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その四 「挺身兵課程の傾向と対策」


 訓練も、すでに三週間目―――――


 「走れっ!」


 今日もまた、助教の号令一下、その肩にバディを抱えた男たちが、覚束ない足を懸命に奮い練兵場の土を蹴る。ぼくもまた、肩に中沢兵長の身体の重みを受け、よろめく身体を前へ、さらに前へと走らせるのだった。


 一ターン100メートルの肩車走。緊急時の負傷者搬送訓練も兼ね、学生にこれを何度も行わせ、後半の野外教程に耐え得る体力を作らせるのだ。この科目とて最低限の基準が設けられている。具体的には、挺身兵はバディを肩に負ったまま、20秒以内にこれを完遂しなければならない。


 トラックを駆け、足がスピードに乗るうちに生まれるバランス。走るのを緩めればガラス細工のごとくに忽ちのうちに砕け散る儚い均衡……バランスはバディを担ぐぼくらの足に絶え間ない前進を誘い、それに気を取られるあまりに、ぼくは圧し掛かる重みと疲労を忘れる。実践の段階では、挺身兵はその背に最大30キログラムに達する重量物を負いつつ、狭隘かつ峻険な地形において14キロメートルの距離を一時間以内に踏破しきる体力を求められている。したがって、ひと一人を背負って平地を駆け抜ける訓練など、近い将来の野外教程を考えれば初歩中の初歩でしかない。ぼくはどうにか、20秒以内でこれをやり遂げゴールに滑り込む。


 「杉山ぁ! もうちょっと根性入れんか!」


 割れ鐘のような怒声は、トラックの端から遠巻きに杉山二等主計を見遣る助教のそれではなかった。ぼくらと同じタイミングでスタートしたばかりなのに未だ走路の半分に達したばかり、覚束ない歩調の杉山二等主計。そしてひ弱さの一向に抜けない彼の肩に支えられた、健康的なまでに肉の付いた体躯の門田軍曹……これではまるで、肉体の鍛錬というより単なる弱いものいじめ的な様相を呈している。


 「コラコラ! 前に屈み過ぎだ! 俺を振り落とす気か?」


 階級も外聞もかなぐり捨て、怒声を張り上げる門田軍曹だって必死である。この段階でバディが脱落しようものなら、残った片方にも大きな減点が待っている。要するにバディを脱落させた責任を、片割れが負わねばならないのだ。かといって体力面、技術面で他より何かと遅れがちなバディを庇いだてし様ものなら、その割りを食って仲良く脱落なんてことも……それが挺身兵訓練課程の難しさであり、怖さである。


 その薄っぺらい肩に軍曹を負ったまま、杉山二等主計はその歩調を上げた。やがてその疾駆からは一切の不安定さが消え、それを見守る者に安堵を与えようとしていた。


 「いいぞ杉山、その調子だ!」


 だが―――――


 発揮する根性に、体力が付いていかないというのは当人にとって想像を超える苦痛である。思い通りに動かない身体、それゆえ内面に募る苦渋は当人から冷静な思考を奪い、犯さぬともよい過ちを、いとも簡単に引き起こしてしまうのだ。


 「うわぁっ!」


 「オイッ!」


 持てる気力を振り絞って走り続け、あと少しでゴールというそのとき、何かの拍子で足をもつれさせた杉山二等主計は、そのまま前のめりに転び、当然彼に支えられていた門田軍曹もまた、顔面から二メートル近くの高度を隔てた地面へと望みもしないキスを強いられることとなった。とくに軍曹の場合、勢いをつけて頭から放り出された態勢だっただけに、その衝撃は痛烈だった。


 「軍曹……大丈夫ですか?」


 「す、杉山ぁ……!」


 怒気すら孕んだ軍曹の呻き声……色を為した助教が、荒々しい歩調と共に二人に歩み寄る。上限たる20秒はとうに過ぎていた。二等主計が挺身兵として要求される最低限の疾走を果たせなかったのはこの時だけではなく、その失敗の数だけ二人は仲良く罰直を受け続ける上に、振り落とされる軍曹の顔や身体には生傷が絶えることがない……そして斃れたまま動けない杉山二等主計に対し、当の軍曹より先に業を煮やした助教たちは、辛辣さを通り越して冷酷そのものの宣告を下すのだった。


 「レンジャー杉山ぁ!」


 「うー……」


 「うーじゃねえっ! てめえクビだ! 荷物を纏めてここからさっさと立ち去れ!」


 「…………!」


 その瞬間、二等主計は弾かれた様に頭を上げ、哀願にも誓い表情を剥き出しに神にも等しい助教の足に縋り付くのだった。ぼくと違って、ここで脱落したところで死ぬわけじゃああるまいに……


 「後生です教官殿!……どうかそれだけはぁぁ!」


 「レンジャー杉山、てめえはもう限界だ。これ以上やると冗談抜きで死ぬぞ!」


 「いやだぁぁぁ……!」


 そこまで言われてもなお、涙と鼻水を流し、なおもみっともない位に足元にしがみ付く二等主計に、業を煮やした助教がドカ靴の一撃を振り下ろそうとしたそのとき――――


 「待ってください!……教官どの」


 「…………?」


 意外な声の主に、視線を上げた助教の前に立っていたのは、鼻からドクドクと血を流し続けたまま、いつの間にか不動の姿勢を取った門田軍曹だった。土塗れの顔はそのままだったが、その眦は凛として彼より二階級も下の助教へと向けられていた。そして助教は、鬼気溢れるその表情に気圧され、言葉を失っている。


 「自分からもお願いします!……杉山の至らぬところは、バディである自分の責任であります。どうかもう少し、自分たちに時間を下さい。後生であります!」


 そう言うが早いが、軍曹は何と土下座をした。その彼の姿を、出すべき言葉も見つからず呆然として見ていたのは、何もバディの二等主計や助教たちだけではなかった。






 ――――こうしてバディに失敗を庇われ、何度目かの脱落の危機を脱したその日の夜、杉山二等主計は門田軍曹に言った。


 「申し訳ない……軍曹」


 「…………」


 自分より四階級も下の人間に悄然と頭を下げる二等主計を、幅の広い顔を痛々しい絆創膏に飾られた軍曹は、呆然として見遣る。そんな彼の目に、不甲斐ないバディに対する隔意など、一片たりとも含まれてはいなかった。だが、その直後に軍曹の口から出た言葉が、二等主計をはっとさせたことはもとより、タコ部屋の全員を二人の遣り取りに注視させる。


