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その六 「野外教程」


 基地を飛び立ったときに抱いた空路への不安は、そのままぼくらを地上で待つ前途に対するそれに席を譲っていた。


 機関の醸し出す振動にも、もはや慣れた。機体を飛翔させる重厚なローターの音以外に外界の様子を知る術を持たなくなって、果たしてどれほどの時間が過ぎ去っただろう?


 挺身兵訓練課程もその始まりから五週間が過ぎ、それからさらに過ぎ去った二週間目の夜を、ぼくはV-107J輸送ヘリの機上で迎えた。機体の前後に一基ずつ配されたタンデム-ローターの、交互の調和の取れた回転が奏でる微妙な振動が、搭乗前の体力練成で疲労し切った身体には却って心地よく、ときには眠気すら誘う。だが眠れば傍に控える助教の蹴りが待っている。もはや前半のように数時間ぶっ続けでしごかれることは無くなったものの、野外教程に臨む前の隊容検査で一人が僅かに不備を見せただけで、それは連帯責任として班全員への罰直という形で容赦なく課せられる。この夜もまた、搭乗前に一人の学生が禁制の飴玉を忍ばせていた事が露見したがゆえに、それは腕立て伏せ150回という形でぼくら全員に跳ね返ってきたのだった。




 本来ならキャビン内を淡く照らし出しているはずの照明は、搭乗時に使用しただけで、飛行場を飛び立って以降完全に消されている。その上に外界を覗くための窓は、今次の教程を完璧な難関たら占めるべくその悉くが塞がれていて、一切の光を遮断された機内は闇に馴れた目でも周囲の様子を掴むのは難しい。機体が旋回し、あるいは上昇下降する度に襲い来る揺れと、隔壁一枚を隔てた操縦席から微かに漏れ聞こえる、操縦士と基地との交信する声だけが、「乗客」……否、「荷物」たるぼくらが辛うじて外界の雰囲気を感じ取る術となっていた。


 ぼくらの学び舎も、前半の基本課程を行った営内から野外の演習場やオフシーズンのキャンプ場に設営したベースキャンプに移り、教程の内容もまた、基本的な体力練成からより実践的な戦闘技術、そして生存技術を習得することに重点が置かれるようになっている。


 戦闘と生存……挺身兵の身に付けるべき技術の範疇として、この二つはさながら車軸の両輪とでも言うべき関係にある。一方が疎かでは、挺身兵という兵種そのものが成り立たないと言っても過言ではない。具体的には前者は山中における伏撃、水路侵入、偵察、通信術、実爆(爆発物取扱)その他……。後者は地図判読、航法、生存自活……等々に大別することが出来る。


 ……そしてぼくらはこの夜、野外教程の開始から二週間目にしてこれら二つの内後者――――生存技術教程の総仕上げに臨もうとしていた。




 生存訓練の最終課題――――その内容は挺身兵学生を空路、東北地方を南北に走る奥羽山脈の、それも奥地に身一つで降着させ、学生は万難を排して山間部を踏破し、事前に指定された複数の場所の内いずれかまで三日以内に帰還せねばならない……というものだ。


 教程に臨む際、学生に所持を許されるものは当該地点の五万分の一地図一枚とコンパス、そしてサバイバルナイフの三つのみ、つまり学生は、自身の培った生存技術で後の足りない分を補いつつ、課題を完遂することを要求される。既定時間内に無事踏破できれば万々歳だが、半面でこの教程は、脱落すなわち生命の危機ということでもある。


 ――――そして、ヘリの動きが止まった。


 機上整備員と助教の会話……その後で助教は機内通信用マイクに声を上げた。「降着準備よし。」の合図だ。


 同時に開かれる後部搭乗口――――――扉が開くにつれ、キャビンを少しずつ、かつ淡く照らし出す月光の暖かな余韻。一方で烈しさを伴った冷気が忽ちに機内を席捲し、高空の寒気に不慣れな乗員の身体を苛む。


 『これより降着を開始する。降着要員はレンジャー○×―――――』


 地上への降着は、機体後部から下ろされたファストロープにより行う。学生は野外教程で教わり、しごかれた通りにロープを伝い、地上の状況すら判然としない闇夜へと降り下っていく。出発時にキャビンの窓を塞いでいたのは、一切の光を遮断して学生の目を闇に馴れさせるのと同時に、上空の景色から僅かでも飛行ルートと降着地点を感取らせないための措置なのでもあった。学生にとっての試練は、何時、何処とも知れぬ場所へ置いて行かれるという、この段階から始まっている。学生は峻険な地勢の上に、夜の不気味さといい移ろい易い天候といい、そこを支配する自然のもたらす恐怖ともたった一人で戦わなければならない、というわけだ。


 指名された学生がロープを掴み、そして滑るようにして降りて行った。


 一人の降着を確認すると、ヘリはファストロープを垂らしたまま距離にして数キロ余りを移動し別の場所で停止、新たな学生を降着させる。これを何度も繰り返し、学生を位置、時間共にランダムに教程へと送り出すというわけだった。


 『―――――降着要員、レンジャー中沢!』


 助教の声に、隣に座っていた中沢兵長がおもむろに立ち上がり、ぼくの肩を叩いた。学生たちを掻き分けるようにキャビンを歩き、搭乗口へ進み出た兵長が機上整備員に助けられてファストロープに身体を固定し、降下準備完了を告げた。彼の姿が機内から消えたのは、その直後――――


