その十 「緊急出動」
トラックは何度もカーヴを曲がり、その度に荷台に揺られるぼくらの心も揺れる。
最終想定の中断からすでに二日が過ぎた。その間を、ぼくらはおろか想定中の他の学生に至るまで想定を中止し基地に戻され、上官からは詳細を知らされないままに、ひたすら待機を命ぜられたのだった。
―――――事件の起こった当日の昼下がり。
学生寮据え付けのテレビから、ぼくらは自分たちを基地へと引き戻した大本の一切を知ることができた。
『―――――風雪を突き、突如日本の一地方空港に降り立ったソ連の最新鋭爆撃機は、未だ滑走路の片隅でその異様な姿を留めているままです。果たして、いかなる目的を以て来訪したのでありましょうか? 政府からのさらなる発表が待たれます―――――』
飛行場上空を旋回する、報道局のヘリコプターからの中継、地上へ向けられたテレビカメラは、飛行場の脇に駐機し、全体にわたり覆いを掛けられているロケットのような機影を映し出していた。その周囲を内外より動員された警官や空港職員、そして現地取材のマスコミと思しき人影が餌に集る蟻のように縦横に行き交い、本来なら長閑そのものの筈の地方の田園風景を、殺風景なものに一変させていた。
―――――だが、その中に軍の車両はもとより軍人など、人影すら目にすることはできなかった。
突如飛来した国籍不明機に防空圏を突破され、レーダーに失探してからまる三時間後にもたらされた急報は、帝國陸海空軍を文字通りに驚愕させた。
ソ連のパイロットが亡命!……それも、最新鋭の超音速爆撃機に搭乗して……!
敵手たる東側勢力の最新鋭機が期せずして自らの懐に飛び込んできたことも然ることながら、それ以上に軍上層部を驚愕させたのは、「大東亜戦争」の反省に立って構築され、技術の粋を結集した防空網がこの事件を機に重大な欠陥を露呈してしまったことだ。レーダー索敵網の盲点を突いた低空飛行、もし相手が今回のような亡命機ではなく、むしろ積極的な攻撃の意図を持って、今回と同様に国土―――――それも、中枢たる首都圏―――――に侵入してくればどうなるか?……それを考えたとき、今回の事件は在り得るべき本土空襲の、凄惨なまで敗北のシミュレーションとなる―――――核兵器が出現し、戦術核爆弾や弾道弾といったカテゴリーに細分化されて戦争を支配する現代では、それは恐るべき可能性の一つであった。
……だからこそ、軍人たちは戦慄したのである。
『―――――空港は閉鎖され、山形県警は述べ600人の要員を動員し周辺の警戒に当たっています。なお、仙台駐屯の陸軍歩兵第四連隊の一部に出動命令が下り、部隊はすでに現地周辺に展開を完了した模様―――――』
寝台に、筋肉痛の満遍なく染み渡る身体を自堕落に横たえたままにテレビを眺めながら、皆は口々に言った。あれから三日たっても癒えない肉体の痛みが、教程がぼくらに強いた状況の過酷さを、無言のうちに物語っているように思える。
「すげえ……ホンモノのバックファイヤーだ」
「亡命希望って、本当かな?」
「あれだけの代物を手土産にやってきたんだ。本気だろう」
「でも……虎の子の新鋭機持ち逃げされて、向こうもこのまま放っておくわけがないよなぁ……」
「ばか、日本海が跨ってるんだぞ。おいそれと奪回に来られるわけがないさ」
「外交交渉で奪い返す……とか?」
ぼくの問いに、竹中兵長はあごを摘み言った。
「それがスタンダードな方法だろうが、軍事機密までは守れないだろうな」
「いや……奪回以外にも、機密を知られずにすむ方法がある」
と言ったのは、門田軍曹だ。
「…………?」
「……少数の工作員を送り込んで、性能を探られる前に爆弾でも仕掛けて破壊してしまえば、あとは無問題さ」
「工作員って、スペツナズのことかい? 門田さん」
