その十五 「事後処理 その後……」
―――――西暦1976年2月24日
日本時間06時12分。
今しがたまで、野山の一帯を支配していた硝煙と鮮血の匂いの覚めやらぬうちに、ヘリはその上空に到達し、惨劇が防がれたばかりの場所へとその「乗客」を、ファストロープを以って降ろし始めていた。
『――――こちら先遣班、地上に脅威を認めず』
最初に降着し、山中に歩を標した二名の隊員が、据銃の構えを崩さぬまま、喉頭式のマイクを通じヘリに下の状況を伝える。直後に、ドアを開放されたヘリのキャビンの両側から、背中に通称「テラ銃」こと、64式改短小銃をさげた特殊部隊隊員が続々と山中に降り立ち、事前に示し合わせたかのように銃を構え四方へと散っていく―――――
『――――S1、周辺に脅威の存在を認めず(オールクリヤー)……』
『――――S2、敵性工作員と思しき死体複数を確認……』
『――――SL了解した。引き続き捜索を続行せよ』
『――――S3、敵性工作員の根拠地と思しきポイントを確保。死体一体を確認……』
隊員の散った各所から、指揮官の耳に続々と入ってくる報告――――それに聞き耳を立てながらも、自らも歴戦の勇士である指揮官の陸軍中尉は制圧すべき敵の姿を捜し求め、周囲に鷲のような眼差しを巡らせている。
「…………」
地上で時を経るにつれ、巡らせている視線から、死地に晒された時のような厳格さが少しずつ消えていく――――
やがて周囲の空気の平穏なることを経験と勘から敏感に察した指揮官は、このとき初めて直属の部下に移動を命じる――――
そして彼らのもたらした緊迫した空気は、この小さな山中の一角に、かかる事態の結末を見出した一隊からの報告により、完全に解消される―――――
『――――S4、味方生存者四名を発見。全員負傷している模様。他二名重体……』
『――――重体者の内訳を報告せよ……』
『――――内訳は、敵性工作員の指揮官と思しき者一名……挺身兵学生一名』
『――――了解した』
位置を知らされた後に通信を切り、指揮官は無言のまま直属の部下に前進を命じる――――
――――電子作戦機に電波妨害、そして警戒の手薄になった太平洋側から防空識別圏を突破し低空飛行で本土上空に侵入したソ連機の空爆を受け、その一角から未だ炎を立ち上らせている空港を臨める平地に、彼らの制圧しようとした敵の末路は在った。
「…………」
四人全員が傷つき、力を失ったかのようにその場にへたり込んだ挺身兵学生。その内最上級者らしき恰幅のいい男は、その腕の中に酷く傷付き、鮮血に上半身を汚した青年を抱いていた。
その青年の顔に、指揮官の中尉は見覚えがあった。
「…………」
確かめるように、周囲に巡らせる視線――――その帰結として、彼ら五名の片隅に、破壊されたレーザー照射機とともにうつ伏せに倒れ込むもう一人の屈強な人影……それらを目にした瞬間、確証こそなかったが、その男との壮絶な格闘の末、青年は彼の任務を妨げ、重要な亡命機を破壊工作より救ったのだと中尉は悟った。
恰幅のいい男が、哀願するように言った。中尉が彼らに何かを語りかけるよりも早く―――――
「頼む、こいつを……鳴沢一等兵を助けてやってくれ。」
言われるまでもないというかのように頷き、中尉は喉頭式マイクの送信スウィッチを押えた。
「SLよりペリカンへ、こちらまでヘリを回せるか?」
期せずして彼らの上空に迫り来るサーチライトの光線―――――
乱雑に地表を荒らす重厚なローターの轟音と風圧―――――
『――――こちらペリカン、SLの位置を確認。ロープによる収容は可能と判断。送れ……』
「こちらSL……頼む」
中尉は、青年を抱いた男に歩み寄った。そして青年の顔を覗き込むようにした。
「間違いない……」
「…………?」
白み始めた空の下で、青年の顔からは一切の血色が失われていた。その様はまるで、作り物であるかのような蒼白が、彼の肌を冷たさとともに染め上げているかのようであった。応急措置すら気休めに過ぎないような、相当な深手を負っているはずなのに、青年はあたかも自らの生命を引き換えに何かを成し遂げたかのような、満ち足りたような表情で眠りに就いている―――――
「こいつのお陰だよ。こいつがいたから、俺たちはこうやって生き残れた……」
放心したような男の言葉を聞きながら、中尉は手袋を取り、そして青年の首筋に直に充てた指先の感触に、彼の巌のような心ですら動かされた。
「安心しろ。微かだが未だ息はある……」
「じゃあ……」