 それからさらに数分間飛行を続け、今度はぼくの番になった。


 『―――――降着要員、レンジャー鳴沢』


 「がんばれよ」


 「しっかりな」


 の声を背に受け、ぼくは歩を進める。開け放たれた搭乗口へ近付くにつれ吹き付ける強さを増していく寒気が、ぼくに教程への緊張を一層に掻き立てる。だがそれも特殊素材製のロープを握ってしまえば、諦観に馴れた身にはどうでもよくなっている。


 「レンジャー鳴沢、降下準備完了」


 『降下用意―――――』


 見渡す周囲……そして下は、天地の区別すら付かないほどの漆黒。


 一切の人工光の不在に、ぼくは生まれて初めて接している。


 息を飲み込んで止め、ぼくは覚悟を決める。

 

 「…………」


 『降下!』


 「レンジャー!」


 蹴られるタラップ。


 撓るロープの響き。


 ぼくの身体は一瞬の間虚空に投げ出され、そしてぼくの命運は十数メートル下方に渦巻く闇の中に降り立つまで、たった一本のロープの支配するところとなる。腕や足に込める力を緩め、あるいは篭めながら、ぼくは地に足をつけるべくスルスルと降下を続けていく―――――


 降下……降下……さらに降下……未だ見えない地上を目指し、焦り行く自分。


 「…………?」


 それほど遠くない下に、何かが蠢く気配を感じる。幻想的とも思える月明かり、そして満天の星々に照らし出されたそれは、時が経つに連れロープを手繰り降りるぼくの、夜に順応し始めた眼前で、ホバリング中のヘリから吹き降ろされる烈風を受け荒々しくさざめく木々、そしてそれらに一帯を覆われた峻険な山々の輪郭となっていく。それも圧倒的多数の木々と山々……!


 「…………」


 ハァ……ハァ……ハァ……期せずして胸の鼓動が高鳴り、息が荒くなるのを感じる。


 もう少しか?……もう少し……着いた!


 時間にしてわずか一分足らずのはずが、安定感に乏しい地面を踏みしめる両足の感覚が、一週間振りのものであるかのように感じられる。暗黒の只中に身を置いていてもどっと押し寄せてくる安堵感。それに促されるがまま、ぼくは上を見上げる。その上空から林間を吹き荒れるダウンウォッシュが遠のき、少しずつ消え去っていった後に、先程とは全くに趣の異なる不安の存在にぼくは気付く……それはまさしく、この人跡未踏の地に、たった一人で取り残されたという不安……! 


 だが現実にそうとなっては、ぼくの取るべき手段は決まっているのだった。それは具体的には、進行方向の確認と現在地の特定。時に応じてそれらを繰り返し、地形を克服していくことである。試練は、すでに始まっているのだ。


 ぼくは夜空を見上げ、月をその眼中に捉えた。


 月は明瞭なまでの三日月。公転周期と光を投げ掛ける太陽との位置関係から、月は時間帯によってその輝く部分を変化させる。わかる者なら、そこから大体の方位を算出することができる。具体的な知識としては、三日月の両端を直線で結び、その延長線が地平線と交わった地点が真南で、こうして漠然とまでも基準となる方角を掴めば、進むべき方向もまたわかってくる。


 続いて夜光塗料を塗布したコンパス内の南北線を真南の方角に沿って調整する。南北線の目盛りに磁針の先端が重なれば、ほぼ正確に方角と進行方向とを掴むことが出来るのだ。後は望む方角へ、夜が明け目視で特定可能な地形に遭遇するまで、方位の修正を繰り返しながらひたすら歩いていく。


 最初は入り組んだ山道だった行程。だが時を追うにつれそれはさながら道無き道といった様相を呈してくる。足に絡みつく蔦や草、衣類や手を傷付ける棘も不快だが、特に夜間では木や石といった障害物に、それに躓く直前まで気付かないことが多い。それは行程をより困難なものにする一方で、不測の負傷といった事態すら引き起こす。それを防ぐ手段もまた、ぼくはこれまでの生存訓練で学んだ。


 「…………」


 ぼくは立ち止まり、腰を少し屈めて目を凝らし、状況を確認したい前方をわざと視線の中心から逸らす。一般に「周辺視」といい、人間の視界はその中心部が暗く、一方で中心から周辺が明るく見える性質があるため、こうしておけば夜間でもものを見ることが出来るのである。最初はいちいち立ち止まらねば出来なかったこれらの動作も、事前の度重なる訓練の結果、行程に慣れるに従い歩きながらにできるようになってしまう。




 すでに三、四時間は歩いただろうか?


 歩くうち、ぼくは渇望する―――――高いところに登りたい。


 そんなぼくの、疲労しきった身体に宿る天啓――――


 「そうだ……」


 そうだ、山だ。どこか山の頂上に到達できれば……ぼくは意を決して山道を脱し、密林の立ち塞がる斜面を踏み締める。時間は未だ48時間以上も残っているのだ。夜明けまでにできるだけ高所に達し、周囲を俯瞰できれば、より正確な進行方向と現在位置を掴むことができる。古人も言っているではないか……急がば回れ、と。


 だが……


 斜面を登るにつれ、次第に深まる傾斜。当初は二本の足のみで用が足りていたそれが、先程と違い明確に感じ取れる周囲の情景に気付いたときには、両手はおろか全身までも使い斜面を登ろうとしているぼくがいた。草木、土、冷気……それらの醸し出す森の匂いを鼻先に感じ、這うようにしてぼくは登り続ける。演習場の断崖を利用したあの厳しい登攀訓練で、先導する助教に罵声を浴びせ掛けられ、時には頭を蹴られながら身に付けた技術と根性(?)を発揮し、ぼくは斜面を這い登る。