スペツナズ?……聞きなれない名に、耳を惹かれたのはぼくだけではなかった。ぼくの疑念を補足するように、竹中兵長は言った。
「スペツナズは、ソ連の特殊部隊だ。日本でいうSABのようなものさ」
「でも……SABや挺身兵なんか問題にならないぐらい強いらしいですね」
中沢兵長の言葉に、竹中兵長は頷く。
「噂じゃ……ね。まさしく人間凶器って言葉がぴったりのバケモノ揃いらしい」
「まさか……こんなところにまで来るわきゃねえわな。そのスペツなんとかってのは……」
と、木村上等兵。
「ただ来るだけなら、いろいろと方法はあるんじゃないか? 潜水艦で上陸するとか、パラシュートで降下するとか……」
「バカ、只でさえ警戒厳重なのに、どうやって侵入するんだ?」
待機状態のまま日が変わり、翌日になると状況はさらに複雑の度合いを増してきた。
『―――――ソ連外務省は東郷駐ソ大使を召喚し、日本政府に対し機体と乗員の返還を重ねて要求するとともに、一連の事態に関するブレジネフ書記長名義による抗議声明文を手交致しました。一方、日本政府は米政府と協議の後、亡命機を輸入品扱いとして然るべき手続きの後にソ連側へ返還することを表明―――――なお、政府は亡命機に搭載されていたミサイル及びその他一部搭載機器に関しては輸入物品取扱法第23条 危険物及び火器類の無断国内持込に抵触する恐れがあるため、返還は困難との認識を示しています』
『―――――現在身柄を保護されているA・G・ロスコフ機長以下四名の乗員は全員米国への亡命を希望。これに関し外務省は現在米国務省と最終調整に入っており、米国は亡命を受理するものと思われます―――――』
その日の昼近くになると、ソ連側は日本も含め東西の主要通信社を招いた特別記者会見の様子を、テレビを通じ流し始め、それは日本でも生中継された。
『―――――アンドレイ! お願い、祖国に戻って頂戴! 私はあなたのためにあなたの大好きなパンケーキを焼いてあなたの帰りを待っていたのに……!』
機長の妻という、うら若い女性は涙を流す目もそのままに声を震わせ、直後、途端に手で顔を覆い泣き崩れた。その彼女の傍らでは、うっすらと禿げ上がった頭の、だが鷲のように精悍な顔つきをした男が無表情な顔で手を組んで座っている。その男の顔を一瞥するや、竹中兵長は言った。
「あの男は……KGBの幹部だな」
「何故、わかるんです?」
「前に写真で見たことがある」
そう言った直後、竹中兵長の表情から次第に明るさが失われていくようにぼくには見えた。
「……ということは、向こうで主導権を握っているのはGRUじゃなくてKGBってことか」
独白に続く、苦渋に満ちた更なる言葉。
「……これは、大変なことになりそうだな」
胸中に轟き始める遠雷を、ぼくが自覚しようとしていたそのとき、ぼくらにも遂に出動命令が出た―――――
――――再び、トラックの荷台。
何度も続いた不快な揺れはすでに収まり、直進を走っているかのような安定感が場を支配していた。
荷台全体を覆う分厚い幌を通じ、サイレンの音が遠吠えのように聞こえてきた。それほどサイレンの数と音は大きく、それだけ多くの警官が空港内はおろかその周囲に展開しているのを窺うことができた。
ブッシュハットに防寒戦闘服、そしてその上から胸と腹を覆う戦闘用防護チョッキ……いつもの教程と代わり映えしない装備の中にも、顔全体を覆うドーランはもはや無い。ぼくらはあの辛い訓練に向かうことをもはや要求されてはおらず、名目上はあくまで空港周辺の山野への移動展開訓練こそが、ぼくらがこうしてトラックに揺られている目的であった。挺身兵学生隊は解散されず、むしろ度重なる訓練と練成を経て最終想定に達したことにより、この時はまとまった一つの部隊として扱われていたのだった。