 「……なああんた、自分でも向いてないってことぐらい判ってるだろうに、何故こんなところに来た?」


 「…………」


 少し躊躇う素振りを見せた後、杉山二等主計は言った。


 「……好きな(ひと)が、いるんです。結婚したいくらい……」


 「…………?」


 「……ですが先方の親が許してくれません」


 「…………」


 「主計ごときに娘をやれるかって……主計ごときにウチの敷居は跨がせないって……先方の父親、叩き上げの准尉なんです」


 「…………」


 「だから……だから……根性を見せないと……」


 そこまで言ったときには、その場の誰もが押し黙り、二人の様子を遠巻きながらに伺っていた。当の軍曹はといえば、出すべき言葉を失ったかのように押し黙り、俯く二等主計に困惑の篭った視線をむけるばかり……だが急に醸成された静寂は、意外な方向から、そしていつもは皆の話の輪に入ってこないはずの意外な人物に、それも意外な言葉により破られた。


 「やめてしまえ」


 分厚い実務書から目を離さずに言ってのけたのは、竹中兵長だった。銀縁の眼鏡に隠れた眼差しは冷たく、彼の属する組織の雰囲気を、それを知らないぼくらに緊張を持って伝えてくる。


 「みんな、大なり小なり現実的な目的を持って此処に来ているんだ。そんな浮かれた動機で此処に来られては、軍曹やみんなも迷惑というものだろう」


 「それは……」


 「はっきり言おう、その女性は君には向いていない。悪いことは言わないから別れろ」


 「何でアンタにそんなことがわかるんだよ!?」


 と、抗うように声を張り上げたのは彼のバディであるはずの木村上等兵だった。思えばこの二人も、訓練の端々でギクシャクしたところを見せていたものだ。


 「いいじゃねえかよ……動機ぐらい何だって。気の済むまで訓練を受ければ……」


 「それで現に軍曹が迷惑しているじゃないか」


 「…………」


 即座に機先を制され、木村上等兵は救いを求めるように門田軍曹を見遣った。その門田軍曹はといえば、そのごつい顔を押し黙らせたまま、俯く杉山二等主計を見詰めるばかり……その様子を前に、木村上等兵が不貞腐れたように言った。


 「所詮……アヒル(警官の俗称)の親分に、庶民の気持ちなんて判んねえんだよ」


 「お前のような賤民の気持ちなど、判ろうとは思わん」


 竹中兵長は言った。鼻白む木村上等兵を顧みる素振りも無い。


 「よくわかった……」


 軍曹の言葉に我が目を疑ったのは、二等主計だけではなかった。ぼくと中沢兵長はもとより、無愛想な竹中兵長ですら本から顔を上げ、軍曹を見たのだ。


 「……あんた、やる気はあるんだな?」


 「はい……!」


 「俯かずに、おれの顔を見ろ」


 「…………!」


 反射的に二等主計が顔を上げるより先に伸びた軍曹の両手が二等主計の頬を抑え、軍曹の目線に強引に持ち上げた。生傷も痛々しい顔を怒らせ、軍曹は言った。


 「いいか……あんたはおれと一緒にこの過程を卒業して挺身章を貰うんだ。絶対に……!」


 「…………」


 「返事は!?」


 「はい!……お願いします!」


 「お願いしますじゃねえ! てめえの力で挺身章を取るんだ!」


 「はい! わかりましたぁ!」


 涙目で叫ぶ杉山二等主計を見詰める門田軍曹の決意溢れる目、その光景に目頭を押さえる木村上等兵から目を背けるように、竹中兵長は寝返りを打っていた。






 この場に居合わせた個人が如何なる感慨を抱き、将来への決意を固めたところで、訓練は彼らの意思とは関係なしに、そして容赦なく進んでいく。二週間目も末に達したある日、ぼくらが課せられたのは徒手格闘術の教練だった。具体的には、一通りに型と技を教え込んだところで、学生同士で一対一の組手、そして助教対学生で組手を行わせるのだ。


 意外に思われるかもしれないが、戦場では接近戦の際、柔道や合気道のような「受身系」が重宝されることはまずない。どちらかといえば空手や少林寺拳法、そしてキックボクシングのような攻撃的、かつ打撃系の格闘術が重視される傾向にある。何故かと言うに、柔道や合気道で多用される投げ技、関節技は突きや蹴りに比して一層の時間と練習、そして一定の実践を要するのは勿論のこと、それらの技は相手が攻撃をかけてこない限り、まず成り立たないからだ。海戦や空戦と同様、歩兵同士の陸戦でも敵に攻撃を受けてから反撃、ではまず間に合わないのである。それに空手やボクシングで使われる攻撃法や身のこなしは柔道や合気道のそれと違いずっと単純(こう言っては、これらの格闘術に失礼かもしれないが・・・・)であるし、それに習得もずっと容易……つまり有事の際大量に徴兵した人材に、迅速に習得させる護身術として向いている。


 ……徒手格闘術とは、そのような発想から作られた軍隊用の格闘術であるわけで、ぼくらもまた、挺身兵課程受講に伴い、改めて徒手格闘術の訓練を受けることとなったわけだ。そして挺身兵課程ではこれに加え、敵兵の「隠密処理法」なるものも教わる。これは読者の皆さんも戦争映画で見たことがあるかもしれない。主人公が敵の基地に忍び込んだりする際、夜影や物陰に乗じて警備兵の背後に忍び寄り、敵に声を上げさせる間も与えずいきなりナイフで首を掻き切ったり首の骨を圧し折ったりするあれである。




 「始め!」


 セコンド役の助教の号令一下、防具を纏ったぼくは速成の闘場に一歩を踏み出した。


 面体より広がる前方には、同じく防具を纏った学生の姿、ぼくより一回り背が高く、胴回りも大きい彼がたとえ柔道三段で、かつ空手二段であろうと、現在のぼくにとって問題ではなかった。


 「…………!」


 ぼくらが一気に距離を詰めた時点で勝負はついた。振り下ろすように繰り出された彼の突きを、ぼくは横にかわして受け、一方で彼の懐に入り込んだぼくの突きは、受けるのと同時に彼の脇腹を捉えている。


 「…………!?」


 衝撃に抗いかね、膝から崩れた彼の面体。そこに止めとも言うべき膝の一撃。


 直後彼は頭から後ろに昏倒し、それで勝負は付いた。


 「鳴沢! お見事!」


 歓声を上げる中沢兵長、同時に起こる皆の驚愕をその背中に聞きながら、ぼくは新たな相手を迎える。試合そのものは、誰かがぼくを倒すまで続く。次に現れた中背の学生を、ぼくは数合の拳の応酬の後、回し蹴りの一閃で倒し、次に現れた長身の相手を、これまた数合を経て懐にまで飛び込んでの突き一発で前屈みに倒し、悶絶させた。全ては計算によって為されたものではなく、ただあの近衛旅団の武道場で、血と汗と共に拳を振るった日々の中で身体に刻み込まれた「感覚」の導くままに為された「対処」―――――


