その一 「波乱は唐突に……」
慌しく、そして波乱に満ちた一年目の終わりを、ぼくは帝国陸軍一等兵の階級章とともに過ごし、今度は新たな一年が廻ってきた。
日本全国津々浦々、陸海空軍を問わず何処に存在する基地でも、年末の過ごし方と年の迎え方は淡々としたものだ。全てが業務の引継ぎ、訓練、そして近付きつつある除隊までの時間を指折り数えながらに過ぎていく。それでもあえて、兵士が世間の空気――――言い換えれば、年末の気忙しさ――――を感じ取ろうとしたければ、外出するしかない。兵営では全てが、それを取り囲む塀の外で流れる時間と空気からは超然として過ぎていく。
そういう意味では此処は刑務所に似ている。「徴兵懲役一字の違い」とはよく言ったものだ。
兵隊間の噂話に勝る情報伝達手段は、帝国陸軍には存在しない。
帝都東京から一転、新たな任地となった東北軍管区、その中核たる仙台市に本拠を置く帝国陸軍第二師団の第二内務班。そこに着任するや一等兵、それも転属要員にして徒手格闘の免状持ち、さらには天下の近衛旅団で門限破りを起こし同期より数週間昇進の遅れたこと、そして災害支援の際、誤って足を滑らせて濁流に飲み込まれ、「よりにもよって女の士官の助け上げられた」ことまで、転勤して間もないうちに兵隊の仲間内では知られたぼくは、それこそ典型的な「猛者クレ」のように営内の同年兵からは畏敬の念(?)を注がれ、一方で三年兵以上の古参兵からは、それこそ「危険人物」として睨まれ、あるいは一目置かれる存在となっていた。
「コラー補充兵! 一歩前へ出んかい」
一日の反省会をも兼ねた就寝前の点呼。ぼくは決まって古参兵に呼び出され、見せしめのごとくあれこれと難癖を付けられてはビンダを食らい、暇なときは暇なときで
「オイ補充兵、ラジオの修理してくれや。今日大切な(競馬の)レースがあるからよォ」
と、外出時に手に入れた馬券を手に切実な表情でソニーのトランジスタラジオを持ち込んでくる古参兵の頼みを聞いては、お礼として配給の嗜好品等の余禄に預かっていたものである。一方で未だヒヨっ子扱いされながらも、その反面で一人前扱いが始まっている……それが一等兵であり、二年兵である。
軍隊社会の最底辺として、営内ではそれこそ南河内大学応援団一回生のごとく屈従と忍耐を強いられる初年兵も、過ぎ行く任期の中で一等兵にもなれば、それこそ多少は入営の段階で取り上げられた人間としての尊厳を返してもらうことができる。従って、日々の課業の間々に訪れる平静の内に、軍隊社会の内情というものを観察する機会もまた自ずと廻ってくる。
そうした観察の末に、そして観察の度にぼくが抱いた感慨――――――それは、果たして帝国陸軍は、戦争ができる軍隊なのだろうか?……ということだ。
ぼくなりの結論もある。それは「否」ということだ。残念ながら帝国陸軍は、まともな戦争ができる軍隊ではない。その第一の根拠、ぼく自身をして此処に導くきっかけともなった徴兵制からして、ただ単に、適齢期に達した男子から有無を言わさず娑婆での過去と肩書きを取り上げ、機械的に兵営に押し込め、それから二年と数ヶ月をただ苛め抜き、しごき抜くために存在する巨大な懲罰装置と化している。そうして作り上げられ、ごく一部の例外を除きわずかな期間だけしか軍務に就かない(就く意欲の無い)兵士が日本の国防にどれだけ役に立つのかというと、それは少なからず疑問なのだ。
