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帰り道で君に会えたら

作者: 阿呆論

  僕はただ、遠くから君を眺めていられれば良かった。ただそれだけで良かったのに。

  君のせいで、君を好きになってしまった。

  そのせいで、こんなにも辛い想いをしなければならなくなった。

 

  僕の悲しい初恋を語るには、話は入学式まで遡る。

 

 

  僕は幼い頃から絵を描くのが好きで、高校も美術科があるところを志望した。中学校生活最後の夏休み、僕は必死で絵を描いていた。

  くそ暑い学校の、油絵具の匂いで充満した美術室で毎日デッサンをする。見たくもない鏡を見ながら自分と睨み合い、F6サイズの画用紙に丁寧に描く。少しでも形に狂いがあれば練り消しゴムで消した。目指すは都内で一番の美術高校。妥協は許されない。

  美術の先生はとても丁寧に指導してくれた。

  だから僕も諦めない。

  試験は思っていたよりも早く訪れた。

  推薦入試は三時間の自画像デッサン。画用紙に鉛筆が擦れる音だけが教室に響き渡る。緊張の絶頂にいる僕には恐ろしいほど静かで、不快なほど賑やかな音だった。自分の絵に自信はあった。しかし、押し寄せる不安は消えなかった。僕は鉛筆を静かに置いた。完成した自画像を見る。いつも通りの地味で無表情な顔がこっちを見つめている。絵の出来は悪く無いが、僕はため息を漏らした。

努力の甲斐あって、見事僕は合格した。

  嬉しくて受験番号を何度も確認した。

  親も学校の先生も、友達も、皆祝いの言葉をかけてくれた。至上の喜びを噛み締め、ぼんやりと残りの中学校生活を送ると、待ちに待った入学式がやってきた。

  待ちわびた式は、それはそれは退屈なものだった。

  先生の話の長いこと。寝てしまうかとおもった。が、寝れなかった。美術科だけあって周りは女の子ばかりだからだ。

  この高校は、普通科と美術科があるのだが、今年の美術科の合格者はなんと男子が八人だけだったのだ。美術科の約八十人が女子。ひとクラスの男子は四人づつになるらしい。

  今両サイドに座っているのも女の子。実感すると、徐々に退屈が緊張へと変わっていった。僕は女の子と接するのが大変苦手なのだ。

  「工藤、昴!」

 不意に呼ばれ、急いで立ち上がる。「はい!」という声が少し裏返ってしまった。生徒の呼名は、いつの間にか八組の自分の番になっていた。一組から六組は普通科。七組と八組が美術科。普通科には男子がたくさんいる。楽しそうだな。なんて羨ましいんだ。

  式はやっと新入生退場になった。

 ぞろぞろと蟻の行列みたいに生徒が退場する。八組の前に座っていた、七組の生徒たちが立ち上がった。

  ふと、一人の女の子と目が合った。ぱっちりとした目。通った鼻筋。小柄で、小動物を思わす顔をしていた。たぶん百人中、九十九人は可愛いと言うような、本当に可愛い女の子だった。目が合ったのは一瞬だったが、微かに微笑んだような気がした。気のせいだ。彼女が退場するのを、僕は無意識に眺めていた。

  七組が退場し、八組の番となったが、僕は一人、立ち上がるのが遅れてしまった。

  まったく、今日はボーッとすることが多い。 入学式からこれでは先が思いやられる。

 

  教室に着いた僕は、周りを見回した。

 やはり女子ばかりだ。男子は僕の他に三人しかいない。普通、健全な男はこういう場合、手を叩いて喜ぶのが一般的かもしれないが女子と話すことが苦手な僕にとっては地獄と変わらなかった。

  このクラスで上手くやっていけるだろうか。

  新学期特有の期待と不安とは少し違う、不安が僕を憂鬱にさせた。

 

  入学式が終わると、その日は特にすることもなく、すぐに下校となった。明日から忙しくなりそうだ。新しい生活に慣れなければ。僕は下駄箱で靴に履き替え、iPodで好きな音楽を聴きながら帰ることにした。電車での登下校は嫌だった。朝は混んでいて座席に座ることもできないし、夕方はどこかの高校の不良たちが騒いでいる。乗り換えがあるのも面倒だ。電車に慣れるまでは時間がかかりそうだ。

