その二 「帝国陸軍挺身兵」
帝国陸軍挺身兵……一般社会においてはむしろ、レンジャーという呼称が一般的であろう。数多い志願者をその苛烈さで通常の比ではない訓練と厳重な考査により段階的に振るい落とし、その最終段階に残った事実上の精鋭に侵入、遊撃、破壊工作等の高度な各種訓練を施し、さらなる過酷な練成の末にそれらの戦闘技術を習得するに至った証たる挺身兵徽章を手にした者のことを、帝国陸軍ではそう称するのである。
中央に不屈の象徴たるダイヤモンド、それを取り巻くように月桂樹の紋様をあしらった銀色の挺身兵徽章に接した途端、新兵はもとより、入営から三年以上の古参兵、さらにはその持ち主の上官たるはずの士官すら緊張を強いられる。喩えその持ち主が自分よりメンコの数の少ない二年兵三年兵であったとしても……だ。何故かと言うに、大きさでグリコキャラメルのオマケ程度の、重さにしてわずか数グラム程度でしかないそのバッジが、人知を超えた過酷な体験を耐え抜いた末に、彼の胸板を飾るに至ったものであることを、どんな猛者クレでも知っているからである。
事実、小倉時代の徳山班長の例(前作「ホット・ペッパー」参照)を挙げるまでも無く、軍隊用語で「挺身章持ち」の人には営内外での武勇伝に事欠かない大猛者が多く、地元のオッカナイやくざ相手に大立ち回りを演じてみたり、街中でひょんなことから因縁をつけてきた現役のプロレスラーをボコボコにしてみたり、酒に任せて一メートルウン十万円のガードレールをローキックの一蹴りで凹ませてみたりと、その賑やかなこと枚挙に暇が無い。
挺身兵となった者が得るのはその栄誉ある徽章だけではない。陸軍内において挺身章持ちは同僚部下から畏敬の念を以て見られるのは勿論、その後の勤務環境についても特別扱いを受けることになる。
例を挙げれば、「挺身手当」といって本来の給与の上に若干の加増があることは勿論、食事の度に、「体力増加食」と称し通常の献立の他に牛乳や一、二品お菓子、果物等の嗜好品が付くし、歩哨や衛兵勤務もまたその大部分が免除される。そしてこれが最も重要なことなのだが、挺身章持ちは、帝国陸軍の精鋭たる空挺旅団や、精鋭度ではさらにその上を行く特殊空挺旅団《SAB》隊員の予備軍でもあるのだ。従って、そうした部隊に優先的にリクルートされるのは勿論のこと、普通の部隊に居ても集合訓練の形で、特殊部隊隊員に必要な各種の専門的な教育を受けるあらゆる機会に接することになる。
そんな帝国陸軍挺身兵――――――彼らの起源はやはり、かの「大東亜戦争」前に遡る。
そもそもの切欠は、戦後の情報公開によりその経緯は元より全貌すら明らかになった昭和13年の「ノモンハン事件」、そして「大東亜戦争」停戦直後の、日ソ中立条約を無視した形でのソ連軍の満州侵攻に端を発した昭和19年の「第二次満州事変」をはじめとする、現在に至る最大の脅威ソヴィエト連邦との国境紛争だった。それらの戦闘によって露呈した機甲部隊、砲兵戦力における彼我の戦力の圧倒的な格差を、遊撃戦、そして浸透戦術を多用した所謂「非対称戦略」で補うべく、時の帝国陸軍は長距離浸透偵察、敵後方の破壊工作等の訓練を受け、そして敵中における生存技術に長じた兵士から成る専門部隊の創設、育成に力を入れ始めたのである。
職種たる工作員そのものとそれを運用する機関は、かの有名な「陸軍中野学校」をはじめとしてすでに戦域各地に多々存在し、活動していたが、陸軍参謀本部が欲していたのは、本格的な野戦において地上軍主力の作戦遂行に直接に寄与できる、より実戦的かつ組織的な部隊だった。この当時、世界的にみても帝国陸軍が構想したような所謂「特殊部隊」はその萌芽を迎えていた。有名どころで言えば、何と言っても欧州戦線で勇名を馳せた英国陸軍コマンドーであろう、欧州大戦の緒戦において、ナチス-ドイツに制圧された大陸への散発的な奇襲上陸作戦に勇名を馳せた彼らをはじめ、そのコマンドーをモデルに創設された米陸軍レンジャーや海軍特殊潜水部隊《UDT》、そして彼らの敵手たるドイツもまた、敵戦線の後方撹乱を企図して浸透と潜伏、破壊工作に長けた特殊部隊、通称「ブランデンブルク部隊」を擁していたものだった。そうした事実から勘案すれば、当時の日本陸軍の特殊作戦部隊に対する着想と施策は、あながち間違ったものではなかったのだ。
