その七 「最終想定 前編」
ぼくにとって、居住区内まで響き渡るタービン音を、一向に巡ってこない睡魔を受け入れ、忘れようとする努力に、運命の夜は費やされた。
「…………」
慣れないハンモックに揺られ、なかなか眠りに就けない身体を持て余す内に、にわかに兵員居住区の外が騒がしくなった。
次に、室内スピーカーを走る空電音を聞いた瞬間、漸くでまどろみ掛けたぼくの意識は完全に覚醒し、過酷さの待つ現実へと引き戻される。空電音の次に響き渡るであろうラッパの音色を、ぼくは完全に明瞭になった意識で、ハンモックに身を横たえながらにして身構える。
そして―――――
パァーパパァーパパァーパパーパパァパパァーパパ パァーパパパパァーパパパパパパパパァー……
起床を告げるラッパではあったが、それはぼくら陸軍兵士にとっては聞き慣れない音色であった。それもそのはず、ぼくらが現在身を置いているのは、地上の陸軍基地やベースキャンプではなく、日本沿岸の太平洋上を航行する帝國海軍艦艇であるからだ。
そう……ぼくらは今、海の上にいる。
陸海空軍を問わず、日本の兵隊がラッパの音に絶対服従なのは何処でも同じ……手早く身繕いを済ませ、そしてぼくらは命令されるまでも無く装備を整える。その際バディと互いに装着の不備を点検し合い、互いに装着を手伝うのも常のことだ。
「中沢さん、眠れましたか?」
「ああ、ぐっすりとね」
隣のハンモックに寝ていた中沢兵長がぼくの装帯を結える手を止め、笑い掛けた。
「鳴沢……あと少しだな」
ぼくは、無言で頷くだけだ。その返答といっては何だが、ぼくはドーランを中沢兵長の顔に塗ってやった。顔全体を真っ黒にするぐらいに塗りたくったところで、中沢兵長は苦笑し、彼もまたドーランを塗りつけた指をぼくに充てる。それから一分も経たぬうち、ぼくの顔は正月の羽根突きのように○×模様に覆われてしまう。バディの顔に自ら生み出した模様に堪え切れず、中沢兵長は声を上げて笑うのだった。
「何て言うか……夢みたいです」
「夢じゃないってことは、これから嫌って程感じるだろうさ」
装帯、背嚢、小銃……総重量で30キログラムに喃々とするフル装備で艦橋から外に出たときには、未だ空は闇の帳に覆われたままであった。野戦演習に出る重装備の上に、頭を覆うブーニーハット……それこそがぼくらが今、十週に及ぶこの過酷な道程の総仕上げにして、最も困難な地点に差し掛かっていることをひしひしと感じさせる。
吹き荒れる寒風が、艦内を巡る暖房に慣れ、外の寒さに慣れ切っていないぼくの身体には酷く堪える。
何の遮蔽も無く直に襲い掛かってくる突風の連鎖。
それもその筈、ぼくは今、何の遮るものの無い、だだっ広い飛行甲板の上にいる。
帝國海軍ヘリコプター空母「隼鷹」。
実を言うと、元来より軍艦として生を享けたフネではない。
戦前、もともと豪華客船としてこの世に生まれ出る筈だったこのフネは、かの「大東亜戦争」へと通じる時勢の急激な変化により、帝國海軍の航空母艦として海原への一歩を踏み出したのであった。やがて戦局の転換に伴う決戦兵力の枯渇は、元来主力艦隊の補助的な役割でしかなかった彼女を帝國海軍のれっきとした正規空母として前線に立たせ、その起工時より軍艦として生を受けた数多の僚艦の、激闘に傷つき沈んでいく中を彼女は戦い抜き、「大東亜戦争」を生き残った。
それに続く戦後の軍縮、そして技術の向上に伴い、それらに適応できなくなった多くの正規空母があえなく退役していく一方、歴戦の勇艦でもあり、運用面においても客船としての経済性に優れた彼女は朝鮮戦争の戦訓を反映した二度にわたる改装の結果として、ヘリコプターによる大規模な揚陸兵力投射を可能とする強襲揚陸艦へと生まれ変わったのであった。「隼鷹」は作戦時には最大1530名の陸戦要員を積載し、汎用のH-19ならば最大で38機を搭載でき、大型のV-107ならば最大27機の搭載を可能とする。
そしてその飛行甲板は、ほぼ同時に12機のヘリの離発着を可能にする。
――――その「隼鷹」の飛行甲板。
「報告」