  家に着いたのは昼過ぎだった。こんなに早く帰れるのは今日ぐらいだろう。部活に入れば帰りは夜になることもあるかもしれない。

  そういえば、部活は何に入ろうか。まだ決めていなかった。運動不足を解消するために陸上部にでも入ろうかな。いや、今まで通り美術部に入ろう。だって運動は嫌いだもの。

  僕は真新しい制服を着替えて、のんびりと昼飯を食べた。入学式で疲れてしまったのか、自分の部屋に戻るとすぐに深い眠りに落ちた。

 

  少し寝るつもりが、起きたら朝になっていた。いったい何時間寝たのか。起こしてくれなかった母を恨んだ。入学早々、遅刻はごめんだ。急いで着替えて、朝食も食べず家を出る。電車はぎりぎり間に合った。二つ目の駅で乗り換え、もう二駅。約十分くらい電車に揺られ、十五分歩いて学校を目指す。これから三年間、この道を歩くんだ。そう思うと、なんか嬉しかった。憧れの高校に合格し、美大を目指して絵を描き、勉強する。僕の青春を全うするのだ。この道を誰かと二人きりで歩くこともあるだろうか。

  ふと頭に浮かんだのは、昨日目が合った女の子だった。どんな性格なのだろう。あの人はきっと、男子や、女子からも人気があるんだろうな。隣のクラスだし、僕と話すことはないだろうけど。

  そう思うと、なぜか急に寂しくなった。

  別に好きではないのに、僕の気持ちは深く深く、沈んでいった。

 

  教室が五階にあるのは、すごく困った。

 自分の教室に着いたときは、すでに息を切らしていた。情けない。いつも絵ばっか描いているから体力が無いのだ。たまには運動をしよう。

  教室には、もうほとんどの生徒が来ていた。

  こんなにも入りづらい教室があるだろうか。皆、一言も喋らず席に座っている。僕がドアを開けると、一斉にこっちを振り向く。全ての視線が僕に集中する。それもほとんど女子が。息が詰まりそうだ。僕は自分の席まで急いだ。出席番号順なので、僕の席は教室の真ん中の方だった。

  イスに座り、周りを見回す。後ろの方の一人の男子と目が合う。ニコッと笑った彼は軽く手を振ってくれた。僕も振り返す。短めの髪に整った顔立ち。なかなかのイケメンだ。優しそうな人で良かった。あとの男子は二人とも一番前の列にいたので顔は見えなかった。

  チャイムが鳴る。

  先生が入ってきた。昨日の入学式で自己紹介していた、このクラスの担任。名前は加藤隆弘。美術科なのに、体育の先生。僕の苦手な熱血タイプだが今年で定年らしい。

  加藤先生が今日の予定を一通り話すと、ちょうど休憩時間のチャイムが鳴った。

  廊下に出て行く生徒がいれば、教室で突っ伏して寝る生徒もいた。廊下から楽しそうな話し声が聞こえる。

  僕のところに、さっきのイケメンがやってきた。

  「やぁ、おはよう。僕は山下優太っていうんだ。よろしくね」山下君は爽やかに笑う。

  「僕は工藤昴。よろしく」

  「すばるって名前、珍しいね。まぁ男子は少ないし、仲良くやろうぜ」

  こうして、高校最初の友達ができた。

 

  この日はとても忙しく、時間が進むのが早く感じた。すぐに昼になった。昼食は皆自分の席で無言で食べる。ものを噛む音と、箸がぶつかり合う音だけが響く。こんなんじゃ食べ物が喉を通らない。結局、ご飯を半分も残してしまった。明日はどこか違う場所で食べよう。屋上がいいな。どうせ無理だろうけど。

