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その九 「亡命機」

 ―――――ぼくらが奥羽山脈に連なる山中で、何時終わるとも知れぬ想定に四苦八苦を繰り返していた頃。


 ―――――時に、西暦1976年2月20日 23時45分。


 ソヴィエト連邦極東ウラジヴォストーク近郊の海軍航空隊飛行場。


 そこを、一機の航空機が発進した。


 機影は滑走路を駆け抜け、星と暗黒の支配する空へと爆音を残し舞い上がる。


 通常と何ら代わり映えしない、定例の夜間飛行訓練。


 だがその翼下には計二発の、大型巡航ミサイル。


 そして機体自体もまた、当時としてはあまりに斬新な新機軸であった可変翼の恩恵により900km/時の高速で中低空を自在に巡航し、あるいは最大マッハ2.0/時の超音速で高空を疾駆する。


 特に、日本海を挟んだ至近に彼らと対峙していた日本にとって、核弾頭搭載巡航ミサイル搭載も可能とされた「それ」は、同じくウラジオやカムチャッカ半島に配備されていた弾道ミサイル搭載原子力潜水艦と並び重大な脅威と看做され、その対策は至急の要であった。


 ―――――その機内。


 星空へ向かい、一路新鋭機の機上の人となった四名には、それぞれに決意が存在した。


 それが後に、日本にとって驚くべき波乱を巻き起こすであろうことに、当事者たる誰もが思い当たらないまま――――――


 新鋭機――――その名は、Tu-22M。


 またの名―――――西側コードネーム―――――を「バックファイヤー」。






 ―――――西暦1976年2月21日 01時25分。


 完全な漆黒の支配する日本海上を征く、一条の航跡があった。


 フネの名は、帝國海軍駆逐艦「椎」。


 その存在理由は、ごく通常の、訓練航海を兼ねた洋上哨戒任務。


 その「椎」のCIC。


 対空レーダーのスクリーンを睨んでいた一人の下士官が、突如スクリーン上に浮き上がり、こちらへと迫る機影に眉を顰めた。彼は機械と彼自身の経験より導かれた結論をCIC当直士官に告げ、それに続く当直士官の艦長への報告。レーダースクリーン上の「識別不明機アンノウン」は程無くして、駆逐艦を接近する「脅威」に対する緊急配置の喧騒へと追い遣るに至る。


 『―――――目標、依然当艦へ向け接近中……速度700ノット……900ノット超えました!』


 「レーダー、識別まだか?」


 『―――――識別未だ。IFFに応答なし(ネガティヴ)!……それにしても、この速度は異常です! Tu-16などではありません!』


 「まさか……!」


 極端なまでに照明の落とされた艦橋で、艦長と先任士官は互いに顔を見合わせた。ソ連が超音速で飛行可能な中型爆撃機を開発し、太平洋艦隊への配備を始めていることぐらい、もはや末端たる彼らですら知っている。かつての「大東亜戦争」初期に帝國海軍の陸上攻撃機隊が対艦攻撃に猛威を振るい、連合国海軍の心胆を寒からしめたのと同じく、長射程の対艦ミサイル搭載も可能なソ連の超音速爆撃機は、現在の連合艦隊にとって巡航ミサイル発射可能なソ連海軍の原子力潜水艦と同じく重大な脅威となっていたのである。


 ――――報告は、なおも続いた。


 『目標と当艦の距離レンジ90マイル……80……70……目標、間も無く当艦の攻撃レンジに入ります!』


 「総員、対空戦闘用意!……それと状況を舞鶴に報告しろ! 至急電だ!」


 戦闘命令を下し、司令部に状況を打電したものの、この時点では誰もが半信半疑だった。「大東亜戦争」以来、国交こそ維持してはいても事実上敵対状態にある日ソではあったが、朝鮮戦争以来20年以上に亘り続いた緊張の中の平和に、最前線にいる彼らですら慣れ過ぎていた節があった。


 それに……


 相手は巨大戦艦ですら一発で致命傷を負わせかねない大型対艦ミサイルを装備しているかもしれない最新鋭爆撃機。対するこちらは現代戦に適応すべく度重なる改装を経たとはいえ、元は「大東亜戦争」時に大量建造された戦時急造型の哨戒駆逐艦の一隻。アスロックや対潜ロケットといった対空戦闘に役立たない装備もさることながら、3インチ連装速射砲二基に40㎜機関砲一基という短射程の砲遁兵装では、戦う前から勝負は見えているようなものだ。