……だが、「大東亜戦争」の終結と、「縦割り思考」「権威主義」という、帝国陸軍という組織の内包していた根本的な宿弊が、日本においてはその後の特殊部隊の発展を中断させることとなってしまった。特殊部隊というものは、その任務の性質上指揮官はもとより部下の下士官兵に至るまでその行動する局面の端々に主体的かつ自由な思考と判断を要求され、訓練課程においてもそのように教育される。それは特殊部隊に対する認識の乏しい一部上級者には、伝統的な上下の命令系統を阻害し、軍の統率に重大な悪影響を与える行為であるように映ったのであった。一般の部隊指揮官の中には特殊部隊の「自由な気風」を目の敵にし、幾下兵士に悪影響をもたらすとして特殊部隊との共同作戦を敬遠する者もいたし、むしろ積極的に特殊部隊の活動を妨害する参謀までいた。やがてはそれに戦後の経済再建に伴う軍縮も重なり、帝国陸軍における特殊部隊の存在感と必要性は、急速に希薄化していった。
だが……消滅の危機に瀕した陸軍特殊部隊にとって救いの主は意外な、それでいて突拍子も無い方向から現れた。その舞台は1950年に勃発した朝鮮戦争である。
「大東亜戦争」当時、陸軍が満州における対ソ戦に備え特殊部隊の創設に取り掛かっていた一方で、太平洋上で強大な米軍を相手に激闘を繰り広げていた帝国海軍もまた、広漠たる洋上に点在する島嶼に対する潜水艦を利用した奇襲上陸作戦を企図し、それを可能とする特殊作戦部隊の創設と練成に取り掛かっていた。この部隊を当時の秘匿暗号の頭文字を取り、「S特」という。この「S特」は戦後も温存され、陸軍のそれに比して充実した装備と教育体系を維持したまま朝鮮戦争を迎えることとなった。そしてこの「S特」が、朝鮮半島という新たな戦場で八面六臂の大活躍を見せたのである。
その創設時から想定されていた潜水艦による敵地への奇襲上陸戦術は、「S特」の戦場が太平洋から朝鮮半島沿岸に変わっても有効なることが実証されたかたちとなった。海軍「S特」は欧州大戦時の英国コマンドー部隊よろしく北鮮領域の海岸に夜陰に紛れて侵入し、南進する共産軍の後方を各所で霍乱し、その連絡網を寸断した。彼らの神出鬼没ぶりと圧倒的な戦闘能力は敵手たる共産軍の心胆を大いに寒からしめ、やがて「S特」は彼ら敵軍より「倭寇部隊」と呼ばれ、烈しい憎悪と畏怖の対象となるまでになった。開戦、それに伴う「S特」の特殊作戦開始からわずか半年で、沿岸部を防備する共産軍各部隊には「倭寇部隊を捕縛し次第、即座に射殺せよ」という、悪名高い「S特抹殺命令」が共産軍の首魁、金日成から直々に出されたほど、「S特」は敵軍に恐れられ、憎悪されるまでになったのである。
後年、これらの実績と戦局に対する貢献が広く周知された結果、「S特」はその陣容を大きく一新し、より即応性と秘匿性の高い「|帝国海軍特殊挺身潜航隊《IJNSSS》」として再編され現在に至っている。なお、ぼくの兵役期間当時進行中だった「ベトナム戦争」においても、「同盟国」アメリカの要請に基づき、少なからぬ数のSSS隊員が極秘裏にベトナムに派遣され、北ベトナム方面で破壊工作や情報収集等の特殊任務に当たっていたそうだが、その全容は現在に至るまでずっと国家機密という堅い扉の向こう側に閉ざされたままだ。