  昼食後、すぐに部活説明会があった。僕はいろいろ考えた末、美術部に入ると決めていた。そのため、あまり他の部活の説明を聞いていなかったが、最後の吹奏楽部の演奏だけは、感動した。すごい迫力だ生まれて初めて音楽を聴いて鳥肌が立った。この学校の吹奏楽部は、全国大会で何度も優勝しているらしい。それも納得できる本当に素晴らしい演奏だった。

  放課後には部活の体験入部ができた。僕は美術部に入るため、素描室に向かった。さすが美術高校だけあって、すでにたくさん一年生がいた。

  その中に、あの人がいた。昨日、目が合った女の子。今日も可愛らしい。彼女も美術部に入るのかな。僕が美術部に入りたいと思う理由が、もうひとつ出来た。

  体験入部では、部長がモデルとなり、クロッキーをやった。推薦入試からしばらく絵を描いていなかったため、手が鈍っていてあまり上手く描けなかった。それより、向かいに座る、あの子が気になってしまって集中して描けなかった。なんだこの気持ちは。

  部活は五時に終わり、入部届けの用紙を貰って帰った。金曜日の下校は、自然と足取りが軽かった。

 

  土、日曜日を挟み、月曜日。今日から普通の授業が始まる。張り切っていこう。登校の足取りは重いが。

  教室の前で異変に気づく。なんだか賑やかだ。

  教室に入ると、女子たちが楽しそうに話していた。嘘だろ。入学して二日しか経ってないのに、女子は何でこんなに仲良くなれるんだ?

  全く、女は解らない。

  「おはよう。今日からいよいよ部活だな。授業も始まるし、いよいよ高校生って感じだよなー」

 山下君が二人の男子と一緒にやってきた。

  「俺は黒木秀吾。しゅうごって呼んでね。このクラスってまだ自己紹介やらないのかな?ま、昴君?だよね、よろしく!」一人が言った。ワックスで髪の毛をいじっている。ちょっとやんちゃそうな明るい奴だった。

  「俺は澤晃。さわでも、あきらでも好きな方で呼んで。工藤君、少ない男子同士よろしくたのむよ」小柄で、気の小さそうな童顔の子が握手してきた。この時代に握手を求める高校生がいたとは。

  男子は皆良い人だと分かり、本当に良かった。

 

  高校の最初の授業は、ほとんどその教科の先生の自己紹介で終わり、終始楽しかった。個性的で面白い先生ばかりだ。この学校に来て良かった。この前までの不安は嘘のように消え去った。これから毎日、こんなふうに楽しく過ごせればいいな。

  昼飯は男子四人で食べた。出身の中学の事とか、どんな漫画が好きかとか、どんな話でもとにかく楽しかった。

  部活の話になり、僕が美術部に入ることを伝えると、山下君は剣道部、秀吾はテニス部、晃は陶芸部に入るとのことだった。

  皆ばらばらなのは、少し寂しかった。

 

  午後の授業も早く終わり、それぞれの部活が始まった。グラウンドからは野球部の元気な掛け声が聞こえる。僕は急いで部室に向かう。部室と言っても素描室が部室代わりだが。朝、美術部の顧問に入部届けを出したから今日から活動が出来るはずだ。

  素描室は、体験入部のときより人が少なかった。

  でも、あの子はいた。小さな木のイスにちょこんと座って。

  良かった。うん?良かった?何故?

  この前見ただけの人なのに、何故良かったと思うんだ?なんなんだ、この気持ちは。

 

  部活は自己紹介から始まった。一年生は十人。一列に並び、端から一人づつ話し始める。僕は二番目だった。

  「工藤昴です。好きなものは……猫です」

  好きなものが猫以外思いつかなかった。

  「…よろしくお願いします」と言ってイスに座る。ぱちぱちとまばらな拍手が鳴る。

  正直、あの子以外の自己紹介などどうでも良かった。他の人の言葉は、僕の耳を右から左へと抜けていった。

  そして、あの子の番。

  「白石千代美です。音楽聴いたりするのが好きです。よろしくお願いします」

 ちよみさんていうんだ。名前も声も可愛いなあ。よくカナリアのような声、とか聞くとどんな声だよ。とか思ってたけど、きっとこんな感じだろうな。

 全員の自己紹介が終わり、それぞれの活動にとり取り掛かった。

 僕は、いきなり石膏デッサンを描かされた。ブルータスの石膏。最初にしてはレベルが高すぎないか?

