第六十八話:漏れ出すノイズ
◇ソフィーマイハウス
ガレリアの喧騒から少し離れた、小高い丘の上に建つ一軒家。
木造の温かみと、どこか懐かしい喫茶店のような内装。
そこが、ソフィーのホームだった。
「ほら、適当に座りぃ。散らかっとるけどな」
ソフィーは慣れた手つきでケトルを火にかけながら、部屋の隅にあるクッションをポンポンと叩いた。
「お邪魔します……。すごく、落ち着くお部屋ですね」
アダダは緊張した面持ちで、指定されたソファに浅く腰を下ろした。
部屋にはほのかにハーブティーのような香りが漂っている。
「せやろ? ここはウチの隠れ家やからな。誰も来ぇへんし、何話しても大丈夫や」
ことん、とマグカップが目の前に置かれる。
立ち上る湯気が、強張っていたアダダの肩を少しだけほぐした。
アダダはカップを両手で包み込み、意を決したように口を開いた。
「……ソフィーさん。聞いてほしいんです」
そこから語られたのは、奇妙で、信じがたい事実の数々だった。
昨晩、ブローキンというプレイヤーが街で暴れたこと。
そして――『クロウ』という組織を立て、皆で誓い合ったこと。
「……でも、一夜明けたら」
アダダの声が震え始める。
「クロも、アッシュも……その記憶が綺麗に消えていたんです。
まるで、昨日の出来事なんて最初から無かったみたいに」
他の人たち――あの場にいたゲルドさん達がどうなっているかは、まだ分からない。
けれど、一番近くにいた二人が忘れているという事実は、アダダにとって世界が崩れ落ちるような恐怖だった。
「……そうか。あの二人が、忘れとるんか」
ソフィーは相槌を打ちながら、静かにアダダの話を聞いていた。
驚く素振りは見せない。
ただ、全てを受け入れるように頷くだけだ。
その落ち着いた態度に勇気をもらい、アダダは最後の、そして最大の違和感を口にした。
「それだけじゃないんです。私……時々、変な『言葉』が頭に浮かぶんです」
アダダの手が震え、カップの中の紅茶が小さな波紋を作る。
「『会社員』……っていう言葉を聞くと、頭が割れそうになって、ノイズみたいな音がして……。
私はここで冒険しているはずなのに、まるで別の人生があるみたいに……」
その瞬間。
ソフィーの目が、スッと細められた。
(『会社員』やと……?)
彼女の脳裏に、以前、夕暮れの高台でアダダと話した時の記憶がフラッシュバックする。
あの時、落ち込んでいたアダダを励ますために、自分は何と言った?
確か、現実の世界の諺か何かを、無意識に口走っていなかったか?
アダダはそれを、何の違和感もなく受け入れていた。
(……あかん。そういえばウチ、あの時うっかり『外』の言い回しを使ってもうてたわ)
ソフィーの背筋に冷たいものが走る。
ただのゲームのバグじゃない。
あの子の中で、『Legacy Online』という箱庭と、現実世界を隔てる壁が薄くなっている。
(『外』の記憶が漏れ出しとるんか……!?
いや、それとも……あの子自身が『外』に近づこうとしとるんか?)
深刻な事態に心臓が早鐘を打つ。
だが、ソフィーはそれを表情筋の一つすら動かさずに押し殺し、ニッコリと笑ってアダダの頭を撫でた。
「そっか。怖かったなぁ、アダダちゃん」
優しく、包み込むような声色。
お姉さんとしての仮面を完璧に被り直す。
「よう話してくれたな。大丈夫や、ウチだけは絶対忘れへんし、あんたの味方やからな」
「ソフィーさん……っ」
張り詰めていた糸が切れたように、アダダの目から涙が溢れた。
ソフィーは彼女の背中をさすりながら、その視線を窓の外――虚空の彼方へと鋭く向けた。
***
◇深夜・ガレリア中央広場
アダダを見送り、日付が変わる頃。
ソフィーの姿は、人気のない中央広場にあった。
昼間の「頼れるお姉さん」の雰囲気は消え失せ、その瞳には冷徹な光が宿っている。
「……あかん。これはもう、ウチの手には負えへん」
彼女は誰に聞かせるでもなく呟くと、足早に訓練所の地下へと続く秘密の入り口を目指した。
報告しなければならない。
この世界に生まれつつある、致命的な「特異点」の存在を。
そして、それがもたらすかもしれない崩壊の予兆を。
月明かりが、彼女の白装束を白く浮かび上がらせていた。




