第六十四話:主の帰還・変わらない笑顔で
◇現実世界・開発者 早乙女蓮吾の部屋
その部屋には、生活の匂いが希薄だった。
無機質な白で統一された壁、整然と並ぶサーバーラック、そして部屋の中央に鎮座するコクピットのようなワークチェア。
早乙女蓮吾は、静かに椅子にもたれ、指先で小さな金属のリングを撫でていた。
完全な静寂。
無数のモニターから放たれる青白い光だけが、ヘッドギアを装着した彼の顔を照らしている。
彼はゆっくりと、肺の中の空気を吐き出した。
指先がリングの小さな凹みに触れる。すると、手元の端末が微かに震え、室内に無機質な電子音声が響いた。
『ログアウト認証開始。ユーザー:”*****”。認証トークン確認中……シンクロ率、特権認証。セッション終了を許可します』
声は短く、事務的だった。だがその一言が、彼にとっては何より重い許しのように感じられた。
仮想世界のHUDが淡くフェードアウトし、視界の端から色彩が剥がれていく。
管理された光も、精緻に組まれたデータの海も。
風景の輪郭が溶け、世界が一枚の薄い膜のように引き剥がされていく感覚が彼を襲う。
『セッション終了処理、実行中……メモリ同期解除、外部セッション切断、ユーザープロファイル保存完了』
表示は淡々としているが、蓮吾の身体は確かに反応した。
強張っていた肩の力が抜け、目の奥に鉛のような重い疲労が押し寄せる。指先に残っていた仮想の熱が消え、代わりに現実の空調が作る冷気が掌を撫でた。
そして、最後の一行が表示される。
[ LOGOUT: COMPLETE. WELCOME BACK, “*****”. ]
その瞬間、世界が一度だけ大きく息を吐いた様に感じられた。
プシュゥ……と油圧が下がる微かな音と共に、蓮吾はゆっくりと頭を覆う機械を取り外した。
仮想の光景は音もなく消え、そこにあるのはただの真っ白な部屋。
チク、タク、チク、タク。
カチャ、カチャ、カチャ……。
アナログ時計の秒針の音と、乾いたキーボードを叩く音だけが、やけに大きく響く。
彼は重いまぶたを開け、現実の乾燥した空気を深く吸い込んだ。
同時に、重い孤独が押し寄せる。
ログアウト。
それは、この世界で自分にだけ許された、逃走と帰還の特権。
あちら側にいる「彼ら」には、決して与えられない選択肢。
網膜の残像として、画面の片隅に残った小さなログ行が、まだ彼の視界にちらついている気がした。
――AUTH_TOKEN: “*****”(PRIVILEGED)
――SESSION_FLAG: OVERRIDE_GRANTED
蓮吾は空中で指を動かし、その幻影の文字をなぞるように見つめ、唇を噛んだ。
戻ってきた現実は確かに生々しく、質量と温度を持っていた。
しかし、彼の胸に渦巻くのは安堵ではない。
歪んだ愛。そして、喪失への恐怖。
(……「当たり前」が無くなる)
その感情が、胸の奥で黒い棘のように疼く。
愛するがゆえに閉じ込め、守るがゆえに歪める。その矛盾した感情を飲み込み、彼は深く椅子に沈み込んだ。
その時だった。
「――おや、お戻りですか」
静寂を破る声がした。
部屋の隅、サブモニターが並ぶデスクの前。
暗い紫のメッシュが入った黒髪を長く伸ばし、銀縁の眼鏡をかけた男が座っていた。
男はキーボードを叩く手を止めず、PCのモニターを見つめたまま、背中越しに蓮吾へ声をかけた。
その口調は丁寧だが、どこか冷徹な響きを含んでいる。
「お戻り早々で申し訳ないのですが……報告がいくつか」
この閉ざされた空間における、数少ない協力者。あるいは、共犯者。
蓮吾は顔を上げ、気怠げに、しかし鋭い光を目に宿して答えた。
「……いいよ、聞こう」
⸻
ゲルドたちとクロたちの握手――その美しい光景を遠目に見届けた後。
アダダとソフィーは、石畳の道を歩いていた。
先ほど飛び出してしまった酒場『ミッシュウ・ラン』。
申し訳なさと気まずさはあるけれど……お腹が空いたとなれば、やっぱり足はあそこへ向いてしまう。
◇ホームタウン『ガレリア』・マッチング場近辺