具体的に言えばこういうことだ。空軍に限って言えば、戦闘機が油さえ入れれば飛び、パイロットただ一人の判断で目標を探し、ただ一人の判断でこれを攻撃するという時代は朝鮮戦争の前の段階でもう終わっている。飛行機を飛ばすためのグレードの高い特殊な航空燃料はもとより、アスファルトを敷いた1000メートル級の滑走路。始動用の圧縮空気送入機。エンジン点火用の電源供給機。そして緻密な飛行計画と緻密な航空管制システム、さらには交換用の消耗部品……今の時代において、先端技術の粋を集めたジェット戦闘機一機を空に上げるのに、地上では最低限これだけの機械や設備を用意しなければならない。これらを運用し整備する人間にも専門の訓練が必要だしそれは一朝一夕で身に付くものではない。もちろん、機体を操るパイロットを一人前にするために要する費用も時間も、「大東亜戦争」の頃より増大の一途を辿っている。
戦闘機のみならず対空ミサイル搭載駆逐艦、戦車、原子力潜水艦……こと国力の粋を注ぎ込んだ最新兵器を結集し戦場に叩きつける現代戦を戦う上で、ごく短期的な兵力充実にしか寄与せず、むしろ現代戦に必要な熟練戦力確保の阻害要因となる徴兵制は、無用の長物となりつつある。言い換えれば、これまでお偉方の言う精神力ではもはやカヴァーしきれないほど、現代の戦争はその方法から道具にいたるまでより緻密化し、細分化が進んでいる。
つまりは――――徴兵制は、形骸化している。
そう思い当たり、ぼくが軍内に見出した単調の中に、微かに暗鬱さまでも見出そうとしていたその年の大晦日のこと、ぼくは歩哨に立つことになった。
冬――――東北軍管区ではそれが風雪や寒気となって切実に、そして冷徹なまでに兵士の身には迫って来る。より北部の秋田や青森ほどではないが、仙台の冬もまた例外に漏れず厳しく、重い。
分厚い外套に手袋、頭の上から耳にかけてすっぽりと覆う防寒用の軍帽、首から顔の下半分にかけてを覆うように包む防寒覆面……それらは厳寒に冷え切った空気から兵士の体を守り、母の胸に抱かれるような安心感を立ちながらに与えてくれる。哨所の入り口を照らす外灯の下で、薬室に直接実包を装填した64式小銃をダウンポートにして立つうち、闇を支配する冷気に晒されるぼくの頬からは一切の人間らしい温かみが消え、眠気に苛まれる意識すら何処かへと消え去ってしまう。
だが、そんなぼくがこの夜警備しながらに年を越すことになったのは、よりにもよって基地敷地内の片隅に置かれた弾薬庫なのであった。射撃訓練や大掛かりな演習のとき以外、警備の兵士を除けば誰も立ち入る者のいないここは、夜になればこの世の果てかと思われるほど一層に寂しさと暗鬱さを増す。それが郷里や東京から離れた地で任に付くぼくには普通で無く辛い。
それでも、弾薬庫を取り囲むように配された土塁の上に立てば、周囲の景観は少なからず趣を変える。
「…………」
高台に設けられた哨所から、ぼくの視線は基地の塀を軽々と飛び越え、その先に仙台市の街並みの一端を見渡すことができた。オリオンとカシオペヤの支配する夜空の足元を微かに照らし出し、静寂の中に天と地との境界を主張するネオンや街灯の瞬きと連なり、その間を慌しく流れるヘッドライトの奔流とエンジンの遠吠え……それらはぼくに、単調な軍隊生活の中で埋没していたある感情を喚起させる。
自由への羨望――――
あるいは現実への諦観――――
ぼくもまた、先年まであの真に人間らしい瞬きの中で生きていた。そしてこの営内に居る少なからぬ人間もまたそうだ。そしてぼくも含め、その中の幾人かは、あの瞬きの中に愛する人、想いを寄せる人を残して来ている。
そうだ……アケミは、今頃どうしているだろう? 行き付けの居酒屋で友人と忘年会とかやっているのだろうか? もしくは実家に戻って家族とコタツを囲んで蜜柑を食べ、世間並みに年越しそばに舌鼓を打ち、紅白歌合戦なぞ見ているのだろうか? いいなあ……
「拝啓、醇君へ――――
寒さ深まり、年も押し迫った今日この頃、如何お過ごしですか?
アケミは相変わらず元気でやっています。醇君はどうですか?
東京のように悪い上官にいじめられたりしてませんか?