 インカムのスイッチを押さえ、艦長はCICを呼び出した。


 「艦長よりCICへ、逆探に反応は?」


 『ありません《ネガティヴ》!……目標、50マイルまで接近!』


 逆探の無反応―――――水上目標の位置及び形状を確定するべくレーダー照射されていないことへの疑念もまた、艦長から明確な判断を奪っていた。敵の移動速度と彼我の距離を勘案すれば、もし敵に明確な攻撃の意図があればとうにレーダー波を発信し、捕捉した艦影へ自慢の対艦ミサイルを発射していてもおかしくない距離。


 そこに、CICからのさらなる報告。


 『艦長!……間も無く攻撃レンジに入ります。射撃許可を……!』


 「射撃待て……!」


 艦長は言った。もう少し敵の出方を見極めておきたかったがゆえの、そして軽率な攻撃命令を下した際に発生するであろう政治的な混乱を恐れたがゆえの判断だったが、見方によっては拙速さを欠く優柔不断な対応という批判は免れ得ないものであるのかもしれなかった。


 『――――目標、なおも接近中!』


 彼の判断による沈黙の支配するままに時が流れ、何も起こらないままさらに距離は詰まった。


 そして――――――


 「…………!」


 艦橋を劈くジェットエンジンの爆音―――――


 海原に撒き散らされる衝撃波に翻弄され、震えを来たす艦上―――――


 不意に訪れた振動は、艦の直上を通過した「識別不明機アンノウン」が、かなりの低空を飛翔して来たことを雄弁なまでに物語っていた。


 直後、CIC要員の上ずった声が艦橋に虚しく響き渡り、それは新たな驚愕を呼ぶ。


 『レーダーより艦橋……目標、当艦の上空通過!……南東方向へ遠ざかる』


 南東!?……これまでとは趣の異なる驚愕……否、恐慌は艦橋を再び支配し、やがて「椎」よりもたらされた新たな報告は、恐慌にも似た複数の通信となって不明機の針路上にある本土の関係部署を駆け巡った―――――


 『――――超音速爆撃機単機、防空識別圏ヲ突破シ南東方向ヘ向ケ飛行中。30分後ニ本土ニ到達スルモノナラン』






 ―――――西暦1976年2月21日 01時43分。


 ジャーン!……


 けたたましいベル音がアラートハンガーに響き渡り、同時に配置に付いていたパイロットや地上員たちが控室を脱兎のごとくに飛び出し、作戦機の列線へと駆け寄っていく。




 「こちらロメオ11(ズィスイズロメオ11)、離陸許可(レディフォア)要請(テイクオフ)――――」


 『―――――離陸クリヤードフォア許可テイクオフする』


 暗夜の滑走路を劈き、空へと駆け上る爆音と噴炎―――――


 日本海側の石川県、帝國空軍小松基地を、二機のF-104J「栄光」局地戦闘機が緊急出動する。同じく関東の帝國空軍百里基地からもF-104Jが二機発進し、上空で編隊を組む間も惜しむかのように慌しく日本海側へと向かっていった。また、同様の発進命令は空軍のみならず、海軍の横須賀海軍航空隊にも下され、横空からは4機のF-4Jファントム艦上戦闘機が当初予定していた夜間離発着訓練を中止し、速やかに武装を施すや日本海側へと発進していったのだ。


 離陸した戦闘機に入る、矢継ぎ早の指示――――


 『―――――こちらタンゴ3、ロメオ11(タンゴ3、ロメオ11)、北西へ進路スクランブルを取り、高度ノースウェスト20000フィートで邀撃エンジェルトゥウェンティせよ』


 この当時の段階で、日本の防空システムは、「大東亜戦争」の戦訓反映とその後の技術進歩により、空地一体とでも言うべき世界にも比類ない自動化と緻密化を達成していた。


 基本的には、日本各地に配された防空レーダー網に不明機が捉えられるや、その情報は自動的に各地の基地にスクランブル警報として送信される。それに従い迎撃機がエンジン始動からタキシング、そして離陸を経て規定高度まで上昇したところで、対処すべき領空侵犯機の位置、高度、緒元についてのデータが機体に自動的に送信され、それらの情報を元に迎撃機は半自動的に目標まで誘導され、目標に対し優位な攻撃態勢での会敵を可能にするのだった。その原型は「大東亜戦争」末期に考案され、後の1960年代に至って漸く具現化した防空機構であり、これは世界的に見ても比類なく強固な防空システムであった。


