もうひとつのラスト
――――時は、少し遡る。
――――陸軍参謀本部 通称「三宅坂」
二ヶ月前の「河北空港武装工作員襲撃事案」により生じた混乱を収拾するべく、ここ一ヶ月以上の間毎週のように行われていた参議官会議はこの日を以って終了し、査閲のため予定より遅れて入室した上座の主たる参謀総長が、真っ先に、かつ悠然と退出した後には、これまでひたすら儀礼と恭順の態度の下に隠してきた憤懣を、もはや隠そうともしなくなった将官たちが残された。
「飾り人形の分際で、今更のようにのこのことやって来たかと思えば!……あの暴言許しがたい!」
「貴公、口が過ぎるぞ……! 仮にも皇族ではないか」
「しかし……どうします?」
と、一人の将官が疑念を呈する。その瞬間、外見だけはいかめしい顔をした男たちの険しい視線が、一斉に官僚然とした容姿をした彼に集中する。
「どうしますって……何が?」
銀縁の眼鏡を人差し指で押し上げ、将官は改まった口調で言った。
「……今回の件で、国会では与野党とも徴兵制廃止への機運が高まっております。すでに法案自体は提出されておりますし、早ければ今期国会で本決まりになってしまう公算が高い」
「『新兵制法案』か……?」
「そうです」
直後、とった仕草こそ違え将官たちは一斉に同じ顔をした。彼らの関心はこの日より四度前の会議からすでに、二月の事件から離れてしまっている。そして彼らの関心は、軍人としての彼らの威信と立ち位置に少なからぬ影響を及ぼすであろう内政の一事へと傾いていた。
「仕方あるまい……」
と、一人の将官が応じる。
「……この時勢、旧来の徴兵という仕組みでは現代戦に適応できる戦力を維持できぬということはもはや明白である。それに……あのアメリカにおいてもすでに徴兵制の廃止が決まったことだしな。今現状を看過したとて、貴重な熟練兵の育成と活用が阻まれるという徴兵制の弊害がいっそう顕在化するのは、もはや時間の問題だ」
反駁の声が、所々から上がった。
「徴兵制は明治健軍以来、帝国陸軍の根幹を支えてきた伝統の一翼である。世界的な潮流だからと言って、軽率に迎合してよいものか……」
「一度失われた伝統はおいそれと挽回できるものではない。貴公には発言に留意して頂きたい。ことは熟考を要するのだ」
銀縁の将官が言った。
「確かに……政府機関や一般社会においても、徴兵制の弊害は共通の認識となりつつあります。彼らの言い分によれば、働き盛りの若人を、数年に渡り生産性に乏しい国防に引き抜かれるのは経済成長の上で大きな損失だとか……新聞すら、今次の事件に関し徴兵制のかくの如き弊害を大々的に書き立てている始末でして……」
「……全く、口を開けば経済成長、経済成長か!……現場の我々の苦労も知らずによくもそんなことを抜け抜けと……」
「事実誤認も甚だしい……!」
将官たちは憤った。憤らずにいられないはずがなかった。これまで軍隊という組織において指揮統率はもとより、幾下将兵の採用、育成、練成に心身を砕いてきたのは我々であったはずではないのか? これまでこちらの労苦など全く顧みたことのない外野と呼ぶにも等しい政府と、納税者という肩書きに甘えるばかりに徒に権利とやらをを主張してやまない国民は、今次の事件をこれ幸いと軍への干渉拡大の好機ととらえ、こちらの内情をまったく無視した法規を、有無も言わせずに押し付けようとしている……!