整列したぼくらと同じく野戦装備に身を包んだ野村教官の声は決して大きくは無かったが、それでも広漠たる甲板の上では明瞭なまでに聞き取ることができる。
「総員16名、事故なし、異状なし!」
前へ進み出た学生長の報告に軽く頷き、教官は言った。
「寒いなァ……」
そして、そのギョロリとした目で、押し黙ったままのぼくらを一度見回す。
「貴様らも、寒いだろ?」
「…………」
「返事は……?」
「レンジャー!」
「そうだよな、ようし……少し運動するか」
ぼくらは内心で身構える。「少し」……その言葉が曲者であることを、ぼくらは知っているから。
「始め……!」
背嚢を背負い、銃を頭上に掲げた状態での「生存者」――――スクワット運動。
飛び上がっては膝を曲げて屈むという、単純な動作の繰り返しの中に孕まれた煉獄を、ぼくらは未だ夜も明け切らぬうちから噛み締める。
いーち、にー、さぁーん、しぃー……回を重ねる度に、徐々に乱れ始めるペース。ぼくらの周りに控える助教がそれを目敏く見つけ、怒鳴りつけ、飛び上がれない者を蹴り上げる。
「しっかり腰を上げんかぁー!」
「バカヤロー! 声が小せえ!」
「テメー、役者やのお。オラ、腰上げろ腰!」
「レンジャー杉山! チンタラすんな!」
そう……かつては三週間も経たない内に脱落かと、助教はおろか学生の間ですら賭けの対象にされていた杉山二等主計は、まさに根性とバディたる門田軍曹の叱咤激励のお陰で此処まで生き残ってきた。助教の怒声をBGMに必死でペースを上げるその彼の傍らでは、門田軍曹が顔をお不動さんのように真っ赤にして引き攣らせ、黙々と「生存者」を続けている。それが「生存者」の課す辛さによるものだけではないことを、ぼくらは知っている。彼は未だ数週間前のロープ教程で負った足の負傷から、治療と退院を経ても完全に癒えてはいなかったのである。
ごじゅーいーち、ごじゅーにぃー、ごじゅーさん、ごじゅーしぃー……
竹中兵長、木村上等兵の二人もまた、ぼくらの傍らで「生存者」に取り組んでいる。木村上等兵の足元が、何かを庇っているように覚束ないように見えるのは、気のせいだろうか? 否……
「コラ白ウサギ、お前もう少し真剣にやらないか!」
バディの挙動不審を見咎めた竹中兵長が汗だらだらの顔もそのままに目を剥いた。木村上等兵もまた、必死で腰のあたりを庇うように屈伸運動を繰り返しながらに声を荒げる。
「おらぁ何時でも真剣だぁ!」
「だったら今ここにはいないはずだろうが! この人生の落伍者がぁ!」
「何だとこのアヒル野郎!」
「レンジャー竹中、レンジャー木村! 貴様らやかましいぞ!」
助教に怒鳴りつけられても、警官と元泥棒の反目は今なお続く。だがその二人の遣り取りが、当初の険悪なまでの反目から、次第にどつき漫才じみた軽妙な応酬へと変わって来ていることに気付いていたのは、ぼくだけではなかった。
「――――総員着座して聞け、レンジャー竹中とレンジャー木村は腕立て伏せだ」
「…………」
「レンジャー竹中、レンジャー木村、返事は?」
「レ、レンジャー!」
朝イチからの烈しい運動に息を荒げ、厳冬にも関わらず噴出す汗に身体中から湯気を立たせるぼくら。ぼくらを円陣に座らせ、円陣の外でスクワットから一転、不承不承腕立て伏せに取り掛かる二人を他所に、野村教官は戦況要約を始める――――
――――作戦区域はK半島。ぼくら挺身班は空路より海路を経て半島に上陸し、現地の仮設敵占領地域に浸透、各種想定を行う。
「――――想定期間は未定。この間諸君らに対する外部からの一切の補給は無い。諸君らは当該地域において武器弾薬の供給以外の一切を自活し、想定を完遂せねばならない」
野村教官はそう言った。だが想定期間の未定というのは嘘である。想定は大抵の場合、三日三晩に渡って続き、四日目の朝方には全ての想定を終了するようになっているという体験者の噂をぼくは前に聞いたことがあった。だが問題は、その三日間にわたり、想定は休む間も無く課されるという事だ。それこそ眠る間も、食べる間も与えられない位に……
野村教官の説明は続いた。