 ……だが、このときは勝手が違った。


 『―――――ロメオ11(スクランブル機のコールサイン)よりタンゴ3(防空指揮所のコードネーム)へ(ロメオ11、タンゴ3)、侵犯機ノー何処ジョイか? 侵犯機リクエスト位置報ポジションせ―――――』


 期せずして上がるパイロットの悲鳴。そう、国籍不明機が領空内に入ったという報告こそもたらされてはいても、その明確な位置を地上の防空レーダーは捕捉できてはいなかったのである。一応誘導されるまま、四機の空軍機はアフターバーナーを使い全速力で日本海上空まで到達したものの、そこで会敵に必要な新たな情報を受け取れないまま、戦闘機は空域上空20000フィートで虚しく旋回待機を繰り返すばかり―――――


 ひょっとして、レーダーが探知できない低空を飛行しているのか?―――――管制官はおろか当のパイロットですらそう思い当たり、機首を下げ下方を指向する。だがこの夜間、下手に高度を下げれば地上に激突し大惨事に繋がる恐れもある上に、戦闘機搭載のレーダーでは対地上、海上に向け使用した場合乱反射が強すぎて移動目標の探知は殆ど不可能となる。F-104Jは高性能の国産レーダーを搭載したことにより、レーダー誘導ミサイルの運用すら可能になっていたが、それ以上の探知能力の向上には未だ時間と技術的な洗練が必要だった。


 疑念と焦燥の渦巻く中で時は過ぎ、常ならぬ緊張が警戒網の張り巡らされた空を、そして海を覆い始める―――――






 ―――――西暦1976年2月21日 02時03分。


 防衛省 統合作戦本部直轄。島根県 美保通信所。


 日本海に程近い、陸海空軍、そして内務省の四者共同で運用されるこの施設では、0130を境に極東ソ連軍の通信量が一気に増大したことを察知する。程なくして傍受されたその内容は東京の防衛省情報本部、そして内務省に送信された上で解読され、そして傍受側を驚愕させた。


 「訓練飛行中のTu-22M爆撃機一機が日本海上に墜落。ソ連太平洋艦隊司令部は付近を航行中の水上艦艇及び潜水艦に捜索活動を命令―――――」




 そして同時刻、新潟県佐渡島北方沖―――――


 沖合いで操業中の少なからぬ数の漁船が、超低空で、しかも高速で上空を飛翔する巨大な機影に遭遇した。


 「まるで巨大なイカが、ものすごい速さで海から空へ飛び上がっていったように見えた」


 当時のことを、目撃した漁師は地元紙の取材に対し後日そう証言している。


 その機影の向かった方向は……東―――――






 ―――――西暦1976年2月21日 02時23分。


 山形県 河北空港。


 元来は、「大東亜戦争」時に海軍の練習航空隊用に造営された飛行場である。終戦後に閉鎖されたそれが、後に起こった国土再開発ブームに乗って国内線用空港に再整備され、拡張とそれに順ずる設備の充実を見た飛行場は、地理的には山形と宮城のそれぞれ中央を走る山地帯のほぼ真ん中に位置していた。


 その日、2月21日。


 河北空港はこの日すべての離発着の予定を満了し、翌朝に備え束の間の休息に入っていた。


 「…………?」


 最初に異状に気付いたのは、簡易ターミナルを兼ねた空港管理事務所で宿直に当たっていた一職員だった。


 異変を察知したのは、懇々と焚くストーヴの熱気に濁った室内の空気を入れ替えるべく、彼が何気なく事務所の窓を開けた瞬間―――――


 「…………!?」


 はじめは、山間部を吹く風の音かと思った。


 だが満点の星空の中で急速に迫り来る金属的な轟音が、そうではないことを彼に教えていた。


 針路を見失った民間機だろうか?……疑念の赴くまま、彼が何気なく滑走路の誘導灯を点灯させたそのとき―――――


 「…………!」


 西側の山裾から急速に迫り来る爆音に驚いた彼が、反射的に普段航空機がアプローチしてくる方角を見遣ったとき、翼端灯を煌かせた機影が夜空を背景に揺れ動くのを彼は明らかに見た。そして翼端灯の動きから機影は、明らかにこちらに対する着陸の態勢を取っていた。


 こんな時間に、何のつもりだ?