 千代美さんは、静物画をやっていた。あの人はどういう絵を描くのだろうか。たくさんのモチーフを見つめる千代美さんの目は澄みきっていて、それを見た僕は少しドキリとした。

 

 僕は画用紙に構図を取り、ブルータスを睨む。真剣に鉛筆を動かす。3Bの鉛筆で描き進めていると、顧問の先生からいきなり指摘を受けた。頭がでかい、と。まだ稜線を描いただけのこの段階で。絵を描くというのは難しいなぁ。あらためて思う。

 それから二時間黙々と絵を描き、目がしばしばし始めた頃、ちょうど部活が終わった。

 音楽を聴きながら、のんびりと帰る。空があかね色に染まり、とても綺麗だ。頬を撫でる春の風が心地良い。

 明日も晴れるといいな。

 

 翌日も、授業が終わるとすぐに部活へ向かった。絵を描きたいから? 

 いや、あの子に会いたいから。

 僕は今まで人を好きになったことが無かった。告白されたことは何度かあったが、好きでもない人と付き合うのは相手に対して失礼だと思ったから全て断った。

 この気持ち。やっとわかった。どうやら僕は生まれて初めて人を好きになったようだ。高校一年になって初めて。

 一度も話したことも無いのに?

 そうだよ、おかしいよね。でも、そうなんだ。

 

 千代美さんは、まだ来ていなかった。それどころか、まだ誰も来ていなかった。少し早く来すぎてしまったようだ。

 僕はまた、ブルータスの前にイーゼルを立て、絵を描き始めた。昨日で結構進んだから、今日はゆっくり描こう。先生もまだ来ていないし。僕はのんびりとブルータスに陰を付け始めた。

「上手だね」

 背後で声がした。

「え?」

 僕は振り返る。

 そこには、千代美さんが立っていた。

 しかも、僕に話しかけてくれている。これは夢か?

「そ、そんなこと無いよ。僕はへたくそなんです」緊張して変な言葉になってしまった。謙遜ではなく、僕は本当にそう思った。中学校から周りの人に上手い上手いと持て囃されてきたが、自分ではあまり納得していなかった。

「上手だよ。男の子でこんなに描ける人初めて見た」千代美さんは微笑んだ。

 嬉しいな。今年一番嬉しいよ。いや、人生で一番かも。本当に。

「ありがとう」僕も笑った。

 

 そのあとすぐに千代美さんの友達が来て、一緒に行ってしまった。少し残念だったが、それでも良かった。少しでも話せたのだから。はぁ、もう思い残すことは何もない。なんて、少し言い過ぎかな。

 部活が終わり、また僕は音楽を聴きながら帰る。駅に着くと、ちょうど電車が来たところだった。

 今日はツイてるね。なんて思いながら電車に揺られる。二つ目駅の乗り換えの電車は、まだ来ていなかった。さすがにそこまではツイてないか。

 ぼーっと空を見上げる。空は好きだ。いつ見ても飽きない。神はとても綺麗な色を作り出すなと僕は思う。いつも絵の具で空の色を作り出そうと試みるのだが、思うようにいかない。どうすればいいかなあ。

