その十六 「そしてぼくは……」
意識不明からの回復と、それに続く療養、リハビリは辛かったが、それ以前に経験した挺身兵訓練と、「想定外の」実戦の苦しさに比べれば、苦行のうちには入らないだろう。
先に退院し、原隊に復帰した中沢兵長たちに遅れて挺身兵課程の修了と挺身章の授与を知らされたのは嬉しかったが、それで死んでいった兵士や警官が蘇るはずも無く、それを考えるたびにぼくが一抹の苦渋を覚えたのも確かだった。
『―――――内務省、警視庁の合同葬に陸軍側から参列した参謀に、殺害された警察官の遺族が掴み掛かるといった事態も起きましたが、儀式そのものは厳粛に進行し――――』
集中治療室から生還を果たし、移された一般病室で目にしたテレビ中継の一コマ。惨劇そのものは幕を閉じたものの、その後始末は未だ続いていた。
かの亡命事件で、二度も侵犯機――――よりにもよってその一機は、わが国本土への明確な攻撃の意図を持っていた――――の侵入を許した空軍への非難が集中した結果、空軍参謀長を始めとする空軍首脳が防衛省へ一斉に辞表を提出。これに対し統合作戦本部は、一斉に辞任されては人事が混乱するとの理由で一部幕僚への保留を勧めたが、最終的には防衛大臣権限で辞表は受理された。
そして時の内閣は戦闘機、攻撃機などの正面装備調達に傾斜するあまりこれまで等閑にされてきた下方監視能力を持つ早期警戒機の調達予算新設、それに起因する国防予算の増加を抑制するべく、沖縄及び北方諸島に配備されている「富嶽改」戦略爆撃機の早期退役を閣議決定した。海軍の運用する弾道誘導弾搭載潜水艦と、海空軍の保有する戦術核爆弾と並び日本の核抑止力の有力な一翼を担ってきた兵力の廃止決定は、特に保守陣営の間において国内に少なからず動揺と議論を呼んだが、「大東亜戦争」前ならば統帥権干犯として確実に流血を見たであろうこの種の決定は戦後の現代では異例な程の速やかさの内になされ、かつ国民に受け入れられたところに、やはり「民主化」した戦後の国民意識の変化を見て取ることができた。
そして陸軍……総数にしてたった30名でしかない武装工作員の浸透をむざむざと許したことはおろか、彼らの前に多大な損害を出し多くの人命を損耗させた陸軍首脳に対する非難は当然大きかった。
「彼らは尊い生命を神州護持に捧げたのだ! 陸軍兵士として、名誉の戦死は当然覚悟されるべきことではないか!」
防衛省玄関口で、監督責任を追及するマスコミを前に、そう言い放った将官がいた。一昔なら「尽忠報国」の精神の発露として、当然のことと受け止められた―――受け止めざるを得なかった―――発言、だが今は一昔前ではない。そして彼はそれを弁えなかったが故に、自らの属する組織における命脈を縮めることとなってしまった。
新聞、ラジオ、週刊誌……およそ「自由」、「民主化」の風潮に相応しくない問題発言はおよそ考えられるあらゆる媒体に乗りながらに増幅され、当人はおろか陸軍に対する凄まじいパッシングとなってブーメランのごとくに帰ってきた。程無くして陸軍参謀本部次長自ら記者会見の席上に立ち、部下の問題発言を陳謝することとなり、発言の主たる将官は予備役に追い遣られることとなったのである。
陸軍参謀総長は宮中に参内した折、実兄たる天皇陛下にこれまでの経緯の責任を取る形で半年間自らの給与の半額を返上する旨を告げ、陛下のご了承を得た上でその旨防衛大臣、内閣総理大臣に上申し、容れられた(法規上、内閣総理大臣は「大元帥陛下の名代」として陸海空軍の指揮権を持ち、全ての制服軍人の上位に立つ)。後にこれに、軍事参議官会議のメンバーたる全ての将官が続いた。朝鮮戦争後の軍規改正により、こと陸軍において師団長以上の役職の人事権が天皇陛下から内閣総理大臣に移っていたのは、ある意味では幸いとも言えたかもしれない。誰にとって? とはこの場で述べるべきことではないであろうが……
一方、国会――――――
野党の一翼を構成する革新勢力、そして与党内の左派勢力により草案が練られたある法案が、この事件を追い風にまさに、今国会に提出されようとしていた。
『――――国会では今回の事件を機に、野党主導による新兵制法案の衆院通過は確実と思われます。もし通過した場合、明治健軍以来の陸海軍の伝統と陣容は大きく一変し、防衛省及び現場は難しい対応を迫られそうです――――』