頬に薔薇色を宿した四名に、中尉は無言で頷いて見せた。衛生兵資格を持つ中尉の部下が、二人係りで青年を抱え、ヘリから降ろされた担架へと青年の傷付いた体を移し替えた。それを見計らい、中尉は立ち上がった。
「総員、この青年の姿をよく目に焼き付けておけ……」
「…………?」
「この青年が……この一等兵が、身を呈して脅威を排し、わが国の危機を救ったのだ」
「…………」
それに応じる無言、だがそれは彼の部下たちの、「了解」の意思表示であった。直後、ウインチによりゆっくりとホバリングを続けるヘリへと上っていく担架を見上げながら、中尉は傍らの通信兵を呼んだ。
「通信兵、三宅坂に繋げ」
「ハッ……!」
―――――だが。
「隊長……」
「どうした?」
「臨時作戦本部は、たった今を以って解散し、皆慰労会の場へ移ったと……」
「…………!」
自ずと震えを来たす中尉の拳―――――
中尉の、彼自身の昂ぶる内面を押し殺すかのような瞑目―――――
「彼らにとって我々は……単なる駒でしかないということか!」
残された挺身兵学生四名の空港への搬送を他の部下に任せ、中尉は通信兵を伴い山中を歩き出した。敵の工作員は完全に制圧され、彼らのこの場における存在意義は、すでに経過してゆく時間とともに、その大半を失われようとしている。
「戦闘は会議室で起きてるんじゃない……現場で起きてるんだ……」
「隊長……?」
「いや……何でもない、独り言だ」
中尉の、山中を歩く歩調が一層に勢いを増した―――――
―――――西暦1976年2月24日
日本時間07時06分。
九州某市の一住宅―――――
年の頃は五十代半ば、勤続30年近い堅実な銀行員たる彼は、その日も早朝の決まった刻限に起床し、新聞の三面記事を覗きながら朝食の目玉焼きなぞを箸で突付いていた。
「母さん……朝から頭がガンガンするんだが……」
前日は彼の親類の結婚式があり、久しぶりでの親類の集まりの中で、人の良い彼の、決して頑健とはいえぬ身体は飲めぬ酒を勧められるままに呷り続けた結果として、一夜のうちに二日酔いにも似た症状を呈していたのであった。二児の父であり、その内兄はすでに結婚し家庭を持っている彼としては、結婚式の光景にはとっくに慣れたつもりではあったが、その日娘を花嫁として送り出した彼の実兄の泣き顔を思い返す度、彼自身も押し寄せる寂しさに胸を詰まらせたものだ。
まだ台所に立っていた彼の妻が、まな板の上でお新香を切る包丁を止め、水の入ったコップを持ってきた。
「あなた飲みすぎよ。昨日いくら祝いの席だといっても限度ってものが……」
「すまん……」
二人の息子のもう一人――――現在兵役に付いている大学生の次男は、社会に出た暁には果たしてどんな女性を連れ、自分の元へと結婚の報告にやって来るのだろう……そんな取り止めのないことを考えながら、男はテレビのチャンネル調節用ダイヤルを捻った―――――
「大変だな、向こうも……」
スイッチを入れたテレビは三日前より続いている亡命機騒ぎと、それに続く武装工作員捕縛作戦の様子を、相変わらずに報道特別番組という形で伝え続けていた。画面に映し出されたレポーターの切迫した表情と本社との遣り取りは、夫婦が夜遅くに帰宅し眠りに付いていた最中に、なにやら只ならぬことが起こっていたことを、明確な言葉を用いずに表しているかのようであった。
『――――烏山さん、現場からの中継ご苦労様でした。次は防衛―――――』
『――――ちょっと待ってください!? 現場ですが、今新しい情報が―――――』
『――――烏山記者?……どうぞ』
『――――ちょっと待ってください? えー……たった今、捜索隊司令部より、新たな負傷者の氏名が公表されました。陸軍一等兵 鳴沢 醇さん重体……鳴沢 醇 一等兵 戦闘時に負傷。意識不明の重体です。以上、現地からの中継終わります』
「…………!?」
出すべき言葉も、持ち合わせるべき感情も見つからないまま、彼は未だ水が半分残っていたコップを取り落とした。コップは卓袱台の上で水を撒き散らしながら派手に転がり、コップから解き放たれた水の流れはテーブルを下り畳にまで達する。
「ちょっとあなた! 今醇が、醇がどうしたって……!?」
テレビの音声を聞きつけた彼の妻が、慌てて居間に飛び出してきた。報道が進行するにつれ、夫婦が蒼白な顔を見合わせたそのとき、俄かに玄関の外が騒がしくなり、呼び鈴がけたたましく鳴り始めた。
「…………?」
恐る恐る夫婦が引き戸を開けた瞬間、唐突に焚かれたフラッシュが二人を怯ませ、直後に何時の間にか家の前に集まっていた新聞記者が、群を為してマイクと質問を向けてきた。
