第七十一話:翻る決意、凍る孤独
◇深夜・訓練所裏口(地下通路への扉前)
ソフィーの手は、重厚な鉄の扉のノブにかかっていた。
この先には、ガレリア領主グロウズへと繋がるホットラインがある。
そこで
「アダダが特異点になりつつある」
と告げれば、おそらく明日には処理班が動き、あの子のアカウントは凍結――あるいは「削除」されるだろう。
「……それが、この世界の安寧のためや」
ソフィーは自分に言い聞かせ、ノブを回そうと力を込めた。
その瞬間だった。
――『会社員』
アダダが発したその単語が、脳裏でリフレインする。
同時に、ソフィーの深層領域から、どす黒いノイズが噴き出した。
『会社……行きたくない……』
『ノルマ……達成しないと……』
『なんで俺が……死ぬなんて……』
「ッ……!?」
ソフィーは激しい目眩に襲われ、その場に膝をついた。
彼女の中に眠る「無数の死者たち」の記憶。
普段は沈殿しているはずの怨嗟の声が、アダダの言葉に共鳴し、かつてないほどの激流となって暴れ出したのだ。
(あかん……! 『中』が騒ぎ出しよった……!)
頭を抱え、荒い息を吐くソフィー。
そのノイズの中で、ふと一つの感情が流れ込んでくる。
――あの子を、消さないで。
――あの子は、私たちの言葉を知っている。
――あの子だけが、このクソったれな世界を壊せるかもしれない。
「は、はは……。なんやねん、お前ら……」
ソフィーは脂汗を拭いながら、乾いた笑いを漏らした。
自分の中の死者たちが、アダダの「削除」を拒絶している。
いや、ソフィー自身も気づいてしまった。
――あの子を運営に売れば、この世界の真実は永遠に闇に葬られるかもしれない。
「……アホらし」
彼女は鉄の扉から手を離した。
冷徹な光が宿っていた瞳には、再びいつもの飄々とした色が戻っていた。
「しゃーないな。報告はナシや。……ウチが直接、見張ったるわ」
ソフィーは踵を返し、闇夜へと消えた。
その背中は、もはや単なる「観測者」のものではなかった。
***
◇BAR『レイブン』
同時刻、ガレリアの地下酒場。
カラン、コロン――
乾いたドアベルの音が響いた。
「だーかーら! 何回言わせんのよ、このグラサン親父!」
カウンターをバンと叩き、派手なネイルを光らせて吠えているのは、ギャル系プレイヤーのなーちょだった。
「昨日のことだよ! 『クロウ』結成! ブローキンとのバトル!
あんたも見てたでしょ!?
なのに何で『知らない』とか言ってんの!?」
彼女の剣幕に対し、カウンターの中に立つマスターは、静かにグラスを磨き続けている。
いつもの陽気な笑顔はない。
サングラスの奥の瞳は、感情を一切読み取らせない、能面のような静けさを保っていた。
「お客様。少し飲みすぎではありませんか?」
「はぁ!? オレンジジュースしか飲んでねーし!」
「……昨夜は静かな夜でしたよ。
大きな騒ぎなど、私の記憶にはございませんが」
マスターは淡々と言い放つ。
その言葉には、一切の揺らぎがなかった。
まるで、それが「最初から決定された事実」であるかのように。
「はぁ……? マジで言ってんの?」
なーちょは絶句した。
ゲルドも、リバルドも忘れていた。
そして、この街の情報通であり、いつもなら「へいらっしゃい!」と明るく迎えてくれるマスターまでもが、昨日の出来事を冷徹に否定している。
(マジ意味わかんない。
アタシの頭がおかしくなったってワケ?)
孤独感と、得体の知れない寒気が背筋を走る。
これ以上ここにいても無駄だ。
なーちょは直感でそう悟った。
「……ッ、もういいわよ! 使えねー店!」
なーちょは椅子を蹴る勢いで立ち上がり、出口へと向かった。
その背中を見送りながら、マスターの手がわずかに止まる。
「…………」
彼は無言で、店の奥――厨房の方へ視線を送った。
そこには、無表情のまま直立するウェイター、ガゼルの姿があった。
ガゼルは微かに頷き、音もなく闇へと消える。
***
◇店外・路地裏
店を飛び出したなーちょは、夜風に当たりながら大きく溜息をついた。
「ハァ……マジなんなの。
アタシだけハブとか、笑えないんですけど」
夜の街はいつも通り賑わっている。
誰もが明日を信じ、レベル上げやアイテム集めに奔走している。
その光景が、今はひどく空虚で、気持ち悪いものに見えた。
「……誰かいないの?
アタシと同じ、『バグった』奴は」
彼女は知らなかった。
その孤独な呟きが、翌朝、運命的な出会いを引き寄せることになるのを。
夜が更けていく。
それぞれの「違和感」を抱えたまま、
偽りの平穏な朝が訪れようとしていた。