「新法案」……それは明治健軍以来、帝國陸海空軍の屋台骨を支えてきた徴兵制を廃止し、全面的な志願兵制への移行を企図した兵制改革法案である。
亡命事件により死傷した兵士の約半数が徴兵出身者であったことが、「大東亜戦争」後の平和に慣れた世論の動揺を煽っていたことは紛れも無い事実であり、軍に批判的なリベラル派議員、そして高度経済成長期にあたり、徴兵制に左右されない若年労働力の安定確保を望む産業界の意向を受けた与党議員の多くも、最終的にはこの法案に同調するものとの観測が、早くからマスコミでは為されていたのであった。
月が替わり三月に入ったある日、歩行訓練も兼ねて足を延ばした病院の談話室―――――
『――――野党は早くて来月初旬にも法案を提出する模様。これに対し与党の一部も一部条項の改定を条件に同調する兆候を見せており―――――政府は対ソ外交、内政ともに一層困難な舵取りを余儀なくされそうです――――』
「どうなるのかねえ、陸軍は……」
「オレの知ったこっちゃねえや」
「そりゃあ、みんな嫌だろう。兵隊に取られるなんて……」
「あーあ……あれがせめてもう四、五年早かったらなあ……こんなところで燻っちゃいないのに」
「同感だ」
テレビのニュースを前にあれこれと語り合う患者たち―――――その環には加わらず、ニュースが終わるまでぼくはテレビ画面に目を凝らし続けたのだった。
――――そのまま再び、月は替わった。
四月もとうに終わりが見えていた。
二ヶ月近い療養を経て、原隊に戻ったぼくを、昇進と医務室への入室が待っていた。
人事係の伍長から受け取った上等兵の階級章を掌の中で、ぼくはまじまじと見つめた。一等兵の階級章に比して星が一つ増えただけの相違しかないそれが、だがぼくが兵士の最高位に上り詰めたことをその鈍い輝きの中に教えていたのだった。
そして―――――胸の一点で輝きを放つダイヤモンドとオリーヴに、ぼくが覚えたのは誇らしさではなく気後れであった。
医務室の鏡の前に立ち、挺身章を付けた自分の姿にまじまじと見入る。
「…………」
病み上がりで痩せた身体に、折角の挺身章が全く似合わないことに気付き、赤面とともにぼくはそれを外した。以前は意地でも挺身章を掴み取るべく努力していたはずなのに、いざそれをその手に掴んだ途端―――――それ以前のぼくに戻ろうとするぼく自身がいるのだった。これを堂々と胸に着けて営内を歩ける日は永遠に来ることの無いように、ぼくには思われた。
「兵役継続か? それとも除隊か?」
原隊に復帰するやぼくの眼前に示された選択は、それを示された当初はさしてぼくの心を動かさなかった。傍目から見れば僥倖とでもいうべき除隊の機会を示され、ぼくはそれを純粋に喜んだものだ。意外に早くやってきた兵隊屋敷からの別れ。意思表明まで一週間の余裕を与えられたとき、ぼくは再び社会に戻っていく近い将来の自分の姿を想像し、胸を弾ませたものだ。
だが……日を経るにつれ、ぼくには判らなくなった。
―――――鳴沢も目標を作れよ。無事に挺身章を取ったらやりたいことを決めればいい。
―――――地獄の中で聞いた中沢兵長の言葉が、ぼくを毎日のように困惑させ続けた。
唐突に沸いた、果たして除隊が、挺身章を取ったらやりたいことになるのだろうか?……という迷い。
こんな状態で除隊なんて……納得がいかないという強い思い――――
こんな状態で社会へ戻っていくことへの、名状し難い恐れ――――
それを抱えたまま病室で日を過ごし、一週間の最後の一日を迎えたそのとき――――
「鳴沢上等兵、手紙が来ているぞ」
軍医から直々に渡された手紙の封筒に、「明美より」という一文字のみを見出した直後、ぼくは差出元すら判然としない封筒をろくに確かめもしないままに開け、中に入っていた手紙を食い入るように読むのだった。自分に示された選択にかまけていたばかりに、愚かなぼくは彼女のことなど全くに忘れていたのだ。
ほんとうに、今回の軍務ご苦労様でした。醇く
ん。明美は醇くんの活躍を知り、心から
かんげきすることしきりです。さて、醇く
んはこれからどうするのかな? きっと真面目で使命感あふれる醇くんのことだ
から、このまま陸軍に留まり、兵役を全うするのでしょうね。明美は醇くんのことずっと待ってるか