 どのくらい空を見ていたのか。

視界の端に、天使が見えた。

ふと隣を見ると、そこにまた、千代美さんがいた。こちらを見ていた。

  「こんにちは」愛くるしい笑顔で言った。

 僕は驚いて、少し飛び上がってしまった。急いでイヤホンを外す。

「いつからいたの?!」

「うふふ。さっきからいたよ。昴君、ずっと気づかないんだもん」

 なんと、僕の名前を覚えていてくれている!これまた嬉しいな。

「よく僕の名前覚えてたね」

「だって珍しいもん。昴君て。もう覚えたよ。それより、私の名前はわかる?」

 もちろん。

「ええと、白石さんだよね。白石千代美さん。覚えてるよ」

「わあ、うれしいな。あ、昴君も家こっちの方なんだね」

「うん。次の駅のすぐ近く」

「私も次の駅だよ!でもそこからバスで二十分くらいかかるけど……」

「ちょっと遠いね……」

「うん…」千代美さんは少しうつむいた。 

  こうして話してみると、本当に背が小さいな。

 暫しの沈黙。

 ちょうどそこに、電車が来た。

 二人で乗る。

 電車は空いていた。が、僕の胸の中はいっぱいだ。

 緊張で息が詰まる。

 早く次の駅に着いてほしいけど、着いてほしくない。ややこしいな。

 いつもより早く駅に着いた。気がする。

 電車の中で何か話したが、頭が真っ白になってあまりよく憶えていない。

 ホームを出て、駅前のバス停で別れた。ばいばいと手を振る千代美さんの姿を目に焼き付けた。夢のような時間は終わってしまった。

 でも、やっぱり今日はツイている。 

 今日、生まれて初めてこの名前を付けてくれた母に感謝した。

 

 軽やかな足取りで僕は帰宅した。

 家では機嫌が良すぎて親に気味悪がられたが、気にしない。

 今日はよく眠れそうだ。今日一日の出来事を思い返しながら晩飯を食べて、僕は眠りについた。

 

 翌日も僕は早く部活に向かう。千代美さんと話がしたくて。

 絵は完成した。毎日僕が熱心に部活に来るので先生は感心していた。

 でも、今日千代美さんは部活に来ていなかった。

 あたりまえだ。今日は本来、部活の無い日なのだから。部活に来ていたのは僕と、二年生が何人かだけだった。僕はとぼとぼ帰る。淋しいな、あの人に会えないと。また帰り道で会えないかな。

 結局、この日は会えずに家に着いた。

 

 次の日、僕の心は少しばかりモヤモヤすることになる。 

 昼休み、七組の前を通ると千代美さんが知らない男子と楽しそうに話していた。

 ただそれだけ。それだけの事なのに僕の心は鉛が詰まったように重かった。

 この気持ちは何だろう。

 わからないや。

 部活では、手のデッサンをすることになっていた。しかし、思うように描けなかった。何故だろう。

 千代美さんはいつも通り絵を描いていた。

 部活が終わり、学校を出る。今日は嫌な天気だ。暗雲が立ち込め、今にも雨が降りそうだ。折りたたみ傘を持ってきて良かった。

 いつも通り電車に乗り、二つ目の駅で乗り換える。電車は、まだ来ていない。

 雨が降ってきた。雨音はしだいに強くなっていく。

 そのとき、誰かがこちらに走ってきた。それはまた、千代美さんだった。今の天気のように曇っていた僕の心は、一瞬で輝きを取り戻した。

「また会ったねー。あ、そおだ。飴いる?」いつもの笑顔で聞いてきた。

「え、雨?飴……」いきなりだったのですぐに答えられなかった。

「うん、飴。はい」そう言って、チョコレート味の飴を差し出してきた。

「あ、ありがとう」僕は茶色の丸い飴玉を貰って口に放り込んだ。舌で転がす。甘い香りが口いっぱいに広がる。

 この人はきっと、誰にでも優しいのだろう。こんなに優しいから、僕にだけ優しくしてくれてるんじゃないかと錯覚してしまうのだ。そうして、好きになってしまう。

 僕はこの人を好きになってはいけない、そう思った。なぜなら、僕がこの人を好きになったとして、僕の恋は実らないからだ。この人は僕にはもったいなさすぎる。諦めよう。諦めよう。諦めよう。