「アダダちゃん、他のお店行く事ないん?」
ソフィーが呆れたように、けれど楽しげに尋ねた。
「えっ、あーー……」
アダダは視線を泳がせた。
一瞬、昨日の『クロウ』結成会議でお邪魔した、マスターのいる◇BAR「レイブン」が頭をよぎるが、すぐに首を横に振った。
「……私、あそこのカレーを食べると、クロと初めて会った日のことを思い出すんです」
アダダは少し照れくさそうに、けれどはっきりと答えた。
「あの日、反省会も兼ねて何気なく入ったお店で……店長さんに言葉をもらって」
不器用だけれど温かい、あの日の店長の言葉が胸に蘇る。
「それに今は、アッシュも加わって。いつもの決まった席で、三人でテーブルを囲む……。私、あの時間が一番好きなんです。だから、あそこのカレーがいいんです」
記憶が不確かになりそうな今だからこそ、その原点の味と、積み重ねてきた場所を確かめたい。
そんなアダダの横顔を、ソフィーは妹を見守るような優しい眼差しで見つめた。
「あの子らが好きなんやな、ほんま」
ソフィーはふっと笑い、アダダの頭をポンと撫でた。
「そーゆーん大事にできるアダダちゃんは、ステキな女の子や!! ……ウチの次にやけどな?」
最後はニカっと悪戯っぽく笑って付け加える。
アダダも負けじと、ニシシと笑い返した。
「ソフィーさんは私のおねぇちゃんですもんね! ……歳の離れた!」
「あ、この子ったら! まだ言うんかい!!」
ソフィーがずっこけるフリをする。
ケラケラと笑い合う二人の声が、路地に明るく響いた。
***
酒場『ミッシュウ・ラン』の前。
アダダは深呼吸を一つして、扉を開けた。
カランコロン♪
「いらっしゃ……あ、アダダちゃん!!!!! 」
カウンターでグラスを拭いていたディルーが、目を丸くして身を乗り出した。
「でぃーちゃん! さっきは食べずに出て行ってごめんね!! やっぱお腹空いた!!」
アダダは両手を合わせて、ペコりと頭を下げた。
(よかった、本当に……。アダダちゃんが、またいつもの笑顔を見せてくれて)
ディルーは心底ホッとした表情を浮かべた。
脳裏によぎるのは、あの日、橋の下で父のことを想い泣いていた自分を慰めてくれた、彼女の太陽のような笑顔。
それが戻ってきたことが、何よりも嬉しかった。
「ううん、全然!! おかえりなさい! カレーでいい?」
満面の笑みで迎える。
「うん! あとね、ソフィーさんも一緒だよ!」
アダダが振り返ると、場の空気を読んだソフィーが、ひょこっと扉から顔を出した。
「まいどー! 食べに来たでぇ」
ソフィーは飄々と手を挙げた。
「アダダちゃんと今、お店の前でたまたま会ってなぁー? 拉致してきてもうたわ!」
(あ……ソフィーさん、気遣ってくれたのかな?)
さっき高台で、不安に押しつぶされそうになっていた私を励ましてくれたことや、悩み相談をしていたことを伏せ、「偶然会った」ことにしてくれたのだ。
「そうなんですね! いらっしゃいませ、ソフィーさん!」
ディルーがパァァァっと花が咲くような笑顔を向ける。
――笑顔の射撃。
「……っ!」
ソフィーが胸を押さえて仰け反るようなポーズを取った。
(ぶっはー……可愛すぎやろ! さすが看板娘、破壊力がえげつないわ……!)
相変わらずの「やりおる」感に、ソフィーは内心で白旗を上げた。
「ソフィーさんもカレーにする?」
ディルーが小首をかしげる。
「うーん、せやなぁ……こないだカレー頂いたばっかしやしなぁ」
ソフィーが顎に手を当てて悩むフリをする。
すると、アダダが食い気味に割り込んだ。
「絶対カレーです!!! チーズとか乗せちゃいましょう?!」
瞳をキラキラさせて提案する。
「ぬっ、そんな血気迫る顔で……(笑)」
ソフィーが吹き出した。
「カレーにチーズて……ギルティー過ぎんか?! ウチを太らそ思てんの?!」
「美味しいものはカロリーゼロです!」
「なんやその理論!」
アダダ、ソフィー、そしてディルー。
三人の華やかな笑い声が、店内に温かく満ちていった。