 上るうちに熱気を帯び、やがては汗すら滲ませる身体からは一切の寒気が消え、熱気はぼくをさらなる上昇へと駆り立てる―――――


 急に緩やかになる傾斜に気付き、ぼくは身体を上げ、登る速度を早めた。この頃になると、周囲の景色の変わる様を、視覚の中により実感できるようになってくる。夜が終わろうとしているのか?……と思ったが、その実は違った。むしろ生物としての自分の持つ感覚の全てが、完全に夜に馴れ切ってしまったのだ。


 「…………!」


 ぼくが覚えたのは愕然……本当は人間であるはずなのに、人間ではない何かになってしまったような感じがしたのだった。普通の、文明的な暮らしをしている人間が、こうして夜の野山を駆け回っているはずがないし、だいいち今すぐにやれと言われてこのようなことが出来るわけもない。何故ならぼくらがしていること、そして要求されていることは、文明とか理性とかからはあまりに逆行した、およそ非人間的な行為であるのだから。


 人間が生存のため身一つで夜の野山を彷徨せねばならない時代はすでに過ぎ去った筈なのに……ぼくという人間は、戦争という非日常を体感すべく鍛えられ、肉体を造り、技術を吸収し続けた結果として、かくも野蛮な行為に順応してしまっているのだった。


 「…………」


 次にぼくが気付いたのは、そんなぼく自身を内心で悲しんでいるぼくの存在だった。例えて言えば、意に反し仮面ライダーに改造された本郷猛の気持ちが、ぼくには何となくわかるような気がした。ぼくの父や母、かわいい従妹、大学の友人たち、そしてアケミが今のぼくの姿を見たら、一体どう思うだろう?




 踏破―――――


 風の音、風に揺れる木々のざわめき、それらの間を縫い暗夜を流れる静寂の中に頂上に達したことに気付いたときも、月と星々は夜空を未だ煌々とした光で飾っていた。


 夜営はここにしよう……太い木の根元に腰を下ろし、ぼくは漠然と考える。当然ライターとかマッチのような「文明的な」ものなど持ってはいないので、「その辺」に存在するものを利用するしかない。


 木切れや小枝を広い、その中で板に出来るほどの大きさのやつをナイフで平坦に削る。その片側にV字状の切込みを作り、V字の谷の部分に窪みを作る。後は先端を尖らせた木の棒を窪みに入れ、両手で押し付けるようにして回転させ擦り合わせればよい。摩擦法という、数ある生存技術の中でも、特に有名な火興しの手法の一つであるが、慣れない者にとっては時間の掛かり過ぎること甚だしい。


 擦り続けるにつれ窪みの中に火を孕んだ木屑が生まれ、V字の火口に矯められたそれらは程なくして大きな火となり夜の森を飾り立てた。あとは木を絶やさないようにすれば、火は勝手にその烈しい営みを続けてくれる。だが入営前までは、ぼく自身がこんなことをし、こんなことが出来るようになるなんて思いもしなかった。


 そしてぼくは自ら生み出した炎の中に、心からの安堵を見出す。


 生き生きと燃え上がる炎を前に、頬や襟に、そして胸に心まで焦がすと思われるほどの熱気を感じながら、ぼくは手を延ばし襟元を弄る。襟の裏ではなく内側に作っておいたミニポケットから取り出した煙草を炎に翳した瞬間、ぼくは悪戯が成功した子供のようにほくそ笑む。教程が始まる前に門田軍曹が教えてくれた禁制物の隠し方が、この場に来て役に立っている。それでも別室の学生が襟の裏にカフェインの錠剤を隠し持っているのが露見したおかげで、連帯責任としてぼくらも屈み跳躍50回の罰直を食ってしまったが……


 至福の一服―――――


 噛み締めるようにタバコをふかす内に、漠然と生まれた思い……ぼくと同じように、この山々の何処かに降り立った仲間たちは、今頃どうしているだろう?


 ニコチンが眠気を取り去り、次には空腹がやって来た。空腹はこういう場所ではむしろ有難い。勘が研ぎ澄まされてくる。


 蛇でもいないかなァ……そう思った瞬間。再び覚える愕然。望んで進んだ途ではないのに、気分だけはいっぱしの挺身兵になっているぼくがいる。そして先週に起こったある出来事を思い出し、ぼくは込み上げてくる笑いを押し殺すのに失敗する――――――






 「――――今日は貴様らに、野外における蛋白源確保の方法について指導する……!」


 助教の言葉の直後、何か得体の知れないものが蠢く気配を、その外からでも十分に漂わせた大きな箱が地面へ無造作に投げ出され、蓋が開かれるや飛び出してきた生物の絡み合う姿に、「冗談だろう?」と内心で絶句した学生は少なくなかったはずだ。ぼくらが目にしたのは、箱いっぱいに詰め合わされた蛇、蛇……また蛇! しかしこんなもの、一体どうやって調達してくるのだろう?