 でも今さら、嫌いになんてなれない。

 電車が来た。

「雨、結構降ってきちゃったねー」

「うん…ひどくなりそうだね。バス停から家までは近いの?」

「うーん…十分くらいかかるかな……」

「えっ、ちょっとかかるなあ」

 次の駅に着いた。

 改札を出る。

「まあ、走って帰れば平気だよ」彼女は笑う。天使のように。

「え、折りたたみ傘とか持ってきてないの?」

「うん。忘れちゃった……」

「あ、じゃあ僕の貸してあげるよ!」

「そんなぁ、悪いよ!いいよいいよ」

「大丈夫!傘二つ持ってるから」嘘をついた。

「本当にー?じゃあ貸してもらおうかな……」

「どうぞどうぞ」折りたたみ傘を渡す。

 傘を二つも持っているはず無かったが、彼女が風邪をひくよりは嘘をついた方がマシだと思った。

「じゃあ、今日はここで」僕は傘を持ってない事がバレないように、駅の屋根があるところで彼女と別れた。

 ずぶぬれで家に帰り、親に散々怒られた。

「持っていった傘はどうしたの?!」

「…学校に忘れた」

 わかってくれよ母さん。僕はカッコつけたかったんだ。

 その日の晩、僕は風邪をひいた。

 

 翌日、僕は三十八度の熱を出したが、マスクをして学校に行った。入学早々休みたくない。

 頭がくらくらして、授業がまったく理解できなかったが、僕は達成感に浸っていた。

 この風邪は、戦士の勲章だ。なんて馬鹿なことを考えつつ。

「おい、昴、大丈夫かよー。今日は帰った方が良いんじゃないか?」山下君が心配してくれた。

「…大…丈夫」

「それ大丈夫じゃねーよー」良い友達だ。

 さすがにこの日は部活を休んだ。帰ってすぐに寝た。幸い、明日は土曜日だ。

 

 

 月曜日。風邪は治り、僕は元気に学校へ向かった。

「傘、ありがとう」朝のホームルームが終わると、教室の前に千代美さんが来た。折りたたみ傘は、とても綺麗に畳まれていた。

「でも昴君、私に嘘ついたでしょ。傘、二つも持ってなかったでしょ?」千代美さんが頬を膨らました。なんだそれ、可愛すぎるだろ。

「え、なんで?」なんでわかったんだろ?

「私見たよー。昴君が傘もささずに走って帰るところ」

「いやいや、この世には知らない方が良い事もあるよね」

「何よそれ」千代美さんがクスッと笑う。

「…嘘だよ。今の。私本当は昴君が濡れて帰るところは見てない。でも、金曜日に部活休んでたから、もしかしたらそのせいで風邪ひいたんじゃないかな、って思っただけ。でもその様子じゃ図星みたいだね」千代美さんは、してやったりって顔をした。

「ばれちゃったか。恥ずかしいな」ダサいところがばれてしまった。あぁ、今度から傘は二つ持つ事にしよう。

「全然恥ずかしいことじゃないよ。ねぇ、なんで嘘ついたの?」

「なんでって…ああ言わないと白石さん遠慮しちゃうだろうし、自分だけ傘さして帰るのが嫌だったから……」

「ねぇ、昴君。なんでそんなに優しいの?」千代美さんは困ったような顔をした。

「優しくないよ。誰だって僕と同じ事するよ。普通」

「紳士だね、君は。でもね、多分昴君だけだよ。自分を犠牲にしてまで私に傘を貸してくれるような人は」

  そんなことないよ。僕は言おうとしたけどチャイムが鳴った。千代美さんが教室に戻る。戻り際、何か聞こえた。

  好きになっちゃうじゃん。

  小さくてよく聞こえなかったが、そんな風に聞こえた。きっと聞き間違えだ。後で部活で何て言ったか聞いてみよう。

  しかし、部活は先生の都合により今日は無しとなった。

  そのせいで、千代美さんと話したのはそれで最後になってしまった。

 

  別れは、突然訪れた。

 

  次の日の朝、ホームルームになっても加藤先生はなかなか来なかった。十分くらい遅れて、先生が入ってきた。

「えぇ、今日はとても残念なお知らせがあります……」教室がしーんと静まり返る。

「昨夜、隣のクラスの白石千代美さんが亡くなりました」

  コノセンセイ、ナニイッテンダ?