「――――想定内容は山間部移動及び伏撃、敵施設制圧、爆破、遊撃、要人救出等多岐に及ぶ。諸君らはこれまでの教程で学んだ全てを発揮し、想定を完遂せねばならない!」
最終想定とは、言い換えれば実地試験のことである。地図判読、実爆、潜伏、生存技術etc……学生はこれまでの教程で学んだ技術を、実戦により近い状況で応用することを要求される。これは咄嗟の判断力や即興性といった、将来の特殊作戦要員として必要な適性を備えているかどうかを判別するための問題設定でもあるわけで、それらの特性に乏しい者を振り落とすための「足切り」でもあるわけだ。
想定要約の最後、野村教官はこう言って説明を締め括った。
「――――想定の最終日に脱落した者もいる。諸君らは決して気を抜かず、想定に専念しこれを完遂せよ……!」
戦況要約に続き、隊容検査が待ち構えていた。挺身兵学生にとって最もいやな隊容検査が……
最終想定に際し、隊容検査はまさに実戦に臨むのと同じ真剣さを以て行われる。武器、服装、備品、食糧……長期の作戦行動を可能に為らしめるべく準備されたそれらに、学生自身が不備を顕わにしていないか、そして余分な食糧、水……そして薬物といった規定外の物品を隠し持ってはいないか、助教たちは準備を終えた学生を、それこそ初年兵を苛め抜く古参兵さながらの鵜の目鷹の目で調べて回るのだ。当然、そこで僅かでも不備や不正が露見したりすれば容赦ないペナルティが待っている。それもお約束のごとく、ぼくら全員の「連帯責任」という形で……
「いーち! にぃー! さぁーん! しぃーっ!……」
重さ20キログラムの背嚢を背負ったままの腕立て伏せ。その回数は不備が見つかった回数×10回と相場は決まっている。二十回、三十回と回を重ねるうち、重さに耐えかね姿勢を崩す学生を、助教たちは容赦なく怒鳴りつけ、蹴りつける。
「貴様! 想定目前で脱落か? 脱落するのか?」
「貴様ら死ね。死んでしまえ! コノ大根役者が!」
「役者」とは、教官がしごきに耐えかね音を上げる学生を罵倒する言葉でも最たる種類のものだ。「貴様わざとヘタれたフリをしているんだろう? 役者ぶりやがって……!」という意味合いで使われる。それこそ南河内大学応援団で、四回生を苛め抜く一回生のような嬉々とした声で。
「お主役者やのぉー……だが終わるまでやらせるぞ」
蛮声を張り上げる助教のお膝元、腕立て伏せを黙々と続ける学生の中には野戦服の袖の中に金平糖を忍ばせていたり、襟の裏にカフェインの錠剤を隠していたりと案の定、禁制品の隠匿が露見した者もいる。摘発されなかったぼくらの感慨はこの場合、「何てことしてくれるんだこのバカ!」といった怒りではなく、「もう少し巧くやれよなぁ……」という落胆となる。そして摘発された者とそのバディには、助教は辛い腕立て伏せの後、猫撫で声でこう語りかけるのだった。
「貴様、そんなにチョコレートが食いたいか?」
「…………?」
「返事をしろこのタコ! てめえに聞いてんだよ」
「レ、レンジャー!」
「ようし、おれが特別に、貴様にチョコレートの携帯を許可してやろう」
「…………!」
意外な配慮に、一瞬学生の脳内を過ぎる困惑と希望、だがそれはやはり一瞬で裏切られる。勿論彼は言われた通り、助教に手ずから「チョコレート」を渡された。それも、「チョコレート」とマジックで殴り書きされた重さ四キロのコンクリート製のブロックを……隠匿が露見した結果、この彼と同じく本物を没収される代わりに「飴玉」とか「魚肉ソーセージ」と銘打たれたコンクリートの塊を貰った学生は決して少なくは無かった。ある学生など立て続けに隠匿がばれ、結果として総勢12キログラムのブロックを背負い込むことになったほどである。
「体力練成」という名の罰直を終えてもなお、ぼくらの試練は続いた。「生存者」に続いてフル装備での腕立て伏せを終え、想定の始まらない内からヘトヘトのぼくらに、助教はこう言い放ったのだ。
「さっさと装具を整え、出動準備をしないか!」
このような状況でやれと言われて出来るようなら挺身兵はいらない。だが挺身兵に「できません」という言葉なぞ存在しない。そしてできない者にはやはりペナルティが待っている。肩で息をするばかりで返事もろくにできないぼくらに、助教たちは畳み掛けるように言った。