アケミは東京で、醇君をずうっと待ってます。本当だよ。
醇君が戻って来たら、あたしたちもう同学年だね。
醇君と一緒に卒業できるかと思うとアケミは楽しみです。
アケミ、昨日のクリスマスのミサで醇君の無事をお祈りしたんだよ。
だから醇君もお勤めガンバレ。
――――明美より」
先週にアケミのくれた手紙の文面を思い出す内、入営以来女日照りなぼくの頬は寒さを忘れ、防寒衣によるものではない暖かさが篭ってくる。寒い時期、燗と響くほどの闇が広がる夜には、恋人のことを思うのがいい。思いを寄せる恋人が無邪気で、世間ズレしていないほどそれは男にとって筆舌に尽くし難い暖かさと、逆境の中で生きる希望をもたらしてくれる。
吐く溜息は白く濁り、現実に対するぼくの失望を霧散せしめんとしているかのようだ。
こうして星の綺麗な寒空の下、ぼくが到底果たせぬ恋人との睦みあいへの淡い願望にたった独りで浸っていたそのとき―――――
「――――なあ兵長、挺身兵課程の志願状況はどうだい?」
下の方、それも弾薬庫の陰辺りから聞こえてくる会話が、ぼくの意識を現実へと引き戻した。言葉の主は、どうも相当な古参兵のようだ。ひょっとして、挺身章持ちか? 会話の相手は人事課の人間だろうか?
「そうですな。今回は……20人といったところです」
「どうだ? 期待株はいるか?」
「どうも……うち一人、新入りの一等兵がいますが、これは連さん(連隊長)から捻じ込まれたものですからねえ」
「へえ、連さん直々のご指名かい。さぞ優秀なやつなんだろうな」
「とんでもない……前の部隊で問題起こして、隊から放り出された出来損ないですよ」
「そんなやつまで志願するとは……陸軍挺身兵も、墜ちたねえ」
…………?
立ち聞きの状態のまま、ぼくは内心で首をかしげた。
へえ……前居た部隊を放り出されて、今度は挺身兵に志願か……妙なやつがいるものである。でもその境遇、誰かによく似てるなあ……
微妙な位置からのぼくの立ち聞きを他所に、古参兵同士の会話は続いた。
「補充兵上がりならまだしも、入営前は刑務所に入ってたってのも志願してますからねえ……何考えてるのやら」
「あれか……入営前に空き巣やって捕まったってやつか?」
「そうそう、すんなりと満期除隊すりゃあいいものを……そういや門田軍曹、また志願しましたよ」
「ええっ……またか? あの人も懲りねえなあ。いや、相当なガッツの持ち主といおうか……」
コオォォォォォォ……ン
周囲の寒気を震わす、遠方からの鐘の音……それが彼らの会話とぼくの立ち聞きとを遮った。兵営で聞く除夜の鐘の音は、それに耳を欹てる者にえもいわれぬ感傷を与える。間隔を置き、立て続けに響き渡る娑婆の音は、たとえ上官であろうと大元帥陛下であろうと、娑婆への憧憬を募らせる兵士たちに、それを聞くことを遮る権限を持たない。
だからぼくは、兵営の中で暫し娑婆の空気をその耳に聴く。
そしてぼくは、立哨のまま軍隊生活における最初の年を越した。
大晦日の午後二時に始まった上番の立哨は、一月一日の午前二時に終わった。
基本的に、衛兵は24時間勤務だから、割り当ての立哨時間を過ぎてもぼくは兵舎には戻らず、衛兵詰所の奥にある仮眠室でしばしの休息を取ることになる。交替の衛兵への引継ぎを終え、ぼくが外套に積もった粉雪を払い、そして悴む体に鞭打って入った詰所では、手空きの古参兵たちが滾々と焚かれたストーヴなぞ囲み、テレビでやっていた年始の娯楽番組なんぞに見入っていた。これではストーヴの前にどっかと座り暖を取るなんてまず無理だ。
部屋の隅に立ち尽くしたまま、ぼくはブラウン管に目を細めた。
「…………」
テレビに映る、新年を迎えた満艦飾の東京の街並み。初詣に賑わう明治神宮で、カメラに向かい明るい声を張り上げるレポーターのお姉さん。彼女の背後で群れを成し、無邪気なまでにピースサインなど送ってくる野次馬の若者たち……テレビの矩形に映し出された娑婆の活気ある風景は、ぼくを未だ戻ることかなわぬ実社会に対する憧憬を掻き立てる。
……だがぼくはそれを押し殺し、冷え切り、疲れきった身体を引き摺るようにして仮眠室に入る。仮眠室へ通じるドアを速やかに、だが静かに開け閉めし、暗がりと静寂と、そして同じく仮眠する古参兵の高鼾の支配する空間へと足を踏み入れ、寝台に潜り込む。
「眠れない……」
冷え切った身体は、毛布にそれを包んでも、ぼくを忘れさせた眠気へ誘うには及ばなかった。それでも、そのまま冴え切った意識を、時が経つにつれ温かさを増していく布団のなかで弄ぶうち、何処からか戻ってきたまどろみを、ぼくの白濁した意識は受け容れていく……軍隊において完全に自由で安全な場所が、夢の中にしかないことに気付いたのは、入営してどれくらいが過ぎた頃だったろうか?