「学校から帰る途中、大型トラックに轢かれて、即死だったそうです」

  ウソツクナヨ。

「本当に、残念です……」

  キノウ、ボクトゲンキニハナシテタジャナイカ………

 

  先生はそれから何か言ってたのかもしれないが、僕は何も聞こえなかった。何も聞きたくなかった。あまりに呆気ない。非現実的すぎる。なにも信じたくない。信じられない。

  僕が覚えているのは、先生に、気分が悪いから保健室に行ってくる。と言ったことだけだ。

  保健室のベッドの上で、僕の意識ははっきりしだした。

 

  もう、会えないの?

 

  もう、話せないの?

 

  もう、昨日何を言ったのか聞くことも出来ないの?

 

  もう、君を見ることも出来ないの?

 

  そんなの、悲しすぎるだろ。

  神様、なんでそんな事するんだよ。

  ふざけんなよ。

 

  気がつくと、大粒の涙が枕を濡らしていた。

 

 僕はただ、遠くから君を眺めていられれば良かったのに。ただそれだけで良かったのに。

 君のせいで、君を好きになってしまった。

 そのせいで、こんなにも辛い想いをしなければならなくなった。

 

 後から聞いた話ではトラックの運転手は飲酒運転をしていたという。

 死ねばいいのに。僕は本気で思った。

 昨日、部活さえあれば彼女は死なずに済んだかもしれない。

 トラックの運転手が酒を飲まなければ彼女は死なずに済んだかもしれない。

 トラックの運転手さえいなければ彼女は死なずに済んだかもしれない。

 後悔は尽きない。悲しみは消えない。

 後悔は憎しみとなり、悲しみは怒りとなった。

 

 気づけば下校時間。

 もう帰り道で君に会うことはない。

 ただ君に会いたくて。

 もう君に会えなくて。

 

 電車に乗ると、どこかの高校の不良が一人、立って酒を飲んでいた。

 その男の肩が、僕にぶつかった。

「こら、どこ見てんだよ、痛ぇな。死ねよ」三年生くらいの不良が口汚く罵った。

 今の僕を怒らせるのに、死ねという言葉は十分すぎた。

「軽々しく死ねとか言ってんじゃねぇよ…!」

 気づいたら僕は殴っていた。何も考えずに、ただひたすら、殴っていた。

 不良も、僕の不意打ちをかわすことが出来ず、倒れた。酒の缶が転がる。僕は不良に馬乗りになり、ひたすら拳を振り回す。

 この日、僕は生まれて初めて人を殴った。

 周りの乗客が駆け寄ってくる。僕を抑えるが、振り払い、殴る。

 不良の顔は血だらけになっていた。

 男三人がかりでやっと僕は抑えられた。

「警察を呼ぼうか」サラリーマン風の男が言う。

「いや、呼ばなくていい。ただしクソガキ、次会ったら覚えとけ」不良は警察に酒を飲んでいた事を知られるのを恐れたのだろう。次の駅で不良は血まみれの顔のまま降りて行った。

「少年、辛いことがあったのかもしれないが、自分を見失うなよ」近くに座っていた老人が言った。

 次の駅で僕は降りた。両手が痛む。手は切れていた。不良の血と自分の血が混ざる。

 しばらく絵は描けそうにないな。まあいいや。どうせ描く気も無い。

 乗り換えの電車は、やっぱりまだ来ていなかった。

 千代美さんと話した場所。飴をもらった場所。思い出の場所。

 僕は大声で泣いた。周りも気にせず。

 

 僕の初恋はチョコレート飴の味。

 僕の初恋は、デートも手を繋ぐことも、告白をすることも出来ず終わった。

 最初で最後の恋になるだろう。

 

「千代美さん、僕はあなたのことが好きでした」

 

 

 終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きな人が生きているということは、それだけで素晴らしい事なのです。

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[良い点] 文体は雰囲気に合っていると思います。 破綻がなく、スラスラ読めました [気になる点] ただ、恋人が死んで悲しい系の作品は既出で溢れていそうです [一言] あと一捻りあれば、より良くなると思…
2013/03/21 17:58 つるみ犬丸
[良い点] 会話文は滑らかでテンポよく読めました。 [気になる点] なぜか僕は寂しくなった 別に好きではないのに、寂しくなった で“寂しい”をより気持ちの伝わる表現に変えてみてはどうでしょうか。 [一…
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