一方で、特殊部隊という「兵科」を軽視した―――――というより、邪魔者扱いした―――――結果として、特殊部隊の運用実績という点で海軍に大きく水を開けられた形となった陸軍は、表向きは朝鮮戦争で得た戦訓の反映と、将来の地域紛争に対応できる即応戦力の整備という観点――――その実「宿敵」たる海軍に対する露骨なまでの対抗意識―――――から、今まで日陰者扱いだった特殊部隊の再編と強化に本腰を入れ出した。「兵科」として特殊部隊が創始されるまで、単に空挺部隊隊員のことを意味した「挺身兵」という語句が、この頃には将来の特殊部隊要員として必須の教程を履修した将兵のことを指すようになり、その「挺身兵」養成課程が各地の一般部隊において始動し、軌道に乗り始めるのもまたこの時期である。
具体的には、とっくに陳腐化していた満州方面における遊撃作戦のノウハウの上に、南方戦線、ビルマ戦線で得た熱帯地域やジャングルにおける歩兵作戦の経験から組み立てられた作戦教範が再検討の上で追加され、結果として特殊部隊員の教育体系は飛躍的な充実を見ることとなった。それまでの射撃、格闘術、陸地における生存能力に加え、より高度な落下傘降下や潜水、水路侵入、通信術等、要求される技術の幅もまた、拡大していったのである。
―――――そしてこのぼく、鳴沢 醇もまた二年目の軍隊生活を迎えたこの日、挺身兵教育課程の学生となった。
それを初めて知らされた日の午後、ぼくとその他の挺身兵志願者は裏庭に集められ、その瞬間から挺身兵教育課程は始まりを告げた。後から思えばあまりに急で、困惑に満ちた始まり――――――
「…………」
登壇する教官を待ち構えている、無人の演台の傍で、横一列を成し不動の姿勢をとる助教連を、ぼくは黙って凝視する……目深に被った野戦帽から窺えるその顔、顔、また顔はそれ自体だけでもう前科十犯という感じ、中には交番の掲示板に張られた指名手配写真の凶悪殺人犯そのままなヤバイ顔すらチラホラ見受けられる。事前の噂に違わず、その何れもが何処かの任侠劇画から抜け出してきたような厳しさと恐ろしさに満ちているのだった。しかも彼らの視線と表情たるや、学生たるぼくらを黙って見詰めるでもなく、微笑みかけるでもない、いわば彼らのまっさらな無表情は、近づき難い空虚さへとぼくを一層に誘い、気が付いてみれば膝に来たした震えと必死に戦っているぼく自身が居る。
ちなみに挺身兵教育課程の教官 助教に、士官学校出の、いわゆる「ぺーぺー」の士官は殆ど居ない。いずれもがメンコの数に換算して10~20年はあろうかという叩き上げ士官や、超級の古参下士官が多い。何故なら将来の指揮官参謀として幼年学校や士官学校で「純粋培養」され、徹底的にエリート意識を刷り込まれた彼らが、過酷な想定の中でそうした意識はもとより人間の尊厳すら踏み躙られる挺身兵課程を修了できることなど、まずありえないことだからである(その点一つとってみても、帝国陸軍は現代戦に対応できる軍隊ではない、とぼくは思う)。
だから若手の士官で挺身章持ちといえば、大抵が一般大学や高等専門学校を卒業し、その後久留米の陸軍予備士官学校に進み入隊した、「純粋培養ではない」幹部候補生組がその大半を占め、従って、そうした人々と、前述のいわゆる「叩き上げ」組によって挺身兵部隊の指揮官は固められることになる。もっとも、そうした独自性が「正統派」士官の挺身兵に対する畏敬の念を深めると同時に、彼らの敬遠とやっかみの対象ともなる要因になったりもするのだが……
従って、一人一人が優れた兵士であり、軍隊社会の表も裏も知り尽くしている彼らの前で、一切のゴマカシやチョンボはまず通用しない。挺身兵教育課程が地獄と言われる所以の一端は、まずこの点にある。
「…………」
―――――再び、列の一員たるぼくの視線は横へと滑り、恐らくぼくとは違った事情で、だがぼくと同じく今日ここに立つに至った学生へとさり気無く向けられる。
ぼくの横――――背丈はぼくと同じ位、だが容貌から漂う精悍さがぼくとの年季の違いを十分に感じさせる。戦闘服の襟に映える兵長の階級章に、ぼくはそれを納得する。年は若い。ぼくと同じ位だろうか?