だいいち、統帥は神聖不可侵たるべきものではなかったのか? 統帥は至尊にして犯すべからざる天皇陛下御一人が固持し行使するべきものではないのか? 烏合の衆たる政府と愚昧なる国民に、どうして統帥という、国家の命運を左右する程の力を持つ事象をかくのごとくに壟断させ続けなければならないのか……!? そうした我々の不満を代表させるべく擁立したはずの皇族出身の参謀総長に至っては、こうした我々の憤懣を汲むどころか始終知らぬ存ぜぬと言う態度を一貫させ、ひたすら衆目への迎合に徹し続けている。
あの「大東亜戦争」で日本は確かに勝利した――――勝利したはずだ。
だがあれ以来、陸軍と日本を取り巻く「何か」が狂った――――
その狂った「何か」は、いずれ糾されねばならない。「大東亜戦争」で第一線に在った我々の手で――――
――――そのとき、一人の将官が言った。よく通る声をした、短めの口髭の男だった。手にした三本目の葉巻は、その三分の一がすでに燃えていた。彼が重い口調で語ったのは、これまでの話の流れの内に醸成されていた徴兵制廃止論に対する否定的な容認への、強い反駁だった。
「徴兵制こそが、精強なる帝国陸軍の根幹であり、一般国民の皇軍に対する揺ぎ無き信頼の源である。いくら世界的な潮流になりつつあるとはいえ、徒にそれに迎合し将兵の質を貶めるかのごとき愚を冒すのはいかがなものか? それに……」
「…………?」
「……昨今の若年層を蝕む悪しき風潮を鑑みていただきたい。自由とか解放だの、欧米のわけの判らん思考や軽薄なる流行に蝕まれ、心身ともに軟弱な若人は今後ともに増え続ける傾向にある。これでは有事の際、軍民一体となった国防意識の醸成に大きな瑕疵となるは必定」
一人の将官が相槌を打つように言った。
「それだけではない、経済成長が拡大すれば、それだけ軍への志願状況にも影響が出てくる。その上に徴兵制廃止……これでは近い将来、国土防衛に必要な兵力を維持することすら、覚束無くなるやも知れません」
「すでにそうなっているではないか……!」
さらに一人の将官が声を荒げた。
「現在陸軍全兵力の定数は25万である。だが実数は徴兵制を敷いたところで23万に辛うじて届くかどうかだ。充足率92パーセントという数字に寒心を覚えぬ者はよもやこの場にはいるまい。現状ですらこうであるのに、もしこれに徴兵制廃止が加われば……」
「その定数を削減するという案すら、政府では囁かれているそうですな……」
「…………」
男たちは不機嫌に黙りこくり、そして話題は沈黙の内に替わる。それを切り出したのはやはり、銀縁眼鏡の、官僚風の将官だった。
「――――その徴兵出身の一等兵ですが、今後の処遇はどうします?」
末席の将官が嘆息した。
「あれほどの死地を潜ったのだ。以後除隊まで、実施部隊からはなるべく遠ざけたほうが賢明だろう。事務なり会計なり、毒にも薬にもならん後方勤務でも宛がっておけばよい」
「……馬鹿なこと言うな」
再び開かれた、ドスの利いた声……半分が燃え尽きた三本目の葉巻を灰皿に押し潰し、シガーケースから四本目を取り出しながらに髭面の将官が言った。
「…………?」
「たかが一人、もともと軍人ですらない取るに足らぬ一兵卒のおかげで、我らの面目は丸潰れだ。かの一等兵には、然るべき代価を払ってもらわねばなるまい……もちろん、その生命でな」
「…………」
沈黙――――それは先刻のそれより重く、冷たい。
「……で、どうする?」
一人の将官が切り出すように言った。ただそれだけで、この場の全員の総意が葉巻の主に靡いたことぐらい、幼稚園児にもわかるというものだ。銀縁眼鏡の将官が再び人差し指でその眼鏡を整え、口を開いた。
「……実は近々、外務省ルートで国連より戦闘部隊の派遣要請が陸軍に来ることになっております。我々としては貴重な実戦経験とデータを収集するためにも、然るべき部隊を該当地域に投入し、作戦行動に当たらせたいと考えております」
「空挺旅団か……!」
「はい……」
周囲のどよめきを前に、銀縁眼鏡の将官は官僚的な同意で応じた。
「……その該当地域とは、ベトナムかね?」
「……いいえ、中東です。ですが、特務機関の事前調査ではベトナムに勝るとも劣らぬ程に現地の状況は緊迫しているとか……」
「中東だと……」
小さくは無いどよめき―――――将星たちの動揺も尤もなことであるのかもしれない。、明治健軍以来、そのような遠隔地まで陸軍の実戦部隊が遠征したことなど、皆無であったからである。だが動揺は壮挙を前にした感銘の囁きに取って代わり、来るべき出師を前に沸き立つ彼らの脳裏では、「取るに足らぬ一等兵」のことなど文字通りの「鴻毛」となる―――――
「可哀相に……だが、示しは付けねばなるまい」
「まあ、そういうことだ。昔なら有無を言わさず腹を切らせているところだが、名誉の戦死を遂げる場を与えられただけ幸運というものだろう……これも、時代の変化というやつだ」
男たちは笑った。乾いた、あるいは豪快なまでの声で―――――