その三 「バディ――――相棒」
帝国陸軍挺身兵訓練課程は約10週、その内容は前段の体力向上訓練及び技術訓練と、後段の実践教程たる「想定」の二つから成る。
前段の体力向上訓練とは、以後の「想定」に要する基礎体力を養うための身体練成のことだ。その真意は、体力向上運動という、凡そ体操や肉体鍛錬といった表現から程遠い「しごき」を数週間に渡って課し、その真意は以後の訓練と「想定」に必要な体力と精神力を培うことに集約される。事実、挺身兵課程では志願者の実に3~4割がこの体力向上訓練の段階で脱落すると言い切っても過言ではなく。見方を変えれば前段の体力向上訓練は体力、精神面で挺身兵たるに不適格な者を篩い落とす役割をも持っているわけで、いわば教官、助教たちにとっては「雑草抜き」の作業なのであった。
アスファルトを敷いた連隊基地の交通路に、規則正しい軍靴の音が響き渡る。
訓練はあの衝撃的な教官訓示の直後から始まった。体力向上訓練で最も有名で、最も過酷な駆け足だ。それは挺身兵隊旗を持つ学生長を先頭に、教官が終了を告げるまで学生は交通路から練兵場に至るまで基地の敷地内をただひたすらに走り続けるのだ。足で稼ぐ職業たる兵隊。その最たるものが挺身兵である。
「――――ばんだぁーのさくらーはえりーのいろぉー!」
駆け足を続ける学生に併走し、別名「009(ゼロゼロナイン)」こと先任助教の島谷軍曹の掛け声が響き渡る。いわば学生の士気を鼓舞し、あるいは更なる苦境に追い込むための、それは誘い水だった。
「ばんだぁーのさくらーはえりーのいろぉ―――――!!」
駆け足に身体を揺らし、詰まりがちな息も絶え絶えに、学生たちは声を張り上げる。その瞬間だけ身体に力が入り、歩調は勢いを増す。それが学生たちに一瞬の間だけ現況の苦痛を忘れさせると同時に、知らず更なる疲労へと追い込んでいく。
駆け足が始まってすでに一時間は過ぎただろうか。もう何度外周を回り、練兵場を駆け回ったのかぼくにはすでにわからなくなっていた。継続される疾走がぼくから徐々に体力と酸素を奪い、肺はもとより脳みそから失われつつある酸素は、ぼくから知らず思考力を奪っていく。
「はぁーなはよしぃーのにあらーしふくぅー!」
「はぁーなはよしぃーのにあらーしふくぅ―――――!!」
そんな中でも意外だったのは、志願したとはいえその段階である程度の選別を経ているはずの学生に、この段階で駆け足についていけていない者がいたことだ。そうしたペースを乱し、隊列から零れ落ちる学生を助教たちは見逃さない。隊列後方から距離を置いて追走している彼らがそうした学生を目敏く見つけては全力疾走で追求し、般若のような顔もそのままに罵声を振り上げその尻を蹴飛ばすのである。
「コラー、レンジャー○○、テメー何やってんだ!」
「レンジャー○×! チンタラ走ってんじゃねえぞ!」
挺身兵訓練課程のいい点をたった一つだけ挙げるとすれば、志願を経て課程に身を投じた挺身兵学生に階級は無い、ということだ。例え下っ端の二等兵だろうが幹部学校出たての新品少尉だろうが、一度挺身兵課程の門を潜れば学生は全て「レンジャー○○」として分け隔てなく、平等に虫ケラ扱いされる。言い換えれば一般兵科では「班長」「カミサマ」とか呼ばれて初年兵古参兵分け隔てなくチヤホヤされる中古下士官でも、一旦挺身兵学生になれば場合によっては自分より階級もメンコの数も少ない助教に怒鳴られ、蹴飛ばされることになるのである。そして学生は、この教育課程に身を置く間、下手をすれば自分より階級も年齢も下のこれら教官助教を文字通り神と仰がねばならない。
そういう意味では、ぼくのすぐ前を走る猪首の軍曹は稀有な存在と言えるかもしれない。門田軍曹というこの中年の下士官が、過去に六度も挺身兵訓練課程に脱落し、今回で七度目の挑戦を迎えようとしていることを後に知った日には……!