「あのうー、こちらは○■新聞の者ですが、鳴沢一等兵の親御様でいらっしゃいますか?」
「はあ……うちの醇が何か……?」
「東北方面の武装工作員捜索任務にご子息が参加され、現在重体とお伺いしたもので……コメントを頂きたいと……」
「あなた……!」
呆然とする夫を、金切り声を上げて急き立てる妻、それを宥める言葉すら見出せないまま口をぽかあんと開け、肩を落とす彼の眼前に、今度は軍用ナンバーをつけた黒塗りの乗用車が滑り込むように現れ、止まったのはそのときだった。夫婦と同じくカメラの砲列の対象となった車からは、制服に身を包んだ陸軍の下士官が慌しげに降り立ち、夫婦の前に進み出るや、恭しげに言った。
「鳴沢一等兵の御家族さまでいらっしゃいますか?」
「はあ……」
「我々は帝国陸軍西部軍管区の者です。鳴沢一等兵の現在置かれている状況について、多々ご説明申し上げたいことがございますので、ご足労でしょうが何卒、これより我々とご同道頂けませんか?」
―――――西暦1976年2月24日
日本時間07時32分。
『―――― 一連の事態に関し、ソ連政府は自国の情報機関及び軍部隊の関与を認め、事態はこれら関係機関の暴走であるとし、関係者の厳正な処分と遺憾の意を表明いたしました。一方で、かかる事態の発生には、亡命機及びその乗員を速やかに引き渡さなかった日本側にも責任があるとし、日本政府への謝罪はこれを否定しました――――』
『―――― 日本各地の陸海空軍基地では、警戒態勢の段階が一段階引き下げられたものの、今なお厳重な臨戦態勢下にあります。一方、防衛省には早朝より陸海空軍のトップおよび軍事参議官が続々と入省し、防衛大臣と次官を交え引き続き事後収拾に関する協議を続けている模様―――――』
ジリリリリリリリン!……ジリリリリリリン……!
「水原さぁーん! お電話ですよぉー! 水原明美さぁーん!」
電話を取った下宿の管理人に階下から呼ばれ、明美と呼ばれた女性はいそいそと嗽を済ませると、寝間着姿の上にカーデガンを軽く被った姿で階段を下りた。春が近いとはいえ、この時分の東京はまだまだ寒い。階下の突き当たりで管理人から受話器を受け取ると、唐突にこみ上げてきた欠伸を噛み殺しながらに、女性は億劫そうに応対した。
「フワァァァー……替わりましたけどぉ――――あら、ヒロコじゃない? どうしたのこんな時間に?」
直後、受話器は大学の友人の切迫した声を女性の耳に運んできた。
『――――アケミ、いい……今からすぐに部屋に戻って、テレビを点けて』
「ん?……なになに、面白い番組でもやってるの?」
『――――いいから早く!……いいこと、あたしたちも今からすぐそっちに行くから、何があっても取り乱しちゃだめよ!』
「だから……何、なによ?」
『――――あんたの彼氏、兵役に行った工学部の鳴沢君!……あの人いま大変なことになってるのよ!』
「は……!?」
プツッ……ツー、ツー、ツー、ツー……
完全に回線の切れた電話の受話器を、女性は何がなんだかわからないままに覗き込むようにした。女性の眠りから覚めたばかりの知性では、事態を完全に飲み込むには、春先の朝は未だ早すぎた。
「…………」
受話器を下ろし、呆然と階段を見上げた瞬間、女性の脳裏で何かが弾け、それが女性の足を再び階段へと向けさせた。上階の突き当たりにある彼女の部屋へと滑り込むや、女性は小型テレビのスウィッチを入れた。チャンネルを合わせたブラウン管は、三日前の亡命騒ぎ以来厳戒態勢にある地方空港の一角に立ち、現場中継を続ける女性レポーターの、切実な表情を映し出した。
『―――――繰り返します。東北軍管区の発表では陸軍側の死者は32名、負傷者18名。負傷者のうち一名、鳴沢醇一等兵は意識不明の重体です。以上現場からの中継をお送りいたしました―――――』
「…………」
呆然として、ブラウン管に凝らす大きな、茶色がかった瞳――――動揺を顕すそれは、早朝からの報道特番が進むにつれ、潤みがかったものすら含み始める。
「醇クン……嘘でしょ!?」
悲鳴にも似た声とともに、女性は言葉を絞り出す。
―――――西暦1976年2月24日
日本時間07時35分。
陸軍士官学校、通称「相武台」―――――
その学生集会所は、何時に無い熱気に包まれていた。だがそれは、明日の破滅を待つかのような緊張を孕んだがゆえの熱気だ。
集会所の一角にある談話室。そこに置かれた、学生が唯一見ることの許されるテレビの前では、課業開始の時刻が近いにも関らず、ほんの先夜まで戦闘の続いていた地方空港周辺の中継映像に見入る学生や士官候補生たちが、談話室に入り切れないほどの一群を為していた。
