藤原家の人々との日々2
秋が深まり、吹く風の寒さがまとわりつく中、珠は紫式部と車に乗っていた。
紫式部のところに使いが来て、珠は一緒にとある邸へ行くことになってしまったのだった。
ーうわあ、緊張する。
手のひらを開けては閉じ、開けては閉じを繰り返すと、紫式部が微笑んでくる。
「緊張していますね、珠」
「それはそうですよ。何と言っても、あの彰子様のお母様ー倫子様のお邸に行くんですから」
珠が涙目になると、紫式部は扇を開き、ほほと笑う。
倫子は藤原道長よりも二つ年上で、土御門邸に住んでいた。
彰子様や頼通様が聡明なので、良い教育をなさっている御方だと思うが、その人のところへ何故、行かなくてはいけないのか不思議だった。
ー紫式部様一人だけじゃなく、私もついて行くなんて。
幸運といえば幸運だが、緊張が止まらない。
手が震えたりしないだろうか、喉が鳴らないだろうかと気にしていると、紫式部が朗らかに言ってくる。
「大丈夫ですわ。珠は黙ってついてくればいいのです」
「は、はい…!! 一生懸命、紫式部様をお守りいたします!!」
「まあ!! 珠ったら。ほほ。…あ、着きましたわね」
車が停まったので、珠は紫式部の手を取り、外へ出る。
従者達が頭を下げる中、珠はぎこちなく動きながら、土御門邸の入口に着く。
すると女房達が頭を下げており、紫式部の来訪を受け入れてくれる。
「ー倫子様がお待ちですわ」
「そう。ありがとう。案内してくださいますこと?」
紫式部が優しく言うと、女房達は珠と交代し、先と後を歩いてくる。
珠は自分だけでも車に残れば良かったかと、早くも後悔したが、すぐに首を振って打ち消す。
ー紫式部様を守るって決めたんだから…!!
彼女の後ろを守るように、一定の距離で歩いていく。
すると一室に辿り着き、女房が声をかける。
「紫式部様がやって来ましたわ、倫子様」
「ーよろしい。早く中へ入れなさい」
「はい」
御簾を上げると、紫式部は顔を下げ、凛とした姿を見せる。
珠も真似して、恥をかかないようにする。
「ーいらっしゃい、紫式部」
「倫子様にいたっては、お元気なことで。紫式部、嬉しく思いますわ」
「ありがとう。もっと近づきなさい」
命令され、紫式部は短く答えると、御簾の中へ進んで行く。
珠はその際、ちらりと倫子の姿を見、びっくりする。
ー美しく御方だわ。おおらかな印象というか、余裕があるというか…。
さすが道長の妻とばかりに、ぶれることのない態度だった。
珠はおどおどしないように腹に力を込め、紫式部の後を追う。
「今日はどんな御用件でしょう…?」
紫式部が早速、切り出すと、倫子がほほと柔らかく笑う。
「あなたに会いたかったんですわ、紫式部」
「私に…? あの彰子様ではなく?」
「その通り。…これ、面白いですわ」
倫子は女房に手で指図すると、巻物が床に広がる。どうやら源氏物語らしく、珠も好奇心を抱く。
ー皆、面白いと言いますわ。羨ましい!!
床に広がった巻物は、まるで星座を見るような静かな眩しさを感じ、珠は目を閉じる。
紫式部は巻物を眺め、丁重に礼を言う。
「どうもありがとうございます、倫子様。面白いと言ってくださって光栄ですわ」
「あなたの才能、素晴らしいわ。彰子も鼻が高いことでしょう」
「そう言っていただき、とても嬉しいですわ」
二人とも朗らかに笑ったが、腹の中では戦っているような、そんな気配を感じる。
ー女同士の戦いって、怖い…。
珠はごくりと唾液を飲み込むと、広がった物語に注目する。
何度も読んだのか、紙がところどころ破損しており、それは書き手の喜びとばかりに、珠も嬉しくなる。
ーさすが紫式部様。更に尊敬しますわ。
書き手として嫉妬しないといえば、嘘になるが、尊敬される人が褒められるのは、珠にとっても嬉しいことだった。
「彰子はどうなさっているの?」
「一条天皇とそれはもう、仲睦まじくしておりますわ。倫子様と道長様のように」
「まあ、紫式部ったら」
扇で顔を隠し、嬉しそうに倫子が笑う。
その顔はみずみずしく、声も張りがあった。
年を言わなければ、紫式部と同い年のように、感じてしまう。
「ーお母様、紫式部が来ているとか」
いきなり御簾の外から男性の声がし、紫式部と珠は振り返る。
誰だろうと思い、思わず注目すると、眩いばかりの青年が入って来るところだった。
珠は一気に顔を真っ赤にし、慌てて下を向く。
ー誰? 頼通様ではないし…。えっと?
珠の心臓がどくんと鳴る。
緊張しているのだが、好奇心もあり、男性の一挙一動に目を向ける。
男性は近づいてくると、倫子の側に腰を下ろす。
「ー教通、ご挨拶は?」
名前を呼ばれた教通は姿勢を正すと、礼をしてくる。
「紫式部、我が邸にようこそ」
「とんでもありませんわ!! 頭をお上げになってくださいませ」
紫式部が慌てて言うと、教通はふふと笑う。
「気楽にしてもいいかな?」
「もちろんですわ。…ん? 珠、何?」
「あの…教通様って…?」
「頼通様の弟君よ。素敵な方でしょう?」
「もちろんですとも!! あ…っと、静かにしないと」
小声のやり取りを終え、珠は一歩、下がる。
しかし視線は教通に向かい、気になってしょうがなかった。
ー私、どうしたのかしら?