一方……
疾走に身を置き、そのまま時を過ごす中でも、それについていけている自分自身に、意外さを覚えているぼくがいた。
「やまとぉーおのこぉーとうまーれぇーてはー!」
「やまとぉーおのこぉーとうまーれぇーてはぁ――――!!」
躍動する視界の先に見える挺身兵隊旗、それを持つ学生長の後姿は駆け足を始めて以来まったくに変わっていなかった。要するに、これほどに駆け足を続けていてもぼくは少しも息を切らすことなく駆け足を続けていたことになる。去年のぼくの身体は、はたしてこれほどの疾走に耐えられていただろうか? それを考えると……
ああ……有難い―――――
……って、ぼくは誰に感謝すればいいのだろう?
……それを思い、ぼくは再び暗然とする。
前任地の、徒手格闘部におけるあのつらく厳しい経験は、そういう意味では無駄ではなかったようだ。武道場でぼくを此処へ追い遣った張本人に蹴りや突きを喰らい、頭や腹を踏みつけられ、頭ごなしに罵声を浴びせられた日々……まるでSMプレイのような日々によって作られた身体は、今こうしてぼくを辛い疾走に耐えさせている。
――――そこに、島谷助教の号令。
「さんぺぇーいせんのぉーはなぁーとぉちれぇー!」
「さんぺぇーいせんのぉーはなぁーとぉちれぇ――――!」
「総員駆け足ぃっ!」
号令転じ、突発的な命令は絶対だった。隊列は一気にその速度を上げ、全身の酸素が一気に肺へ、そして力の入らない脚へと向かうのを感じる。切れる息に薄れ掛ける記憶―――――全力疾走の状態は誰かが息を切らし地面に倒れ込むまで続く。倒れ込み、動けなくなった者に待つのは、すなわち――――――
「○△上等兵、貴様は脱落だ。私物を纏めて隊舎を去れ……!」
走れなくなった彼がレンジャーの名を冠せられた時間は、わずか二時間で終わった。
そして――――
風に乗って流れてくる非情な宣告を、汗に染まった野戦服の背中に聞きながら、ぼくらの疾走は終わる―――――
それが、この先一ヶ月近くに渡って続く―――――
駆け足を経てもなお、ぼくらの苦難は続いた。
「総員腕立て伏せ! 本官がいいと言うまでだ!」
小倉の基本訓練課程時代以来の、理不尽とも思える命令。だがあの頃と現在とでは重みが違う。小倉時代は出来なければへたばり、班長に蹴られるだけだったが、挺身兵課程では出来なければそれこそ「ジ‐エンド」である。当然、駆け足が終わって未だ息も整っていない状態であるから、苦痛もまた格別だ。期せずして各所で上がる呻き声、そしてドサっと何かが地面に落ちる音。直後に落ちる助教たちの雷・・・・肩で息する学生を跨ぎ、上から延びた助教の腕は彼の背中を掴み上げ、そして容赦なく引き摺り、無理やりに姿勢を取らせようとする。またある助教は力尽き果て、冷たい地面に倒れ込んだ学生の脇腹を容赦なく蹴り上げ、地獄の鬼のような罵声を浴びせ掛ける。
「レンジャー●×! 誰が休んでいいと言った!? 続けねえかこのカス!」
「レンジャー△! 腕が曲がってねえぞ! そんな腕立てがあるか!?」
「レンジャー○■! 辞めちまえ! クズは此処から消えろ!」
「全員が完遂するまで、終わりはない……!」
助教もまた、かつては学生であった。だから学生が如何に苦しい状況に追い込まれているかを知っている。だがそれは決して同情ではない。言い換えればそれは学生の心身が耐えられるスレスレの限界を知っているということだ。訓練の中で精強な挺身兵たる素質を持つ者を選別し、鍛え上げる彼らの責務の中で、手加減という選択肢など彼らの脳裏にははなから無いのである。
ハァッ……ハァッ……ハァッ!
