第五十話:確かめられない真実
アッシュの「飯食いに行くぞ!」という号令のもと、私たちはホームタウン『ガレリア』のメイン通りを歩いていた。
「腹減ったー! マジで餓死する!」
アッシュが大袈裟に腹をさすりながら先頭を歩く。
「朝から元気だね、アッシュは」
クロが苦笑交じりに続く。
その背中を見つめながら、アダダの足取りだけが重かった。
(あのメッセージは? 昨日の会議は?《クロウ》は?「消失」被害者の子たちの悲しみは?)
メッセージの消失。記憶の齟齬。
まるで昨日の事や今朝のメッセージ 出来事そのものが、アダダの妄想だったかのように世界は回っている。
「とーちゃーく!」
考え込んでいる間に、アッシュの掛け声と共に馴染みの看板が見えてきた。
◇酒場『ミッシュウ・ラン』
カランカラン♪
軽やかなドアベルの音と共に、いつもの活気が溢れ出してくる。
「いらっしゃいませー! あら、アッシュさんにクロさん、それにアダダちゃん!」
看板娘のディルーが、花が咲いたような笑顔で出迎えてくれた。
カウンターの奥では、強面の店長が黙々とグラスを磨いている。
そのしかめっ面も、ここに来ればいつもの安心できる光景――のはずだった。
アダダは二人の顔をじっと見つめた。
(でぃーちゃんは……? 店長は……?)
いつも一緒にいて、絶対の信頼を置いているクロやアッシュでさえ、あの記憶を失っている。
なら、この二人はどうなのだろう。
彼らもまた何か記憶が無くなっているのでは?「正しい記憶」を持っているの?
「……アダダちゃん? どうしたの、入り口で立ち止まって」
ディルーが不思議そうに首を傾げる。
その反応に、アダダの心臓が冷たく縮んだ。
(……聞けない)
もしここで「お父さんのこと覚えてる?」と聞いて、きょとんとされたら。
あるいは、店長に「ローヴァンさんの事覚えてる?」と聞いて怪訝な顔をされたら。
それが決定的な証拠になってしまう。
私だけが、この世界から浮いてしまっているという事実を突きつけられるのが怖かった。
今、確認する術はない。
「おーいアダダ! 何ボーッとしてんだよ、席取られるぞ!」
アッシュの声で、アダダはハッと我に返った。
「あ、うん! 今いく!」
アダダは努めて明るく振る舞い、二人が陣取ったいつものテーブル席へと滑り込んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
ディルーがオーダーを取りに来る。
「俺は『店長特製ミッシュウカレー』激辛で! あと水!」
アッシュが即答する。
「僕は今日はそうだな、ハムエッグトーストで。飲み物はいつものをお願いできるかな」
クロがスマートに注文する。
そして、二人の視線がアダダに向けられた。
「アダダはどうするんだ? カレーか?」
アダダはメニュー表を広げた。
そこにはいつも通りの料理名が並んでいる。
指先が少し震えそうになるのを抑え、笑顔を作った。
「うん……私は、『店長特製ミッシュウカレー』で。……ゴールド、貯めてたからね」
「かしこまりました! 少々お待ちくださいね」
ディルーが元気に厨房へと戻っていく。
「なんだよアダダ、やっぱ腹減って元気なかっただけか?」
アッシュがニカっと笑う。
「そうだよ。……お腹空くと、私ダメなんだから」
嘘をついた。
湯気の立つ料理の匂いと、店内のざわめき。
あまりにも完璧な「日常」の中で、アダダは誰にも悟られないよう、静かに恐怖を飲み込んだ。
料理が運ばれてきてからも、テーブルの様子は対照的だった。
「ひーっ! 辛ぇ! でも美味ぇ! ハフッ、ハフッ!」
アッシュはスプーンをシャベルのように使い、激辛カレーをヒィヒィ言いながら口にかき込んでいる。
その向かいで、クロはパンをひと齧りし、数回咀嚼して飲み込んだ後、優雅な動作でコーヒーカップを手に取った。
その視線は手元の端末に向けられ、掲示板の情報をチェックしている。
いつも通りの、冷静な朝の風景だ。
「んあ?」
ふと、アッシュが手を止めた。
「アダダどーしたんだよ、腹減ってたんじゃないのか? 食べないのか?」
アダダの前の皿には、手つかずのカレーが湯気を立てていた。
一口も手をつけていないのではない。つけられなかったのだ。
気丈に振る舞おうとした笑顔は、すでに剥がれ落ちかけていた。
美味しい匂いがするはずなのに、胸がつかえて息苦しい。
焦りと不安が胃を締め付け、食欲など微塵も湧かなかった。
「……アッシュ、まだ食べれる? ちょっと具合が悪くて」
「アダダ、大丈夫かい? 今朝からなんだか様子が……」
クロが端末を置き、心配そうに眉をひそめる。
彼が違和感を覚えるのも無理はなかった。
普段のアダダなら、『店長特製ミッシュウカレー』が来た途端に、これでもかという満面の笑みを浮かべ、「いっただきまーす!」と元気よく食べ始めるはずなのだ。
そんな姿が全くない。
ただ俯き、スプーンを握ることさえできないでいる。
「なんだ? 貰っていいのか?」
アッシュは遠慮というものを知らなかった。
「アダダの分は自分で払えよなぁ!」
そう言い終わる前に、アッシュはアダダのカレー皿を自分のテリトリーへと引き寄せた。
「ごめん二人とも……今日は何だか疲れがすごくて……。今日は私、抜けるね」
「お? そうか。無理しないで休むのが一番だ! 早くいつもの元気剤アダダを見せてくれな!」
アッシュが無邪気な笑顔で親指を立てる。
その「いつもの」という言葉が、今の「いつもではない」アダダの胸に鋭く突き刺さった。
「送っていこうか?」
クロが腰を浮かせかける。
「大丈夫だよクロ、一人で帰れる。……またね、二人とも」
アダダは逃げるように席を立った。
そのまま出口へ向かう足で、カウンターのディルーと、奥にいる店長に頭を下げる。
「ごめんなさい、せっかく作ってもらったのに……また来ます」
店長はいつも通りグラスを磨いていた。
ただ、アダダが視線を向けた瞬間、
磨く手のリズムがほんのわずかに乱れた気がした。
「でぃーちゃんもごめんね……」
そう言い残すと、みんなの分が足りるであろうゴールドをディルーに手渡した。
「えっ、アダダちゃん?」
呼び止める声を聞くのも怖くて、アダダは店を飛び出した。
外気が肌に触れた瞬間、膝が少し震えた。
ガレリアの光の中で、アダダは自分だけが薄く透けていくような気がした。




