風のない午後
老人ホームの午後は、
驚くほど静かだ。
時計の音だけが、
規則正しく
時間の残りを刻んでいる。
彼女は窓際の椅子に座り、
中庭を見ていた。
花壇には、
名前の分からない花が咲いている。
もう覚えようとも思わない。
覚えることは、
ここではあまり意味がないからだ。
人は皆、
いずれ同じ場所へ行く。
ここは、
その途中にある部屋のようなものだ。
その日、
新しい入居者が来た。
車椅子を押されて、
ゆっくり廊下を進んでくる。
誰かが言った。
「新しく入る方の入居ね、奥さんとお子さんとお孫さんが調べに調べてここに決めたらしいですよ。家族から大事にされてたのねえ」
別の誰かが笑う。
「幸せな人生だったんでしょうね」
彼女は何気なく顔を上げた。
そして、
ほんの一瞬だけ
時間が止まった。
あの顔だった。
皺が増え、
背中が丸くなり、
髪もほとんど白くなっている。
けれど、
間違えるはずがない。
長い昔、
毎日見ていた顔だ。
彼も、
彼女に気づいた。
目が合った。
ほんの数秒。
それだけで、
何十年分もの記憶が
静かに通り過ぎた。
しばらくして、
彼が話しかけてきた。
「久しぶりだね」
それだけだった。
謝罪も、
言い訳もない。
必要ないのだろう。
もう、
あまりにも時間が過ぎている。
彼女はうなずいた。
「そうね」
それだけ。
廊下の向こうで、
子供の声がした。
「おじいちゃん!」
小さな足音が
ぱたぱたと近づいてくる。
若い女性が
少し息を切らして言う。
「ほら、会いに来たよ」
その隣には、
もう一人の女性がいた。
穏やかな顔をした、
年老いた女性。
彼の妻だった。
昔、
彼が選んだ人。
孫は彼の膝に
手を置いて笑う。
「おじいちゃん、元気?」
彼は、
とても優しい顔で笑った。
その笑顔を見たとき、
彼女は思った。
ああ、
この人は
ちゃんと
人生を続けてきたのだと。
結婚して、
家庭を作り、
子供が生まれ、
孫ができて。
当たり前の時間を
重ねてきたのだと。
誰も彼を責めていない。
ここでは
誰も過去を知らない。
彼はただ、
孫に愛される
普通の老人だ。
孫が帰ったあと、
廊下はまた静かになった。
彼女は窓の外を見る。
花壇の花が
風に揺れている。
彼は、
少し申し訳なさそうに言った。
「……君は?」
それは
とても簡単な質問だった。
彼女は答えた。
「一人よ」
声は
思ったより静かだった。
「ずっとね」
沈黙が落ちる。
責めるつもりはない。
恨んでもいない。
ただ、
それが事実だった。
彼女は思う。
昔、
社会は言った。
彼女は正しいと。
裏切られた側で、
守られるべき側で、
法は彼女の味方だった。
たしかに、
そうだったのだろう。
あの時は。
けれど、
人生は
判決のあとも続いていた。
そして今、
同じ終点に
二人は座っている。
中庭で
花が揺れている。
彼女はそれを見ながら
静かに思う。
これは、
誰の勝ちだったのだろう。
誰の罰だったのだろう。
そして——
本当に裁かれたのは、
いったい誰だったのだろう。