 ホラー映画張りに大量の蛇を眼前にして、動揺を隠さない学生たちを前に、助教は言った。


 「安心しろ、毒は抜いてある。これより助教が手本を見せる……!」


 蛇を捕らえる際に必要なのは迅速さと慎重さだ。狙いを付けるや手早く手を伸ばして頭部を抑え、ナイフで頭を裂くなり毒牙を無力化なりした時点で、すぐさま「調理」に取り掛かる。「調理」の方法は至って簡単。皮を剥いで内臓を取り除き、焼くかそのまま生で食らいつくだけだ。余裕があれば塩を塗して保存食にするのもいい……こう書くだけなら簡単だが、実際にやれと言われると、これがなかなか難しい……というより生理的に少しキビシイ。


 ――――それでも、何の卒なく手本を示し、学生全員を瞠目させたところを見計らい、助教は言った。


 「さあ、貴様らもやってみろ!」


 蛇さん、ご免よ……子供のような感慨とともに震える手で抑え付け、ナイフの刃を突き立てた蛇の頭。完全に絶命させ、烈しく出血しながらもその胴体はなおもぼくの掌中でのた打ち回っている。つくづく、その生命力の強さには頭が下がる。


 手に絡みつく蛇の胴を払いながら、ぼくはケバケバしい蛇の生皮に噛り付き、一気にそれを血の匂いのする肉から引き裂いた。ちなみに挺身兵もかなりの年季を積めば、この「ヘビ食」に関しおれは生食派だの自分は丸焼派だのとか、どの種類の蛇が美味しいとか、しょうもない拘りが生まれてくるものらしい。ちなみにぼくらにヘビ食を指導したF助教によれば、「ヘビはヤマガカシの日干しに限る」そうである。


 だが……彼の嗜好はこの日、唐突に終焉を迎えることとなった。


 発端は一匹のヤマガカシであった。一人前の挺身兵らしく見本を示して学生全員を感嘆させ、それに気をよくした彼は、箱の中でなおものた打ち回るヘビの中から好物を目敏く見つけ、学生に再びいいところを見せようとそれを掴み出そうとした。


 だが―――――


 カプ……


 「え……?」


 掴み上げた尻尾。持ち上げた直後に撓ったヘビの頭はそのまま彼の顔面を指向し、ヘビが自身の鼻っ柱に食らいついたことを自覚しても、F助教は自身に起こった事を完全に理解できずにいた。ここにあるヘビは、全て毒牙を抜いてあるはずではなかったのか……? だが、彼に食らいついたヘビがそうではないことを、誰よりも噛まれた彼自身が自覚していた。従って――――――


 「ギャアアアアアアアアア――――――――ッ!!」


 毒牙にかかったことを悟るや、F助教は一気に蒼白になった顔もそのままに外聞も無くヘビを放り出し、その場にすっ転ぶや声を上げて喚き出した。


 「衛生兵!……早く衛生兵呼んで来い!」


 「大変だ。助教が噛まれた!」


 この期に及んで事態の急変を悟り、皆の顔もまた青くなった。直後F助教は半泣きの顔もそのままに両脇を学生に抱えられて医務室へ直行。生命そのものは余裕で取り留めたものの、その後復帰した彼は鼻っ柱を抑える湿布も痛々しく、後しばらく全くと言ってもいいほどヘビに触れるどころか近付こうとさえしなかったのを今でも覚えている。






 ―――――焚き火の傍でうつらうつらと過ごし、漸くにして朱に染まった日が昇リ行くのと同時に、ぼくは自分の判断の正しさを確信する。


 「川だ……」


 山際を流れる支流を、ぼくは白みかけた山麓の只中から見下ろしていた。流れの方向は南東。その流れる方向へ沿って歩けば、容易に下界へ出られるはずだ。土を掛けて火を完全に消し、ぼくは正確な現在地を特定すべくコンパスと、ビニールでラミネート処理した地図を取り出す。うまくやればこれで正確な位置と、歩くべき方向が判る。


 昼間におけるコンパスによる位置特定の方法はこうだ。まずコンパスに反映させた進行方向し示す指標を、地図上にはっきりと記載されている地形に向ける。次にコンパスの方位線を調整し、磁針の北端が方位線の北と同じ方向を向くようにする。次に地図上の地形位置にコンパスの上面を重ね、南北線が地図の経線と一致するように水平方向に回転し、磁針もまた地図上の北を指すように調整する。そしてコンパスの上面に合わせて直線を引く(普通登山やトレッキング等に使うようなコンパスが大抵矩形か多角形をしているのは、地図と併せたこの作業と、後述する進行方向の確認作業を容易にするためである)。これと同じ作業を一回目と異なる地形に対しもう一度繰り返せば、その結果として生成された直線の交わる地図上の地点が、ぼくの正確な居場所になるというわけだった。


 ――――次に、進行方向の確認。


 ぼくはコンパスを地図の上に置き、現在地と目的地とを結ぶ線上にコンパスの上面を合わせた。次に、コンパスの南北線が地図の経線と合致するように調整する。その後で、磁針の南北が南北線と合致するようにコンパスを再び調整する。このとき方位線が指し示している方向がぼくの正しい進行方向になるというわけだった。後は行程の途上途上でコンパスを確認し、ずれを修正していけばいい。


 挺身兵として必須の技術を一つだけ挙げるとすれば、機械や他人の指示に頼らず自然の中を踏破できるほどのナビゲーション能力だとぼくは思う。前述したこれらの作業を、極論すれば目を瞑っていてでも出来るようにならなければ、如何に銃器の取り扱いに優れているとか、身体能力が高いとか誇ってみたところで、挺身兵は実戦では何の役にも立たないのだ。挺身兵は命令されることなく自分の頭で戦えるようにならねばならないのと同時に、道なき場所でも自分の頭で道を見つけ、歩けなければならないのである。