一方、息が上がっているのにもかかわらず、黙々と腕立て伏せを続けられることに対する驚きなど感じる間もないままぼくは頭を上げ、さりげなく周囲を見回した。
「…………」
だいぶ力の抜けかけた腕に、必死で力を込めながら頭を上げた途端、ぼくは集合の際、隣に立っていたあの若い兵長が黙々と腕立て伏せを続けたままこちらを伺っていることに気付く。視線が合うと、彼は苦渋交じりながらも会釈してきた。それに対しぼくも、苦しげな会釈で応じる。どうやら悪い人ではなさそうだ。それからさらにぼくの視線は巡り、同じように黙々と腕立て伏せを続ける一人の男で留まった。
「…………?」
ひ弱な男だった。体躯は辛うじて人並み、丸眼鏡におよそ軍人とは思えない線の細い容貌。襟に生える中尉の階級章……目に見えるそれらゆえに、彼は屈強な男が集まっているはずのこの場から明らかに浮いていた。腕立て伏せを続けている彼の蒼白な顔、それを為さしめているのがもはや彼の肉体の能力の為せる業ではなく、彼の強靭な意志の力にあることは、もはや誰の目にも明らかだった。一体何が、この青年をして挺身兵たらしめんと志操したのだろう?
「レンジャー鳴沢! 何余所見してやがる!」
いつの間にかぼくの傍らに立っていた助教が罵声を浴びせかけた。
「申し訳ありません! 教官殿!」
「申し訳ありませんじゃねえ! レンジャーだろうがこのボケェ!」
「レッレンジャァ――――ッ!」
ついでに言うと、挺身兵に「はい」「いいえ」は存在しない。この教育課程に一旦足を踏み入れたが最後、何を言われ、命令されようが「レンジャー!」なのである。つまりは、どんな無理難題を吹っかけられても「できません」なんて言葉もまた、有り得ないのだ。二ヵ月半に渡り否定され、取り上げられる一切の人格と人間性……それを課程の途中で返してもらうか、それとも課程を完全に修了して返してもらうかもまた、人それぞれである。
―――――その日、ぼくらは日が暮れるまで拷問もどきの体力向上運動に終始し、その時点でさらに三人が脱落した。
方々の体で戻ることを許された学生兵舎。そこでぼくは、外聞も立場も忘れ割り当てられた寝台へと飛び込む。
柔らかい、だが湿っぽい寝台から辺りを確認しようと視線を動かしたとき、ぼくは隣の寝台の主があの兵長であることに改めて驚いた。目を見開き彼を見詰めるぼくに対し、彼はといえばベッドの傍らに立ったまま、興味の篭った涼しげな視線をぼくに注いでいた。
「…………!」
内務班で培った――――というより、すっかり骨身に染み付いた反射神経の赴くまま、ぼくはバネのように寝台から立ち上がり、彼に敬礼する。よくよく考えてみれば、ぼくと同室の学生に、ぼくより階級の低い人間など皆無だったのだ。
「第四連隊第二中隊所属の、鳴沢一等兵であります!」
背を正し、声を張り上げたぼくに、兵長は相好を崩してクスリと笑った。
「何だ……未だそんな元気があったのか?」
彼の名は、中沢兵長といった。同じ仙台駐屯の第29連隊の人だった。連隊では、内務班長の補佐をしていたようだ。
「お前、面白いやつだなあ」
と、中沢兵長は言った。文句を付けるのでなければ嫌味を言うでもない。ただ心からの純粋な興味の赴くままに、彼はぼくに目を細めていた。
「上官に志願させられたんだって……?」
「……はい」
頬を赤らめ頷くぼくに、兵長は苦笑する。
「お前、その分じゃ古参兵に目を付けられてるクチみたいだなあ。まあ、俺もそうだったが……」
「いや……それ程でも……」
「……軍隊に入る前は、何をやってたんだ?」
「学生です……」
中沢兵長は目をパチクリさせた。大学生という言葉はあえて使わず、ただ学生と口走っただけでも、中沢兵長にはぼくの素性がすぐに判ったようだった。
「へえ……近頃は大学生でも徴兵されて、しかも挺身兵課程に放り込まれるご時世なのか?」
「そうみたいです」
「フウン……上官には、よほど目をかけられているみたいだな」
「…………」
陶 大尉の高慢稚気な顔を思い出し、ぼくは沈黙した。それに気付き、中沢兵長はまたクスリと笑う。
「ひょっとして、あの二等主計殿のように女も絡んでいるのか?」
「…………!」
愕然としてぼくは頭を上げて兵長を見詰め、そして兵長の指し示す方向へと視線を転じる。彼の指先では、あの眼鏡をかけた線の細い中尉さんが、馴れない手付きで寝台のシーツを延ばしていた。
「あの中尉殿ですか……?」
「あれは中尉じゃない。二等主計だ」
「…………?」
「主計」とは、陸軍士官学校卒業の後、陸軍経理学校を経て後方勤務の担当官となった士官のことだ。陸軍中尉に相当する二等主計は、後方勤務における出世コースのスタートラインとも言える。その立ち位置は軍人と防衛省職員のほぼ中間……つまりは兵科士官ではない眼鏡の彼は、本来此処にいるはずの無い人間ということでもあるわけだ。
……では、その彼が何故ここにいるのだろう?