ずっと脈がうるさいほと速く、手に汗をかいてくる。
緊張ではない何かを抱いたようだった。
それとなく胸を押さえ、静かに撫でていると、紫式部が教通に声をかける。
「これは、これは、教通様。ご機嫌麗しゅうございますわ」
「うん。ありがとう、紫式部」
「奥方様は…?」
奥方と言った紫式部を、珠は驚いて見、胸が破裂しそうなくらい痛かった。
ー何なの、私。
自分でもよく分からず、床に額をつける。
教通は珠など気にしていないらしく、明るく言ってくる。
「仲良くしているよ。私の考えていることが分かるようで、言葉のやり取りが楽しくてね」
「それはよろしゅうござました」
ほほと紫式部が笑い、場が明るく満ちていく。
平和がずっと訪れているように、時は静かに流れ、心地のよいものとなる。
ー誰と結婚なさっていらっしゃるのかしら…?
珠の頭は教通でいっぱいだった。
紫式部の着物の裾を引っ張ると、彼女がこちらを向いてくる。
「どうしたんですの、珠?」
「あ、あの…奥方様のことですが」
失礼なのは分かっていたが、気になって聞いてみると、小声で返される。
「藤原公任様の娘様ですわ。年は四つ離れていますけれど、良い仲と聞きますわ」
「藤原公任様…」
藤原公任は彰子が入内する際、検非違使別当という役だった御方ではとぼんやりと思う。
「幼少の頃から、俊才の御方よ。珠も覚えておきなさい」
「はい。失礼いたしました」
珠の心は張り裂けそうなくらい、痛くなっていた。
教通の視線を避けるために、下をずっと向く努力をする。
ー私…。何か勘違いしていないかしら…?
自分で自分を笑うが、頬が赤くなるのが止まらなかった。
こんなのは初めてで、紫式部にも言えそうになかった。
「紫式部、源氏物語、たいそう面白いぞ」
「ありがとうございます、教通様。もう倫子様から褒められ、私、天にも昇る勢いですわ」
「天か。それはまた大胆なことを」
ほほと皆が笑い合い、場が落ち着いていく。
頼通とは違うが、教通も明るく育ったようだった。
珠はほっとすると、少し身体を楽にする。
ー頼通様に、教通様…。倫子様のお産みになった御子は素晴らしいですわ。
胸がどきどきとうるさく、珠は一人で自分と戦っていた。
こんな気持ちになるなんて、戸惑うばかりである。
「紫式部、続きはどうしたんだ? 早く読ませてくれ」
「あら、私も待っていますのよ。少しくらい話してもよいのではないかしら」
「さて…」
紫式部は二人に求められ、言葉を返す。それはぶれることのなく、頭を回転させているのがよく分かる。
ーすごいですわ、紫式部様。この御方達とやり取りさせるなんて。
珠はただただ感動し、小さく息を吐く。
ー私は…私は…。
自分の気持ちに正直になろうとしたその時、紫式部が口を開く。
「申し訳ございませんが、先はまだ教えられませんわ。その、熱量というか、やる気というか、もっともっと熱くならないと」
「もっと熱く、もっと熱くか。それは娘の艶めいた身体のようだな」
「まあ、教通様ったら」
「これ、例えが失礼ですわよ」
「良いんですよ、倫子様。教通様の言う通りですわ」
源氏物語の話は続き、紫式部が的確に答えていく。
珠はそれを聞きつつ、うなずいたり、短く答えたりしていた。
ー早く帰りたくなってきましたわ。
普通は楽しいはずなのに、教通のことが気になって、しょうがなかった。
こっそりと息を吐くと、紫式部が頭を下げる。
「ーでは私どもはこれくらいで。よろしいでしょうか?」
「ああ、満足だ。また来てくれ。お母様も喜ぶ」
「当然ですわ。いつでもいらっしゃいませ」
「はい。ありがたき御心。紫式部、心に響きましたわ」
深くお辞儀すると、紫式部が立ち上がる。
「ー珠、行きますわよ」
「は、はい…!! え? え?」
珠は答えたのはいいものの、少しぼうっとしていたので、首を傾げる。
それを教通が見ていたらしく、
「可愛いお供の方だ。またいらっしゃい」
「あ、ありがとうございます…!!」
珠は一生懸命、言うと、紫式部の後ろに立ち、御簾の外へ出る。
珠の心を爽快にさせようというのか、風が熱を奪っていき、鳥が羽ばたいていく。
ふうと息を吐くと、紫式部が小声で言ってくる。
「緊張しましたわね。よく頑張りました」
「は、はい。ありがとうございます」
まだかしこばっていると、紫式部が珠の鼻を人差し指で押してくる。
「紫式部様…?」
「最後まで気を抜いては駄目よ。分かりました?」
「はい。失礼いたしました」
珠はしっかりした顔つきとなると、紫式部とともに足音静かに、進んでいくのだった。