 当面の目的地は、川の合流点。


 その目的地を設定したぼくは山を降りるべく一歩を踏み出した。ところどころに残雪の見える急な斜面を歩き、崩れかける体勢を木につかまって支え、走れる場所は駆け上るかあるいは一気に駆け下り、冷たい巨岩のうず高く積み上がる傾斜を、両手両足を使いよじ登る……酷使した手足に痛みを伴った違和感を覚え始めた昼下がり、ぼくは方々の体で川の合流点を見出し、そこに到達した。


 安堵の溜息。


 休憩―――――決して野営ではない。今日はもう少し進まなければ、期限内の帰還は難しい。


 地形の詳細と自分のルートに、ぼくはすでに確信を覚えている。ここから本流に従ってさらに南東に進めば、やがては巨大な湖に行き当たるはずだ。


 それにしても……


 なんて綺麗な山々だろう……心からの感嘆を抱き、合流点を下方に臨む小山の頂上から、ぼくは無限に広がるかと思えるほどの稜線へと目を細めた。木々の生い茂る合間を縫うように流れる彩水の営み。それを両側から挟むように聳え立つ大小の山々はその曲線から乳房、あるいは女陰のような艶かしさすら漂わせ、この場でただ一人の男性を誘惑しようとしているかのようだ。古人が山の神を女性に喩えた真情が、ここへ来てぼくにはよくわかるような気がした。


 地を這う一匹のヘビを見つける。背後から気付かれないように迫り、一気に手を伸ばしてそれを捕らえる。捕らえた瞬間に剥き出した牙に、捕らえたヘビがマムシであることにぼくは思い当る。冬眠から醒めたばかりなのか、肉付きはヘビというよりもメザシと言ったほうが近いような気がする。


 ナイフで頭を落とし、皮を引き剥いたマムシの生肉を、鮮血で真っ赤に染まった口でかじりながらぼくは山道を歩き続ける。煮ても焼いても消えないヘビ特有の生臭さにも、とうに慣れ切ったぼく。正直こんな姿はアケミには見せたくない。


 そうだ……アケミは今、どうしているのだろう?


 それを考え、そしてぼくはすぐに考えるのをやめた。


 彼女が今のぼくよりも遥かに安全で、文明的な暮らしをしていることは確かだろう。悲しむべきは、そんな彼女と一緒にいてやれないというただ一点だけだ……それも、最も好きな女性と最も一緒にいたい時期に。


 アケミ……会いたい。


 ぼくは首に下げたお守りを取り出し、その匂いを噛み締めるように鼻に押し付けた。敏感になっている鼻では女性の肌の匂いを感じ取れなくても、それはぼくの脳裏で妄想として再現され、ぼくの男としての本能中枢を刺激してしまう。


 見渡す先には、まだ進むべき行程があった。


 体育座りの姿勢で、儚げなせせらぎを見下ろしながら、ぼくはこの時ほど兵役に就いたことを後悔したことは無かった。






 「…………!」


 再び歩き続け、眼前に巨大な湖を見出した頃には、オレンジ色に染まった日は、すでに鏡のごとき水面の真ん中に、その淡く冷たい光を映えさせていた。


 反射的に地図を開き、コンパスで位置の確認をする。程無くしてコンパスと地図は、ぼくが仙台市外にほど近い某湖の畔にいることを教えてくれた。その安心感が、ぼくに此処での夜営を決心させる。


 安心感はまた、今日の晩御飯は何にしようか? そうだ、湖の傍にいるんだから魚がいいな……などと精神的な余裕すら、ぼくにはもたらすのだった。同じく浮かぶのは、今でもこの山々の中を歩き続けているであろう中沢兵長たちのこと……彼らはこの広い山中の何処に野営し、何を食べているのだろう?




 日はすでに落ちた。


 一層に深まる静寂に抗うかのように、燃え盛る火はその焔を星々の支配するところとなった空へと立ち上らせていた。


 それに漠然と視線を注ぎながら、ぼくは漠然とアケミや他のみんなの事を考え続けていた。それでも火の暖かさに身を晒すうち、ぼくの意識中に頭をもたげた疲労はぼくを昏睡に誘い、急速に浸透する昏睡に支配されたぼくからは、一切の意識が消えていった。たった一人で山野に放り出されたことが、皮肉にもぼくに束縛の多い軍隊生活からの解放感をももたらしていたのだ。それによって導き出される安堵こそが、ぼくを眠りに誘う役割を果たしていた―――――




 『―――――鳴沢一等兵』


 …………?


 『―――――鳴沢一等兵』


 だれ……?


 『鳴沢一等兵、起きろ』


 誰だ……?


 『鳴沢、目覚めないか……!』


 「…………!」


 はっと目を開けた直後、焚き火を挟んで佇み、ぼくを睨みつける人影に、ぼくは我が目を疑った。炎を挟んで仁王立ちし、ぼくを睨み付けるすらりと伸びた長躯を野戦服に包んだ、グラマーな女性士官の凛とした姿と声を、ぼくは忘れようが無かった。


 す、陶大尉……!?