それに兵長が答えようとしたそのとき―――――
「貴様らやかましいぞ! こういうときこそ、身体を休めておくもんだ」
罵声を投げ掛けられ、ぼくらは一斉に、反射的にその主を顧みた。同じく初日を切り抜けたあの短躯の軍曹が、寝台に身を横たえながら鬼のように厳しい視線をぼくら二人に向けていた。
中沢兵長は苦笑し、声を潜めた。
「……さすが、経験者の言うことは違うな」
そのときにぼくは、兵長の口から今回で七度目の挺身兵課程挑戦という、あの軍曹の驚愕すべき素性を知ったのだった。
そしてもう二人、ぼくは奇異な人影を同室の中に見出した。
中沢兵長と同じく、ぼくの隣に位置する寝台に寝そべり、なにやら熱心に書き物をしている一人の兵士。階級は同じく兵長だったが、年季を感じさせない若々しいその風貌と相俟って言いようの無い違和感にぼくは囚われた。先程の二等主計と同じく彼もまた眼鏡だったが、それは立派な銀縁だった。その下に隠れた端正な顔、一片の無駄も無い引き締まった長身。実直そのものを絵に書いたような容貌には、ぼくには何となく見覚えがあった。例えて言えば……そう、それはお役所そのものといった感じの謹厳さだ。
そのとき――――
「竹中さん……野村教官がお呼びです」
「はい」
唐突にドアを開けた助教の、改まった口調で為された呼びかけに、彼は書き物を止めて寝台から降りた。それだけでも伺い知ることのできる挙動の隙の無さと、部内における彼の特別扱いに注意を引かれたのは、ぼくだけではなかったはずだ。
兵長の後姿を見送りながら、中沢兵長は言った。
「ここでこそ兵長だが、娑婆じゃああの若さで立派な警部さんさ」
「軍人じゃないんですか?」
「東京帝大卒のキャリア官僚だよ……内務省のね」
「内務省の人が、どうしてここにいるんだろう……?」
「何でも……対過激派の特別部隊創設に関する研究で中央から出向してきたらしい……それ以上のことは俺も知らない」
「…………」
ぼくは主を失い、がら空きになった竹中兵長の寝台へ視線を転じた。そのまた隣の寝台では、一人の兵士が無粋に身を投げ出した状態のまま高鼾をかいていた。階級は……上等兵。
「木村上等兵だよ。俺の同年兵だ」
と、中沢兵長は言った。中沢兵長に比べ締りに乏しい顔。人並み以上に太い眉毛と顔の下半分を覆う濃い無精髭が、締りの悪さを一層に際立たせていた。
「竹中兵長がお巡りなら、こいつは元泥棒さ」
「泥棒……!?」
「……何でも、刑務所から出所したてでいきなりホット-ペッパーを食らったんだと。運の悪さじゃ鳴沢以上かもな。その前歴のお陰で兵隊屋敷の飯を食って五年だというのに未だ上等兵だ。だが……いいやつだよ。」
「へぇ……」
ふと、中沢兵長は話題を転じた。
「鳴沢とバディを組めればいいな」
「バディ……?」
「何だ? バディも知らずに挺身兵課程に入ったのか?」
力なく頷くぼくに、中沢兵長は教えてくれた。
バディとは、起床から就寝まで挺身兵訓練課程中の生活と責任を共にする、いわば相棒のことだ。一度バディが決まれば、二人はこの十週間前後に及ぶ訓練課程の大部分を共に走り、共に撃ち、共に飲食いし、共に罰直を受けることになる。その選別に個性とか相性とかいったものは微塵も斟酌されず、ただ機械的なまでの任意で二人は引き合わされ、共に訓練を受けることになるのだった。教官たちや経験者曰く、当初はどんなに相性が悪く、しっくり来ないバディでも、何度も共に過酷な想定を乗り越え、訓練の大部分を修了する頃になれば実の兄弟以上の親密さと阿吽の呼吸で結ばれるものだそうだ。