「いったい現地部隊は何をやっているんだ……仙台連隊区は弱兵の集まりか……!」
「貴様、落ち着け……!」
「これが落ち着いていられるか……それに空軍も空軍だ、易々とソ連機の侵入を許すなんて……!」
「まったく……学生の身分がもどかしい……!」
その若さゆえ、中継映像に見入る学生たちの表情には現状に対する純粋な怒りがあった。後手後手に回る上層部の対応、徒に拡大を続ける損害、低下する一方の軍の威信……彼らの属する組織の無策を象徴する光景が今、こうして電波に乗り彼ら学生はおろか日本中の津々浦々にまで発信され続けていることに、国防の大義を純粋に信じる若い彼らは平静ではいられなかったのだ。
談話室に入りきれず、外に弾き出された形となった学生が、一向に解散しない学生たちの群に憤然と近付いてきた生徒隊中隊長の姿を認め、表情を硬直させた。
「区隊長殿……!」
「貴様ら、課業開始時刻であるというに、学生の分際でこんなところで何をしているのか?」
その場を繕う仕草にも似た学生の敬礼を無視するかのように、中隊長の女性大尉は声を荒げた。それと前後して学生たちが一斉に彼女を顧たのは、何も彼女の言葉だけではなく、その長身より醸し出される威圧感によるものであった。学生たちから陰で「ウワバミ」、「地獄中隊長」と呼ばれるこの女性大尉に、畏怖の念を抱かない学生はこの場にはいなかった。
恐縮した学生の一人が、たどたどしい口調で言った。
「申し訳ありません……ところで区隊長、重体者が出たようです」
「捜索隊か……?」
「はい、何でも、徴兵で入営した挺身兵学生だとか……」
「…………!」
直後、大尉は何かに突き動かされたかのように群を掻き分け、テレビの前に抜け出した。
「区隊長?」
「名前は……?」
「区隊長殿、お顔が優れませんが……」
「その学生の名前は……!?」
「確か……鳴沢……とか言っていたような」
「馬鹿な……!」
常に厳格なことで知られる大尉の見せた常ならぬ動揺――――
そしてニュースが再び死傷者関連の情報を流し始めたとき、大尉の瞳からは、完全に普段の無表情なまでの平静さが失われていた。
『―――――鳴沢 醇一等兵、依然意識不明の重体』
「鳴沢……!」
―――――西暦1976年2月24日
日本時間10時15分。
福岡市 帝国陸軍地方連絡本部―――――
「失礼します……!」
軋み音を立てて開かれたドアの向こう側に、折り目正しい軍服に身を包んだ二名の人影が現れた瞬間、部屋に集められた一家には、それが破滅を告げる天の声そのものであるかのように感じられた。ショートカットの髪と銀縁の眼鏡が、生来の精悍な姿をいっそうに知性溢れるものにしている女性士官。その制服の胸には、菊花と星を象った参謀徽章が瞬いている。彼女が書類を手に家族と正対するように座る。
そして両者の間に立つように、会議用テーブルの上座には大柄の中年男性がどっかと腰を沈め、腕を組む。その上腕に纏われている憲兵腕章を凝視する一家の長男の目には、あからさまなまでの隔意があった。それに気付いた母が、小声でそれを嗜める。
「タケシ、やめなさい……!」
「だってよ……」
女性士官が、言った。
「西部軍管区の人事担当参謀の、上杉と申します。宜しく」
夫婦もまた、一礼して応じる。そして士官は、二人の様子を交互に見比べるように目を細める。
「ご子息は現在、仙台陸軍病院にて療養中であります。陸軍としては全力を挙げ、ご子息の回復に関し努めて参る所存であります。そこでまず、ご子息の負傷時の状況を、当方が把握している限りでご説明申し上げます――――」
負傷に至る状況説明……その過程で明らかになる挺身兵課程への参加。工作員との戦闘参加―――――これまで知らされず、そして明らかになる経緯を前に、顔を引き攣らせるところを見計らったかのように、人事参謀は切り出した。
「入営宣誓書の内容を見る限りでは……靖国への合祀は……希望されておられませんね。親御様に置かれましては、もし、鳴沢一等兵に然るべき時が訪れた場合、これで宜しいのですか?」
「うちの子が決めたことですから……異存はありません」
「それでは困るのだ」
唐突に挟まれた野太い声の主を、夫婦は愕然として見遣る。憲兵の腕章をした中年男が、鋭い視線もそのままに言葉を投げ掛けた。
「…………?」
「国のために命を捧げた者は、当人の信条がどうであれ、神として靖国に祀られるのが筋というものではないか。親として、子の不忠を糺すのが陛下の臣民として当然の勤めだと本官は考えるが……如何?」