 『貴様、こんなところで何をしているんだ?』


 「…………!」


 眠気を吹き飛ばされ、愕然とするぼくに、彼女はその冷たい眼差しを変えずに言い放つ。


 『今すぐにここを撤収し、迅速に移動せよ』


 「…………」


 『鳴沢、教程修了まであと少しだぞ。気を抜くことは許さん』


 大尉の言葉は、夢の中でも明確なまでの冷厳さを以て、ぼくの意識に響いてくる――――




 ―――――意識を取り戻し、目を開けたとき、すでに周囲はぼくをその腹中に飲み込んでいるかのような暗闇に覆われていた。


 「夢か……」


 呆然と、焼け炭が燻るばかりとなった焚き火に視線を落とす。見たばかりの夢に何ら感慨を抱く余裕もなく疲れてはいたが、ぼくは火元を完全に始末し立ち上がった。遠方の低空から轟いてくるヘリのローター音に気付いたのはそのときだった。


 森の繁みに身を潜め、ぼくは接近してくるローター音の高鳴る星空に目を細めた。


 そのぼくの眼前で、ローター音は巨大な双発ヘリの機影となり、緩慢な機動で湖の上空を旋回し始める。


 「…………?」


 バートル?……否違う。胴体はバートルよりもっと太い。ヘリの機種が従来型のV-107ではなく新型のCH-47であることに思い当たったのはずっと後のことだ。


 月明の下でその輪郭が判るくらい、双発ヘリは湖のすぐ上で低空旋回を続け、やがてはそのまま水面スレスレの高度まで降りてきた。ローターの引き起こすダウンウォッシュは波浪のように湖面一体を脅かし、水の飛沫は湖畔にいるこちらにまで突風のような衝撃波とともに及んでくる。


 「あ……!」


 唐突にヘリの後部から何か黒いものが落ち、飛沫を立ててすぐ下の湖面に沈んだのを目にした瞬間、ぼくは軽く声を上げた。それも一回ではない、二回、三回……十回まで数えた直後にヘリは上昇し、すぐに夜空に紛れて遠ざかり、消えていった。


 何をしていたのだろう?……と訝ることが出来た間は五分あまり。それまで鏡のような静寂さを取り戻しつつあった湖畔の水面が突如不自然に盛り上がり、真っ黒い人影が出現した瞬間、ぼくはともすれば声を上げかける自分を必死で抑えた。


 「…………!」


 それは不思議な、だが見慣れない者にとって恐怖を感じさせずにはいられない姿だった。戦闘服の上にアクアラングと水掻きを纏い。顔すら迷彩に覆われどす黒く汚れていた。しかも数名が湖面から上半身を出し、マシンガンを構えて周囲を警戒するように一巡させている間に、本隊と思しき纏まった数の人間が湖畔に上陸するという手順と、それらを一瞬の躊躇も無く速やかに成し遂げてしまうあたり、彼らの兵士として練度の高さを伺い知ることが出来た。


 黙って様子を窺う内、上陸を果たしたばかりの彼らの数名が先刻までぼくが野営していた辺りに集まり、何やら話し込んでいる。ぼくの存在を察知された……?


 「…………」


 遠方から息を殺し、ぼくは逡巡する。黙って彼らが立ち去るまで身を潜めているべきか? それとも、面倒事を避けるべく速やかにこの場を離れるべきか?……逡巡の刻は十数秒で過ぎ去り、ぼくは後者を択んだ――――――




 ぼくは匍匐の姿勢を取り、音を立てないよう慎重に身を這わせる。


 落穂や枯れ草の擦れる微かな音すら地面に直に接している身ではより敏感に、かつ大きな音に感じられてしまう。だがその緊張も、彼らから距離を置くにつれうまく解消されるはずだ。むしろ、これから彼らを避けるべく回り道をせねばならないことへの懸念の方が、ぼくには一層重く感じられてくる。だが……


 「…………!」


 迫り来る足音……伝わり来るその振動を這わせている全身に感じ、ぼくは硬直する。とっさに体を転回させ、傍らの繁みに入ったぼくのすぐ傍で、それが明白な人間の気配となるのに、一分も掛からなかった。気配は二人、敵とも味方とも区別の付かないそれらを前に、繁みの中で高鳴る鼓動すら、ぼくは押し殺したい衝動に駆られてしまう。


 頼む……早く消えてくれ……!


 「…………」


 誰かが息をする音を聞く。地面と残雪を踏みしめる足音と重なり、交互に聞こえてくるそれに、ぼくはやはり追跡者が二人以上いることを知る。繁みの中で目を閉じるぼくを他所に、彼らの気配はさらに森の奥へと進み、やがて再び戻ってきた。


 「何だ……狸か」


 安堵……彼らが友軍であること、彼らが追い回していたものの正体がぼくの存在ではないことに、ぼくは生まれて最も安心したような感慨に浸る。そして湧く疑問―――――何故彼らは、此処にいるのだろう?




 彼らの存在が完全に消えてもなお、夜は未だ月と星々の織り成す無機的な明かりを地上に注いでいた。


 その中を、ぼくは再び歩き出した。


 此処から東方、そこで広漠たる湖を堰き止めているダムこそが、ぼくの当面の目的地だ。先程の連中と再び出くわす確率を出来るだけ避けるよう、険しい山途を択んで進むことにする。だが自分の位置を即座に掴めるよう、できるだけ湖面の姿を捉えられる場所をキープする。それから二時間余りを無事に踏破し、湖の東岸を塞ぐダムの、巨大なコンクリート製のアーチを視界に収めたそのとき―――――


 「…………?」


 ぼくの歩く小山の中腹からすぐ下―――――そこで淡く焚かれる光が、闇に馴れきったぼくの網膜を灼いた。同時に光源のすぐ近くで身を潜める人影に覚える驚愕―――――


 投げかけられる光は強かったが、それは決して周囲を照らし出すような強い光線ではなかった。それはあたかも赤外線のように光の通り道を視認させることなくダムの外壁へと延び、外壁の、それも針で刺したような僅かな一点を淡い赤に彩っていたのだ。


 高まる疑念……一体彼らは、ここで何をしているのだろう?