「鳴沢……」
と、隣に座っていた中沢兵長が言った。それまで車内を支配していた静寂に耐え切れなくなったかのように―――――
「…………?」
「寒いな」
「ええ……」
一息つき、ぼくは言った。
「早く……想定に戻りたいですね」
苦笑……中沢兵長は沈んだ口調で言った。
「……お行儀よくしていれば、戻れるかもな」
「そうですね……」
河北空港を取り巻く山地帯の麓―――――
有事における軍事目的の私有地接収を正当化した非常事態法ではなく事前の訓練前契約に基づき私有地を接収した末、一夜にしてその広範な一角を占めるに至った段列陣地に入ったところで、トラックは止まった。
「総員、降車……!」
荷台の奥に陣取っていた島谷助教の命令。皆は手際よい足取りで荷台を駆け下り、銃を構え瞬く間に整列を終える。
整列したぼくの眼前、上空にヘリコプターの往来を生ぜしめながら、地の果てまでも続くと思われるほどの天幕の段列。それら段列の合間合間に立つ通信塔。そのすぐ傍に居並ぶ車両、また車両……人間性を拒絶するかのようなそれらの連なりは、ぼくの胸中に、あたかも突き放されたかのような寒々しさを覚えさせてしまう。
だが―――――
―――――実を言うと、ぼくら軍人は、一部の技官や連絡士官を除き空港の内部に入ることすら許されてはいない。
事件の現場たる空港は、すでにお花見の場所取りのごとく、いち早く展開した警察に抑えられ、彼らの管轄内に置かれてしまっている。ぼくらといえばこうして空港の外で、野営訓練に名を借りた周辺警戒に就いている。周辺の交通を規制する検問すらやらせて貰えず、これでは何のために出てきたのかぼくのような一兵士すらわからない。その「訓練」に当たる兵士の数ですら、「警備体制に支障を生じる」という警察側のクレームで一個大隊程度に抑えられてしまっている。
「敵が攻めてきたわけではないのに、軍がしゃしゃり出てくるとは笑止千万……!」
あからさまにそうは言わなかったものの、記者会見の席に立った内務省の報道官は、日頃の軋轢の鬱憤を晴らすかのように軍の不手際振りを一方的にまくし立て、それは現場の実況中継と併せテレビで大々的に報道されたものであった。この放送を前に、さすがの竹中兵長も居心地の悪さを感じたのか、何かソワソワしていたのがぼくには印象的だった。
「後藤田の大馬鹿野郎……!」
陸軍参謀本部の幕僚の中には、「民主主義政体擁護」のお題目の下、軍に対する統制強化を推し進めていた時の内務省次官をそう悪し様に罵った者もいたそうだが、それはかの40年前の「ゴーストップ」事件以来、警察と軍――――特に陸軍――――は現在にいたるまで帝國陸海空軍間のそれ以上に犬猿の仲であることを、ぼくのような新品兵士すら痛感させる印象的な風聞ではあった。
やがてぼくらに先駆けて先着し、現地指揮所での打ち合わせを終えて来た野村教官が部下を伴い、ぼくらの前に現れた。
「頭ぁ―――――なか!」
島谷助教の号令、背を正したぼくらをその視線で一巡し、防寒服姿の野村教官は言った。
「楽にしろ」
白い息を吐きながらの、さらなる一瞥……固唾を呑み命令を待つぼくらを他所に、彼は続ける。
「当隊はこれより、警戒任務に当たる。警戒ポイントは空港北西4キロ地点。隊は分隊ごとに別れ、指揮連絡車の支援の下、徒歩で該当地区の哨戒を行う。なお……」
「…………?」
「……第三分隊は予備として残置」
周囲から漏れる嘆息――――
――――ぼくもまた、覚える落胆。
皆が陣地を離れ、そしてぼくらは残された。
ただ待つだけ、それ以外に用がなく、それ以外何も要求されぬまま過ごした時間―――――その間ぼくらに収穫があったとすれば、刻々と移り変わる状況の変化を、直に目にすることができたことだ。
ゴオォォォォ……!
