整えながらぼくは歩き出した。


 だがその歩みに、力が入るのをぼくは自覚する。


 だって、歩いてなきゃ、やってられないじゃん……






 時間にして0647。果たして、到着した集合ポイントでは、お決まりのように野村教官の無表情な顔が待っている。


 「―――――貴様らは事前に必要な偵察活動を怠った。その結果として貴様らは失敗した。それ以上でも以下でもない」


 悄然、憤懣、絶望……それらを疲れ切り、やつれ切った顔に湛えたまま、微動だにしないぼくらをそのままに、教官は続けた。教官たちは憔悴しきった学生がミスを犯すのを待っている。そしてミスを犯した学生を責め立て、追い詰め、奈落の底へと叩き落すのもまた、彼らの仕事なのだ。ただ追い込まれることに耐えるだけでは想定を潜り抜けることはできない。追い詰められたときどうするかに、学生の真価が試される。


 野村教官は、言った。


 「―――――貴様らに名誉挽回の機会を与える……第三分隊は直ちに出発、0930までにポイント○●に到達し、今後の指示を仰げ」


 「…………?」


 これまでと比べ、あまりに不明確な命令。それに戸惑いの色を隠せないぼくらに、野村教官はさらに言った。


 「言っておくが、この任務に失敗した場合、貴官らには次はない。失敗した時点で任を解き、原隊に復帰させる……!」


 「…………!」


 ……再び、行軍。


 その歩調が重いのは、決して疲労だけのせいではなかった。


 「次はない」という言葉が、ぼくらの足取りを重くし、眼前に広がり行く道程が、一層に険しさを増していくように思えてくる。


 「み、水……」


 歩きながらも、自然とうわ言のように呟き、水筒を傾ける。そのとき、軽くなった水筒の中から一滴の水しか出ないことに、ぼくは今更のように愕然とする……否、愕然を覚える余力すら、ぼくの身体からは失われつつある。そしてぼくは、不意に隊列が止まったことに気付かず、前方を行く中沢兵長の背嚢へと強かにぶつかった。


 「…………!」


 ドミノ倒し宜しく崩れる隊列、漸くで上げた頭の先に、ぼくらは信じられないものを見出す。


 断崖……!?


 地図を開き、門田軍曹が苦渋に満ちた表情で言った。


 「迂回は無理だ、予定時刻に間に合わない」


 つまりは……登攀するしかない。身軽になった一名がまずロープを手に断崖を攀じ登り、然る後に上から固定されたロープを伝い、人員と装備を揚収する方法を取る。


 「俺が行くよ」


 と、木村上等兵が最初に進み出た。岩肌に飛びつくや、両手両足を駆使し、何の支えもなくヤモリのごとくすいすいと登攀をこなす彼の姿に、瞠目を覚えない者はいなかったはずだ。木村上等兵は忽ち上に達し、崖の向こう側に姿を消すと、しばらくして今度は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のごとくにロープが落ちてくる。盗賊カンダタに蜘蛛の糸を下ろし、彼を救い上げようとしたのはお釈迦様だが、ぼくらに蜘蛛の糸とでも言うべきロープを下ろし、救い上げようとしているのは紛れもない元ドロボーなのであった。


 「一人ずつだ。早くかかれ」と、門田軍曹。竹中兵長が次に続き、ロープによる登攀に成功すると、ロープを支えていた木村上等兵を支援する。それからは順調に皆が登攀をこなし、元の行軍に復するのだった。