そのさらに向こう……小太り、背は低く猪首にがっちりと支えられた頭の、鬢に覗く白髪と、そして大きな口をむんずと結んだときに出来た厳しい皴が、隣の兵長とはまた違った年季と迫力をぼくに印象付ける。階級は軍曹、そろそろ曹長への入口が見えてきた頃だろうか?
そのときになって初めて、ぼくは思い出したように安堵を覚える。階級こそぼくより上でも、ぼくの傍らにいたのは鬼でもなんでもなく、紛れも無くぼくが普段見知っている世界の住人だった。それがまた、ぼくの眼前に立つ助教たちの鬼気迫る様と好対照(!?)を成している。
そのとき―――――
「教官訓示……!」
決して大きくない声であったが、耳を弾かれる……というより後頭部を叩かれるといったような表現が正しいのかもしれなかった。ぼくらの眼前で温かみの無い無機物のように佇む男たちが、このように烈しく、芯に響く声の持主であったことは、内心で身構えていたぼくにとって少なからぬ衝撃をもたらしたのだ。それはまさに奇襲だった。
そしてぼくは、先任助教の敬礼を受け、ゆっくりとした歩調で登壇する教官に目を凝らす―――――
その男の肌は、黒かった。
そして背は鉄塔のごとくに高く、鉄壁のごとくに広かった。
当然、外目から見ても分厚いことがわかる胸板には、あの例のダイヤモンド章が冬場の冷たい陽光を吸い込み鈍い光を放っている。彼の肌の色が生来のものであるのか、それともこれまで彼が生きてきた環境の為せる業であるのかはこの際問題ではなかった。
鼻の下全てを覆う濃い口ひげに覆われた唇は分厚く、ボラのそれのようにくの字状に曲がり、それがまた四角張った、がっちりとした顎を一層に印象深いものとしていた。野戦帽の下から覗く頭部は見事なまでに剃り上げられ、そこに不健康やら士気の乱れやら、外から一切の惰弱の付け入る隙を与えてはいなかった。
目深に被った野戦帽の下からギョロリとのぞく目は大きく、そして強靭な意志の存在をその中から煌かせていた。それだけでも優に一個小隊分の人間を威圧し、萎縮させることができたかもしれない。教官の目は、ぼくらが向き合ってから僅かな間にそれを窺わせるだけの迫力を沈黙の内に持っていたのだ。
畏怖そのままの視線で、ぼくは登壇する彼を見上げた。
「…………」
ああ……あの人は鬼だ。
……この時、これ以上の感慨をぼくは彼に持っていなかった。だが、それも後から考えれば実は甘かったのである。そうしたぼく個人の感慨はさておき、教官は登壇した。それから拝観者を圧倒する仁王像の如く、例のギョロ眼で無感動に眼下の学生を睥睨すると、大きな口を開けて割鐘のような声を吐き出した。
「本官は、今日よりお前たちを預かることになった、挺身兵訓練課程教官の野村中尉である。お前たちは、今日を以て栄えある挺身兵訓練課程学生となったわけであるが、お前たちが今日ここに馳せ参じたのには相応の覚悟と動機があったものと思う!……」
そこまで言って、野村中尉は口を閉ざした。そして再び下方の学生たちを睥睨すると、列の前方に立つ一人の上等兵を指差し、言った。
「おい貴様……」
「……はい!」
「貴様何故、挺身兵に志願した?」
「それは!……お国のため一層有為な人材たるべく、自らを鍛え上げたいと思ったからであります!」
「…………」
巌のような無言……野村中尉の質問は、また別の上等兵にも向けられた。
「貴様は……?」
「自分も同じであります! 光輝ある帝国陸軍兵士として護国の鬼にならんと思い、挺身兵に志願いたしました!」
「貴様は……?」
今度に指されたのは、ぼくの隣の兵長。彼はといえば少し嘆息し、背を正すことも無いままに言った。
「自分も……以下同文であります教官殿!」
そして、彼は今度はぼくを睨むように見下ろした。
「貴様は……?」
「…………」
え?……ぼく?