「バディ……組めれば、いいですね」
兵長の説明に、何時しか相槌を打つぼくがいた。
こうして、挺身兵訓練課程の第1日目は過ぎていく――――
訓練が始まって一週間目―――――
「……ばんだぁのさくらはぁえりのいろぉ―――――っ!」
その日も例のごとく、「009(ゼロゼロナイン)」こと島谷軍曹の蛮声が営庭に響き渡る―――――
「―――ばんだぁのさくらはぁえりのいろぉ―――――っ!!」
外見からは山谷や西成あたりにいそうな不機嫌そうなニイチャンという印象を与える島谷軍曹、その実気も荒く、何においても二言目には「やめちまえ」とか「このクズ野郎」といった暴言が彼の大きな口からはお決まりのように飛び出してくる。そして彼の暴言癖にここまでの「雑草抜き」を乗り切ったぼくらはすでに馴れた。
「009(ゼロゼロナイン)」という島谷軍曹の綽名には、ちゃんとした由来があることをぼくはこの頃に知った。決してマンガのサイボーグ009のように足が速いとかハンサムだからというわけではなく、その由来は実のところかなり微笑ましい(!?)。
一般志願兵として彼が草深い田舎から入営したての頃、人並みな例にも漏れず、彼は兵営で最初の外出を迎えた。外出した彼の足はそのまま某市場末の赤線地帯に向き、彼はなけなしの2000円(たかが2000円という勿れ、この当時、赤線では2000円で女が三人抱けた。)を握りしめ、自身を20年にわたり苛んできた童貞に別れを告げるべく、若き日の軍曹は置屋の薄いドアを叩いたのだ。成り行きとして、初心な彼はやり手婆に勧められるがまま宛がわれたお姉さんを相手に、四畳半の個汚い部屋で童貞を散らし、この時点で彼は目的を達したわけだ。此処で終わっておけば、島谷軍曹にとってこの一件は青春時代の微笑ましいエピソードとして、誰にも知られること無くずうっと彼の胸の、もっともピュアな部分に仕舞われるばかりであったろう……だが、話は此処では終わらなかった。
むしろチェリーボーイを卒業したことにより、箍の外れた彼の旺盛な(異常な?)性欲は一回のプレイでは決して満足しなかったのだ。当初は1プレイのはずが、本能のまま彼は赤線のお姉さん相手に突撃と散華を繰り返し、気付いたときにはプレイは9回になっていた。ことの気まずさに今更のように思い当たり、煎餅布団を出て慌てて身繕いをする彼に、「キリがいいからもう一回してはどうか?」と言った赤線のお姉さんに、彼は真顔でこう言い返したという。
「ばか! 陸軍軍人はそんなに助平ではない!」
これが後におしゃべりな商売女たちの口を通じ、馴染みの古参兵や下士官にまで伝わったから堪らない。期せずして彼には「009(ゼロゼロナイン)」という栄光の称号が与えられ、以後兵卒時代の島谷軍曹は何かにつけそれをダシに古参兵にからかわれ、絞られることになったのだった。
「……はぁなはよぉしのにあらしぃふくぅ―――――っ!」
「―――はぁなはよぉしのにあらしぃふくぅ―――――っ!!」
隊列を見張りながら駆け足を続け、掛け声を飛ばす助教の横で、ぼくを含めた隊列は一週間の内にだいぶ様変わりしていた。脱落者が相次ぎ隊列がすっかりコンパクトになっていることもそうだが、もう一つ顕著な変化を挙げれば、駆け足だけではなくその他の体力向上運動に、ぼくらは小銃を伴わねばならなくなっている。駆け足では帝国陸軍歩兵の頼れる相棒(微妙)とでも言うべき64式小銃をハイポート―――控え銃―――の姿勢で構え、その重みに耐えながら走らねばならない。それも連日平均10キロ前後の距離を……!