 「やっぱり、専門家は違うな」


 と、山中を歩きながら、竹中兵長が妙なところで感心する。それに木村上等兵は、色をなして声を上げる。


 「オイてめえ、それどういう意味だ!?」


 木村上等兵を宥めてぼくらは再び行軍の途に着き、0930ジャストに集合ポイントに到達。そこではやはり、他部隊の助教が待ち構えている。


 「―――――特別任務だ。F山中に敵の歩兵複数が潜伏し、拠点を構築した模様、第三分隊は直ちに敵拠点を捜索し、掃討せよ」


 「…………」


 「なお掃討完了時刻は1520。これを過ぎれば掃討は失敗したものと見做されるので注意せよ」


 「…………!」


 呆然としてぼくらは、想定の舞台となるF山を見遣る。


 険しい……まるで悪の秘密組織でも潜んでいそうな、鋸の歯のような岩山が連なる高み……どす黒い緑に覆われた裾野は目もくらまんばかりに広く、時間内に想定を完遂することの、困難というより不可能なることを悟ったのはぼくだけではなかったはずだ。


 だが……


 「出発!」


 と言われるや立ち上がり、それでも市場に引かれるロバの如く従順に動き出すぼくらが、ここにはいた。






 行動を開始してすでに二時間――――――


 分け入るにつれ森の砦は一層にその厚みと奥行きを増し、ぼくらを歩きながらに消耗させる。


 地図より地形を分析し、拠点設営に適したと思われる箇所を廻ることすでに三度……襲撃はいずれもが空振りに終わり、その度に募る焦燥に耐えつつ、ぼくらは歩き続けた。


 「おかしいな……この辺りじゃあ基地を作れる場所なんてこれ以上ないはずなんだが」


 と、門田軍曹は地図を開きながらに顔を曇らせる。ぼくはビニールに包まれた地図の上でポイントとルートとを結びつけ、その結果として生まれた行程の全容に目を細めた。果たして行程は、それぞれのポイントを角に、はっきりとした三角形を成している。


 「分隊長、ひょっとして敵は拠点を移動しながら潜伏しているのではありませんか?」


 「それは、一理あるな……だがどうやって確かめる?」


 発言を促されるや、ぼくは近隣に存在するポイントの一つを指差し伏撃を進言する。そのポイントに通じる行程の幅は何れも狭く、その一部は幅の広い川に接している。最も伏撃に適したポイントだが、刻限終了まであと三時間、その三時間以内に敵はここを通過してくれるだろうか?