 「…………」


 ―――――だが気付いたときには、周囲の囃し立てる声はとっくに消え去り、戦慄にも似た静寂がぼくの周りを漂っていた。一兵卒にしてはあまりに分不相応な試合運びが、皆から忽ちのうちに眼前で繰り広げられている異状に対する言葉を奪い去ってしまったかのようだった。静寂の下相手を与えられることも無く、空いた間に対し手持ちぶたさすら感じたぼくの前に立った新たな相手に、息を呑んだのはぼく自身だけではなかった。


 「レンジャー鳴沢、次は俺だ」


 轟然と試合場に足を踏み入れた助教の姿に、ぼくの目が凍りつく。


 防具と野戦服に身を包んではいたものの、ぼくと背丈がほぼ同じ彼が、厳然たる筋肉質であることは隠しようが無かった。薄手の野戦服の上腕、胸、足から輪郭として覗くパンパンに膨れ上がった筋肉――――それらが次の瞬間には凶器としてぼくに襲い掛かってくる。


 そして気が付けば、いつの間にか来ていた野村教官すら、試合の輪から距離を置きぼくらの様子を伺っている。


 さらには彼の背後に付き従う、複数の見慣れない人影――――誰だろう?


 余所見をするぼくを、至近の現実に引き戻すかのように、助教は言った。


 「打って来い……」


 「…………」


 ぼくは拳を構えて向き直り、そして摺り足で距離を詰める。


 来る!―――――


 軽快なフットワークと並行し、投擲されるように突き出された彼の突きを、ぼくはバックステップで回避――――


 さらに詰まる距離、繰り出される突きの連打――――


 大丈夫――――当たらない。動きを読めている。


 そして――――今更のように、そのことに驚く。


 「どうした! 撃って来んか! 怖気づいたか?」


 怒声と共に繰り出される突き、蹴り――――それら悉くを避け、または防ぎながらぼくは引き寄せられるように距離を詰める。


 大丈夫、大したこと無い――――そう感じるのと同時に沸く逡巡。


 逡巡――――それは、このまま勝ってしまっていいのだろうか?……という戸惑い。


 助教とはいえ上位者の手に地を付けることが、却ってぼくの立ち位置に悪影響を与えることになりはしないか?……具体的には助教たちに目を付けられ、不毛なあら捜しの的になりはしないか?……その結果として、脱落の憂き目を見はしないか?


 ――――それらに思い当たったとき、連打と気迫の嵐の中で、ぼくは一瞬で勝ちを譲ることを決める。


 「…………」


 ――――さり気なく空けた胴を、彼はやはり見逃さなかった。


 突き?


 蹴り?


 それとも……


 『……膝蹴り!』


 脳裏で弾けた直感の赴くまま受けの姿勢を取った腕の交差を、勢いをつけて繰り出された助教の右膝は、見事に貫いた。衝撃を受け流すようにぼくはバックステップし、あたかも吹っ飛ばされたかのように派手に地面に倒れ込む。むしろ受身の失敗した背中に受けた地面の衝撃の方が烈しく、それがぼくの意識から明瞭さを一時奪ってしまう。


 「勝負あり!」


 セコンド役の助教の声。そして仰向けに倒れ込んだまま動けないぼくに近付く人影――――


 「…………」


 「――――レンジャー鳴沢……大丈夫か?」


 「…………」


 「レンジャー鳴沢、返事をしろ」


 ――――うっすらと目を開けた先には、仁王立ちした野村教官のギョロ眼が、ぼくの顔を覗き込むように見下ろしている。ぼくが意識を完全に取り戻すのを見計らっていたかのように、中尉は言った。


 「技量不足の上に注意不足だ……次回までに修正しておけ」


 「レ、レンジャー……」


 中尉は頷き、立つように命じる。


 だが……


 「…………?」


 ぼくの意識は、程なくして野村中尉の背後に立ち、無感動な眼差しを注いでいる一人の野戦服姿の男に向けられている―――――痛みが癒え、半身を起こすぼくと、外面からは一切の個性を感じさせないその男の空虚な眼差しが合った瞬間、ぼくの背中を軽い震えが走った。




 ぼくは訓練の列から離れ、休養見学を命ぜられた。漸くで組手から解放された安堵感からか、拳や蹴りを交え合う学生たちの様子に、木陰から虚脱として見入るぼくは、背後から歩み寄る何者かの気配には全く気付かなかった。


 「連中、あんまり強くは無いな……」


 「?……」


 見上げた先で、ぼくの目は強張る。先程まで野村教官の傍らにいたあの男が、何時の間にかぼくのすぐ傍に立っていた。


奇妙な男だった。背の高さは野村教官とほぼ同じ、だがごく普通の肌の色、そして胸板と胴回りに集中する筋肉の付き方が彼と少し違った。顔立ちは、ぼくの見上げた角度では、軍帽にその半分が隠れよくわからない。それでも、立ち姿からして只者ではないことがひしひしとぼくには感じられた。それも、接する者に抗いがたい緊張と戦慄とを強いる圧力のような感触である。


 そして彼の上腕に縫い付けられた見慣れない部隊章――――――日の丸を背景に、中央に組み合わされた剣と鳶、その下に陸軍の星のマーク、それらの周囲を取り巻くように左右に広がる榊の葉……その部隊章をつけた部隊の存在を、ぼくはこれまでに教えられたことが無かった。


 階級は中尉……野村教官と同じはずが、彼よりもずっと上官らしくぼくには見えた。


 その中尉は、言った。


 「まあ、無事課程を卒業できればどうにかものになるだろうが……所詮そこまでだ」


 「…………」


 「格闘、何処で習った?」


 と、彼は組手に眼差しを向けたまま言った。


 「前の部隊で習いました」


 「誰に……?」


 「上官であります」


 「ところでさっきの組手だが……」


 「…………」


 「例え選抜中とはいえ、二年兵の分際で負けてやる色気を見せるなんぞ、十年早い」


 「…………!」


 愕然としたぼくと、そのとき初めてぼくに向けられた彼の目が合ったとき、駆け寄ってきた基地の士官が、彼の名を呼んだ。


 「那須中尉殿、本部よりお電話です」


 「一等兵」


 「…………?」


 「挺身章、持てればいいな」


 それだけを言い、彼は踵を返しその場から離れていった―――――その後姿を、愕然として見送るぼく。


 彼の恐るべき素性を知ったのは、それから間も無くのことだ。






 訓練も二週間が過ぎ、三週間目に入ると、僅かな間だが「雑草抜き」の要素も色褪せ、今度は技術検定試験の勉強会的な要素が強くなってくる。


 具体的に言えば、体力練成と併せ後半の野外教程に必要な基礎技術を、前半の段階で習得させるのだ。座学で行われる地形判読法や無線通信法はその内容を一層高度なものとなり、駐屯地の屋外でもロープの操作法及び障害物走の訓練、そして負傷時の応急措置法などの教練が始まっている。とくにこれらの教練は、挺身兵訓練期間10数週間の半ばに皆を待っている第一関門の「試験勉強」的な要素を併せ持っていた。