「動作が緩慢だ。罰として糧食を没収する」
「…………!」
事前に与えられた糧食は三日分。だが一日二食で一人分相当、しかもその量をバディと二人で分けることになる。それをさらに減らすとは……銃と同じく兵士の命とも言うべき糧食を減らされ愕然とするぼくらの目は、その次に下された指示で完全に真っ暗になった。
助教は言った。
「水筒の蓋を開け、胸と同じ位置まで上げろ」
言われるがまま、たっぷりと水を満たした水筒を掲げるぼくら……
「90度傾けろ。助教がいいというまでだ」
当然、水筒から溢れ出す水の滝……万有引力の法則は無情にもぼくらから生命の水を奪っていく―――――胸中に注ぎ込まれる焦燥感と入れ替わるように、ぼくらの水筒からは溜め込んだ水の半分が失われてしまった。
―――――そしてこれで、ぼくらの出撃前の「儀式」は終わった。
「搭乗―――――っ!」
号令一下、叉銃した64式小銃を引っつかみ、ぼくら学生の隊列は薄暗い飛行甲板を疾駆する。
横目に稜々たる海原を見ながら甲板を走り、そして甲板後部、すでにエンジンの始動を始めたV-107ヘリコプターの尾部にぽっかりと開いた搭乗口を間近に目にした瞬間、走りのペースを少し押さえる。灯火を抑えた機内に学生全員が入るのを見届けた後、教官たちと機上整備員が最後に乗り込んで来る……そして、搭乗口は完全に閉められる。
「…………!」
野村教官がインカムに何やら声を上げた。その後に急激に回転数を増すローター。やがて機内全体が心許ないまでの浮遊感に包まれ機がゆっくりと上昇していくのを、ぼくは狭いキャビンから息を潜めるようにしつつ感じた。規定高度に達し、左横滑り気味に母艦を離れていくV-107……
ぼくらは、ついに最終想定へと発進したのだ。
その後には、意外なほどの静寂が訪れた。
「今の内に休んでおけ、地上に降りたら休む暇なんて一秒もないぞ」
と、門田軍曹が言った。彼は六度に渡る挺身兵課程への挑戦の悉くを、最終想定時における突発的な事故、それに起因する負傷で跳ね返されている。その経験者の言葉は今のぼくらにとって何よりも頼もしく、有難い。適度に揺れるヘリの機体もまた、自然とぼくらを居眠りという名の休養へと誘うのだった。
……だが、平安も束の間。
そのまま、どれくらい飛んだだろうか?
「―――――状況を説明する」
教官の言葉は決して大きくは無かったが、ぼくらを一瞬で眠りから解き放つには十分な響きを持っていた。
「想定内容は上陸。本隊はK半島南西方面海上に降着、浮舟機動を以て上陸し、迅速に山間部に浸透する。移動目標ポイントは○×、1030までに移動を完遂せよ。以上!」
それまで徐々に高度を下げていたヘリの動きが止まり、搭乗口が開かれた。漸く白み始めた外から吹き込む寒風を頬に受け、開放された一面に広がる海原に、ぼくらならずとも絶句する。機はあまりに低く、海面スレスレの高度にまで下がっていた。搭乗整備員が馴れた手付きで救命浮舟のカプセルを放出し、洋上に落ちた浮舟が完全に展張したのを見計らい教官が声を上げる。
「第一分隊搭乗せよ!」
学生は第一から第三の三つの班に分かれて想定にあたる。ぼくの属したのは第三分隊だった。分隊長は門田軍曹で、お目付け役として島谷助教が付く。ロープを使い小舟に搭乗、意に反しはげしく揺れるゴム製の浮舟の上でバランスを取りながら、ぼくらは満身の力を込めてオールを漕ぎ出した。
ビニールにコーティングされた地図を広げ、その上で忙しげにコンパスの磁針を動かしながら、軍曹は言った。
「針路そのまま……舗装道から見えない位置がいい」
オールを忙しく動かす一方で、ぼくの目は水平線の一端で止まっていた。ぼくの目を捕えて離さない赤、白、青の無機的な瞬きの連なり、沖合いに拡がる大小の漁船の放つそれは、夢にまで見た娑婆の光であった。その光に接しぼくは思う。国のためと言いつつ普段は社会から隔絶されて暮らし、今では戦闘の方法を学ぶ演習の場にしか社会に接する機会が無い現在の自分の境遇の、何と皮肉なことか……!