ら、心配しなくてもいいんだよ。だから醇くんには、醇くんの信じる道を、まっすぐ
に歩いて欲しいの。
げんじつの社会は、辛くて厳しいことばかりだか
ら、醇くんには、そのまま軍隊にいて、世間に煩わされない幸せな時間を満喫してもらいたいと明美は願うものです。娑婆では兵役を終えただ
れもが、娑婆の変わりようを嘆き、悲しんでい
るのです。醇くんに言おうかどうか躊躇ったんだけど、せめて恋人として、真実を話すのは
とうぜんのことと思い、明美は手紙をしたためた次第です。これが、今の明美にできる醇くんへの精一杯の
おもいやりです。
もし醇くんが何も知らないまま娑婆に戻り、困るようなことにな
っては大変だと思い、明美は大学の慣れぬ和文タイプライターを使い、この文章をかい
ています。未だ使い慣れないのでこのような変な文章になってしま
い申し訳なく思う次第です。醇くん、あなたは今何を考えて暮らしてい
るのですか? 軍務を辛いと考えている
のですか。もしそうだとしたら、あなたはとんでもない思い違いをしているのではないでしょう
か。陸軍には醇くんのことを心から心配してくれる素晴らしい上官がいるじゃないですか。それだけを、明美は最後にいっておきたいと思います。
ことしは例年になく暖かいようです。
のはらでも草木が青々と萌えています。明美は醇くんのためを思い、このかたち
ばかりのお手紙をしたためさせていただきました。醇くんにはお変わりなく、
からだにお気をつけて軍務に励んでいただきたいと思います。バイバイ。
明美より 慣れないタイプライターはやっぱり難しいなあ……肩凝るわぁ……
「…………?」
タイプライターかぁ……改行に失敗したのか、歪な並びをした活字で占められた文面に、ぼくは苦笑を覚えた。わざわざタイプを使って丁寧さを表に出したつもりなのだろう。だがその結果は却って、オッチョコチョイな彼女に対する愛しさをさらに募らせる効果を、ぼくに与えてしまっている。
でも戻って来なくていいって、寂しがり屋なアケミらしくないような……彼女なりの精一杯の強がりなのだろうか?
それでも個性の無い手紙を弄くるうちに、ぼくは気付く―――――ぼくが知らないうちに、アケミもまた大人の女性になりつつある……?
そこまで思考を巡らせたそのとき、連隊本部付の士官が現れ、ぼくは彼の後に従い連隊本部へと向かう―――――
「鳴沢上等兵、入ります……!」
加藤連隊長は椅子から立ち上がり、最初はぼくに握手を求めてきた。
「任務、ご苦労だった」
一礼するぼくを労い、そして彼は隅に控える副官に目配せした。副官は小さな箱を恭しげに捧げ持って進み出、ぼくの眼前で開かれた箱の中には黒い、メダルのようなものが丁重に収まっていた。
「鳴沢上等兵、君に贈り物がある」
「…………?」
「武功章だ」
呆気に取られるぼくの前で連隊長はニヤリと笑い、ぼくの前で文面を読み上げる―――――
「陸軍上等兵、鳴沢 醇。貴官は去る二月二六日における武装工作員掃討作戦において抜群の武勲を挙げ、全軍の作戦完遂に多大なる功績有りと認む。よって陸軍参謀総長の命により武功章を授け、その名誉を顕彰せしむ……昭和五一年四月二日―――――」
「……要りません」
文面を読み上げる声が、止まった。
「何……?」
「だから……欲しくないんです」
「貴様……!」
「待て副官」
色を為す副官を宥めるように手を上げ、連隊長は言った。
「……欲しくない理由を、聞こう」
「相応しい人間は、他にいると……自分は思いました」
「…………」
「自分には相応しくないと思います。ただ……それだけです。」
途端に場を支配する沈黙と静寂……だがそれに押し潰される程、ぼくは兵士として経験を積んでいないわけではなかった。やがて少し言葉を失う素振りを見せ、連隊長は頷いた。
「わかった……鳴沢上等兵。貴官の意思は、本官から直に東北軍管区司令官に伝えておく」
武功章を仕舞わせ、そして連隊長はぼくの姿に目を見張るようにした。
「今気付いたが、挺身章を、付けていないようだが……?」
「今の自分には、似合いませんので……」
「煽てられるのが嫌いと見えるな。鳴沢上等兵は」
そう言い、連隊長はぼくに座るよう勧めた。そして苦笑する。