そしてぼくは、このとき初夢を見た―――――
―――――快調なまでに疾走を続ける赤いX-508ファミリアの助手席に座り、ぼくは不安を募らせていた。
助手席で車を運転しているのはアケミではなかった……どういうわけか、テンガロンハットを被った、見るからにとっぽそうな若者だ。
そしてさり気無くバックミラーに覗いた後席……そこでは若者の彼女と思しき見るからに御しとやかそうな女性が、リアシートに畏まって座り、バックミラー越しにぼくと目が合うやはにかんだように微笑みかけてくれる。
車は緑に覆われた郊外から懐かしい東京市内へ入り、やがて、見覚えのある四谷の学生寮の立ち並ぶ一角へと入っていく。舗装の悪い細道に入るにつれ、これまで悪路を昼夜問わず驀進して来たファミリアは不快なまでに軋み、そして揺れた。
間断ない振動の中で、ぼくはこれまでを思い返す。
そうだ……ぼくは先月に晴れて満期除隊したんだった。
でも……除隊する半年前から、アケミはさっぱり手紙をくれなくなった。
遠隔地勤務ゆえの、お互いの感情の行き違いが、二人の交流にも影を落とした……その予感は、確かにあった。
それでもぼくは、アケミをあきらめ切れなかった。
そしてぼくは、営内から送った最後の手紙に、こう記したのだった。
――――もし、まだ一人暮しで待っててくれるなら……黄色いハンカチをぶらさげておいてくれ、それが目印だ、もしそれが下がってなかったらぼくはそのまま引返して、二度と君の前には現れないから……
車を運転する若者にとって、兵役帰りのぼくは人生の師匠であり、リアシートの彼女は兵役帰りのぼくを理想の男性として慕ってくれている。帰京する道すがらで出会ったファミリアの二人はぼくの悩みを聞き、そしてぼくの旅について来てくれた。彼らの誠意に報いるためにも、ぼくは自らアケミとの愛を確かめなければならなかったのだ。
―――――そして、運命の刻。
ファミリアはアケミの住む学生寮のずっと前で止まり、ぼくは無言のまま車から降りた。此処からは未だアケミの部屋を臨めない。だから、後は歩くしかない。
「ニイチャン、此処でいいのぉ?」
と、ハンドルを握る若者が聞く、それに、ぼくは微笑で応じる。
「自分……不器用ですから」
決まったな……内心での満足を胸に、ぼくは一歩一歩を踏みしめて歩く。煙草屋のある眼前の角を曲がれば、ぼくの眼前には旅の結末が与えられることになる。角を曲がり、期待と不安をその内面で相克させるがままぼくは頭を上げる―――――
「…………!」
ぼくはほおを紅潮させ、目を見開いた。その先には夢にまで見た黄色いハンカチが、春先の微風に揺られ、アケミの部屋の窓全体を飾らんばかりの勢いではためいていた。ぼくは嬉しさに急き立てられるかのように歩を早め、学生寮の玄関を潜り、アケミの部屋へ続く階段を小走りに上った。
「醇くぅん……!」
―――――果たして、アケミはぼくを待っていた。
開け放たれたドアの先で、ぼくを振り返ったアケミは両目に涙を溜め、ぼくの胸に飛び込んできたのだ。兵営で鍛え上げられたぼくの胸板はアケミの小さな肩とともに、彼女の抱える嬉しさと悲しさを抱き止め、そして二人は互いの背中を強く抱き締めるのだった。
「醇君……遭いたかったヨォ……!」
「アケミ……もう離さないよ。アケミ……」
嗚咽とともに吐き出される息遣いと、流される涙に濡らされる胸元を感じながら、ぼくはアケミの豊かな髪に鼻を近付けた。久しぶりで嗅ぐ女性の匂い、久しぶりで感じる女体の感触……長期に渡りご無沙汰だった甘美な感覚を取り戻し、ぼくはそれこそ芯から広がる陶酔感に浸っていた。
「アケミ……もう悲しむことは無いよ。ぼく、こうやって戻ってきたからさァ……」
アケミは、ぼくの背中に手を回したまま、うんうん頷く。その仕草がなんとも可愛らしく、そして愛しい。
そして一層に篭る力を背中に感じながら、ぼくは娑婆に戻ったのだという感を一層に強くする。
だが……