 それでも……ぼくは言った。言ってしまった。


 「……ここで、対抗部隊を待ち伏せしましょう。」


 方針は決まった。




 配置に就き、さらに二時間―――――


 刻々と近付くタイムリミットは、ぼくらがもはや後戻りのできない状況に陥りつつあることを、無言の内に主張していた。


 諦観、あるいは絶望……何処かにいる敵と同時に、ぼくらはそれらと戦っている。


 息を殺して伏撃ポイントに潜み、来ることすら判然としない敵を待ち構える―――――


 その内何時の間にか、ぼくらの意識は圧倒的多数たる自然の只中に吸い込まれ、同化してしまう。


 息遣いすら、邪魔とも思える静寂―――――


 我が身すら、邪魔とも思える沈黙―――――


 はたして―――――敵はやって来た……! 数は二個分隊相当。


 それを最初に視認したのはポイントへの入口付近に布陣した竹中兵長と木村上等兵。


 二人はポイントへ入った隊列をやり過ごし、静かに道へ出てその入口を塞ぐ。


 そして敵が入ったポイントの周囲では、門田軍曹と杉山二等主計が潜み、二等主計は擬装網を被せたバズーカ砲の砲身を密かに侵入者へと向ける。


 門田軍曹が、二等主計の頭を軽く叩く―――――それが、攻撃開始の合図。


 バスン!……と音を立て、バズーカの砲身が白煙を勢いよく吐き出す。


 白煙は敵に混乱を喚起し、それは忽ちに銃火の交錯をもたらす。


 「杉山! 援護しろ!」


 「了解!」


 二等主計に小銃を撃たせ、門田軍曹は手榴弾を投げた。


 四方八方に銃を撃つ敵兵のど真ん中に落ち、途端に生まれる白煙。


 混乱の中で敵兵の半分が「戦死」し、その中には敵の指揮官もいた。


 指揮官を失った敵兵は一斉に踵を返し、元来た途を逃げ始める―――――そこを、竹中兵長と木村上等兵の射撃で、さらに数名が「戦死」する。


 だがそれでも三名が彼らの追撃を逃れ、川辺の路へと達する―――――


 その彼らの眼前で、突如盛り上がる水面―――――


 「…………!?」


 直後、跳ね上がる飛沫と同時に、盛り上がった川の水面から放たれた銃火は、一連射で三名の野戦服に模擬弾の紅い華を咲かせた。奇襲に呆然とする彼らを追及してきた門田軍曹たちが、奇襲者を見遣り声を上げた。


 「早く上がれ! 変なところに隠れやがって、風邪でもひいたらどうするんだ!?」


 「…………」

 

 水中からの奇襲者たる二人―――――ぼくと中沢兵長は青ざめた顔を見合わせ、苦笑する。


 掃討は、完了した。


 それは、丁度タイムリミットの一分前という際どさ―――――






 「―――――首の皮一枚で繋がったってわけか……運だけはいいな貴様ら」


 任務を終え、再び集合を果たしたぼくらを前に、何一つ表情を変えない野村教官にも、もう慣れた。その無表情なままの眼差しをぼくに向け、彼は言った。


 「山勘で伏撃を仕掛けることを提案したのは、貴様だそうだな? 鳴沢一等兵……」


 「……はい」


 「今日は偶然に成功したが、いつもこううまく行くとは限らんぞ。もし伏撃に失敗し、敵を取り逃がしていたらどうするつもりだった?」


 「それは……」


 口ごもるぼくを暫く凝視し、やがてぼくから興味を失ったように教官は一同に向き直る。


 「これより長距離行軍を行う。2345までにポイント◆○へ到達し、敵飛行場制圧の準備にかかれ……!」


 再び、島谷助教を交え行軍。原隊復帰を免れたことに安堵を覚える暇もない。ぼくらは再び隊列を組み森の奥へと消えていく。


 日もまた、昇り行くだけの時刻は過ぎ去り、あとは沈み行くだけの時間帯へと陥りつつあるのだった。従って、歩くうち、森の奥を進むうちに暗さは一層に増していき、ぼくらはそれに抗う意思すら知らず、歩きながらに萎え果てていく……


 「…………」


 ―――――気が付けば、ぼくは周囲の木々の並びすら判然としない暗闇の中を、前方の気配だけを頼りに歩き続けていた。


 山の澄んだ空気に、やや明瞭さを取り戻した意識で、ぼくは考える。


 この経験には、覚えがある―――――


 「あ……」


 ―――――そうだ、入営したての頃だ。


 基礎訓練課程の総仕上げ、三日二晩に及んだ行軍訓練のことを、ぼくは思い出していた。空気が、去年のあの頃によく似ている。


 ―――――そうか、あれからもう一年経ったんだ。


 あの頃、ぼくは軍隊社会でも最下層の二等兵として、ただ漫然と山中を歩いていたっけ。


 未来に何も期待せず、あるいは期待されず、ただ行事であるからという理由で、新兵たるぼくは行軍し、総行程80キロに及ぶ山道を歩きとおしたのだ。


 ……それが、今はどうだろう?


 ぼくは一等兵となった。


 そして今は、一等兵というより挺身兵課程学生という身分を背負ってこの山道を歩いている。


 全帝国陸軍兵士でも精鋭中の精鋭たるレンジャー。それを目指し、ぼくはこうして歩かされている。


 「…………」


 ぼくには、判らなくなった。


 それがいい事なのか、それとも―――――


 ……否、そんなことより――――


 ―――――ぼくは本当に今、「正しい道」を歩いているのだろうか?