「武功章で煽て上げ、軍に残る気にさせようと思ったが、早速に当てが外れてしまったようだ」
「…………?」
胸のポケットから、連隊長は煙草の箱を取り出した。
「どうだ? 全快祝いに一本」
「遠慮させて頂きます」
頷き、箱を仕舞いながら連隊長は言った。
「実は今さっき、陶君と話をした」
「……そうですか」
「鳴沢上等兵。君は、除隊後の人生設計というやつを考えたことは……もちろんあるんだろう?」
何故そんなことを聞くのだろう?……漠然と疑問に思いながらも、ぼくは頷いた。
「……よければ言ってみたまえ」
「それは……大学に残って、最初は無給から講師をやって……好きな研究を続けて……いい会社から誘いがあればそこに移るかもしれないけれど……それまでに綺麗なお嫁さんをもらって、子供も育てて……最後はどこか長閑な町の大学にでも雇われて、そこで教授ぐらいになれれば……とぐらいは……あまりに漠然としすぎた人生だけど……自分には、それが似合ってると……思います」
「ふむ……」
連隊長は自らのあごを摘むようにした。
「……陶君が今ここにいて君の人生設計を耳にしていれば、君はこの場で陶君に即座に絞め殺されていることだろうね」
「はあ……」
「どうだ? もう少し此処に残って、自分を見詰め直す気はないかね? それから社会に戻っても遅くは無いと思うが……」
「自分のことは、自分で決めます」
連隊長の残留を志操するような口調に、不満を覚えたのは事実だった。その彼もまた、ぼくの口調に含んだ憤懣を感じ取ってくれたようだった。
「誤解しないでくれたまえ。別に本官は君の人生にあれこれと口を差し挟むつもりは無い。だが陶君がね……こう言って聞かないんだよ。鳴沢上等兵を社会に放つことは、これ即ち帝国陸軍にとって重大な損失である……と」
「はははは……買い被られてますね、自分」
「そうとも言えない」
途端、連隊長の視線から柔和さが消えた。
「…………?」
「鳴沢君、陶君が悲しむよ」
「自分は取るに足りない、何処にでもいるような兵卒ですから……」
「君がそれで終わる人間ではないことを、今回の事件が本官に教えてくれている。君は努力によってはこの分野で十分成功できるはずの人間であるのに、どうして此処に一生を掛けるに値する価値を見出そうとしない?」
「…………」
その後に流れた気まずい沈黙を破ったのは、連隊長の決断を促す言葉。
「……で、どうする?」
「どうせ……残って頑張ろうとは思っていたので……」
「残るんだな?」
「はい……」
「声が小さい……!」
「鳴沢上等兵、兵役継続を希望します……!」
連隊長は頷いた。そして笑い掛けた。
「よし……貴官は転勤だ。」
「え……?」
「君にはこれからすぐに関東軍管区へ転属してもらう。具体的な配属先は、今日すぐにでも知らせる。これからすぐに兵舎にとって返し、1500までに身辺整理を完了して置きたまえ。本官の命令は以上である」
関東? 本当に?――――込み上げてくる歓喜に震える暇を、連隊長は与えなかった。
「鳴沢上等兵」
「はい……!」
「向こうに戻っても、精進を欠かさぬように。幸運を祈る」
立ち上がり、敬礼――――それを交わす一方の顔には満足があり、一方には安堵があった。
安堵――――それは、漸くで住み慣れた場所に戻れるという希望にも似た安堵。
決断したその日の内に、兵舎にとって返して身辺の整理を済ませ、移動の日時を知らされるまで所在無げに営庭の大通りを歩いていたぼくに訪れた最後の波乱は、営門を越えてぼくに向かって走ってくる女性の姿となって現れた。
「醇くぅーん!!」
うそ?……久しぶりで聞く明るい声に、ぼくは考えるより早く振り返る―――――その先に息せき切ってぼくに駆けてくる彼女の姿を見出したとき、ぼくもまた外聞も忘れて走り出すのだった。
「アケミ……!」
「醇くぅん! 会いたかったよぉ!」
胸元に飛び込んできたアケミを抱き止め、そしてぼくは勢いに任せるまま若い女体を翻弄する。振り回されながらにアケミはぼくの耳元に顔を埋め、そして笑いながらに泣き続けるのだった。
「アケミ……駄目だ。そんなに涙を流しちゃ……あーあ、折角の美人が台無しじゃん」
期せずしてぼくらは、体を密着させながらに互いを見詰める。ぼくの指に溜まった涙を拭われながら、アケミは声を震わせてぼくに聞く。