 「今日はロープ操作の教練を行う」


 走ることには慣れきったぼくらでも、集合した駐屯地の敷地内の一角、そこで地上より11メートルを隔てた高所に張り巡らされたロープを目の当たりにしたとき、さすがに尻込みを覚えたものだった。


 銃器の扱いと地図判読と同様、ロープ操作は挺身兵にとって必須の技術である。高所でのロープ渡り、高所からのロープ降下、断崖の登攀等々……およそ身一つであらゆる地形を克服せねばならない挺身兵にとって、ロープは切っても切り離せない存在なのだ。挺身兵課程において、ぼくらはそれこそ、「マガジン」とか「ぼくら」の冒険小説やチャンバラ映画に出てくる忍者のごとくにロープを使いこなすことを要求される。活字で読み、スクリーンで見るだけでも緊張と恐怖を誘うこれらの動作だが……実践となるとどうだろう?


 「もう少し腰に力を入れろ! 滑り落ちるだろうが!」


 怒声を張り上げる助教の、目の高さとほぼ同じ高さに張られたロープにしがみ付き、俗に言う「セーラー渡り」で全身を使いロープを伝う学生たち……いきなり10メートル以上の高度から訓練をやらせることはまずない。まずは二メートル程度から始め、徐々に高さを上げて身体を馴らせることからロープ操作の訓練は始まる。基本中の基本たる「セーラー渡り」だけならまだしも、この亜種には「モンキー渡り」というものもある。これは文字通り猿のようにロープにぶら下がり、ロープに膝を掛けて身体を支える方法だが、これは姿勢の関係上普段使うことの無い膝やふくらはぎの筋肉に負担をかけてしまうので辛い。ややもすればこれらの部位に血が滲むことがある。当然、学生の中には自らの重さとそれが引き起こす激痛に腕力が耐えられず、ロープを掴みきれずに姿勢を崩すもの、ロープからずり落ちるものが続出する。助教たちもこればかりは最初から上手くいかないことを知っているので、始めから怒鳴りつけたり、クビを匂わせるようなことは言わない。


 「レンジャー鳴沢、行け!」


 ロープに掴まったまま、視線を向けた地上……そこでは野村教官とあの例の中尉が、ぼくらの苦渋を他所に何やら話しこんでいる。


 「…………?」


 その中尉が不意に頭を上げた。ぼくは慌てて視線を逸らしロープに専念する。足で身体を支え、全体重を受けて感覚の消えかける握力を振り絞りロープを手繰り寄せて進む内、ぼくの脳裏から一切の雑念が消え、ぼくは一介の訓練生に帰っていく……訓練への専念を図ろうとする度に、ぼくの脳裏にはあの剣と鳶の徽章が浮かび、ぼくを捉えどころの無い緊張へと追い込んでいくのだった。


 そして教練が進むにつれ、学生の皆の間でも、徽章をつけた得体の知れない男たちのことは、彼らが姿を見せて間もないうちに話題となっていった。




 一瞥だけで陸軍兵士に只ならぬ緊張を強いるその徽章と、その持ち主との正体をぼくらに教えてくれたのは、意外な人物だった。


 「……あれは、SABだ」


 SAB?……当時のぼくらにとって、あまりに聞き慣れない名を口に出したのは、本来「部外者」であるはずの竹中兵長。


 「特殊空挺旅団……帝国陸軍の最精鋭中の精鋭だ。あんたら陸軍軍人なのに、そんなことも知らないのか?」


 竹中兵長は続けた。




 ――――ただ野戦における遊撃的な作戦行動を挺身兵が要求されているとすれば、SAB――――Special Airborne Brigade――――は、さらに上の任務を与えられている。SABの主要任務は平時より国家としての日本にとって脅威となりうるあらゆる外的要素――――テロリズム、謀略、侵略行為――――を、それが顕在化し、実行に移される前の段階で把握し、極秘裏のうちに、あらゆる手段を講じて排除することにあるという。従ってSABの編成、作戦行動は勿論、その存在すら同じ陸軍であるはずのぼくらに対しても厳重な秘匿の対象となっている――――




 「――――SABの選抜訓練の厳しさは挺身兵の上を行く、内容も苦しさも、こちらの比じゃない」


 何でも日本中の陸軍部隊から挺身章保持者が我こそはと志願し選抜訓練を受けるものの、これを潜り抜け最終選考段階に残る者は100名中10名にも満たないという。もちろん選抜訓練の間に脱落者、故障者が出ることは勿論のこと、その肉体的精神的過酷さのゆえに時には死者や発狂者すら出るらしい。


 では……そのSABの人間が、何故ここにいるのだろう?


 「隊員のスカウトに来たんだろう」


 と、竹中兵長は言った。彼によれば、SABの隊員や、各地の陸軍基地に散ったSABのOBが基地内からこれはという人材を見つけては、SABの入隊試験を受けるよう勧めることがあるのだという。そして話の途中でぼくらを驚かせたことには、かの野村教官がそのSABの創立に携わった初期のメンバーであるということだった。


 驚くぼくらを前に、竹中兵長は一瞬躊躇う素振りを口元に見せ、そして言った。


 「……野村さんは、いわゆる『出戻り』なんだよ」


 「…………!」


 出戻り―――――その単語は、若いぼくらにその頃は未だ生まれてもいなかった時代の重さを、言いようの無い重苦しさを以て突きつけてくる。






 俗称で「出戻り」といい、正式には「招慰同胞」とも言う。それは有体に言えば、「大東亜戦争」前に移民として大量に渡米し、戦後に再び日本へと戻って来た日本人同胞のことを指す。


 かの「大東亜戦争」の勃発は、それまで北米の地に根差し、米国に忠誠を誓ってきた日系人の生活に、大きな影を落とすこととなったのは現在では周知の事実である。日本との開戦により、時の米政府より「敵性市民」とされた日系米国人の悉くがそれまで住んできた土地、それまで築き上げてきた地位と富を失い、中西部の荒地帯に設けられた強制収容所に隔離されることとなった。その一方で、米国生まれで米国育ちの、いわゆる「日系二世」の若者の多くは米国に対する忠誠心を示すべく競って軍に入隊し、その多くが兵士としてヨーロッパ戦線の激戦地、あるいは情報要員や通訳として太平洋戦線へと送られ、犠牲を厭わないその献身的な活躍はやはり、多くの米市民の賞賛の的となったものだった。