船を漕ぎ進めるにつれ、幾重にも入り組んだ海岸線が、より明瞭な輪郭を以ってぼくらの目に迫ってきた。
水深もまた次第に浅くなり、海底の岩盤がゴム製の船底を擦る音を聞く。そこに軍曹の命令。
「上陸……!」
一斉に下船!……荒れる波涛に野戦服の膝までを濡らし、ぼくらは攻略すべき半島への第一歩を踏み締める。釣糸を垂らせばいかにもクロやチヌでも釣れそうな並びの悪い岩礁を、釣り竿やクーラーボックスの替りに小銃やバズーカ砲の弾薬箱といった物騒なものを抱えて、それこそ場所取りをする釣人のように駆け上り、ぼくらはやがて舗装された隘路の端へと到達する。
「道に出るな!」
門田軍曹の声に、道端に取り付き伏せた姿勢のまま動きを止めたぼくら。やがて門田軍曹は手振りでぼくらを集め、そして声を潜める。
「二名ずつ道路を横断し山中に入る。後続の者は横断する者を援護。横断した者は後続の者を援護」
敵中に入っていながら、何時の間にかそれをすっかりと忘れているぼくら。最初に竹中兵長と木村上等兵が道路に出、ぼくらは銃を四方に向け彼らを援護すると共に周囲を警戒する。二人はあっという間に道路を横断し、今度は向かい側の密林に潜み後続の者を援護する。島谷助教は何も言わない。想定の際には行動に関する決断の一切を学生に任せ、その良否を判断することだけが助教の役割なのだ。
始めはすんなりと通過できるかと思われた道路だったが、事態は通過にあと軍曹と杉山二等主計を残すだけとなったときに急変した。
ぼくと中沢兵長が茂みに滑り込んだ直後、門田軍曹は色を為した顔もそのままに手信号を送った。それを目にし、ぼくらも顔を強張らせる。
『敵部隊接近中。急いで身体を隠せ……!』
直後、遠雷のごとくにカーヴの向こうから響いてくるディーゼルの響き――――それはやがて密林で息を潜めるぼくらの眼前で、60式装甲車の、河馬のような無限軌道でアスファルトを踏み締める重厚な姿となった。その後に続く兵員輸送トラックに指揮連絡車……彼らは「侵入者」たるぼくらを追い詰め、「捕獲」あるいは「抹殺」するために展開中の対抗部隊だった。
その対抗部隊が完全に過ぎ去ったのを見計らい、門田軍曹達は道路を横断しぼくらに合流する。
「後でまた遭遇しては厄介だ。攻撃し、動きを封じるべきでは……?」
という竹中兵長の質問に、門田軍曹は頭を振った。
「現時点における我々の任務はあくまで浸透だ。戦闘ではない」
抗弁するまでもない。ぼくらは隊容を整え早足で山道へと分け入る。地図を開き、教程通りにコンパスで位置と針路とを確認しながらに進む中、遠方で銃声が轟くのをぼくらは聞く。後で知ったことだが、別地点から上陸を果たした別の分隊が、不用意な行動の結果対抗部隊と遭遇し、戦闘になったらしかった。
時間にして1017。順調に山道を踏破しK半島の山中に設けられた集合ポイントに一番乗りで到着したぼくらを待ち構えていた野村教官は、最初の想定を完遂し疲労の色を隠せないぼくらを前に厳かに言った。
「諸君らに緊急の任務を与える。0934に第二分隊が優勢な敵歩兵部隊と遭遇。戦闘の末捕虜となった模様。諸君らは直ちに現地点を出発して敵野営地を偵察、捕虜の生存を確認し可能な場合はこれを救出、然る後に1223までにポイント△○に進出せよ」
「…………!?」
そんな馬鹿な!……という表情もそのままに顔を見合わせるぼくら、だが教官がぼくらの事情など斟酌してくれる筈も無い。その間もぼくらを試し、苛む時間は刻々と過ぎていく。重い背嚢を下ろす暇も無く、鬱蒼とした密林を、ぼくらは再び歩き出した。助教より伝えられた対抗部隊のベースキャンプの位置は、ただ地図の一点に×印で記されだけ、ぼくらはコンパスを駆使して半ば自力でその場所を見つけ出し、任務を果たさねばならない。
「杉山、荷物持つぞ?」
という門田軍曹の申し出を、杉山二等主計は頭を左右にして固持した。彼を庇って傷を負ったバディに対する気遣いではあろうが、その杉山二等主計の首と肩に提げられたベルトからは、重さ10kgあまりのドラム缶のようなバズーカ砲の砲身が、緑色の砲身に鈍い光沢を纏わりつかせている。しかも彼はその背中に背嚢の他、一発4㎏あまりの予備砲弾を四発も抱えているのだった。教程を経た結果として、学生は喩え畑違いの職種であっても、軍人となってこの方見たことはあっても触ったことすらない兵器を、ごく短期間の内に扱えるようになる。そこに挺身兵課程の凄さがあるといえるだろう。
山中機動―――――
動物ですら通るかどうかというくらい狭隘な山道を登り降りし、ぼくらが対抗部隊のベースキャンプを見出したのは、時間にして1130に届こうかという辺りだった。推定地点があまりにあいまい過ぎ、その結果としてぼくらは望みもしない回り道を強いられたのである。
ベースキャンプを一望できる高台の草叢に潜み、ぼくは双眼鏡を覗き込んだ。教程で習った知識の一つとして、対象物の大きささえしっかりと押さえておけば、あとは双眼鏡の調整目盛りの数値から対象までの距離を割り出すことが出来るものだ。この場合、距離を測る基準はベースキャンプに車体を休めるジープである。