 「…………!?」


 踏み出した足を滑らせ、ぼくがそれに気付いた次の瞬間には、ぼくの身体は森の奥底に飲み込まれるようにして傾斜を滑り落ちていた。


 傾斜の底に達する直前で、ぼくは思わず目を瞑る―――――絶叫すら飲み込んでいく自然の闇を感じて。


 「鳴沢……!」


 誰ともわからぬ声が上から降り掛かるのと、ぼくの後を追うように人影が斜面を滑り降りるのと同時……人影は驚愕の余韻覚めやらぬぼくのすぐ傍らで、中沢兵長の笑顔となった。


 「すいません……中沢兵長どの」


 「仕方ないよ……バディだからな」


 身を起こそうとしたぼくを、中沢兵長は制するようにした。そして程無くしてぼくは、「滑落」したのがぼくら二人だけではないことに気付く。第三分隊の六人とも、見事なまでに一緒に「滑落」していたのだ。


 中沢兵長は言った。


 「鳴沢、少し休もうぜ」


 「でも、助教は……」


 「大丈夫、ポイントで合流すればいいさ」


 そう言うと、中沢兵長は野戦服の襟から煙草を取り出し、火を点けた。唖然としてそれを見遣るぼくに、苦笑で応じる。


 「何ボサっとしてんだ。おまえもやれよ」


 「そうですね……」


 と、ぼくも襟に忍ばせていた煙草を取り出す。


 「ホラ、火ぃ点けてやるよ」


 と、中沢兵長は咥えたままの煙草を近付けてくる。貰い火の好意に、ぼくも咥えたままの煙草を近付けて応じる。


 「フゥ――――――……」


 全身を蕩かす様な一服を何度か繰り返したところで、中沢兵長は言った。


 「なあ……鳴沢」


 「…………?」


 「上官に志願させられたって、言ったよな?」


 「それが何か?」


 「おれ、わかったような気がするよ」


 「…………?」


 「何故鳴沢の上官が、お前を挺身兵に推薦したのか……」


 「…………」


 「おれは食うためだけに兵隊になって……きっとそのままで終わるだろうけど、鳴沢ってそれ以上を目指せる男だとおれは思うんだ」


 「…………」


 「すごいじゃないか、あの待ち伏せ作戦」


 「あれは……運が良かっただけだし……それに、もし外してたら……」


 『みんなに悪いところだった……』という言葉を、ぼくは胸中で押し殺す。


 「運がいいのも、軍人には必要な資質らしいぜ」


 「…………?」


 ぼくは、驚いて中沢兵長を見返す。


 「鳴沢……お前学生なんだろ。だったら満期でここ出たらさっさと大学卒業してさ、またここに戻って来いよ。お前だったらここで順当に出世できて、将軍にだってなれるかもしれないぜ?」


 「将軍だなんて、そんな……」


 「……いや、鳴沢はそうなるべき男だ」


 「…………」


 何時の間にか、ぼくを見詰める中沢兵長の目が、真剣身を帯びていることに気付き、ぼくは気だるさを忘れた。そのとき……


 「オイお前!……何食ってるんだ?」


 素っ頓狂な声に、ぼくと中沢兵長、そして門田軍曹と杉山二等主計の四人の視線が、後の二人に集中する。ぼくらの視線の先で、木村上等兵は何処から持ってきたのか判らない魚肉ソーセージに食らいつき、竹中兵長はそれを唖然として凝視していたのだった。


 ギュルルルルルルル……!