 ……だが、太平洋戦線における米国の「敗北」は、祖国に対する貢献を認められ、漸くで挽回しかけた彼ら日系人のアメリカ社会における地位を微妙なものにした。簡単に言えば、その建国以来最初の「敗戦」という、衝撃的な事態に直面した米国民の一部は「敵国」日本への内通者として、日系人の存在を槍玉に挙げ、そうした人々に引き摺られる形で米国社会もまた、戦前と比較して一層に日系人に対し警戒の念を抱くようになってしまったのだ。


 その結果として起こったのが、米国から日本への、日系人の「Uターン現象」だった。「大東亜戦争」の余波を受け、異端者として排斥され、異郷の地にせっかく築き上げた生活の基盤を失った日系一世が日本に逆戻りし、同じく彼らの子や孫たる人々もまた、父祖に連れられる形で日本の地に舞い戻ることとなったのである。米国社会の隔意に晒され続け、疲れきった身体で祖国の土を踏んだ彼らを迎えた日本人の眼差しはやはり、決して同情的なものではなかった。すでに、「大東亜戦争」においてある時は敵兵、またあるときは間諜として、少なからぬ数の日系人が日本軍に対し「利敵行為」を働いたことは早くから皆の周知するところとなっている。さらにはそこに生活習慣と思考の相違から来る相互の反駁が加わり、それがかつての同胞に対する謂れ無き(?)反感や差別意識となるのに、あまり時間を要しなかった。




 「……現況における日系米人の大量流入は、栄えある皇国をその内側より瓦解せしめんがための米国の謀略であると私は考えるものであります! これは断じて、私個人の考えでは御座いません。私がこの場の議員諸君に是非周知して頂きたいのは、我が国は現在50万から為る潜在的な米国の同調者を抱えつつある、ということであります。彼らに対する厳重なる監視の必要なるを私は痛感するものでありますが、この点に関し首相及び内相御自らの見解をお伺いしたい―――――」


 日系人流入問題が顕在化した昭和30年代、議場でこのような発言をした衆議院議員がいたという。これは決して彼だけの私見ではなかった。この時期、「招慰同胞」が学校や職場であからさまな差別を受けたり、地域によっては「帰郷」してきた日系人と地元民との間で流血を伴った衝突すら頻繁に起こっていたようだ。戦争が本来同胞だった人々を別ち、その副産物として新たに無用な争いがわが国に持ち込まれることとなった……というわけである。




 こうした話の途上で、竹中兵長はぼくらの教官、野村中尉の生い立ちまでぼくらに教えてくれた。


 ――――日米戦が始まる十年以上も前に、日系移民の子として米国は西海岸に位置する某州に生まれた野村中尉は、長じて高校生となり、そのときに「大東亜戦争」開戦を迎えた。生まれも育ちも米国で、その思考もまた純然たる米国人であった彼は、同年代の日系二世の例に漏れず米軍に志願し、後に勇名を馳せることとなる第442連隊の一兵士として遠く欧州戦線へと送られた。ちなみに野村中尉にはすでに大学まで進んだ兄がいて、彼は米軍のスパイとして外面は日本に「亡命」し、フィリピンに侵攻した日本軍の通訳班に首尾よく潜り込むことに成功していた。


 常に米欧州軍の先陣を切り、「死傷率120パーセント」と呼ばれたほど数々の激戦に投入された442連隊で、彼もまた精強なドイツ軍相手に軍功と負傷を重ね、陸軍軍曹として停戦を迎えたときには彼は7つの傷痍勲章の他に厳しい訓練を経て精鋭の証たるレンジャー章を取得し、誰憚ることも無い歴戦の勇士となっていた。少なくとも胸を張って堂々と自身をアメリカ市民と騙れるだけの祖国に対する貢献を、若い頃の彼はしたことになる。


 だが米国軍人、ひいては米国人としての彼の経歴はそれから5年も経たないうちに終わりを告げた。祖国に対する貢献を果たしてもなお、日系人に対する差別的待遇が解消されなかったこともそうだが、第二次世界大戦に続く東西冷戦の最中、同時期に米国内をレッドパージの嵐が吹き荒れた頃、彼の義兄が共産主義者という嫌疑をかけられ、それに連座する形で当時朝鮮に勤務していた彼もまた、軍を負われることになったのである。そして彼はこのとき、当時南方戦線で行方不明扱いになっていた兄が、「大東亜戦争」後に間諜であることが露見し、日本軍に処刑されたことを知った。そこに前述の問題も加わり、彼と一族は米国を離れ、父祖の故郷たる日本の地を踏むことになったのである。


 そして彼自身はといえば、米軍での戦歴と軍歴を買われ、特別幹部候補生として帝国陸軍への入隊を果たすこととなった。喩え「裏切り者の身内」ではあっても、特に当時編成、運用面で手探りの状態にあった帝国陸軍特殊作戦部隊にあって、生きた特殊作戦のノウハウとも言うべき彼の存在感は、決して小さなものではなかったに違いない―――――




 「――――まあ、君たちには縁遠い話だろうがな……」


と、竹中兵長は彼らしい一言で話を締めくくった。それにしても……


 「……竹中兵長は、どうしてそれを知っているのでありますか?」


 ぼくの問いに、竹中兵長は再び読みかけた法規書から頭を上げ、戸惑うように目を細めた。どうやらそれが、彼が返答に窮したときの癖であるようだった。一時考え込むような素振りを見せ、兵長は言った。


 「まああれだ……私は君たちの知らないような……知ってはいけないようなあらゆる情報に関われる立場だったからな。陸軍に関しても君たちよりそういう事に関しては詳しいつもりだ……」


 「…………」


 彼の言葉を聞いた瞬間、陸軍内に流れる、ある「黒い噂」の信憑性に思い当たったのはぼくだけではなかったはずだ……それはこういうことだ。「大東亜戦争」前後の時期に陸軍に国政を壟断された経緯から、内務省は戦後「民主化」体制護持の一環としてあらゆる形で陸軍部内に間諜を潜ませ、陸軍の動向を監視しているという――――味方が味方を監視するという話は、陸軍においては憲兵隊がつとに有名だが、それ以上に何かややこしく、ぼくらのような兵卒には近付きがたい様々なしがらみが存在しているらしかった。


 竹中兵長は言った。


 「……そんなことより、君らは今後の心配をしたほうがいいんじゃないのか?」


―――――確かに、前半の関門たる体力検定は、再来週にまで迫っていた。




 その翌週――――


 ロープ操作の舞台は、基地内から演習場の高所訓練所に移った。


 演習場に場を移したロープ教練で、学生に課せられる課題の中には、有名な断崖からの降下、登攀訓練の他、比高10メートル以上の高さで、地面とほぼ平行に張り巡らされたロープから両腕を離し、ロープに対する信頼を養うのと同時に胆力を鍛えるというものがある。俗にスタンドホールと呼ばれるこれはむしろ体力よりも度胸の有る無しを問われる課題と言える。思い切りがよければ成功し、そうでなければこれから先には進めない……実際、ロープ教程が進み、ロープの高さが次第に増していくにつれ、高所恐怖症を露わにした二名が脱落し、身体に故障を来たした一名がやはり脱落している。これから教練に臨むぼくらとて、肝心なところで失敗しクビを言い渡される可能性は十分にあった。