 突然の訪問者に対する驚愕を覚える暇も与えないかのように慌しく脚を下ろし、滑走路に滑り込んできた機体の姿は、彼の想像を明らかに超えていた。


 「な……何だあれ?」


 鋭い金属音を余韻のように引き摺りながら滑走路に一歩を標した機影は、普段飛行場を使用している有体なプロペラ機や小型旅客機ばかり見慣れてきた彼にとって、およそUFOとの遭遇並みに想像の外であった。尖った機首。ピンと張った主翼。まるで当時巷で話題を攫っていたコンコルドのような、空想物語にでも出てきそうな鋭角的な機影―――――


 そして……その尾翼に描かれたマークは、本来ならここに来るはずがない……否、来てはならないはずの赤い星だった……!


 「あ……!」


 愕然とする職員の眼前で、着陸した飛行機は悠然と誘導路をタキシングし、大して広いとはいえないエプロンのど真ん中に入ると、そこでエンジンを切った。警察への通報すら忘れ、唖然として意外な闖入者に歩み寄る職員の前でハッチが開き、やがて機内からは宇宙服のようなスーツに身を包んだ四人の人影がアスファルトの上に降り立った。


 そして……降り立った四人の中の一人と、職員の目が合った。


 更なる驚愕!……今更ながら不用意に接近した自分を呪った彼に、人影は近付いて来た。しかも、その手に拳銃を持って……


 あまりの展開に硬直する職員のすぐ前で、男は足を止めた。


 数刻の対峙の後、何気なく職員が発した言葉―――――


 「ハ、ハロー……?」


 直後、男の頭部を覆うヘルメットのバイザーが跳ね上がり、その下から白人青年の笑顔が現れた。


 「スパシーバ」


 ……それが、一連の事件に際し、日本側とソ連側で交わされた最初の会話だった。






 ―――――西暦1976年2月21日 02時45分。


 一人の高校生が、夜の農道を自転車で進んでいた。


 ハンドルから架けたトランジスタラジオからは、パーソナリティたる山下達郎の軽妙なトークが流れていた。だがそれもあと15分で終わる。


 「オールナイトニッポン」が少年は大好きだった。家のある村を一周するのに、自転車を以てしてまる二時間かかる。このところ彼の日常の大半を占める大学受験のための勉強に飽きかけた頃合、言い換えれば丁度「オールナイトニッポン」が始まる頃合に自転車を漕ぎ出し、身体に風を感じ、夜風を感じながらラジオを聴くことが、この頃の彼にとって唯一の気晴らしであり、彼はそれに夢中になっていた。


 「パパッパッ……パパパッパッパパ……」


 などと、「オールナイトニッポン」のオープニング曲を気だるそうに口ずさみながら、少年は家路へと急いでいた。そしていつものように、帰路途上に位置する広大な河北空港の一角に彼が差し掛かったそのとき―――――


 「…………?」


 飛行場の誘導灯が点いている?―――――普段、この時間帯ならとっくに稼動を終了して闇に溶け込んでいるはずの、空港とは名ばかりの小さな飛行場。そこを一面にわたり赤、青、白の誘導等が照らし出している。怪訝さのままに自転車を漕ぐ脚を止め、さらに目を凝らす内、やがて少年の目は駐機場で翼を休める異様な機影に行き着き、そこで固まった。


 「うそ……だろ?」


 幸か不幸か、この時代の青少年の常として、彼には多少軍事に関し知識があった。だがそれは決して戦略がどうのとか戦史がどうのとか高尚なものではなく、丁度この時代の小学生がスポーツカーの名前とかプロ野球選手の名をそらんじられるのと同じく、艦船や戦闘機の形状からその名前をどうにか言い当てられる程度のものであったが、それでも彼の記憶中枢が先月に購入した少年向け軍事専門誌に、特集記事として掲載されていた「謎のソ連軍最新鋭超音速爆撃機」の想像図を探り当て、程無くして驚愕を以てその正体に思い当たるのにさして時間は掛からなかった。


 それに続く混乱……何故、こんなところにソ連の爆撃機がいるんだ? 