夫婦の長男がテーブルを叩き、声を荒げた。
「何であんたのような部外者にそんなこと言われなきゃいけないんだ!? それに今時合祀なんて、時代錯誤も甚だしい!」
「時代錯誤だと……貴様、言わせておけば!」
「タケシ、やめなさい!」
「工藤憲兵中尉……!」
参謀の声は大きくはなかったが、熱気を持ちかけた場を鎮めるのに十分な気迫を含んでいた。鼻息も荒い憲兵士官に眼鏡の無機的な光を投げ掛け、参謀は言った。
「鳴沢一等兵のご家族に失礼でしょう。今すぐに非礼を詫び、この部屋から退出しなさい」
無言の退出……叩き付けられるかのように閉められたドアが、彼の無言の抗議を表しているかのようだった。息を呑む家族とともにそれを見届け、そして参謀は再び一礼する。
「申し訳ありません。部下が失礼をいたしました……ところで、本当に、宜しいのですね?」
「それは……勿論」
「本当に……?」
「くどいよ。参謀さんも」
「申し訳ありません……何分兵卒本人の思想信条に関わる事項の確認は、厳重になされる決まりとなっておりますので、つい……」
家族に翻意の様子が見て取れないことに、やや顔を曇らせたのも一瞬、参謀は話題を変える。
「当方といたしましては、鳴沢一等兵が全快した場合、彼には二通りの針路を選択させることに決しております」
「針路……?」
「まず一つ、当人の兵役復帰であります……この場合、陸軍病院への入院期間は兵役期間に加算されませんので、退院後、当人には入院前の段階から所定どおりの期間、兵役を続けていただくことになります。ちなみに、入院と療養に要する費用、そしてその間の兵卒としての給与は、軍規及び国家公務員法に基づき、国家が全額負担、もしくは支給されることとなっておりますので、その点はご心配には及びません。
もう一つは、負傷除隊であります。戦闘や事故による負傷により、軍務継続が困難になった場合、あるいは、作戦行動中顕著な勲功を立て、その結果として特例として取ることを認められる選択です。鳴沢一等兵の場合、今回は戦闘による受傷であり、彼自身の作戦に対する多大な貢献もまた、上官や複数の同僚の証言より得られているようですから、除隊を選択される際は通常の除隊者と同じ扱いとなりますのでご心配なく」
「じゃあ……醇が望めばすぐにでも除隊が可能というわけですか?」
参謀は頷いた。
「そういうことに……なります。おそらく、いや確実に傷痍勲章と慰労金も出るでしょうね。今後の進路にも何かと有利でしょう。あとそれと……」
「…………?」
「鳴沢一等兵には、挺身兵課程在籍中、それも課程終盤に勃発した事態でありますので、陸軍といたしましても、その点重々配慮させて頂きたく思います。陸軍は前述二つの何れを鳴沢一等兵が選択した場合にも、当人を上等兵に昇進させ、その上で正式に挺身章を交付する所存であります」
「昇進した上に、レンジャーにもなれるんですか?」
「これは、当人の訓練を担当した教官はもとより、当人の所属する連隊長も異論なく同意するところであります」
参謀の言葉を前に、夫婦とその息子は、傷付いた息子を未だ苛み続けているであろう困難を、暫し忘れた。
「……で、弟は……醇は全快するんですか?」
「……それは、現時点では明言できません」
「何で明言できないんだ!? うちの醇を勝手に戦闘に引き摺り出しておいて……!」
「この件では死傷者は軍民に亘り多数出ています。この点どうかお忘れなきようお願いします」
「…………」
『苦しんでいるのは、あなた方だけではないのです』という、無言にして冷厳なまでの反駁を、家族の誰もが女性参謀の眼鏡の煌きの中に聞いた。
―――――西暦1976年2月26日
日本時間14時18分。
東京――――
陸軍参謀本部―――――通称「三宅坂」
明治期の創建以来受け継がれている重厚な調度の会議室、同じく年季と伝統を静謐の内に主張するマボガニーのドアが開き、会議室テーブルの上座の主を招じ入れた瞬間、カーテン越しに差し込んでくる淡い陽光を受けて緩みかけていた将星たちの表情は、あたかも上級生に正対する士官学校生のごとくに硬直し、場の空気は権威ある場に身を置くことに起因する安寧から、一挙に戦慄にも似た緊張に席を譲る。
「起立……礼!」
一礼……上官というより絶対神に対するかのような恭しげな一礼――――それを上座にむける多くが帝国陸軍という組織を構成する各兵科、分野における最上級者であり、軍服に纏った金モールが、そのことを雄弁のうちに物語っていた。だが、彼らがこの威厳ある場における彼らの唯一の上官である上座の主に示す敬意は、単なる階級と権限の差によって形作られているものでは、決してなかったのであった。