 「レンジャー中沢!」


 助教の声に、中沢兵長は意を決して進み出、ロープを掴む。そこから怒涛のごとき勢いのセーラー渡りで彼はロープの中程までに達する。中沢兵長が体勢を整えたところで、助教が再び声を張り上げる。


 「降下準備よぉーし!」と、中沢兵長が声を上げる。


 「降下用―――――意!……降下!」と、助教。


 「レンジャァ――――――っ!」


 叫んだ直後、中沢兵長は唐突なまでの勢いで何一つ無い空中に身を投げ出した。腰部に取り付けた命綱が張り、落下した彼の体躯を何度か放り上げるまで、一秒もかからなかった。


 「…………!」


 「……次、レンジャー鳴沢!」


 ぼくもまた、促されるがままにロープに飛び付き、手足を動かす。セーラーで中程まで渡りきるのは容易い。だが問題はここからだ。落下を躊躇したところで、人間は猿ではないからやはり負担に晒されている手や膝が長時間の逡巡に抗えるわけが無い。10メートルなんて、本当なら何とも無い高さであるはずなのに、いざその当事者となるとあたかも地上10000メートルの高空に身を置いているような感覚に襲われる。


 やがてぼくは行程の中ほどに達し、動きを止める。


 「降下準備よし!」


 そこまで言ってはっとするぼく。そこには、本当に準備ができているのかという自分に対する、止め処ない迷いに囚われるぼくがいた。


 「降下用―――――意!……」


 それでも、ロープを握る手に篭る力。


 思わず飲み込んでしまう唾。


 「降下!」


 「レンジャァァァァッ!」


 手を離した瞬間、ぼくの身体は重力の僕となり、奈落の底に放り投げられる――――


 いくら念じたところでいきなり身体が浮き、空を飛ぶことができるわけでもない、自分の意思で自らを支えるものから自らを解き放ったそのときに、ぼくの身体は直径にして五センチにも満たないナイロン製のロープの支配するところとなるわけだった。そして学生は、全ての支えを失って宙を舞い地上に降ろされるまでの僅かな、そして生涯で最も生命の危機に晒されるように思える間を、ただひたすらに耐えなければならないのだ。


 …………!?


 開放感と戦慄とが交互に支配する長い時間が過ぎたように思われた直後、伸び切ったロープは見事にぼくの身体を支え、そして何度も投げ上げた―――――そして気付いたときには下へ降ろされたぼくの足はゆっくりと地面を踏み、いまだ混乱から回復し切れていない三半規管が千鳥のような歩調を以て、助教に支えられたぼくの身体を歩かせる。


 開放感と安堵感で顔を高潮させ、駆け戻ってきたぼくに、下で待っていた中沢兵長は白い歯を見せて笑いかけた。


 「鳴沢一等兵どの、ご苦労様であります」


 「…………」


 からかうような、それでいて労うような口調に、ぼくは引き攣ったままの顔を微かに綻ばせる。一方で、今しがたにぼくが伝い始めたばかりのロープには、すでに門田軍曹が取り付いてセーラー渡りを始めていた。彼はといえば、いかにもこの筋の常連らしく顔色一つ変えずに、降下用意から実降下までを平然とやり遂げたものだが……


 「レンジャー杉山! 貴様何やってんだ! さっさと飛び降りねえか!」


 ……ロープの中程に達して二十秒あまり。それから震える身体をロープにしがみつかせたまま一向に降下準備完了を告げる素振りを見せない軍曹のバディに、苛立ちを見せたのは声を上げた助教だけではなかった。彼の後に未だ十数人が控えている上に、これから教程に臨む学生にとって、課題を前に怖気づいている人間の姿を間近にするのは、あまりいい気がしないはずだ。そして地上にいる彼らの焦燥は次の二通りの表現となって杉山二等主計にぶつけられることになる。


 「がんばれ! レンジャー杉山がんばれ!」


 「レンジャー杉山ぁ! この馬鹿野郎! はやく手を離せ!」


 誹謗と激励……交互に向けられる言葉に込められた期待に、線の細い二等主計はしがみついたロープのど真ん中で必死に耐えているかのようであった。教程表を睨む島谷助教が舌打ちし、二等主計の聞こえないところで、彼にとって最も絶望的な一言を口走る。


 「あいつはもうダメだ……失格と……」


 「待ってください。助教どの!」


 「あ……?」


 色を為し、確固とした歩調で進み出た門田軍曹を、島谷軍曹は訝るような視線で遇した。血相を欠いた彼の頭を下げ、あたかも血の通った身内を庇う様に哀願する様は、傍から見ていてあまりに痛々しい。


 「レンジャー杉山はかならずやります! 後生でありますからいま少し時間を下さい!」


 「レンジャー門田!」


 豹変したような、そして詰問するような口調。10メートル以上の高さに張り巡らせたロープに杉山二等主計を張り付かせたまま、助教は門田軍曹を怒鳴りつけた。


 「レンジャー杉山は貴様のバディである! そうだよな!?」


 「レンジャー!」


 「ならばレンジャー杉山の不手際は、貴様の不手際でもあるわけだ! そうだな!?」


 「レンジャー!」


 「ならばバディらしく、この状況を打開して見せろ! でないと貴様も原隊復帰だ!」


 「レンジャァーッ!」


 無茶苦茶だ!……と、その場の皆が絶句する間も無く、門田軍曹は一目散にロープへと駆け寄ると、杉山二等主計へ向かい彼自らもロープを渡り始めた。それも命綱もつけないままで……息を呑む地上を他所に、驚くような身のこなしで杉山二等主計へ近付くと、軍曹はロープの上で硬直したまま動かない二等主計に声を上げるのだった。


 「杉山! 俺の言うとおりにすれば大丈夫だ。俺に続けて声をだせぇ!」


 「レンジャァァァァ!」


 「降下準備よぉし!」と、門田軍曹。


 「…………」


 「どうした! お前それでも男か?」


 「……降下準備よぉし……!」


 震える喉を鞭打ったかのように、二等主計はかろうじて声には出してみたものの、彼の言葉と行動が釣り合っていないことは、怖気づいた尺取虫のように上へ曲がった彼の腰が雄弁に物語っている。それを見逃さず、軍曹は自らも不安定な位置からなおも声を張り上げるのだった。