 一ヶ月ぶりに目にしたかのようなまともな食べ物―――――親指よりも太いソーセージに、ぼくら五人の腹は、ガマガエルの悲鳴の如くに抗議の声を上げてしまう。思えば持参することを許された糧食は、節制を心がけていたところで、行軍の間にすでに食べ尽くしてしまっていたのだ。しかしながら……


 「お前、そんなもん何処に隠してたんだ……!?」


 竹中兵長が掴み掛からんばかりの勢いで木村上等兵に声を荒げた。明らかな非難口調だったが、その言葉の端々に宿る本能的な羨望を、娑婆では一端のエリートであるはずの彼ですら、この極限状況下で隠すことができないでいた。それを見透かしてか否か、木村上等兵は竹中兵長を無視するかのように手付かずの魚肉ソーセージを一本ずつ、ぼくらに差し出した。


 「ホラ、一人一本だ。欲しいならやるよ」


 「誰が要るかそんなもん……!」


 竹中兵長の再びの難詰は、恐らくはそれを欲する彼の生存本能に対する、理性の抗いであったのに違いない。だが……


 「そうか……最後の一本は俺たち五人で分けようぜ」


 と木村上等兵が言い出すや、竹中兵長は空腹に抗えず遂にそれを押し頂くのであった。


 「いいか、これはバディ同士の連帯感を培うための私の最小限の妥協だ。決してお前の誘いに負けたわけではないからな。あくまで例外だぞ……!」


 「あーあーわかったわかった……そういうことにしとくよ」


 奈落の底に落ちても相変わらず続く二人の遣り取りに苦笑を浮かべながら、包装を向いたソーセージを口に入れようとした瞬間、ぼくは顔を曇らせた。


 ソーセージから漂う異臭。これは……


 「木村上等兵?……これってまさか……」


 「へへへへ……鳴沢気付いたか。まさか鬼教官でも、あんなところにブツを隠しているとは気付くめェ」


 「うああああ……」


 同じく事の次第に気付いた竹中兵長が、苦虫を噛み潰したような表情もそのままに言った。


 「……さすがは元縄付きだ。確かにお前以外の誰も、あ《・》の《・》に隠そうとは思わんだろうよ」


 「嫌なら食わなくてもいいんだぜぇ?」


 ギュルウウウウウウウウ……!


 それでも再び、腹が鳴る音―――――たとえソーセージが何処から出てきたものであれ、それに抗うことの出来る者は、もはやぼくら六人の中にはいなかった。


 中沢兵長が苦笑気味に言った。

 

 「木村上等兵が、女だったらよかったのにな」


 「どうして?」


 「隠せる場所が、もう一つ増えたのに」


 途端に、六人同時にどっと起こる笑い。


 だが冗談や悪態を交わすには、この野山は余りに広過ぎ、そして深過ぎた―――――






 日は変わり三日目――――――


 「―――――止まれ」


 と、先頭を行く門田軍曹が言ったのは、日はすでに落ち、星や月の瞬きすら届かない山の奥底の何処かを彷徨っていた最中のことだった。


 「この辺でいいだろう。設置を始めろ」




 「―――――第三分隊は第一、第二分隊と協同し制圧にかかる。作戦予定時刻は0315。第一、第二分隊が飛行場施設及び作戦機の破壊を行う。第三分隊の任務は擲弾筒射撃による敵飛行場攻撃及び、敵警戒部隊の排除である」


 遡ること0004。ぼくら第三分隊に出た新たな指示は、ぼくらが新たな装備を負い、再び行軍を強いられるということを意味していた。


 正式名称八九式重擲弾筒。本体重量5kgあまりのそれは、800gの安定翼付擲弾を、曲線軌道を描き最大800m飛翔させることができた。戦前に開発され、後の大東亜戦争、朝鮮戦争においても歩兵用の支援火器として、または隠蔽された地点からの敵地攻撃という奇襲的運用にも多大な効果を発揮した兵器であり、現在においても、簡易な構造と扱いやすさゆえに歩兵用の支援火器として、未だに格別に改修を施されるまでもなく生産と配備が続いていたのだった。


 移動中はぼくが布袋に入った擲弾筒本体を抱え、あとの五人が擲弾を8発ずつ、計40発を持つ。背嚢に括り付けた砲身はずしりと重たく、歩くうちに覚束ない足取りが、一層に乱れるのをぼくは自覚する。