「醇君、怪我は大丈夫!?」
「ああ……この通り」
「よかったぁ!」
再び抱擁―――――濃密な睦みあいをしばらく続け、互いの感激を制動できる刻の訪れを見計らっていたかのように、アケミはさらに聞いた。
「醇君、そのベレー帽どうしたの?」
「ああ、これは挺身兵……おれ、レンジャーになったんだよ」
「ええーっ! 醇君レンジャーになっちゃったの?」
「うん……まあ」
制服姿のぼくを味わうように頭の天辺から爪先までを見詰め、アケミは今更のように目を見張る。
「醇君……なんて言うか……出世したねえー……」
「そう……?」
ぼくを凝視するアケミの、戸惑いすらこもった視線に、ぼくは話題を変える必要を感じた。ぼくは胸元からお守りを取り出し、すでに鮮血で汚れ切った袋をアケミに見せた。
「こいつのお陰だよ」
「醇君……これ何?」
「え……?」
「その首に提げてる変な袋……何?」
「これは……アケミがぼくに作ってくれたお守りじゃないか」
「アケミ、そんなもの醇君に作った覚えないよ?」
「…………?」
言葉を失い、ぼくはアケミの顔を覗き込むようにする。そんなぼくの視線の先で、アケミはその端正な顔立ちに一層の戸惑いを宿していた。
「ちょっと待って……アケミ、おれのために抜いて渡してくれたんじゃなかったの?」
「抜くって……何を?」
「アケミ……おれたち恋人同士じゃん。別に恥ずかしがることなんかないんだよ」
「恥ずかしがるって……何を?」
「だから……ヘアだよヘア」
「は……?」
「だから!……幸運の御呪いにアケミは大事なところの毛をぼくにくれたじゃないか!?」
直後、アケミの顔を染めた戸惑いは吹っ飛ばされたかのように消え、その後には頬を紅潮させ声を荒げるアケミが現れた。
「醇君! 訓練のし過ぎで頭おかしくなっちゃったんじゃないの!? そんなことしたらアケミお嫁に行けなくなるじゃない! 醇君バッカじゃないの!?」
「いや……ちょっと待った。で……アケミこそ、ここに何しに来たの?」
「アケミは連れ戻しに来たんだよ!? 醇君を!」
「連れ戻すって……此処から?」
「当ったり前じゃない! 醇君、あんなに怖い目に遭わされたんだもん。当然除隊するんでしょ?」
「ちょちょちょっと待った。じゃああの手紙は!?」
「手紙!?」
見えない力に突き動かされたかのようにぼくは手紙を取り出し、アケミに示した。それを引っ手繰るようにして目を通すや、アケミは困惑すら浮かべぼくを見詰めたのだった。
「アケミ……こんな手紙書いた覚えないよ」
「え……?」
「それにウチの大学、和文タイプライターなんて未だ設置工事中だし……」
「…………」
意に反し二人の間を流れ始める気まずい空気――――それを振り払うかのようにアケミはぼくの腕を掴み、声を荒げた。
「醇君、当然除隊するんだよね?」
「…………」
「醇君……?」
「ごめん……今残るって連隊長に言ってきた」
沈黙―――――それも重い沈黙―――――が、アケミが最も不機嫌であることを示す仕草であることを、ぼくは思い出す。そして俯き肩を震わせる彼女の、子供っぽく紅潮した頬からは、大筋の涙すら流れ始めていた……ヤバイ。
「…………」
「アケミ……?」
込み上げてくる戦慄を感じながらも、ぼくはなおも弁解を試みる。
「う゛―――――……」
「アケミ……機嫌悪くしたなら、おれ謝るから……」
「う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅぅぅ――――――……!」
「アケミ!?」
「醇君のばかぁぁぁぁ―――――――っ!!!」
鉄拳――――――左腕から繰り出されたアケミのそれは、ぼくの頬を見事にヒットした。
「もう知らないっ!! 勝手にしなさい!!」
憤然として営門へ向かって行ったアケミの後に残され、仰向けのまま天を仰ぐぼく―――――
「何で……こうなるの?」
恋人に取り残され、立つ気力すら失ったぼくが、拍手と同時、突然に傍に現れた人影に只ならぬ戦慄を覚えたのはそのときだった。
パチパチパチパチ……
「…………?」
「『鳴沢上等兵、叙勲の後、ついに破局』か……禍福は糾える縄の如しとは、けだし名言であるな」
拍手に続く、聞き覚えのある女性の声。だがそれはぼくにとって歓迎されざる声……!