 「声が小せぇ! 腰を落としてもう一度ぉ!」


 「レ……レンジャー!」


 軍曹に言われるがまま、二等主計は腰を落とした。だがそれがいけなかった。腰を落としロープに密着させた途端に、杉山二等主計はバランスを崩し、ロープの上で裏返ってしまったのだ。これではまるでモンキー渡りどころか、未開人に捕らえられた野豚……


 「ヒ……!」


 「情けねえ声出すんじゃねえ! 大丈夫、俺が付いてる! 俺がついてるぞ!」


 「……降下準備よぉーし!」


 ぶら下がった状態からも、辛うじて二等主計が復唱した直後、島谷助教は冷酷なまでのタイミングで声を上げた。


 「降下よぉーい……降下!」


 「杉山降りろぉ――――!」


 「レンジャァ――――――!」


 解き放たれた手足。中に投げ出される五体……ピンと張った命綱は見事に二等主計の身体を支え、中空へと投げ出した。誰もが教程の成功を確信しかけたそのとき――――――


 「レンジャー門田ぁ!」


 ロープは宙に飛び出した者を助けても、なおもそこにしがみつき続ける者のことを斟酌してくれるほどの寛容さを持ってはいなかった。杉山二等主計一人を支えた反動で、ロープは門田軍曹を烈しい振動を以て拒絶し、命綱を持たない軍曹を放り投げてしまったのだ。ぼくらの見ている前で投げ出された軍曹は十メートルも下の地面に、ボディスラムを食らったプロレスラーよろしく上体から派手に叩き付けられた。あまりのことにロープを解くことも考えられずに呆然とする杉山二等主計、そして絶句する皆の前でそのまま動かなくなった軍曹のもとに、血相を欠いた助教が駆け寄っていく。


 「レンジャー門田、門田!? しっかりしろ!」


 「おい、だれか衛生兵呼んで来い! 早くしろ!」




 「…………」


 ぼくと中沢兵長は言葉を失い、そして顔を見合わせた。死者のように生気の抜けた、そして蒼白な兵長の顔。対する中沢兵長もまた、そんなぼくの顔を見ているのに違いなかった―――――






 門田軍曹の無事を、ぼくらは急遽訓練を切り上げて待機を命ぜられた隊舎で聞いた。


 「―――――門田軍曹は現在仙台陸軍病院に入院。生命に別状は無い」


 「あのう……教程復帰は……」


 「それは……わからん。挺身兵課程においては傷病からの教程復帰は当人の意思に任される」


 その夜、門田軍曹の無事と教程復帰の微妙なることを告げた助教の言葉に、心身ともに打ちのめされた杉山二等主計は、やはり悄然と私物を纏め身繕いを始めた。


 「ど……どうしたんだよお前?」


 慌てて引き止めにかかる木村上等兵。二等主計が曇った眼差しを向けたのは、彼に対してだけではなかった。


 「自分……もう辞めます。軍曹をはじめ、これ以上みんなに迷惑かけられないし……」


 「ああ、そうした方がいいだろうさ……というかそうするべきだ」と、やはり日記を書く手を止め、竹中兵長が言った。木村上等兵はといえば、苦りきった目で彼の無感動なバディを見ているしかない。


 「相変わらず冷てえなあ……あんた」


 「冷たいも何も、合理的な判断だと私は考えたまでだ。何なら君だって、今すぐにでも抜けてもらっていいんだぞ?」


 二人の遣り取りを他所に身辺整理を続ける二等主計に、ぼくは聞いた。


 「杉山二等主計どのは、それでいいのでありますか?」


 「…………」


 「……軍曹の負傷を、ひょっとして挺身兵課程を抜ける口実にしちゃあ、軍曹に悪いじゃないですか……」


 「それは……」


 二等主計は口ごもった。ぼくもまた、取り繕うように言う。


 「……杉山二等主計が辞めること、軍曹も望んでないんじゃないかと自分は思っただけで……本当の所はわかんないけど」


 「…………」


 荷物を纏める手を止め、寝台の傍に立ち尽くすままの二等主計。募る贖罪と後悔の相克の末、内心の煩悶の末に喉元まで出掛かった何かを訴えるかけようと彼がぼくを顧み、実際に何かを言おうとしたそのとき―――――


 「あ……!」


 寝台から軽い声を上げた中沢兵長。直後のその場の全員の視線が部屋の入口に集中し、ありえない人影を捉えたのもほぼ同時だった。


 「門田軍曹!?」


 呼びかけには応じず、門田軍曹は片足を引き摺りながら杉山二等主計の元へと歩み寄った。そして片方の腫れた彼の両目が今まさに私物を収めたばかりの将校行李を捉えるや、反射的に伸びた拳が有無も言わす暇もなく二等主計の頬を打ち、軍曹より頭一つ背の高い彼を昏倒させ、皆を驚愕させた。


 「杉山! てめえ何やってんだ!?」


 「門田軍曹……?」


 殴られた頬の赤みも生々しく、愕然として自身のバディを見上げる二等主計の襟を引っつかみ、軍曹は自分の目の高さまでに引き摺り上げた。


 「杉山……おれと約束したはずだ。何が何でも一緒に挺身章貰って此処を出るってな」


 「…………」


 「おれはもう後が無いんだ。お前だってそうだろう?」


 「はい……!」


 「じゃあ死んでも最後まで付いていくしかないだろうが……!」


 「はい……申し訳ありません軍曹!」


 震える声で頷く二等主計。その目に溢れる涙。


 そして二人の様子を伺うその場のぼくらもまた、目に湿っぽい何かを宿していた。






 挺身兵課程の前半も、終わりが近付いてきた。


 第一関門、または前半五週間の最終試験――――さらに言い換えれば、後半の野外教程、そして挺身兵課程の締め括りたる最終想定へ通じる関門――――それは、小銃装備に帯剣した状態での長距離走である。具体的には、学生が今後の野外教程に進むには、仙台市郊外の王城寺演習場内に設定された全行程16キロメートルの、しかも起伏に烈しく途上に各種の障害物の設けられた走路を、二時間以内に走破しなければならない……それも前述したとおり、控え銃の状態で……


 関門当日、早朝、起床ラッパがなるずっと前にぼくらは非常呼集で起こされ、そのままトラックに便乗、一路試験会場とでも言うべき演習場へ向かう。


 先週のロープ教練で落下した拍子に足を挫き、今なお足に違和感を残していた門田軍曹は、未だに引き摺りがちな足に痛み止めの注射を打ってまで最終試験に参加した。島谷助教は特例として彼に限り試験の延期を勧めたが、彼はそれに対し頑として首を縦に振らなかったのだ……ぼくは思う、どうして神様は、最も頑張っている彼にかくのごとき試練をお与えになるのだろう? 事実彼自身の責任というより、バディの不手際やその他の外的な要因による負傷が、これまで彼に対し挺身章への途を閉ざしていたのだった。