 時間にして0311――――――


 制圧目標たる敵野戦飛行場の周辺に潜伏し、擲弾筒の配置を終えたぼくらは、射手と装填手たる門田軍曹と杉山二等主計とを残して飛行場付近に前進、再び潜伏して作戦開始を待つ。今頃多方面から展開を終えた他分隊もまた、奇襲の準備を終えているはずだった。


 「…………」


 繁みから息を殺し、ぼくは暗闇の中にうっすらと映える飛行場の全容を捉える。


 場内に並ぶ数機のヘリコプター。その片隅に配された戦闘車両。場内を行き交う人影……それらを闇に馴れた目で把握し終えるのと、ふと視線を落とした時計の文字盤が予定時刻に達するのと同時―――――


 「時間変わった……!」


 と、同じく時計を睨む中沢兵長が言った。本来ならこの後に擲弾筒による射撃が始まるはずなのだが……


 「…………!?」


 ぼくらはわが目を疑う。それより先、飛行場を囲む一点が銃火に瞬いたのだ。


 不随意に起こったそれは即座に敵警備兵の応射を喚起し、野に火の広がるかのように突発的な銃撃戦へと発展してしまう。あとで知ったことだが、他の分隊が功を急くあまり、事前の取り決めを無視しいち早く攻撃を開始したのだった。そして手順を無視した攻勢は、作戦行動に全般に渡り破綻を引き起こす。


 「ばか! 早過ぎる!」


 中沢兵長の絶叫。さらなる波乱は、ぼくらのずっと背後に位置する擲弾筒より撃ち出された精密照準用の照明弾の輝きとなって、飛行場一帯の全容とぼくら襲撃者の姿を星空の下に暴露させてしまう。


 「…………!」


 あまりの展開に目を奪われていた中沢兵長を引き摺るように立たせ、ぼくは走り出した。敵兵の射撃はすでにぼくらにも指向されている。敵の防御網は思いの他堅く、銃火の密度は濃い。一箇所に留まっていては忽ちに殲滅されてしまう……!


 走りながら、ぼくは思案する。


 位置を変換しすぐさま反撃の姿勢を取るか、それとも―――――


 「鳴沢、脱出しよう……!」


 ぼくの後を追う中沢兵長が言った。脱出は嫌だった。漸くで挽回した名誉。今ここで退いたら、教官に何と言われるかわかったものではない。中沢兵長の言葉を無視しようと、新たな伏撃拠点を探し走ろうとしたぼくを、彼はものすごい勢いで押し倒した。


 「兵長……!?」


 「鳴沢!……落ち着け。落ち着くんだ!」


 「…………」


 ぼくを抑え付けたまま、真摯な眼差しでぼくを睨みつけ、中沢兵長は言った。知らず、昂ぶった気はすでに萎え、そしてぼくは彼が上位者であることを今更のように自覚する。






 ―――――絶望と共に予期した通り、攻撃に失敗し集合ポイントに帰還したぼくらに、希望は与えられなかった。


 「貴様らには失望した。貴様らのようなクズには挺身章を得る資格はない。この場において即刻貴様らの任を解き、原隊に復帰させる」


 「…………!?」


 名状し難い悲鳴を上げ、地面に身を投げ出したのは、杉山二等主計だった。呆然とするぼくらの前で彼は這い蹲り、目鼻から汚らしい汁を垂らしては声を振るわせた。


 「自分が悪いんですうぅぅ……お願いです! クビにするのは自分だけにしてくださぁぁぁい!」


 「ちぇっ……アメ公はこれだ。人情ってもんがまるでねえや」


 と、木村上等兵が吐き捨てる。あまりに心無い一言だが、そんな悪態に容易に心を動かされるような人間ならば、野村教官は教官なんかになってはいないだろう。


 「何てこった……長官にどやされる。」


 と、焦点の合っていない目も相変わらず、竹中兵長は蒼白な顔もそのままに呟いていた。途端に姿勢を崩し、地面に片膝を突く門田軍曹。足の痛みが、すでに彼自身の根性ではカヴァーしきれないことを、それは雄弁に、かつ深刻なまでに主張していた。それをぼくと中沢兵長が助け起こす様子に、島谷助教が嘆息する。