「…………!?」
アケミと全くに趣の異なる制服姿の長身に、ぼくはわが目を疑う。そんなぼくの視線の先で陶大尉はやはり、淡い太陽の光をぼくから遮るように仁王立ちし、あの涼しい眼をぼくに向けて口元を急角度に曲げ、そして刃のような笑みを湛えていた。
「鳴沢上等兵、元気そうでなにより」
「一体何故大尉が……?」
「感服したぞ鳴沢、傷付き、恋人を失ってもなお兵役をまっとうせんというその心意気……やはり貴様は本官が見込んだ通り、只者ではなかった」
直後、脳裏に曇天のように沸き起こった不審の赴くまま、ぼくはたどたどしい言葉を吐き出す。
「でも……だって……手紙には……」
「……鳴沢上等兵、久しぶりに本官の肩、揉んでくれるか?」
そう言い、大尉はわざとらしく首を捻り、腕を回すのだった。それを目の当たりにした直後、ぼくは全てを悟った。
「…………!」
「未だに肩が凝って仕方がない。特に使い慣れぬワープロを使った後ではな……」
「何てことを……!」
「最終的に残ることを選んだのは、貴官ではないか?」
「じゃあ……あのヘアは……」
「ああ、あれか……残念ながら脇の毛だ。下の毛では断じてない」
「…………」
立て続けの衝撃に、起き上がることも適わないまま絶句したぼくに、沸々と沸き始める怒り――――ぼくの涙目からそれを察した途端、大尉の声がいきなりに女性の声から軍人のそれに戻る。
「本官も女だ。男を選ぶ目ぐらいある。貴様のような軟弱者に、むざむざと貞操を曝すような真似をするものか」
「この卑怯者……!」
「軍人が評価されるのは、過程ではなく結果だ。鳴沢上等兵」
「あんまりだぁ……!」
泣き崩れるぼくに、大尉は歩み寄り、腰を落とした。漸くで起き上がったぼくの弛みきった目と、大尉の隼のような眼差しが交差――――そして大尉の次の言葉は、ぼくの想像を超えていた。
「さあ、あきらめて転勤しような……空挺旅団に」
「……空挺!?」
「貴様ももはや一端の挺身兵ではないか。そこ以外の何処に、身の置き場がある?」
抗議しようと声を上げたぼくに、大尉は唐突に顔を近付けた。
「…………!?」
『……運良く向こうで武功を上げれば、今度は下の毛をくれてやる』
耳元で囁かれ、言葉を失ったぼくに、大尉は微笑みかけた。それはぼくの知る大尉らしくない、いじけきった男を惑わす甘美さすら漂う微笑―――――
「アケミのがいい……」
「…………」
直後、大尉の顔から一切の表情が消えた。すっくと立ち上がると、大尉は周囲に向けあの凛とした声を張り上げた。
「オイ!」
「え……!?」
突如現れた屈強な男二人に、ぼくの身体は両側から掴まれ、そして引き摺り上げられた。唐突のことに混乱するぼくをあの冷たい視線で一瞥すると、大尉は二人に命令した。
「連れて行け」
「ハッ!」
「いやだぁー! 離せぇー! 離してくれぇー!!」
意に反し、強い力で引っ張られて行くぼく、理不尽な仕打ちにぼくが上げた抗議を、大尉は例のごとき難詰調で突き放す。
「見苦しいぞ鳴沢!……貴様も男なら観念して定められた道に従え」
「この鬼!……悪魔っ!……こんなところ絶対辞めてやる!」
そのまま迎えのジープに押し込まれ、文字通りに連行同然で基地から連れ出されるまで、ぼくは引き摺られながらに脚をじたばたさせ、抗議の声を上げ続けた。今思えば、それはあまりに虚しく、かつ無謀な反抗―――――
―――――この後、仙台基地に隣接する飛行場から、陸軍のヘリコプターにより晴れて(!?)関東管区に戻って来たぼくを、兵役期間中最大にして最悪の波乱が待ち受けていたのだが、この話はまた別の機会に語ることとしよう。
―――――「ホット-ペッパー3」 終―――――