 「…………!」


 身を潜めて様子を窺う内、人影の正体を察しぼくは息を呑む。さっきに湖辺で出くわした連中だ……! 同時に下にいる人影が無線機で、この場にいない誰かと交信を行っている様子に気付いたとき、轟音を引き摺りながら高速で夜空を駆ける何者かの気配を察し、ぼくは反射的に天を仰いだ。


 戦闘機――――――?


 矢のように低空を駆け抜ける細く黒い機影とジェットの爆音―――――それは一瞬の間頭上の星空を支配し、過ぎ去った後には廃墟にされたかのごとき静寂が残された。




 「精密誘導爆撃の訓練だ」


 「…………!」


 背後から投げ掛けられた声、ぼくは眼前で繰り広げられた光景に気を取られるあまり、背後から迫って来た気配に気付かなかった……否、気配の主は明らかに自分の気配を殺し、対象の意表を突く場所に現れる術に長けていた。


 振り向くことも忘れ、驚愕のあまり屈めたままの身体を硬直させるぼくの背後で、さらに数を増す気配――――


 「隊長、こいつは……?」


 「どうやら、野外教程中の挺身兵学生のようだ」


 両脇から不意に伸びた腕がぼくの肩を強引に掴み上げ、振り向かせた。無理やりに背後へ転じられたぼくの眼前に現れた黒尽くめの男たち。


 そして彼らの中の長らしき男の声には、聞き覚えがあった。


 その彼とぼくの目が合った直後、男は言った。


 「おい一等兵……」


 「…………」


 「……いままで、我々に存在を悟らせずよく此処まで来られたな。褒めてやる」


 「…………」


 「だが……今見たことは一切忘れるんだ。口に出すことはおろか、覚えておくことすら、貴官のためにはならない」


 そこまで言って、男は目配せした。即座に固められた両脇が解かれ、身体の自由を取り戻したぼくに、彼は言った。


 「さあ早く行け。貴様の能力なら、無事時間内に踏破できるだろう」


 更なる目配せ……瞬く間に男たちの影と気配は消え失せ、後は我を失い佇むばかりのぼくが残された。


 何者なんだ?……あの人たち。






 生まれた疑問を胸中に孕みつつぼくは山野を歩き続け、ぼくはその翌日に目指すベースキャンプを眼前に見出した。


 「あ……」


 キャンプ場のベンチに座り、缶コーヒーをすする中沢兵長の姿に、ぼくは顔を綻ばせる。中沢兵長の方もぼくの姿を認めるや笑顔で手を上げ、こちらへ手招きするのだった。


 「鳴沢も早く到着の手続きをして、コーヒー貰って来いよ。久しぶりで文明人に戻れるぞ」


 言われるがままに到着の手続きを済ませると、補給科の兵士がぼくに熱々の缶コーヒーをくれた。寒風に悴む両手でそれを持て余しながら中沢兵長の元へ戻り、勧められるままベンチの隣に座る。笑顔の中沢兵長が見守るまま缶の蓋を開け、熱い液体を啜る――――


 「旨い……!」


 コーヒーの熱さを舌で持て余す内、久しぶりで感じ、口の中に広がっていく甘みに、ぼくは頬が震えるのを自覚する。そして喉から体内を駆け巡る暖かさは、同じく久しぶりに人間に戻っていく、あるいはそれ以上の存在になってしまうかのような感動に似た感覚すら、ぼくの疲れきった身体にもたらすのだった。


 中沢兵長が例の守り袋を取り出し言った。


 「踏破できたのはこいつのお陰さ、昨日の夜に女房が夢の中に出て来てね。おれを励ましてくれたんだ」


 「へぇー……」


 「鳴沢は、恋人の夢は見なかったのか?」


 「え……?」


 夢と言えば、確かにぼくも見た。だが、夢に出てきたのはアケミではなかったのだが……


 「さ、さあ……」


 そのとき、戸惑うぼくに声をかけてきたのは教練担当の助教だった。反射的に腰を上げ、命令を待つぼくらを交互に見回し、助教は言った。


 「レンジャー鳴沢は誰だ?」


 「自分であります」


 「レンジャー鳴沢はすぐに連隊本部へ出頭せよ」






 命令され、助教に連れられるやぼくは連隊の指揮連絡車に乗せられ、そして市内の連隊本部まで連れ戻された。あまりに急な展開に半信半疑のまま、軍装を整える間も与えられずにぼくが連れて来られたのは、連隊庁舎最上階の、最も奥まった場所にある重厚な扉……その部屋への入口で、山間を踏破した疲労も忘れ、ぼくは「連隊長室」と銘打たれた表札を見上げるのだった。