すると……いるいる。距離にしておよそ200m。第二分隊の方々は、何と全員全裸にされ、荒縄で木に縛り付けられていたのだ。残念ながらぼくらは彼らを笑える立場に無い。何故ならぼくらだって間が悪ければ彼らのようになる可能性は十分にあったわけで、その点門田軍曹の知識と判断力に感謝せねばならないだろう。
門田軍曹は言った。
「これより救出作戦を開始する……開始時刻は1150。十分で友軍を救出し、速やかに現地域を離脱する」
作戦はあるにはあった。まず監視の兵士を「処分」し、しかる後にベースキャンプの各所に爆薬を仕掛け、敵の追跡を遅らせる等の「遅滞工作」を行い、後顧の憂いを断った後に離脱するのだ。ぼくらは背嚢を下ろし、銃や爆薬等、作戦に必要なものだけを携帯し速やかに作戦に取り掛かる。
「中沢と鳴沢は監視兵の排除、竹中と木村は友軍の救出、俺と杉山が爆薬の設置を行う。了解か?」
「了解……!」
と、皆は申し合わせたように頷く。この瞬間から作戦は始まり、ぼくらはそれぞれの持ち場へと散っていく。ぼくと中沢兵長はといえば小銃と予備弾倉一本、手榴弾、そしてナイフだけを持ち、狙撃に適した地勢へと占位する。
「…………」
二脚に立て掛けた小銃の安全装置を解除し、照門を覗く。その先には縛られた友軍の周囲を野良犬のようにうろつく二人の監視員。ぼくらはそれぞれ一名を狙う。
「…………!」
指に感じる遊びの重み……照門に人影を捉え、ぼくは撃った。軽快な銃声と同時、単発で放たれた射弾は見事にこちらへ背を向けた監視員の上体を捉え、命中した模擬弾は濃緑の野戦服に紅いインキの花を咲かせた。傍らの中沢兵長もまた一発を敵兵の胸元に命中させて仕留めた。
「今だ……!」
中沢兵長の声に、ぼくは銃を構えたまま立ち上がり、一気に斜面を駆け下りて距離を詰め、再び繁みに紛れ銃を構え直す。射撃位置を移動するのは敵にこちらの存在を察知されない意図を持つのと同時に、こちらの戦力規模を掴ませないという撹乱の意味合いもある。直後に放った二発でぼくはさらに一名の監視兵を倒し、中沢兵長は敵襲に慌てて銃座に取り付こうとした一人をフルオートの一連射で倒した。演習時の取り決めで、模擬弾を受けた兵士はそれ以上動いてはいけないことになっているが、挺身兵学生は射撃において「止めを刺すこと」の重要性をイヤというほど叩き込まれるので、倒れた敵に対してまず警戒を解くことは無い。もしそのような素振りを見せれば、想定においてまず減点の対象となってしまう。
平地に出、四方に小銃を向けて互いの死角をカバーしあいながらぼくらはベースキャンプに駆け寄った。いち早くベースキャンプに到達した竹中兵長がナイフで縄を切断し、その彼の背後では木村上等兵が小銃を構えてバディの後背を警戒している。
ボンッ!……同時多発的にベースキャンプの各所から上がる爆破の音。門田軍曹たちが設置した爆薬が、遠隔操作スウィッチを入れられるやそれを仕掛けられたテントや車両から軽い爆発音とともに白煙を上げたのだった。想定ではそれだけで「実爆」に「成功」したと判定される……まさか訓練で、装備や人間を実際に吹き飛ばすわけにはいかないだろう。
捕虜全員を無事解放し、装備の全てを奪還したところを見計らい、門田軍曹は叫んだ。
「全員撤収! 急げ!」
言われるまでも無い。捕虜たちといえば、その場で着替えることすらできず、素っ裸のまま重い装備を抱えて疾走を強いられる。決して微笑ましいとかそんな生温いシチュエーションではない。救出したぼくらも、救出された当人たちもまた真剣そのものである。この時点でぼくら第三分隊は第二分隊と合流、隊容を整えて行軍を続け、時間にして1220に予定ポイントに到達する。そこではやはり、野村教官が仁王立ちして方々の体でポイントに到着したぼくらを待ち構えている。
蓄積した疲労に、汗まみれの顔を蒼白にしたぼくらを一瞥するや、彼は厳かに言い放った。
「――――中規模の敵野戦部隊が国道を南下中。第二、第三分隊は1303までにそれぞれ伏撃ポイントA、Bまで進出し、敵の進撃を遅滞させた後離脱、それぞれの集合ポイントまで移動せよ」
「…………」
立て続けの想定に、もはや愕然とする余裕もない。
それでもぼくらは催眠術にでもかかったようにすっくと立ち上がり、出発する。愚痴を言う力も、そのための思考も全て、ただ歩くためだけの労力に注がれていく。一日目でこれでは、つくづく先が思い遣られる。
……道なき道を歩き、予定の伏撃ポイントに到達するや、やはりぼくらは周辺に散開。ふと腕時計を見れば、時間はすでに1300を回っている。
「…………」
伏撃――――気が付けば、行動中たるその中にしか休息を見出せない自分に、ぼくは気付いていた。小動物のように穴倉や草叢に身を潜め、肉体的な疲労を休めながらにぼくらは、ぼくらを追う敵を、休まることのない神経を昂ぶらせながらに待ち続ける。
そこに矛盾を感じ始めたそのとき……ぼくはその眼前に敵を見出す。
来た……58式自走無反動砲を先頭に、47式指揮通信車、指揮連絡車、兵員輸送トラックが続く隊列。
潅木の間に占位しそれらに目を凝らすぼくは、隊列の中で指揮通信車の上部から身を乗り出した指揮官らしき人影に、照星を合わせる……
ドン……!