一帯を揺るがす突然の轟音に、トラックの荷台の中で寒風を凌いでいたぼくらの関心は外へと向けられる。
ぼくらが爆音の源に目を凝らした向こう――――言い換えれば河北空港――――では、「内務省と警察庁の許可を得た」上で、防衛省装備開発局から派遣された技官が亡命パイロットの供述を元に、さらに東側軍用機の詳細に詳しい防衛情報局技術情報官、別名「ミグ屋」の助言をも得て、これまで沈黙していたバックファイヤーのエンジンの試運転を開始していたのだった。これまで推測の域を出なかった超音速爆撃機のエンジン推力を計測するための、これは一種の「試験」であって、本来ならエンジン本体だけを取り外し然るべき施設に運んで計測するべきところを、調査の段階でエンジンの取外しには専用の冶具を使う必要があることが判明したため、主脚を固定しわざわざ測定器具を設置しての実地調査という手段を取ることになったのだった。
いつしかぼくらは天幕を出て、飛行場の片隅で豪快にジェットエンジンを轟かせる爆撃機の勇姿に、しばし目を奪われていた。
「露助の飛行機はすげえなぁ……正直戦争になったら勝てる気がしねえよ」
と、木村上等兵が頓狂な声を上げた。それを嗜めるように、島谷助教が言った。
「わが国にだって、富嶽がある……!」
「どうせ作るんなら、ああいうカッコイイ飛行機作って欲しいもんだぜ。仮にもおれだって納税者よ? もう少しまともなことに防衛費使えっての」
片や最新鋭の超音速機、片や就役して20年近くが立つ旧型機……これらを比較すること自体、少しならず無理があるように思うのだが……だがこの時点で、それに気付いた者は皆無だった。
島谷助教は言った。
「それより貴様ら、想定の心配はせんで良いのか? このままだと本当に首になるぞ」
「…………」
途端に黙りこくるぼくら……それに嘆息し、島谷助教は続ける。
「……特に鳴沢一等兵、貴様は野村教官に嫌われているから、それがかえって皆に迷惑をかけておる。あの人は実直そうに見えてえげつない所があるからな。気に食わんやつは徹底的に追い込んで潰しちまう癖がある」
「自分が……ですか?」
唖然としたぼくの問いに、島谷助教は苦笑した。
「気付かなかったか? オレは判ってた。教程の間中あの人はずうっと鳴沢を見てたんだけどなあ……嫌いなやつにはああいうことをするんだ。何時でも見ていて、その内そいつがボロを出したところを、容赦なく絞り上げる……そうやって、相手を追い込んでいく。あの人は外目は日本人だが、中身はれっきとしたアメリカ人だ。裏表もなくあからさまな態度を取りやがる。文字通りのバナナだよ」
「…………」
言葉を失ったのは、ぼくだけではなかった。一変した場の空気に構わず、助教は続ける。
「鳴沢、お前はよく持った方だよ。だが今回はパスした方がいい。廻り合わせが悪かったと諦めろ。未だ若いんだし、いい教官なら……他にいるだろう?」
「そんなの酷すぎます、フェアじゃないですよ」
と言ったのは、杉山二等主計だった。だが頭を振り、助教はなおも言う。
「若ぇなあ、これがな……光輝ある帝国陸軍の現実なんだよ。娑婆に出たところで同じ目には遭うんだ。嫌な思いなら早めにして、耐性をつけておいた方がいい」
助教の言葉に軽い反発を覚え、ぼくが抗弁しようとしたそのとき―――――
バラバラバラバラ……!
試運転がひと段落した後にぼくらの頭上にやってきたバートルの、地上を不快に震わす爆音。それを撒き散らしながらにバートルはぼくらの眼前、仮設のヘリポートに着陸し、直後に段列陣地の司令部要員がヘリポートの周囲に殺到する。
門田軍曹が言った。
「おっ……本店|(陸軍参謀本部の隠語)からのご視察かな?」
彼の予想は正しかった。完全に着陸し、乗降ハッチを下ろすや、バートルからは野戦服に将官の階級章や参謀徽章を付けた、気難しげな表情をした人々がぞろぞろと降り立って来たのだ。水戸黄門の印籠を突き付けられた悪玉宜しく、反射的に腰を上げたぼくらの眼前を、現地指揮官の先導を受け、軍中央の将官や高級士官連中がぞろぞろと歩いていく。その中の、参謀徽章を付けた痩せぎすの高級士官がつかつかと歩み寄り、キンキン声で島谷助教を怒鳴りつけた。
「貴様ら! 国家の非常時に際しこんなところで何を油を売っておるか? 持ち場に就かんか!」
「申し訳ありません。参謀殿!」