「貴様だよ、そこの一等兵」
畳み掛けるような中尉の指名。それに加え壇上から津波のように圧し掛かる威圧が、ぼくからスムーズな発言を奪っていた。
……でも、ぼくは誘われるままに言った。
「自分は……自分は、上官に無理矢理志願させられました……!」
隣の兵長が、ギョッとしたような目でぼくを横目に見るのを感じた。そして同時、かつ一瞬の内にそのようにしてぼくに注がれた視線は彼のものだけではなかった。ぼくは恐る恐る、壇上の中尉を上目がちに見上げた。萎縮した視線の先で、そのとき中尉の目元に微妙な、だが皮肉にも似た何かが宿るのをぼくは見たような気がした。
「……そうだよな? 差し詰め、そんなところだろう」
ぼくから顔を上げ、中尉は続けた。
「貴様ら良く聞け、教官は、貴様らが今此処で何を考えておるかようーく判っている。そして何故、此処に立つに至ったのかも知っておる。上官やお釈迦様の目は誤魔化せただろうが、何人たりともこの野村の目は誤魔化すことはできない!……そこの貴様!」
声を上げ、中尉が指名したのは、最初に指名された上等兵だった。
「はいっ……!」
「本当のことを言え。貴様何故……何故挺身兵に志願した?」
「それは……」
「それは……?」
「挺身兵になれば、給料が増えるので……」
中尉は頷き、二人目を指した。
「では貴様、言ってみろ」
「……挺身兵になれば、女にもてると思いましたっ!」
「貴様はどうだ?」
隣の兵長は、悪びれることなく言った。
「妻と子を……食わせるためであります」
中尉は頷き、声を上げた。
「そういうことだ……誰もが口先ではお国のため、大元帥陛下のためと言いながら、本当のところはてめえの都合で挺身兵を目指す……教官は、何もそれが悪いとは言わん。だが此処に来た以上、己の全力を尽くし、実力と努力で挺身章をもぎ取ってみろ! それができない者は、否応無く此処から脱落してもらう……! 今はっきりと言っておくが、挺身兵課程は、偶然や運だけで乗り切れるほど甘くはない。やる気の無い者は今すぐにここから去れ!」
「――――じゃあ、自分抜けまぁーす……」
ぼくは手を上げた。こういう場合の意思表明は早いほうがいいことを、ぼくはこれまでの短い人生経験から学んでいた。そして中尉もまた、ぼくのことを取るに足りない愚か者とみなし、「脱落者」としてこれ以上干渉を加えることもないだろう……
……だが、中尉の反応は違ったのだ。
「ほう……いいのか鳴沢一等兵?」
「…………?」
ぼくは、我が目を疑うかのように目を見開いて教官を見た。ぼくの名前を知っていたことも驚きだったが、それ以上にぼくを驚かせたことには、中尉はゆっくりと降壇し、ぼくの側へつかつかと歩み寄ってきたことだ。相手の距離と、相手の醸し出す圧迫感とは明らかに比例の関係にある。それをぼくが理解するのに一秒も掛からなかった。
ガラス球のように無機的な視線を、恐縮するぼくに注いだまま、中尉は言った。
「鳴沢一等兵」
「はいっ……!」
「陸軍士官学校の陶 大尉からの伝言である」
「…………?」
背を正したぼくの耳元に、中尉はその厳しい顔を近づけ、囁くように言った――――――
『脱落したら貴様を殺す―――――』
は……?
その瞬間、一陣の冷風がぼくの首筋を掠め、それはぼくの背筋を芯から震わせた。何故ならそのときぼくが聞いたのは野村中尉の声ではなく、まさしく今ここに居ないはずの陶大尉の声であったから――――
ぼくの耳元から顔を離し、野村教官は言った。
「どうだ?……それでも止めるか?」
「……志願させていただきまぁす!」
―――――その瞬間、ぼくは「鳴沢一等兵」ではなく、「レンジャー鳴沢」となった。
……ぼくってどうして、いっつもこんな目に遭うわけ?
そのとき、隣にいた兵長が、横目でぼくに微妙な視線を注いでいたのに、ぼくは気付かなかった。