「…………!?」
道路の向かい側から唐突に上がった白煙に、ぼくは我が目を疑う。それは門田軍曹と杉山二等主計が潜んでいるポイントだった。
伏撃が露見したその瞬間、対抗部隊の車列は一斉に速度を上げ、ぼくらの伏撃から遠ざかろうとする。指揮通信車の指揮官席で重機関銃を構える男が銃座を旋回させ、その瞬間に彼と、彼に向け狙いを付けるぼくの目が合った。
「…………!」
反射的に力を込めた指。小銃から飛び出した弾丸は彼のヘルメットに命中し、その瞬間銃手の顔半分は飛び出したインキで真っ赤に染まる。同じくぼくの傍らで数発射撃した中沢兵長がぼくの肩を叩き、声を上げた。
「鳴沢、離脱だ!」
「しかし……!」
「みんなそうする。集合ポイントへ行くぞ」
「…………!」
驚愕するぼくの傍らで、中沢兵長はすでに撤収を決め込んでいる。ぼくもまた立ち上がり、次には踵を返し密林の繁みへと消える――――
――――敗残兵宜しく集合ポイントへ、それも規定時刻をやや過ぎた時刻にたどり着いたとき、伏撃失敗の真相は判明した。
「申し訳御座いませんでした……!」
集合を果たしたぼくらの前で、背嚢を背負ったまま身を地面に投げ出し土下座する杉山二等主計を、ぼくらは掛けるべき言葉も見つからないままに見下ろすしかなかった。待ち伏せの際、対抗部隊の車両実爆に使うはずだった爆薬の信管調整を誤り、彼は攻撃をかける寸前にふとした拍子でそれを暴発させてしまったのである。演習であったから実害は野戦服を少し焦がした程度だったものの、これがもし実戦ならば杉山二等主計はおろかバディの門田軍曹も共に吹き飛んでいたことだろう。
「予定時間オーバーに伏撃失敗か……貴様らやる気あるのか?」
悄然とするぼくらを前に、島谷助教は忌々しげに言い、そして野村教官は新たな命令を下した。
「……ペナルティとして予定を変更する。第三分隊はこれより強行行軍に取り掛かる。予定ポイントは○□、第三分隊は敵軍の追尾をかわすべく山間を機動し、1930までに予定ポイントに到達せよ……!」
地図を開き、記されていた到達予定ポイントの位置を見た途端、ぼくは目の前が真っ暗になるのを感じる。当の到達ポイントは此処から15キロ近く離れたK半島の北、そこに位置する山地帯の一端を指し示していたのだ。ぼくらはそこまでの距離を、重い装備を抱えて険しい山間部を克服しながらに、5時間以内に踏破しなければならない。
「移動……!」
無情にもぼくらに降りかかる助教の号令。その途端、ぼくらは魔法をかけられた人形か何かのように、疲れきった身体を引き摺り、鬱蒼とした森を歩き出す。痛みと軋み以外の、ほとんど感覚の失われた足で歩く内に、より不明瞭さを増す意識……今歩いている路が、本当にぼくらの求めている路なのかどうか、そんなことは今のぼくにはすでにどうでもよくなっていた。
ギュルルルルルル……この期に及んでみっともない音を立てるぼくのお腹、助教に不機嫌そうな目で睨まれてもなお、意志の力でそれを押し留められないほどに、ぼくは空腹を覚えてしまっている。途端に各人から上がる空腹の響き、あくびと同じく、こういう音もまた周囲に伝染するものなのだろうか?……だがそれは、後にぼくらに襲い掛かる「最終想定地獄」の真の姿の、ほんの前触れでしかなかったのだ。
歩きながら水筒の蓋を開け、掌に水筒の口を押し当てて僅かに水に浸す。そうして水に濡らした手を唇に塗りつける―――――限られた量の水では、水筒に口を付けガブガブ飲むなんて贅沢は許されない。これでは渇きを癒すというより、水分補給といった表現が相応しい。
何時しか完全な静寂が皆を覆い、光すら丈の高い木々とそこから網のように広がる枝や葉に遮られてしまっている。
終わりの無い彷徨――――まるで……変な夢でも見ているような――――
――――だが、静寂を破る射撃音が、ぼくを幻惑から現実へと引き戻す。
タタタタタタタッ……!