「アケミ?……何か強く抱き締め過ぎなんだけど……」
あれっ……アケミってこんなに腕力あったっけ?……それに胸も心なしか膨らんでるような……
違和感と同時に新たに頭をもたげる不安が、ぼくの顔から血色を徐々に奪っていく。そんなぼくの考えを他所に、背中を抱く力は一層に強さを増し、愛情表現として許容し得る範囲を超えたそれは、今度は名状し難い苦痛となってぼくに襲い掛かって来るのだった。堪らず、ぼくは声を上げた。
「アケミってば!……ちょちょっとぼくの背骨がギシギシと……」
万力のような馬鹿力で体中を締められ、それはぼくに生命の危機すら覚えさせた。
「アケミ!?」
慌てて顔を上げ、合わせた視線の先に、ぼくに爛々とした眼光を注ぐアケミではない誰かを見出した瞬間、絶句がぼくに襲い掛かる―――――
獲物を見出した蛇のような大きな瞳。
その大きな口は真白い歯を覗かせ、嬉々とした笑みはむしろ戦慄をぼくに呼び覚ます。
ぼくを抱き締める腕の力は異常なまでに強く、大の男ですら逃れることなどできるわけがなかった。
そして―――――アケミよりもずっと背が高く、体付きも立派な彼女を、ぼくは忘れようはずも無かった。
す、陶大尉……!?
「部屋……間違えたかなァ……」
驚愕のあまり、引き攣った作り笑いをし声を震わせたぼくから腕を離さず、大尉は頭を振ってみせた。
「本官から逃げられると思っているのか? このバーカ」
体中から血の気の引く音――――――
その後に訪れた戦慄――――――
ギャアアアアアアアアアアア――――――ッ!!!
みっともないまでの絶叫とともに、夢から醒めたぼくは布団を蹴飛ばして跳ね起きた。ぼくは新年早々に初夢を見た。だがこれは初夢と言うにはあまりに無残な結末じゃないか……!
汗が出る時節ではないのに、胸から背中、そして顔にかけてびっしょりと汗が噴出していた。それも冷たい、嫌な汗である。ぼくの絶叫に、皆が起き出さなかったのが救いと言えば救いか……荒い息を繰り返しながら、ぼくは闇に馴れた目で窓辺を見遣る。寝床に着いたときには、夜空から舞い降りるような感じだった降雪は、すでに深々と降り積もる積雪へとその装いを変えていた。その様に言い知れぬ閉塞間すら感じ、ぼくは久しぶりで感じた嫌な予感を覚えたものだ。
―――――そう、任地が変わってもなお、波乱の足音は静かに、だが確実に迫っていた。
一月――――― 一般社会と同じく、軍隊における課業もまたこの月に始まる。
当然、一般社会においても仕事始めの際、種々の挨拶やら行事が執り行われるように、軍隊社会においても新年の際執り行われるお決まりの行事というものは確かに存在する。その舞台は主に連隊本部の正面、その中央では幔幕と、「君が代」を吹奏する軍楽隊に周囲を固められた台上に、帝国陸軍将兵にとって、およそその生命以上に大事な軍旗が連隊旗手の将校の手により鎮座ましましている。将校から初年兵に至るまで、兵隊屋敷の住人の一年は、この軍旗に対し拝賀する事から始まるのだ。
「無位無勲判任官一同を代表し、ここに謹んで新年を賀し奉ります」
連隊の最先任下士官の曹長が恭しく声を上げ、「無位無勲」こと下士官兵一同の姓名を書き連ねた奉書を台へ向け差し出す。そこに、普段ならまず目にすることの無い、まるで「仮面ライダー」のブラック将軍のような第一種礼装に身を包んだ連隊長が、
「その由、然るべき所へ手続きを取ります」
と答えて儀式は終了する。この「然るべき所」というのが実は曲者で、戦前戦中ははっきり「宮中」と言っていたのだが、戦後の「民主化」進展と、明治健軍以来の軍と天皇制との繋がりを否定する契機となった新憲法の制定と同時に、国防の文民統制という考え方が浸透するにつれ、新年の行事そのものが軍の方で「自主規制」の対象となってしまったのだった……そのような大人の事情はともかくとして、その後には食堂において、将兵共にささやかな新年の祝宴が待っている。
