第一話 『遺された楽園 ― Legacy Online 序章』
窓の外には、代わり映えのしない灰色の空が広がっていた。
「……はぁ。今日も、これでおしまいか」
麒麟は、デスクに積み上がった書類を横目に、小さく息を吐いた。
20代半ばの元事務職。毎日同じ数字を処理し、誰の記憶にも残らないまま過ぎていく時間。
彼女の直感は、ずっと警鐘を鳴らしていた。
「私の居場所は、ここじゃない」と。
給湯室では、同僚たちが今朝のニュースで持ちきりだった。
「ねえ、見た? 『Legacy Online』の初期ロット、予約開始から数秒で完売だって。手に入れた奴は前世で徳でも積んだんじゃない?」
(……行きたかったなぁ。あっちの世界なら、もっと自分の直感のままに、自由に動ける気がするのに)
彼女にとって、それは単なる流行への興味ではなく、今の日常からの切実な脱出口に見えていた。
そんな彼女の元に、小包が届いたのはその日の夜だった。
中には最新型のVRヘッドセット。そして、幼馴染の早乙女蓮吾からの手紙が入っていた。
「麒麟へ。
最近、仕事で疲れてるでしょ? 君の頑張りは、僕が一番よく知っているよ。
予約が取れなくて落ち込んでたみたいだけど、安心して。
君のために、『特別な居場所』を用意したんだ。
他の誰にも邪魔されない、君が君らしくいられる場所だよ。
……あっちで、ずっと君を見守っているから。
待ってるよ。 ――蓮吾より」
「えっ……蓮吾くん、なんで私が予約できなかったこと知ってるの……?」
一瞬、背筋に冷たいものが走るような感覚を覚えた。
まるで、自分の行動をすべて把握されているかのような――
そんな錯覚を覚えるほどの、あまりにも行き届いた優しさ。
けれど、次の瞬間には彼女は笑顔で首を振った。
(……なんてね。さすが幼馴染!
私が言いそうなこと、全部お見通しなんだから。
本当に、どこまでも優しいんだから。ありがたく使わせてもらお!)
彼女は、送られてきたバイザー型のデバイスを手に取った。
装着した瞬間、普通の精密機器なら感じるはずの冷たさがない。
代わりに、しっとりと肌に吸い付くような、まるで誰かの温かい掌に包まれているかのような、生々しい熱感。
『ユーザー:KIRIN……認証成功。初期セットアップを開始します』
視界にシステムメッセージが流れる。
その裏側、瞬きするほどの速さで、彼女には読み取れない「ノイズ」が混じった。
『権限:■■■■(PRIVILEGED)を適用……深層意識へアクセス。
全感情パラメータを現実と同期します』
「……わぁ」
メッセージに疑問を抱く間もなく、視界は真っ白な空間へと移り変わった。
『初期設定を開始します。キャラクタークリエイトを行ってください』
麒麟は鏡の自分に触れ、微笑んだ。
名前を変える決意が胸を満たす。迷わず入力する。
『Name: adada』
――その瞬間、麒麟という名はこの世界から欠落した。
彼女は新しい名で歩き出す。
後に伝説となる少女「アダダ」の物語が、
ここから静かに始まった。