「伏せろーっ!」
門田軍曹の怒声、前方のなだらかな勾配の一角に、ぼくは伏せの動作を取りながらにケバケバしい瞬きを見上げる。対抗部隊はぼくらの進路上に軽機関銃を置き、ぼくらを待ち構えていたのだ。伏せた姿勢で応戦を始めたぼくらの周囲を覆う轟音と白煙。あらかじめ周囲に仕掛けられた演習用の火薬の炸裂。その実害は無いものの突発的に巻き起こるそれは、疲弊の極にあったぼくらを、さらなる混乱に突き落とすのに十分な効果を与えてしまう……それまさに、実戦さながらの混乱。
「中沢さん!……援護してください!」
「了解!」
フルオートにした小銃の引き金を引きっぱなしにして応じる中沢兵長、ぼくは手榴弾を手に匍匐前進を続け、敵の潜む個人壕へとにじり寄ると、手榴弾のピンを引き抜いた。
『いち……に……さん!』
心の中で数え、手榴弾を投じる。穴の中に入った直後に生まれる模擬弾の発する白煙。伏撃は封ぜられ、その後には安堵と脱力がぼくらにじわりと圧し掛かる。
「……制圧に手間取ったな、ポイント到達まで時間が無い、駆け足で移動せよ!」
非常なまでの助教の宣告、だが驚愕するような余裕も、感性もぼくらは完全に蕩尽しきっていた。それでも軋む身体を起こし、ぼくらは山間を走り出す。空腹と渇きに苛まれながらに走るうち、眼下に平坦な国道の広がるのを見る。あそこに下りて走ればさぞかし楽だろうが、想定ではあの道路はすでに敵の勢力下にある。その道路も嫌がらせのように助教に針路変更を強いられ、より山奥に進むにつれ、完全に見えなくなってしまう。
疾走――――それに伴い急激に奪われ行く体力と気力。
何時しか日は落ち、それでもなお走り続けるうち、耳に木々のざわめきと共にローターの回転音を聞く。それは徐々に大きさを増し、やがて濃い繁みを突破した先の夕闇に包まれた平地で着陸し、ぼくらを待つH-19ヘリコプターの機影となった。
「時間が無いぞ! さっさと乗り込め!」
H-19のキャビンから半身を出し、搭乗整備員が声を張り上げる。それに誘われるようにぼくらはペースの上がらぬ歩調に入らぬ気合を入れ、今にも浮き上がりそうな機体へと文字通りに滑り込むのだった。まさに、機内での短いひと時の中に待つであろう休息を期待して―――――
「状況を説明する―――――」
機内で待ち構えていた別の助教の言葉により裏切られた休息―――――所詮、現在のぼくらにそんなものは許されない。
「―――――A山地帯に大規模な敵部隊が出現、南下を図る模様。第三分隊は南方よりこれを迎撃する友軍部隊に呼応し、敵部隊の後方を撹乱するべく山中に降着する」
今更ながらに疲労を自覚したかのように顔を蒼白にして聞き入るぼくら、それを頓着しないかのように助教は続けた。
「第三分隊は降着地点で弾薬および爆薬の補給を受け、速やかに指定された展開ポイントへ移動せよ」
鼓動するエンジンの生み出す振動の中、漸くで許された沈黙……軍靴を脱ぎ、未だ完治していない負傷の上に潰れた肉刺で真っ赤になった足にテーピングする門田軍曹の顔を、杉山二等主計が覗き込む。
「門田軍曹……足、大丈夫ですか?」
「そんなことより、お前自分の心配をしたらどうだ?」
「…………」
それに対しては何も言わず、杉山二等主計はただ顔を蒼白にして黙り込むばかりだ。その彼らと向かい合いようにして屈み込み、チビチビと水筒の水を呷る木村上等兵、その隣の竹中兵長に至っては、熱に浮かされたかのように虚ろな目で何やらブツブツと呟いている。ぼくの隣の中沢兵長は?……彼はといえば、土と汗と火薬の入り混じった嗅覚に厳しい空気の充満する機内で、ぐっすりと眠り込んでしまっている。それにぼくもまた、眠気を誘われる――――
狭い機内で繰り広げられるそれぞれの安息。
だがそれは、堪能するにはあまりにも短い安息の時間だった。