一礼と同時に訪れる、時が止まったかのような静寂――――それは、およそ軍人離れした、あるいは近付き難い高貴さすら含んだ短い言葉によって破られる。
「楽にしなさい……」
騎兵科出身、陸軍少佐で「大東亜戦争」終戦を迎えた陸軍参謀総長は、参集した将官たちが着席を終え会議に臨む姿勢を整えるのを硬質な視線の一巡で見届けると、早速に抑揚に乏しい、だがよく通る声で切り出した。
「先刻……本官は関係部局長一同を伴い首相官邸に赴き、総理大臣に一連の作戦行動に関する経緯の一切を報告申し上げてきた。それから防衛省において、東北軍管区司令及び隷下各隊の上級指揮官とを交え、今後の処置について余すことなく協議を行ってきた」
「…………」
語を次ぐにつれ、次第に重さを増す将官連の沈黙――――その馬鹿馬鹿しいまでの理由を知っており、これまでの過程で無策を晒した彼らに怒りすら覚えてはいても、それを顔にすら出すことなく、むしろ絶対神のような厳かさを以って参謀総長は続ける。
「死者81名、重軽傷者27名、その内一名は未だ意識の戻らぬこと適わぬまま、陸軍仙台病院の集中治療室にて療養中である。すでに宮中に参内し、事態の推移を上奏申し上げてきた総理大臣によれば、今回の事態に際して生じた人命の損耗に、大元帥陛下は甚くご心痛であらせられるそうな……」
「…………」
更なる沈黙―――――過失に対する反省の為せる沈黙ではなく、現実から逃避するかのような、あるは他人事として自分の言葉を聞いている沈黙を続ける将官たちに、参謀総長は彼個人の社会的地位を省みて自制を覚えられる程に、決して寛容というわけではなかった。
「……もはや時は『大東亜戦争』前中期に非ず。一兵士に至るまで人命が何よりも重視されねばならぬ時勢というに、貴公らは本官が居ぬ間にここ安全なる三宅坂より現地司令部に介入し、徒に統帥を混乱させ、被害の拡大を幇助するかのごとき断に出るとは如何なる了見に基づいてのことか……!?」
抑制から急カーヴを描き荒げられた語尾に、将官たちはあたかも雷に撃たれたかのように、一斉にその主たる参謀総長を見遣った。
「殿下……参謀総長閣下……どうかお気をお鎮めあそばされますよう」
末席に連なる一人の将官が弾かれたように席を立ち、一礼して意見する。当の参謀総長はそれを一瞥しただけで再び、常ならぬ難詰を続けるのだった。
「さらに聞くところによれば、今回の事態に際し、敵工作員による亡命機破壊をすんでのところで阻止したのは、その意識不明の一兵卒であるというではないか? 彼の受傷はその時敵工作員と格闘したが故のものであるとも聞いた……これはいずれも、事件終盤の際現地に展開した特殊空挺旅団指揮官からの報告である。航空支援の禁止といい、追跡隊への無謀な肉薄攻撃命令といい、諸君らは功に逸るあまり事件の解決を急ぎに過ぎ、結果としてかくの如き損耗を出すことになったのではないか?」
そのとき、さらに一人の将官が立ち上がって発言を請うた。
「申し上げます参謀総長閣下、海軍の特殊部隊が現地へ急行していたのです。現地警備は我々陸軍の管轄でありまして、全体の観点より見れば、もし事件解決が海軍主導によってなされた場合、後々の統帥に計り知れぬ不都合を及ぼすことになったのではないかと……」
「その後々の統帥とやらに拘り過ぎたが故に、貴公らは我が国を危機に陥れたというわけかね? それはなおさらに許し難い……!」
「…………」
この期に及んで、将官たちがその弁舌で自らを弁護する術はすでに失われていた。その細い目に今度は静かな怒りを込め、参謀総長は部下への弾劾を吐き出した。
「一兵卒……たった一人の一兵卒の犠牲のお陰で、我々陸軍はこうして世間様に対する面目を保っていられるというわけか?……明治健軍以来保たれてきた帝国陸軍の威信は、何処へ行ったのか? これでは大元帥陛下に合わせる顔がない。貴公らは陸軍の威信を地に落とすだけでは飽きたらず、本官の面目まで潰す気かね?」
「…………」
「このことは……今次の事件に際し貴公らの犯した不手際は、宮中へ参内した暁には大元帥陛下に……兄上に直にご報告申し上げるからそのつもりでいるように」
「…………!?」
陸軍の最高権力者であり、かつ大元帥陛下の実弟たる参謀総長の一喝……生きた絶対権威を前に、傲岸不遜な将官連中が抗せられる余地など、始めからこの場には存在してはいなかった。