まったく、陸上部の合宿じゃああるまいし……
同じく64式小銃を肩に掛け、島谷軍曹の掛け声はなお盛ん―――――この任務に、誇り飛び越え一種の快感すら覚えているようにぼくには思われた。ぼくのようなごく普通の人間にとっては、彼の根性に対する感嘆の念以上に、正気の程が疑われて仕方がないように感じられてしまう。
「……やぁまぁとぉおのーこぉとうまぁーれぇてはぁ―――――っ!」
「――――やぁまぁとぉおのーこぉとうまぁーれぇてはぁ―――――っ!!」
周囲に気を配りたくとも、疲労と窒息感がぼくからそのための判断力を奪っている。ともすれば地面に倒れ、そのまま脱落したい誘惑が頭をもたげては疾走の奔流に押し流されていく。意に反し交互に歩を踏み出す足。その先端からはもはや感覚が消え、もはや何時途切れるとも知れぬ惰性に任せて息を次ぎ、走りに身を任せている自分にぼくは気付く。
廻る思考――――
――――このままじゃ死ぬ……いつか絶対に死ぬ。
――――こんなことが、本当に挺身兵に必要な「技術」なのだろうか?
――――教官たちは、ぼくらに一体何をやらせたいのだろう?
思考の途中で、そんなぼくの意識はすぐさま過酷な現実に引き戻される――――
「コラ! 貴様辞めるのか!? 挺身兵辞めるのか!?」
ああ……またあの二等主計だ。
ここ数日隊列から遅れ、隊列を乱している誰かの顔を、もはや振り返らなくとも全員が知っている。彼よりも遥かに屈強で、頑健であるはずの男たちの脱落を他所に、杉山二等主計はなおも挺身兵学生の隊列の端に必死で噛り付いていた。彼に対する賞賛の念と同じく頭をもたげてくるのは、その細身一つで地獄へと飛び込み、必死で訓練の進行に食らいつく彼に対する同情の念。
「辞めません……!」
「辞めませんじゃねえ! レンジャーだろうがコラぁー!」
「レ……レンジャァァァ!」
そこに、島谷軍曹の号令――――
「……さぁんぺぃせんのぉーはなぁーとちれぇ―――――っ!
「―――さぁんぺぃせんのぉーはなぁーとちれぇ―――――っ!!」
「総員駆け足!」
毎度お決まりの無情な宣告は、ぼくらを一層の絶望に追い込むと共に、ぼくらと二等主計の距離を一層に開いていく――――
――――ぼくらの受難はなおも続く。何故ならそれが、ぼくらのあるべき日常だからだ。
乾燥重量4.4㎏の64式小銃を、手を延ばし頭上に掲げての「生存者」―――――例によって終わりを知らされないままそれは始まり、ぼくらの腰と膝を地獄のどん底に叩き込む。数分も満たずしてへたり込み、動くこと適わなくなった学生を、見張っていた助教が背後から蹴りつけ、襟を引き摺って元の姿勢を取らせる……といった構図だ。それが教官がいいと言うまで延々と続く。
「コラァ! 誰がケツ沈めて座っていいと言った!?」
「立てコラ! この木偶の棒が!」
歯を食いしばって身体を支え続ける者、尻を上げたまま、いくら助教が蹴ろうが怒鳴ろうが微動だにしない者。絶叫を上げ、助教の豪腕に抗う者……ぼくらを取り巻いていたのは、まさに肉体と精神の無間地獄だった。ぼくもまた、痙攣と共に足腰から抜け行く力を必死で手繰り寄せようとして姿勢を崩し、そこを教官に蹴り飛ばされては必死で体勢を立て直し「生存者」を続ける。
そのぼくの隣では、中沢兵長が空を仰ぎながら黙々と「生存者」を続けていた。額やこめかみから耳、鼻を伝い顎に達し滴る汗の雫、また雫……それはいろいろな事情から日本有数の苦界に身を沈めるに至った男たちの涙、反吐、そして血の汗だった。
そして―――――
「レンジャー杉山! 64式小銃殿が寝てんじゃねーか!」
寒気の下の熱気を切り裂く怒声。もはや自らの強靭な意志では凌ぎ切れないほど、杉山二等主計の身体からは力が失われ、彼は糸の切れた人形のように冷たい地面に突っ伏していた。だが、そんなことを斟酌する紳士など、ここの助教たちの中にはいない。また、彼の手を離れ地面にだらしなく放り出された64式小銃に対し平静でいられる帝国陸軍軍人が、この中にいるはずも無かった。