 「大変だ……!」


 だが混乱は彼の内面ですぐに恐慌となり、それに駆り立てられるまま、彼は自転車を村の交番へと走らせた。




 交番と一体化した警官の家では勤続20年、その内半分をこの村で駐在員として過ごしていた唯一の警官が眠りに就いたところだった。そこに、烈しく戸を叩く音。警察官の常として文字通りに跳ね起きた巡査部長は、寝ぼけ眼もそのままに代わりに応対に出ようとした妻を制し、彼自ら猿股姿のまま寝床から出て、戸の鍵を開けた。


 「誰ですか?……こんな夜中に?」


 「駐在さん、大変なんだ。飛行場まで来てください……!」


 「だから……何が起きたの?」


 「ソ、ソ連の爆撃機が……ソ連軍の飛行機が飛行場に着陸してるんです!」


 「ハァ?……おめえ、狐にでも化かされたんじゃねえか?」


 「本当なんですよ! とにかく飛行場に行って見て頂ければわかります!」


 嘘にしては、あまりに切羽詰った少年の表情に気圧された駐在さんは、舌打ちしながらも装具を整え、少年の案内に従い夜の道に、空港へ向け自転車を漕ぎ出した―――――


 「こりゃたまげた……」


 飛行場の全容を見渡せる道の一角に佇み、誘導灯に照らし出された機影を見出し、駐在ですら言葉を失う。そしてこの瞬間、彼は普段静かなこの村が、とんでもない大事件の舞台と化したことを衝撃と共に悟ったのだった。


 少年に県警本部への連絡を頼み、駐在は意を決して自転車を空港正門へと進めた。正門に差し掛かったとき彼は自転車を降り、警官になってから20年間、一発として撃ったことのないニューナンブの38口径五連発拳銃に震える手でどうにか弾を篭め、明かりの点いた空港事務所へと歩き出した。


 そして静まり返った事務所内に足を踏み入れ、拳銃を手に事務室のドアを開け放った先―――――


 「よかった……来てくれたんだ」


 顔見知りの、空港職員の安堵した顔に、巡査は内心で拍子抜けする。その彼には、外傷は一つたりとも刻まれてはいなかった。そして駐在の目は、何事もなかったように佇む職員の背後で、応接用ソファーに腰を下ろし、熱いコーヒーをすする四人の見慣れない男たちに集中する。


 突然の闖入者を唖然として見上げる四人に、ことを取り繕うかのように振り向きざまに会釈し、職員は再び警官に向き直った。


 「彼らは……悪い人じゃありません」


 警官は相槌を打つように頷き、淡々とした口調で言った。


 「それでも……応援を呼ばにゃいかんだろうなぁ」


 警官のこめかみには、冬もたけなわの頃にも拘らず、冷たい汗が滲んでいた。


 その彼の背後で起こる、慌しげな物音……それは職員からの電話を受け、取るものも取り合えずに事務所に出てきた所長の足音だった。






 ―――――西暦1976年2月21日 03時23分。


 河北空港のある山形県警に、ソ連機着陸の第一報がもたらされたのは、時間にして二時四十分のことであった。通報の主は勿論、ソ連機を受け入れた空港の宿直職員である。だが……


 『あんたね、いい加減にしなさいよ。そんなもん山奥の空港まで降りてくるわけないじゃない』


 「だから! 当空港まで来て頂ければわかります! すぐに警官を寄越してください」


 『言っとくけど、イタズラ電話は犯罪だからね。これ以上変な電話すると、公務執行妨害で逮捕しますよ』


 そう……彼らは信じようとしなかったのだ。素直に信じるには通報の内容はあまりに突飛過ぎ、そして彼らの常識から逸脱していた。


 そこで、取り付く島もない県警の対応に業を煮やした職員は、彼の上司たる事務所の所長に電話し、連絡を取ることに成功する。そこに村の駐在が駆けつけ、同時に、目撃者たる少年の通報が重なった。


 『またそれか! 君、いい加減にしなさいよ。君んとこの電話番号なんて、すぐにわかるんだからね。謝るなら今のうちだよ?』


 「自分、お巡りさんに頼まれて連絡してるんですけど?」


 『ハァ? じゃあ、その警官の名を言ってみなさい』


 少年は、「現場」たる河北空港に程近い村に勤務する巡査部長の名を出し、その電話の直後に当の巡査部長から第三報がもたらされた。


 『――――県警本部ですか? 大変です。ソ連のパイロットが四名、爆撃機に乗って亡命して来ました。至急、応援を要請します……!』


 「…………!?」


 疑念は確証へと一変し、県警本部に詰めていた、およそ動員できる限りの数の警官が河北空港を目指し殺到した。


 そしてこのとき、不明機不時着の一報は、漸くにして防衛省、そして官邸へともたらされたのだった。




 この瞬間、事件は生まれ、そして波乱へと発展していった―――――



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