―――――西暦1976年2月28日
日本時間12時12分。
仙台陸軍病院 集中治療室―――――
戦闘と勝利を経て、こうして生き残ったところで、男たちから一切の不安が消えたわけではなかった。
「どうだ……鳴沢の様子は?」
「あの通り、ぐっすりと眠ってる……」
「眠ってる……か、言い得て妙だな」
五日前の入院以来、五人の男たちの負傷した頭、手足、胸に巻いた包帯は未だ解けなかったが、それでも過ぎ行く日々と病院の治療は、彼らの纏う包帯の下を確実に癒しつつあった。だがそんな男たちの佇む病院の廊下からガラス一枚を隔てた病院の集中治療室では、未だ癒えることのない傷により昏睡に陥った彼らの仲間が、あたかも御伽話に出てくる眠り姫のように何時醒めるとも知れぬ眠りを刻み続けていた。
心拍計の電子音はそれに繋がれた対象が死地を脱したことを示す単調なリズムを奏でてはいるものの、その対象から完全に失われた人格が、それを見守る男たちから冷静さを奪い、焦燥へと駆り立てる。
「目を開けてくれればな……」
と、彼らの最先任たる恰幅のいい軍曹が言った。ほぼ同時に嘆息し、男たちは彼らの病室へともと来た道を引き返す。その中でただ一人動くことなく、ガラスに手を当てたままガラスの向こうに視線を注ぎ続ける車椅子の男を、軍曹は顧みる。彼ら五人の中で比較的負傷の度合いが深かったが、十分に療養を経れば部隊への復帰も確実な青年を帰路へ促すべく、軍曹は歩み寄った。
「…………」
「中沢、どうした?」
「…………」
「じっと見詰めていたところで、あいつが目覚めるわけがないだろう?」
「ああ……」
「待つしかないよ……目覚めるまで」
「ああ……わかってる」
男は車椅子のハンドルを掴み、方向を変えた。それでもなお、中沢と呼ばれた男はガラスの向こうで眠り続ける若者へと、憂いを帯びた視線を注ぎ続ける―――――そんな彼らの前に、受傷しながらもいち早く退院した、彼らの訓練教官とでも言うべき軍曹が姿を見せたのはそのときだった。
「よう、お前ら」
「島谷助教どの」
五人一斉の敬礼―――――それらを答礼で凝視し、軍曹は挨拶代わりの言葉を投げかけた。
「傷の具合、どうだ?」
言った後で再び凝視……そして軍曹は相好を崩す。
「……全快は近いようだな」
「ええ……教程完遂が待ってますから。うかうかしてられませんよ」
「その必要はない」
「…………?」
一斉に曇る五人の表情を、宥めるかのように軍曹は笑顔を浮かべた。
「特例により明日付けで、貴様らは晴れて挺身兵だ。退院し、原隊に復帰すれば自動的にそう遇されるようになる」
「本当ですか……?」
「想定よりもきつい実戦を潜った上に、任務を完遂したんだ。俺に言わせりゃ貴様らに報いるには挺身章一個だけじゃあ足りないぐらいさ」
直後、五人の中で一番線の細い眼鏡の青年が、これまで溜め込んできた不安から解き放たれたかのように、眼鏡を濡らしながらに嗚咽を漏らし出した。それを軍曹が咎めた。
「ウウウウッ……ウウッ!」
「コラ! レンジャー杉山泣くな!」
安堵、驚愕、歓喜……五人の中にそれぞれの異なる表情を見比べるようにし、軍曹は言った。
「みんな……よく頑張ったな。野村教官も、お前らの授章をさぞかし喜んでおられるだろう」
五人の中、眼鏡に長身の青年が、怪訝な表情を軍曹に向けた。
「野村教官は……どうなるのでありますか?」
「残念だが、辞めることになった」
「…………!?」
「貴様らのせいではない。事が事だけに、今回ばかりは上に立った誰かが責任を取らなきゃいかんのだ……野村教官は、自ら進んでそれを選ばれたに過ぎない」
「……それが、陸軍なんですね。」
話題を逸らすかのように視線を向けたガラスの向こう―――――その先で今なお絶対安静状態に置かれている最後の一人を見出し、軍曹は言った。
「……ところで、あれが鳴沢か?」
「はい。あいつも……喜ぶでしょう」
「今でこそ言えるが……教官は、あいつに一番目を掛けていた」
「……目覚めたら、さぞ喜ぶでしょう」
目覚めたら……それが今のところ無理な相談であることを、この場の誰もが認められずにいたのであった。
―――――西暦1976年2月28日
日本時間13時02分。
東北軍管区 陸軍仙台基地―――――
近付きつつある春の足音に耳を澄ますかのように、蕾を宿した枝をその中央へ向かい繁らせつつある桜並木の広がる大通りを、その終わりたる基地の正門近くまで共に歩きながら、制服に身を包んだ二人の漢は互いに別れを惜しんだ。そして漢たちは立ち止まり、去る者、残る者というそれぞれの立ち位置をはっきりとさせるかのように、兵営側、営門側へと正対する。