 「もし明日、軍曹に何かあったら助けてやろう」


 「そうですね……担いででも引き摺ってでも、ゴールさせましょうよ」


 試験が始まる前日、ぼくと中沢兵長は固い約束を交わした。言い出しっぺは中沢兵長だ。




 そして……試験が始まった。ときに0900、午前九時。


 両手にずっしりと重い64式小銃を握り、ぼくらは一斉に走り出す。


 遠方から時折砲声の轟く荒涼とした演習場の交通路は上下にうねり、見通しは決してよくない。見通しが悪いということはすなわち、ゴールを求める学生に教程に対する無用の不安を与えるものだ。それでも学生の中間集団にくっついて駆ける内、順調に刻まれ続ける呼吸に、ぼくは内心で安堵と自信を覚える。これまでの鍛錬の成果か、体力に余裕の生まれているのをぼくは自覚する……この分なら、大丈夫。


 小山のように大きな上り坂と下り坂を何度か越え、それに倍する数の小さな傾斜を上り下りするうち、走りを紡ぐ脚からじりじりと力の失われていくのをぼくは覚える。飛ばしすぎたかなあ……と思い、その一方でまだ行程の半分も進んでいないことに内心で愕然とする。体力の配分を間違えたのか……?


 垂れ下ろされたロープを昇り降りし、路上に幾重にも張り巡らされたワイヤーを匍匐で潜り、ヌリカベのように垂直にそそり立つ障害物を昇り降り……長距離走は脚力だけではなく、全身の体力をも使う課題である。もはや自分のものとは思えないほど力の入らない手足に力を入れ、満身の力を込めて障害を突破し、悪路を駆け抜けるぼくら……行程の三分の二にあたる此処まで来て、姿の見えない門田軍曹のペアのことに気付き、ぼくと中沢兵長は同時に背後を振り返る―――――


 「…………!」


 最初の障害物の頂上に達したものの、いまだそれを越えきれずに苦渋する門田軍曹。それでも必死で食いつこうとする彼の身体を、これまでとは逆に杉山一等主計が必死で押し上げようともがいている。このままでは……


 考えるまでも無く、ぼくらをほぼ同時にもと来た途を再び駆け出した。それを見咎めた助教が声を上げた。


「貴様ら何やってるんだ。時間がなくなるだろうが!」


それでもぼくらは走り、最初の障害物まで駆け戻る。驚きのあまり声を上げようとする二等主計。ぼくらは有無も言わさず障害を上り、中沢兵長が二等主計と一緒に門田軍曹の足を支え、ぼくは障害物を駆け上り、その頂上から彼を向こう側から引き摺るように引っ張った。


 「…………!」


 「走れるか?」と中沢兵長が二等主計に言った。


 「ハイッ!」


 ぼくは軍曹の銃を取り肩に担いだ。そして中沢兵長と共に両脇から軍曹を支える。


 「足、大丈夫ですか?」


 「大丈夫……!」と、唸るような軍曹の声。


 軍曹の両肩を支え、ぼくらは再び走り出した。軍曹の身体の重み、噎せる様な汗と土の入り混じった匂い。走る最中にも中沢兵長は背後を顧み、必死で追及する杉山二等主計に檄を飛ばし続ける。


 「ダラダラ走るな! 頑張れ!」


 ハァ……ハァ……ハァ……


 圧し掛かる疲労に刻々と迫る時間。それらに苛まれながら走るうち、一切の感覚が疲労しきった体から消えていくように思える―――――そしてそれが完全に消えたとき、ぼくは走る力を失ってその場に倒れ込み、そのまま動かなくなるのだろう。それが嫌なら、意思の力を振り絞ってひたすらに走るしかない。


 そうして元来た障害を再び超え、走り続けるうち、後続する杉山二等主計が遅れ出した。息を切らし、目に見えてペースの落ちだす二等主計。だが彼を窮地から救ったのはぼくらと同じように元来た途を戻って来たもう一組のペアだった。


 「…………!?」


 驚く二等主計を他所に、黙って片腕を掴む木村上等兵。遅れてやってきた竹中兵長が二等主計の銃を取り自分の肩に担いだ。


 「ボサっとするな。急げ!」と、竹中兵長。歩速が上がり、先着した学生が待つゴールはすでに視界内。そのゴールからは学生たちが盛んにこちらへ手を振り、声を上げている。


 「急げぇ―――――時間がないぞぉー!」


 「早く! 早く来い!」


 圧し掛かる疲労感に身体を揺らし、息を詰まらせながら、ゴールに辿りつければ死んでもいいとすらぼくは思った。おそらくはこの場の皆も同じだろう。文字通り死ぬ気でぼくらは突き進み、そして―――――ゴールを潜った。遅れて到着した竹中兵長たちにいたっては、当直時間がスタートから一時間59分59秒という際どさであった。


 「この大馬鹿!」と、ゴールに滑り込みその場に仲良く倒れ込むや、息も絶え絶えに竹中兵長が木村上等兵を怒鳴りつける。


 「ハァ……ハァ……貴様が勝手に戻ったせいでこの様だ。脱落でもしたら私の立場はどうなるんだ!?」


 「ヒィ……フゥ……そんときゃまた志願すりゃあいいさ。俺と仲良くな!」と、紅潮した顔もそのままに木村上等兵が混ぜ返す。そして不貞腐れたように、竹中兵長はその場で寝返りを打ち叫んだ。


 「金輪際、お前なんかと組むもんか!」


 疲労に抗いかね、地べたに仰向けになったまま肩で息をするぼくに、中沢兵長が息も荒く歩み寄る。


 「大丈夫か? 鳴沢一等兵」


 「…………」


 「少なくとも、生きてるようだな……よかった」


 そして、ぼくの傍らに座り込んだ。


 「教程は全員合格だそうだ。よかった……」


 「…………」


 思わず漏れる安堵の息。何処からか泣き声が聞こえる。それは振動となって地面を伝い、ぼくは付かれきった全身でそれを聞く。その源は、半死半生の上体の門田軍曹を抱き起こし、彼の胸で外聞も無く泣き続ける杉山二等主計の声。その彼を、門田軍曹は二等主計の腕に体を委ねたまま、涙目もそのままに黙って笑っていた。


 中沢兵長はさらに言った。


 「午後から慰労会だそうだ。久しぶりで旨い酒が飲めるぞ」


 冗談めかした一言に、ぼくは思わず笑った。あたかも、これまで笑うことそのものを忘れていたかのように――――――


 ぼくらにとっての挺身兵課程は、その瞬間に折り返しに差し掛かった。


 そしてぼくらが、それをどうにか折り返すことに成功したのを自覚するまでに、なお暫くの時間が必要だった。



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