兵士としての一年目を乗り切った安堵感。入営二年目を過ぎ満期除隊まで数えるばかりとなった安堵感を、それこそない交ぜにして兵士たちはお屠蘇を飲み、雑煮をかっこむ。そして正月三が日には外出の門限が緩和され、衛兵勤務に付くごく僅かな例外を除き、営門を出た兵士たちは勇躍娑婆の雑踏へと溶け込み、酒気に色気にと、娑婆の空気をたんまりと漂わせて兵営に帰ってくる……
そんな和やかな空気の流れる束の間を、ぼくはアケミへの手紙を書いて過ごした。
「拝啓、アケミ様。
新年明けましておめでとう。
ぼくはどうにか、一年目のお勤めを終えることができました。
ひとえに、アケミが待っていてくれるからこそ、乗り切れたと思います。
辛い兵役も、一年過ぎてしまえば多少は楽になります。今年は忙しいながらも余裕を持って過ごせそうです。
しかし任地は東京に比べ冷えるのが玉にキズですが……
そちらへ戻って来れるかどうかは残念ながら未だわかりません。でも……何時か近いうちには戻って来られると思います。
アケミの言う通り、学校に戻って来たら追い付かれてるね。少し大人になったアケミと会えるのを、ぼくは楽しみにしています。
アケミも身体に気をつけて、学業に、アルバイトに励んでください。ではまた……」
手紙を書き終え、ぼくは頬杖を付き窓辺を見遣る。建物から通信塔、並木の連なりに至るまで、一面銀白色に覆われた営庭に、当初感じた閉塞感はすでに消え、打って変わって窓辺の風景から漂ってくる静寂の中では、むしろ明日への希望すらぼくには芽生えていた。言い換えれば、それは安寧―――――
―――――だが、それを覚えるには未だ早すぎたのだ。
そうした年始も解け行く積雪と共に過ぎ、ようやく普段の日々が営内に戻ってきた翌二月のある日の朝、通例の朝礼も終わり午前の訓練の準備に取り掛かっていたぼくの前に、普段ならぼくのことなど歯牙にもかけてくれないはずの内務班長の伍長が、この日は何故かつかつかとぼくの寝床へ歩み寄ってきた。
「鳴沢一等兵」
「はい……!」
「今日からお前は、陸軍挺身兵訓練課程学生となった。これより私物を纏め、学生専用施設に移動せよ」
「はい……!」(生返事)
は……!?
事の重大さに気付いた直後、ぼくの心臓を無形の弾丸が撃ち抜いた。
「ご、伍長殿、今なんと……?」
「だから、お前は明日から挺身兵になる訓練を受けるんだよ。了解?」
「自分……挺身兵なんかに志願してませんよ?」
「え?……じゃあ上に確認してみるわ」
そんな遣り取りがあってから20分後、再びぼくのところに戻ってきた伍長は、きっぱりとぼくに言った。
「間違いねえよ。お前、今日から挺身兵学生だわ」
「う……嘘でしょう?」
「だって人事課がそう言ってるもん。お前が志願状出したって……」
驚愕!……伍長と一緒にその足で向かった人事課では、女性補助士官候補生第一期、御年46歳の人事課中尉さんは、庶務の間々に摘み食いする煎餅と饅頭で満遍なく腹に付いた肉を揺らしながら言った。
「一等兵さん、あんた転勤初日に志願したじゃない」
「だってそれは……」
口籠りながら、ぼくは初めてこの基地の正門を潜った日の記憶を反芻する。東京の近衛旅団を出る間際に陶 大尉から託された封書……だがそれは、士官学校時代の恩師に宛てた私信じゃなかったっけ?
「……志願状、同封してあったわよ? それにご丁寧にも上官の推薦状まで入ってたし……」
推薦状……!?
どう考えても、前中隊長石橋中尉の差金ではないことは明らかだった。彼のか細い影の背後に見え隠れする、あの邪悪な気配を思い返すのと同時に、ぼくはこのとき初めて、今年の初夢の意味を悟った。そんなぼくの暗然を他所に、名簿から顔を上げると中尉さんはぼくにこう言った。
「まあ、全てはあんたの不注意にあるんだから、せいぜいシゴかれてらっしゃい……!」
突き放すような一言……この瞬間絶望に満ちた表情を浮かべたぼくの脳裏は、此処から離れた何処からかこだまする何者かの哄笑を聞き、それが一層の絶望を誘う……