兵営の側に立つ男が、営門側に立つ男に言った。
「残念だよ野村」
「……これも、神のお導きさ」
軍用コートと制服に巌のような体躯を包んだ頭に、正式の軍帽ではなく特殊部隊員であることを示す濃緑のベレー帽を被っていることが、彼ら二人が精鋭であることの最も目に見える証であった。それ以外に彼らの素性を示すワッペンや徽章は、それらの上に分厚い外套を纏った外では、完全に認識されることは無かった。
「そうか……貴様、クリスチャンだったな」
直後、二人は互いに、静かに笑った。軍人らしさの伺えぬ、その精神に互いに同じものを共有している者のみに為せる笑いであった。かつては帝国陸軍初の特殊作戦部隊創設という崇高な目的に向かい団結し、共にあらゆる艱難辛苦を舐め、あらゆる栄光を勝ち取ってきた同志。だがほんの五日前に勃発した惨劇は、自らが惹起した指揮系統の不備を、現場指揮官一人の責任に帰することで解消しようという軍上層部の矮小な意図により、同志の離別という形で幕を下ろそうとしている。
兵営側に立つ男が、嘆息した。
「貴様には、もう少し陸軍にいて後進を見てもらいたかった」
「後進は、着々と育っている。連中がでしゃばり出して肩身の狭い思いをする前に隊を抜けるのも一興ってやつだ」
そう言って、営門の側に立つ男は口ひげを歪めて微笑んだ。彼はその笑顔を、帝国陸軍に身を置いて以来、同志にして親友たる眼前の男にしか見せたことが無かった。それに対し、兵営側の男は苦笑で応じる。
「オイオイ……残された俺の身にもなれよ」
「いや……苦しんでもらう。俺がいない分もな」
兵営側の男は、言った。
「……除隊後の宛てはあるのか?」
「……実は前から米軍にいた頃の友人に誘われていてね、彼らと会社でも興そうと考えている」
「会社だと……?」
「俺たちのような人材は、世界じゃ結構需要がある」
「…………!」
直後、氷解した疑念に取って代わった軽い驚愕を、兵営側の男は隠さなかった。
「日本を離れるのか?」
「よかったら、那須さんもどうだ?」
「じゃあ……後数年したら考える」
「ああ、そうしろ」
敬礼―――――営門側の男は踵を返し、二度と来た道を戻れぬ営門へと、その確固たる歩みを刻み始める。
離れ行く友人を見送る兵営の男の眼前で、その歩みが止まった。
「ところで……」
「何か?」
「いい原石は、見つかったか?」
唐突に投げ掛けられた質問の意味を一瞬で悟り、兵営の男は微笑を浮かべた。
「ああ、見つかった」
「有望株か?」
「貴官もよく知っている男だ」
「……あいつか?」
「そうだ……あの若者だ」
「だがあと一年で辞めるぞ?」
「手は打ってある。逃がしはしない」
「そうか……ならばいい」
再び歩き出そうとしたところで、営門の男は再びそれを止める。
「那須サン……」
「…………?」
「あいつはこう言った……戦闘は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ……と」
「俺も聞いてた。名言だよな」
僅かな間を置き、二人は同時に笑った。低い声で――――
兵営の男の敬礼に見送られ、営門の男はまた歩き出した。
その歩みは今度は完全に営門を越え、漢たちの間はレールを滑る鉄扉に完全に隔てられた―――――
―――――西暦1976年2月28日
日本時間14時12分。
仙台陸軍病院 集中治療室―――――
――――あれ……?
――――ここは……何処だ?
――――おれ……死んだのか?
――――そうか……もう逝っちゃったんだ。
『…………』
ゆっくりと目を開けた先には、終わりの見えないかのような白濁が広がっていた。
眩しい……
体中が痒い……だが掻こうにも体を動かせない。
『…………?』
――――それを意識した瞬間、ぼくは自らの置かれた状況を疑う。
『あれ……?』
電気音?……何かが刻まれる音を、ぼくは眠りながらに聞く。
手、胸、足……硬い寝床の上に横たわった体の各所から、自由が奪われていることにぼくは気付く。
おれ……感じている?
おれ……生きている?
病院のベッドらしき場所で、それを真に自覚したのは、さらに自分が生きていることを自覚させる、ある感覚を急に覚えたときのことだった。
「腹……減ったなあ」
生き返ったことを自覚したのは、それからずっと後のことだった――――
あの戦いからまる三日後―――――
ぼくは……どうにか生き残った。
ぼくは……生き残らせてもらった。