 扉を叩き、助教は言った。


 「鳴沢一等兵を連れて参りました」


 「通せ」


 その声にぼくは疑念を覚えた。何故なら扉の向こうの声の主が、紛れも無い野村教官のそれであることに思い当たったから……


 助教に先導されながらも、ぼくとて緊張を隠せない。果たして、入口をくぐった先では、普段ならこうしてお目通りすることなど不可能に等しい連隊長の加藤中佐が、傍らに野村教官を伴いぼくを待ち構えていた。


 「鳴沢一等兵であります!」


 背を正し敬礼するぼくの汚らしい姿を、連隊長は椅子に座ったまま、会釈でもするような穏やかな視線で眺めていた。柔らかな眼光を満たしているものは対象に対する興味。決して何かの粗相を咎め立てするような目ではないことは、すぐに察せられた。湿ったブッシュハットから泥濘に汚れたドカ靴……上から下までぼくの姿に目を凝らし、連隊長は何度か納得したように頷いた。


 開口一番、連隊長は言った。


 「先夜、君は見てはいけないものを見たな」


 そう問いかけられた瞬間、ぼくの記憶の糸は、即座に先夜のダムの光景にまで行き当たる。


 「はい……」


 「何を見た?」


 「爆撃誘導任務とか……聞いたような記憶がありますが……」


 野村教官が言った。


 「そうだ、君が見たのは、上空からの隠密侵入及び、敵の重要施設に対する、地上からのビーム照準装置による精密爆撃の誘導支援訓練だ。そして訓練に参加していた部隊は……」


 「…………」


 「SAB……特殊空挺旅団」


 「…………!」


 「SABは帝国陸軍でも最精鋭の部隊であり、もっとも高度な機密に守られるべき部隊でもある。例え訓練の一環とはいえ、普通なら参謀本部の上級参謀はもとより政府の閣僚すら容易に眼にすることの適わないSABの内情を、一介の一等兵である君は垣間見たというわけだ」


 「あのう……教官どの」


 「何だ。レンジャー鳴沢」


 「自分は、クビになるのでしょうか?」


 「まさか……我々が君に求めるのは、君が軍人としての義務を果たしてくれることへの君自身の確約でもある」


 「…………」


 連隊長が口を開いた。


 「軍法にある通り、軍人は、職務上知りえた秘密を、妄りに他者へ知らしめてはならない……ということだ。鳴沢一等兵……わかるかな?」


 「先夜のことは、墓場まで持って行けということですね?」


 ぼくの言葉に、連隊長は頷いた。


 「鳴沢一等兵、あとは……最終想定を残すばかりだな?」


 「はい」


 「最後まで気を抜かず、頑張りたまえ。下がってよし……!」


 連隊長の許しに、ぼくが敬礼で応じようとしたそのとき―――――急に喚起された疑念の赴くまま、ぼくは言葉を投げかけた。


 「あのう……連隊長」


 「何かね。鳴沢一等兵」


 「質問があるのですが……」


 疑念を遇する沈黙……それをぼくは了解の意思表示と受け取り、続ける。


 「……どうして、自分のことが特定できたのでありますか?」


 「現地のSAB指揮官より通報があった。君が演習区域に迷い込み、隊員と接触した……とな。それ以上は本官も知らされていない」


 聞くべきことを聞き、答えにも納得を覚えた瞬間、ぼくは背を正して連隊長に敬礼し、部屋を出る。






 部屋を出たぼくは、連隊本部から打って変わり、ベースキャンプへの復帰を命ぜられた。外で待っていた島谷助教の後に付き、降りるべき階段へ差し掛かったそのとき、下段から昇る途上でぼくらを見上げる人影に、ぼくならず島谷助教までも軽く声を上げる。


 「あ……」


 徒手格闘訓練のときに言葉を交わした中尉が、そこにはいた。島谷助教がぼくに敬礼するように促した。そしてぼくは驚きと同時に先夜のことを思い出し、さらに言葉を失う。そんなぼくに悪戯でもけしかける様な微笑を投げ掛け、敬礼を送るぼくらの辺りまで階段を昇りながら中尉は言った。


 「どうした? そんな変な顔をして」


 常らしからぬ緊張に顔を強張らせる島谷助教には目もくれず、彼はぼくの顔を覗き込むようにした。


 「間が悪かったな鳴沢一等兵。ああいうときは、もう少し巧く振舞うものだ」


 「はい……」


 ぼくの力ない返事を、中尉は鼻で笑う。だがそれは決して侮蔑とか、嘲弄といった要素を感じさせるものではなかった。


 「レンジャー鳴沢……」


 「…………」


 「最終想定、頑張れよ」


 ぼくの肩を叩くと、彼は確固たる足取りで再び階段を昇っていく。その彼の後姿が角の向こうに消え行くのを認め、島谷助教は震える声で言った。


 「レンジャー鳴沢、おまえあの中尉とどういう関係なんだ?」


 「いえ、少し顔を覚えてもらっただけですけど……」


 「すごいなお前、あの那須中尉に顔を覚えてもらうなんて……」


 「あの人、そんなにすごい人なんですか?」


 「あの中尉……那須中尉はな、帝国陸軍きっての英傑だよ。SABの生きた伝説さ」


 「え……?」


 「野村教官もすごい人だが、那須さんはその遥か上を行く……それどころか、あの人と正面から戦って勝てる男なんて、おそらく世界中の何処を探したっていないだろうさ」


 「…………」


 島谷助教の言葉を、知らず胸の奥底を震わせながら噛み締めているぼくが、そこにはいた。




 ――――はたして、挺身兵課程の締め括りたる最終想定は、翌週までに迫っている。





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