内心で「死ね」と彼を毒付きつつ背を正すぼくらを見、一人の将官が進み出た。彼がぼくらの前に立った瞬間、ぼくは自分の顔から血の気が引くを覚えた。野戦服よりだらしなく立った襟、アミダに被られた鉄帽、ブラシのような口髭の下で滾々と炎を湛える葉巻の似合う、見るからにオッカナそうな陸軍中将を、見忘れようはずもない。
まるで台所でゴキブリでも見るようにぼくらを一瞥し、中将は言った。
「何だ、この馬鹿どもは?」
「ハッ!……どうやら待機中の衛兵のようであります」
「…………」
参謀の報告を無視するかのように、中将は不機嫌そうな目でぼくらを睨み、そして彼の目はぼくで止まった。
中将は、言った。
「貴様、何処かで見た顔だな……」
「さあ……何かの間違いでは……」
「本当か……?」
さらに顔を近づけ、中将は眼力で穴を開けようとするかのようにぼくを凝視する。困惑する参謀が背後から彼に呼び掛け、中将は漸く頭を上げた。
「陶閣下、こちらです。車を待たせてありますのでお早く……」
「……あの兵隊、間違いなく何処かで見たんだがなぁ」
と言い捨て、遠ざかり行く中将の後姿に、ぼくの足から力が失われていく……緊張の極に達し、やや脚を崩しかけたぼくを、中沢兵長が慌てて抱き留めた。
「鳴沢……大丈夫か?」
「ま、まあ……ね」
「それにしてもお前、何者なんだ?」
期せずして視線としてぼくに集中する皆の疑念。そのいずれもが中沢兵長と同じ疑念を宿していることは、もはや明白だった。
未だ冬の余韻を引き摺る空は暮れるのが早く、下界の混乱を他所にその青黒い帳を天球に下ろそうとしていた――――
――――その頃。
―――――西暦1976年2月23日
日本時間15時43分。
ソ連邦サハ共和国 首都ヤクーツク郊外 某軍用飛行場。
その片隅では、離発着する多くの軍用機の奏でるジェットエンジンの爆音を他所に、一機のイリューシンIL-76輸送機が発進準備を終え、その後部ハッチはこれより機に搭乗する何者かを迎え入れるべく開け放たれていた。
その傍らに佇む、広大な格納庫―――――そこでは国家からの緊急出動命令を受け、首都モスクワからの長い行程を経て先日にこの地に辿り着き、再びの旅立ちを待つべく着席する男たちを前に一人の将校が、これから彼らが就くことになる「重要任務」に関する、最後の状況説明を行っていた。
「―――――我々の任務は重大である……!」
声を上げる将校の背後には、極東地域の地図。そこの「何処か」が、彼らが向かうべき場所であった。
将校と地図を睨む男たちのいずれもが若く、だが筋骨のはっきりとした精悍な顔立ち。対象を見詰める瞳はいずれもが空虚であり、そこには人間性など一片すら窺わせることができなかった。むしろ彼らは、彼らがこれまで潜ってきた厳しい訓練と、その合間合間に叩き込まれてきた国家と共産主義に対する比類ない忠誠により、戦士として不要な……むしろ有害となりうるそれらを自らの内面から排除することに成功していたのだった。
将校の説明は続いた。
「―――――我々は万難を廃して目標所在地に到達し、任務を達成せねばならない! さもなくば、西側の帝国主義者どもに我が新兵器の機密は暴かれ、それは即ち革命の敗北へと直結するであろう……!」
事実、彼らの上層部から彼らの末端に至るまで、深刻なまでの切迫感に支配されていた。
西側に対する数的な航空優勢の維持、さらには圧倒的な西側の海軍力に空から対抗することを期して開発された新鋭爆撃機。だがそれは就役間もない内に実機丸ごとが思いもよらない形で西側に渡り、その秘密は暴かれようとしている。
それを防ぐためには、手を打つ必要がある。
これは我々の仕事だ。
我々こそ、冷戦の始まり以来、これまで陰にあってこれまで偉大なるソヴィエトを西側帝国主義者の謀略と侵犯から守護してきたのだ。
我々こそ、真に祖国の盾であり、剣である。
内部に祖国に対する裏切り者を抱え、あまつさえその裏切り者に装備を持ち逃げされた軍に、この始末は任せるわけには行かない……!
将校はこう叫び、結んだ。
「―――――これより我々は革命の守護者として起ち、任務を遂行する!」
直後、男たちは腕に付けていたワッペンを外した―――――これより彼らが戦うことになる相手に、自らの正体を悟られないようにするための必要な処置。
切り離され、伏せられる紋章。
盾と剣の重なった上に、さらに重なった「А」の文字―――――
そして―――――
АНТИТЕРРОР――――――紋章の上に記されたキリル文字は、これより彼らが、遠き東方の地で引き起こすであろう煉獄の前奏曲であった。