 「もう限界だよおまえら……よく頑張ったけどな」


 ぼくは一歩を踏み出した。


 「教官に質問!」


 「貴様らに、本官を教官と呼ぶ資格はない……!」


 射るような野村教官の視線。それでもぼくは続けた。


 「攻撃失敗の原因を作った他の分隊はよくて、何故我々は失格なのですか?」


 「刻々と変化する状況に、自己の判断で適宜対処するのも挺身兵の任務の内である。貴様らはその重要な点でミスを露呈した。だから失格だ」


 「では我々は、自己の判断で戦線を整理し一時撤退しただけであります」


 「何……?」


 野村教官は、ぼくを見返すようにした。がっしりとした顔つきにぎょろりとした大きな目、そして全身から発散される迫力が、仁王か何かのようにぼくの眼前に迫ってきた。それでもぼくは踏み止まるように、ともすればギラついた眼光の前に圧倒され、崩れかける脚に力を入れ、言った。


 「我々は、前線に身を置く者として、そして挺身兵として最善の方策を選択する権利があります。命令するだけのあんたとは状況も意識も違う!」


 「貴様……!」


 一人の助教が声を荒げ、ぼくの肩を掴んだ。ぼくは怒りの赴くまま反射的に腕を掴むと捻り上げ、そして即座に脚を払い押し倒した。


 「…………!」


 期せずして沸く驚愕!……色を為した助教たちがぼくを取り囲む。だがそれも一瞬、野村教官は無言で彼らを制し、ぼくの前に進み出た。


 「貴様……自分がやっていることが何か、わかっているんだろうな?」


 穏やかな、だがその中に拭い難い怒りを込めた口調を、ぼくは射るような眼光で撥ね付ける。


 「……自分は、納得のいかない命令に異議を申し立てているだけです。反抗ではありません」


 もはや「上官の命令は朕の命令と思え」という時代ではない。いくら命令でも、納得がいかなければ異論を唱える権利を、ぼくらは持たされている。


 「鳴沢!……もういい止めろ!」


 身を起こした門田軍曹の声など、ぼくはもう聞いていなかった。むしろ緊張を緩め、野村教官に反駁させる暇を与えることの方を、ぼくは内心で恐れていたのだ。だが一度生まれた緊張は、それを保とうするいかなる努力を払おうとも、それが流れる時間により失われていく……


 ……そうした沈黙のうちに時間が流れ、ぼくらの対峙が望みもしない破局を迎えようとしたそのとき―――――


 「教官……」


 血相を変えて走り寄ってきた通信兵の、小声と共に差し出された送受話器を取り一読した野村教官の表情が、固まった。そして緊張は突然に解消され、場を場違いなまでに安堵が覆う。


 送受話器を通信兵に放り、教官はぼくらに向き直った。


 「貴様ら、帰還だ」


 「…………?」


 「緊急事態が発生した。全員、基地に帰還せよ!」


 更なる命令に、狐に摘まれたように唖然として教官を見遣るぼくら。助教たちですら、あまりのことに耳を疑うかのように呆然と彼らの上官を見詰めている。


 だが、ぼくらは知らなかったのだ。山中にいるぼくらの与り知らない外で起こった何事かが、これらからのぼくらの行く末に、とんでもない波乱を巻き起こそうとしていることに―――――


 ―――――そしてこの夜、ぼくらのいる山中からそう遠くない場所で起こったその「事件」は、その後のぼくらの行く末はおろか、戦後日本の安全保障のあり方すら、一夜にして一変させてしまう重大な転機へと発展していったのだった。





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