「…………」
「冷てえ地べたに、小銃殿を寝かしていいのかと聞いてんだよこの馬鹿!」
「…………」
「てめえ口がねえのか!? レンジャーって言ってみろ!」
反応は無い、極度の疲労で失神した彼、その後頭部を、早足で歩み寄った助教の分厚い軍靴が容赦なく踏みつけた。
「コラてめえ、頭突いて64式小銃殿に謝罪しろ!」
……反応は無い。そして助教は水を満たしたバケツを持ち出し、寒空の下でそれを容赦なく杉山二等主計の頭上からぶちまけた。過酷な挺身兵訓練課程を取り仕切る助教たちにとって、失神者など浜の真砂と同じくらいに当たり前のことなのだ。
「レンジャー杉山! 貴様はもういい! 目障りだ!」
そう言うが早いが伸びた助教の豪腕。潅木のような節くれだった手がむんずと彼の襟を掴み、練兵上の隅へと引き摺っていこうとする。事の重大さに気付いた彼は、表記しがたい絶叫を上げながら、そして駄々を捏ねる子供のように手足を動かし、唐突に襲い掛かる脱落の瞬間と必死で戦うのだった。
ああ、もう駄目か……
そうは思ったものの、不思議と、悲壮感とか同情とかいった感情を、このときぼくは彼に対し持ち合わせることは無かった。むしろぼくの心中を占めたのは安堵だった。もうこれ以上、ぼくらについていくのに苦渋する彼の姿を見ることがなくなるのだ……些か逆接めくが、脱落できるほどの体力が未だあるのなら、早めに抜けたほうがずっと幸運というものだろう。もし体力が残っていなければ彼は―――――
――――そう思ったぼくの安堵は、忽ちに霧散してしまった。何故ならこの日、これまでぼくらの前に姿を現すことが無かった野村中尉がいきなり現れ、息も絶え絶えの学生たちに集合を命じたのだ。彼の出現によって、杉山二等主計は奈落の底の一歩手前から引き戻されることになった。それが今の彼にとって幸運か否かは別として―――――
野村教官は厳かに言った。
「学生はこれより集会所へ、そこでバディを発表する」
ぼくのバディは、中沢兵長だった。その日兵舎でぼくらは、共に手を取り合ってそれを喜び合ったものだ。
「兵長どのと一緒に、挺身章貰えればいいですね」
「貰えるさ。おれたちがずっと一緒である限りはな」
運良く、野村中尉に救われる形となった杉山二等主計は、門田軍曹とバディを組むこととなった。
「宜しくお願いします……」
と恐縮しきりの二等主計を前に、門田軍曹は
「こちらこそ……」
と無表情を崩さずに応じたものだ。過去六度も挺身章への途を閉ざされた軍曹、頼りなげなバディを前にして、彼の心中にいかなる心情が去来しただろうか?
中沢兵長の同年兵たる木村上等兵は、よりにもよって内務省からの出向組たる竹中兵長とバディになった。前職は警官と泥棒という奇妙なコンビ……といえば、かつて外国の映画に、逃亡中の犯罪者がフランスの外人部隊に入隊し、彼を追う刑事もまた主人公を追って入隊し、戦場の中で反目し合いながらも次第に戦友愛を培っていくというストーリーの映画があったものだが……
「宜しくお願いします」
と、敬礼と上目遣いと共に会釈した木村上等兵を、竹中兵長は銀縁眼鏡を光らせ、まるで害虫でも見るような目で見据えていた。勿論、その目には「お前なんかと口を利くか」という隔意がありありだ……これでは、先が思いやられる。中沢兵長もそう思ったのか、苦笑交じりに二人へ目を凝らしていたものだ。
そうしたぼくらの心情を知ってか知らずか彼らを結びつけ、そして再びぼくらを集めた野村中尉は言った。
「当訓練課程において、バディは我々教官助教に次ぎ、絶対的な存在である。お前たち学生はバディを兄弟と思い、あるいは妻と思い、何時如何なるときも互いに援け合い苦境に対し共闘せねばならない。さもなくば当課程における成功は有り得ないと思え」
……かくしてバディは決まり、ぼくらの訓練もまた、新たな段階を迎えることとなった。